コックは殺すことに慣れている
夕暮れ時の通りを歩くジェイの影が、地面に長く伸びていた。
いつもなら、もうすぐ客が入り始める時間だ。
だが今日は違う。
昼間に王子が暴れたせいで、街には噂が広まり、店に近づく者すらいない。
両手に抱えた食材は、ほとんどが無駄になるだろうと、ジェイはひとつため息を吐いた。
静かすぎる通りの先、見慣れた店が視界に入った瞬間、ジェイの眉間に皺が寄る。
扉が──開いていた。
「……鍵を閉め忘れるような奴じゃない」
呟きながら、ジェイは無言で扉を押し開ける。
軽すぎる手応え。ギィ、と錆びた蝶番が軋む。
中は、静まり返っていた。
だが、すぐに異変に気づく。
食堂の空気が乾いている。
いつも笑顔で駆け寄ってくるサリアがいない。
それどころか、床には皿の破片、折れた椅子の脚、割れた瓶が散乱している。
「……サリア」
返事はない。
ふと、視界の隅に、金の房が落ちていた。
拾い上げる。柔らかな感触と、微かな花の香り。
サリアの髪だった。
目を細めたジェイは、周囲を見渡す。
床にはその髪が無造作に散らばり、薄い血痕が滲んでいた。
「……ッ」
奥歯を噛み締めた瞬間、背後に人の気配がした。
振り返ると、五人の男たちが扉をくぐって入ってきた。
黄金の鎧に白のマント──王城直属の近衛騎士だ。
その中の二人は昼間にジェイが追い返した男たちだ。
「よう、おっさん。ようやくのご帰還ってわけだな」
先頭の男が嘲笑交じりに口を開く。
剣の柄に手をかけたまま、店内を見渡し、鼻で笑った。
「……お前らがやったのか」
ジェイの静かな問い。
返ってきたのは、乾いた笑いだった。
「ははっ、違う違う。やったのは王子様さ。俺たちは、ちょいと掃除しただけよ」
ジェイの視線が鋭くなる。
「……サリアはどこだ」
「おいおい、訊き方ってもんがあるだろう? お前は今、近衛に囲まれてんだぜ?」
五人は横に広がり、ジェイを取り囲むようにじりじりと間合いを詰める。
この足元が悪い中で、無駄に密集して互いの間合いを気にしていない。
集団戦の訓練を本当に受けたのか疑問に思うほどだ。
(あの王子にうまく取り入って肩書きを手に入れたのだろうな)
ジェイの視線が、一瞬だけ床を見る。
割れた皿の破片。折れた椅子の脚。
バリバリと音を立てるガラスの上を、彼らは無防備に踏みしめている。
(──基礎がなっていない)
五人、全員が剣を抜いている。
だが、脅威は微塵も感じなかった。
むしろ、その粗雑さがジェイに冷静さを取り戻させる。
──時間が惜しい。
「……今なら許してやる。サリアの居場所を教えて、消えろ」
「へっ! 強がってんじゃねえぞおっさん!?」
言い終わるや否や、男の一人が剣を振り上げた。
待ち構えたように、ジェイが動いた。
滑るように一歩を踏み出し、床に落ちていた皿の破片をつま先で蹴り上げる。
破片は回転しながら男の顔面に直撃した。
「がっ──あぁぁッ!」
悲鳴。血が散る。男は顔を押さえ、倒れ込む。
二人目が反応する前に、ジェイは椅子の脚を拾い上げ、躊躇なくその喉元へと突き刺した。
骨の砕ける音と共に、男の体が崩れ落ちる。
「残りは三人か」
血溜まりを踏みしめながら呟いた。
唖然としていた一人が叫び声をあげ、剣を振るう。
だが、ジェイは既に距離を詰めていた。
刀身が振り下ろされるより早く、ジェイの掌底が男の鼻にめり込む。
肉の潰れる音、鮮血。鼻骨を粉砕された男が仰向けに吹っ飛ぶ。
倒れた男の顔面に、折れた椅子を突き刺して床に縫い付ける。
「──三人目。残りは二人……」
「く、くそっ……!」
四人目が背後から迫る。
が、足元の酒瓶に気づかず、滑った瞬間──ジェイのかかとが首元を踏み抜く。
鈍い音がする。首の骨が折れたのだ。
血の泡を口から吹いて痙攣する体を見下ろし、ジェイは息を整えた。
残るは一人。
だが、ジェイの視界から最後の一人は消えていた。
その時、うなじに感じる息の気配。
──来る。
ジェイが動くより早く、剣の刃が軌道を描いた。
乾いた音とともに、制服の左肩が裂ける。
だが、ジェイは即座に身をひねり、肘を鼻に叩き込んだ。
「ごはっ……!」
骨が砕ける音が鈍く響く。
男の体がぐわんと揺れ、床に叩きつけられた。
鼻から血を流し、呻きながら後退りする男を見下ろし、ジェイはゆっくり近づいていく。
「お、お前……何者だ……っ! ただのコックじゃねえな!?」
顔をゆがめ、震える声で男が叫ぶ。
ジェイは肩の傷に目もくれず、無表情のまま答えた。
「どうでもいい。お前には聞きたいことがある」
返事を待たず、片膝をついて男の襟をつかむ。
視線を合わせるように引きずり起こすと、男が痛みに顔を歪めた。
「サリアはどこだ」
「…………」
男は答えない。
黙って睨む男に、ジェイは落ちていたテーブルの破片を拾い、男の顔に近づけた。
「喉をかっきると、血で窒息するんだ。最後の最後まで苦しむことになる」
鋭利に尖った木の断片を、怯える男の喉に軽く刺す。
漏れ出る鼻血を抑えるのも忘れ、男は降参するように両手を上げた。
「わ、わかった言うから……聖火広場だ! あの女はあそこにいる!!」
その言葉に、ジェイの声がわずかに低くなる。
「広場? 何をするつもりだ」
「ひ、火あぶりだ……! 王子の命令で……あの女、聖女審判と称して火刑に処される!」
今すぐその喉元へ木片を突き刺しそうになったのを、ジェイはなんとか思いとどまる。
「王子の……命令か」
言葉の反復は、問いかけではなかった。
怒りが、ゆっくりと全身に満ちていく。
「くく……そうだよ……あんたが守ってた偽聖女を、王子様は……」
男が笑いかけた瞬間だった。
ジェイの手が喉元に伸び、言葉を途中で奪った。
気道が圧迫され、男は目を剥いてもがく。
「──先に地獄に行っておけ」
勢いよく木片を男の喉に突き刺した。
必死で喉元を抑え、男が血の泡を吹いてもがく。
懸命に呼吸をしようとする男の喉から、風鳴りのような音が響いた。
が、それもほんの数分だけ。すぐに店内に静寂が戻った。
「サリア……」
散らばる近衛騎士の死体をジェイは見ていない。
ジェイの脳裏には、すでに別の光景が浮かび上がっていた。
──燃え上がる炎。喚声。薪が爆ぜる音。その真ん中に、サリアが。
爪が食い込んだ拳から血が流れている。
「待ってろよ……サリア」
ジェイは拾った金色の髪束を懐にしまい、骸たちに背を向けて扉を開ける。
燃えるような夕陽の中、足音ひとつ立てずに駆け出した。




