第1章:失われた色彩
健太は、息をすることすら億劫な朝を迎えていた。目覚まし時計のアラームが、耳障りな電子音で世界を切り裂く。布団から抜け出す体は鉛のように重く、心はさらに重い。鏡に映る自分は、まるで精気を吸い取られた抜け殻のようだ。隈がこびりついた両目、血の気の失せた顔色、そして、薄く笑うことすら忘れた口元。これが、絵を描くことに夢中だった、あの頃の自分と同一人物だとは、到底思えなかった。
スーツのネクタイを締める指先は、まるで他人のものみたいにぎこちない。シャツの皺も、どうでもよかった。会社に着けば、山積みの書類と、上司のヒステリックな声が待っている。毎日が同じことの繰り返しで、まるで巨大な歯車のひとつになった気分だった。いや、歯車ですらない。ただの、油切れの部品だ。ギシギシと音を立てながら、かろうじて動いている。
もう何年も、筆を握っていない。絵の具の匂いを嗅ぐことも、キャンバスの肌触りを感じることもない。かつては、休日になると画材店を巡り、新しい絵の具チューブを手に取るだけで、胸が躍ったものだ。キャンバスいっぱいに広がる無限の色を想像し、心が震えた。あの頃の自分は、世界が色彩で溢れているように見えた。今は、モノクローム。いや、濁った灰色だ。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、健太は呟いた。返事はない。当然だ。この部屋で、彼の声に耳を傾ける存在など、もういないのだから。朝食を摂る気力もなく、コーヒーも淹れずに家を出た。自動ドアをくぐると、冷たい朝の空気が頬を刺す。街はもう、とっくに目を覚ましていた。
電車のドアが開くたびに、どっと人が流れ込み、押し合いへし合い、押し潰されそうになる。誰かの肘が脇腹を掠めたが、痛みすら感じない。人の波に揉まれながら、健太はただ、早くこの息苦しい空間から解放されたいと願った。彼の人生は、この満員電車のように、どこへ向かうのかも分からず、ただ流されるままだった。
会社に着くと、デスクの上には昨日と全く同じ書類の山が、彼を嘲笑うかのように積まれていた。パソコンの電源を入れる。メールボックスには、未読のメールが数百件。ディスプレイの光が、健太の疲れた目に容赦なく突き刺さる。胃の奥から込み上げる吐き気を抑えながら、彼は無言でマウスを握りしめた。これが、彼の日常だった。生きているという実感すら薄れる、虚無感だけがそこにあった。
昼休み、健太はコンビニで買ったサンドイッチを、無味乾燥なもののように口に運んでいた。ふと、隣の席の同僚が楽しそうにスマートフォンの画面を見ているのが目に入った。猫の動画だろうか。笑い声が聞こえる。健太の心には、そんなささやかな喜びすら湧き上がらなかった。代わりに、深い孤独が、彼を包み込んだ。どうして、自分だけがこんなにも、生きることに疲れているのだろう。
その日も残業で、会社を出たのは日付が変わる頃だった。夜空は、街の光に溶けて、星一つ見えない。重い足取りで駅へと向かう途中、健太はふと、見慣れない路地が目に入った。普段なら決して足を踏み入れないような、薄暗く、狭い路地だ。しかし、その時、彼の頭の中で、何かが囁いた気がした。「行ってみろ」と。
まるで何かに導かれるように、健太は路地へと足を踏み入れた。生ゴミの匂いと、どこかの店の裏口から漏れるカビ臭い空気。それでも健太は構わず奥へと進んだ。路地の突き当たりには、古びた建物があった。崩れかけた漆喰の壁。錆びついたトタン屋根。そして、その一角に、かろうじて看板らしきものがぶら下がっていた。風に揺れるそれは、辛うじて「リコレクション・ポスト」と読めた。記憶、郵便、そんな意味だろうか。一体、何の店なのだろう。その謎めいた看板に、健太は吸い寄せられるように、一歩、また一歩と近づいていった。