聖女ユリアの策略と踊るアルカ
王城にある玉座の間。
王にしか座ることを許されないその椅子に、アルカは足を組んで座っていた。
彼を咎める臣下はいない。
叱れる力のある者たちは、王と共に聖教国へと出立し、この国を離れている。
「くそ、なんなんだあの男はっ!!」
玉座の肘掛けが、怒りに任せた拳で軋んだ。
それがもし破損でもすれば、大罪である。
だが、止める者はいなかった。
玉座に座るべきでない男が座り、叩き、叫ぶ。
──その異様な光景に、何人かの臣下は青ざめた顔でただ沈黙を守っていた。
「まあ、そう怒らないでください王子。すべては、あの偽聖女が原因なのよ」
鈴の音のように澄んだ、そしてどこか艶めいた声が間を割る。
その声音は、あくまで静かに、だが確かに心をくすぐる甘さを含んでいた。
振り返ったアルカが目にしたのは、微笑みを湛えた聖女ユリアの姿だった。
その微笑はまるで聖母の慈しみのようでありながら、どこか蠱惑的でアルカを惑わす。
「ああ、そうだな、聖女ユリアよ。あの女さえいなければ……」
すぐさま、アルカの怒気は和らぐ。
女の指が近づき、王子の顔に触れた瞬間、彼は甘えるようにその手に身を預けた。
「ええ、その通りです、優秀なアルカ王子」
その言葉は明らかに甘言であり、アルカの劣等感を巧妙になぞっていた。
褒める対象が“才能”でも“能力”でもないことに、王子は気づかない。
ユリアの黒髪が微かに揺れる。
月のない夜の闇のような艶を湛えたその髪が、王子の視界を半ば覆い、思考を曇らせる。
つぶらな瞳、血のように赤い唇──
あまりに整いすぎた美貌は、見る者に疑いよりも崇拝を植えつけた。
ユリアはその姿そのものが“奇跡”であるかのように振る舞い、その演出を完璧に心得ていた。
「あの女がいなければ、あなたは王位を継ぐことも叶うのです」
その言葉の棘は確かにアルカの胸に刺さり、そして快感に変わった。
“自分を阻むもの”が明確であるという錯覚が、王子の中に都合のいい正義を生み出していく。
「ふふふ、素晴らしいアルカ王子……あなたこそ、次の王にふさわしい……」
ユリアの色香が、甘い匂いが、王子を陶酔させていく。
至高の聖女が、選んだのは自分だという事実に、自尊心が満たされる。
それが彼の虚ろな心を支える最後の柱だった。
「くそ、父上め。兄がいるからと、私にあんな庶民を押し付けて」
唇を歪めて吐き捨てる。
それは政略としての婚姻を嫌悪しているからではない。
サリアが兄の婚約者にならなかったのは、“庶民”だからだという妄想にほかならない。
まるでお下がりを与えられたような婚約に、もとより兄に対する劣等感にまみれていたアルカの心は大きく傷ついた。
「ああ、可哀想なアルカ。生まれた順番だけで、認められないなんて」
その言葉は、アルカの傷に染み入る甘い毒だった。
共感という仮面を被りながら、劣等感を引きずり出し、疼かせる。
ユリアは、兄に対する恐れがアルカの根幹であることをよく知っていた。
才能でも、実績でも勝てない。
だからこそ、アルカは“選ばれたこと”への執着を強くしていく。
「でも、安心して……私はあなたを王にします。そのためなら奇跡は惜しみません」
包み込むように、ユリアがアルカの右手をそっと取る。
淡く、温かい光が王子の拳に宿り、先ほど肘掛けを叩いたときにできた腫れがすうっと引いていく。
「お、おお……」
奇跡を体感したアルカは、目を見開き、何度もその手を返して確かめた。
感動というより、もはや心酔。
──この力が、常に自分の味方であるという勘違いが、心を心地よく痺れさせていた。
頃合いを見極めたように、ユリアがそっと囁く。
「サリアを……聖女審判にかけてはいかがですか?」
「なっ!?」
突然の提案に、王子ばかりでなく、周囲に控えていた大臣たちの顔にも緊張が走る。
聖女審判はいわば火あぶりだ。
──それは古き信仰時代において、聖女か否かを問う悪しき慣習だった。
だがその残虐性ゆえ、今では禁忌の儀とされて久しい。
「ユリア……それは……あまりにも残虐だ。王国でもとっくに禁止となっている」
わずかながら理性の光が、アルカの目に宿る。
己の怒りと劣等感で動きかけていた感情が、ほんの一瞬、現実の倫理を思い出させた。
「あら、問題ありませんわ」
けれど、その火種をユリアはすぐに摘み取る。
たじろぐ王子の頭を、彼女は優しく、まるで幼子をあやすように撫でた。
「聖女は、聖火には焼かれない。今まで焼かれたのは……聖女を語る偽物だけですもの」
甘やかな声。確信に満ちた表情。
そこには迷いもためらいもない。むしろ、すでに答えが決まっていたかのような自信が漂っていた。
「し、しかし……」
アルカはなおも言いよどむ。
良心というより、父と兄を恐れる小心者としての躊躇だった。
正当化さえできれば、何でもしていいと思っているのがアルカだ。
──だから、ユリアは最後の一押しを与える。
「大丈夫です。あの女は、自分を聖女だと言っているのですから」
その一言に、アルカの表情から曇りが消えていく。
そう、アルカが誰かを裁いているわけではない。
庶民のサリアが聖女を名乗るから、その真偽を確かめられるだけなのだ。
──たとえ結果がどうなろうと、王子の責任ではない。
「……ああ、そうだな。これは……これは、あくまで審判なのだ」
自身の言葉に、アルカは頷きながら納得していく。
繰り返すことで、理屈が通ると信じ込もうとしているように見えた。
「ええ、そうです。王位に就くあなたは、厳粛でなければなりません。強く、己を信じるのです」
その言葉が決め手だった。
ハリボテの自尊心に、誤った王としての自覚が植え付けられる。
「そうだ……そうだとも!」
椅子から勢いよく立ち上がったアルカは、玉座の間に響くように叫ぶ。
「さあ、聖火広場に薪を並べよ! 聖火を放ち、聖女審判を行うのだ!」
その声には、確かな熱と陶酔が混ざっていた。
それは国家を導く者の威厳ではなく、自らの傷を隠すために高笑いするだけの、子供の叫びだ。
「まあ、最後までする必要はないしな。灼かれるようなら途中で──」
「アルカ──あのコックは、偽聖女を大切に思っているようですよ?」
ユリアが、最後に一滴の毒を垂らすように囁いた。
そこでアルカは自分を脅かした、いかつい坊主の男を思い出す。
あの男の泣き叫ぶ顔が脳裏に浮かぶと、アルカの最後の良心が消え去った。
「くくく。サリアめ、時期国王をたばかった罪は重い……死に値するぞ」
アルカの笑みは、もはや理性を捨て去った狂気の色を帯びていた。
そこにあったのは、ただ一人の女に操られた、王子の滑稽な姿だった。