84 真誠に微睡む残響 - 8 -
よろしくお願いいたします。
ルーシェルを探して来た道を戻るのだが、視線を巡らせてみても彼女の姿は見当たらないでいた。
どこまで行ったのだろう。増幅装置を失い霊力が紡げない今、気配の察知は出来ないまま。もしかしたら屋敷に向かったのではないのかもしれない、行き違いになったのかもしれない。どこかで――一人で――泣いているのでは――酷く息苦しくなって、首元を掻きむしる。じんとした痛みはしかし思考を明瞭にはしなかった。胸の内で引き攣れるかのような不可解な痛みが続いている、さながらようやく塞がった痂皮を無理やり引き剥がすかのように。
形容しがたい焦りばかりが募って、呼応するかのように歩を進める。は、とこぼれ落ちる吐息は酷く重く、彼女の低い声が耳から離れない。
――迎えが来ているんだ、さっさと帰れ。
向けられたのは、まるで失望したような声色だった。真紅の瞳は色を亡くし、こちらを一瞥しただけで逸らされた。どこか憂いを帯びた眼差しは脳裏に焼き付いたまま。
どうして彼女がそのような表情をしたのか、自分には理解できなかった。怒っているのではなかったのか。声を荒げて、感情的に言葉を投げつけてきたのは、自分が至らなかったからではないのか。三つ子たちはルーシェルが傷ついていると言っていた。泣いているとも――ざわざわと、肌が粟立つような感覚が足元をさらっていく。
風が通り過ぎていく、里の賑わいはまるで何処か遠くの出来事のようだった。
はらはらと舞い散る花弁の色彩はやわらかく、甘い香りに満ちた周囲はどこか現実離れしている。さながら鮮やかな夢のようですらあった。降り注ぐ光が足元で踊る。慈しみで満ちた世界、花祭り最終日。着飾ったエルフたち、飾り付けられた枝葉、甘く豊かな香り、柔らかな空気はしかし己の胸の内のものから酷くかけ離れている。
どうして、自分は彼女の後を追っているのだろう。
自問、しかし思考はそこで止まる。
それは、と囁く声がする。後を追う理由、それは約束を交わしたからだ。傷付けてしまった償いをしなくてはならないからだ。側にいて、彼女を守らなければならない。それに、――一人で泣いているのは、駄目だと思う。それが誰であろうとも、涙を一人拭うのは。良くないことだと思う。だから、だ。だから、自分はこうして彼女を探している。導き出した答えは何も間違っていないはずなのに、どうしてだろう、胸のきしみは少しも薄らぎはしないのだった。
無造作に放り出された無数の糸を手繰るように、無秩序に絡まりあった感情を引き寄せる。引き寄せて、原型を失わせるように撚り合わせる。気付いてはならないモノ。触れてはならないモノ。覆い隠すように、混ぜ合わせて全てを飲み込んだ。溢れ出さないようにきつく口を噤んで、無意識に落ちていた視線を再び前へと据える。美しく咲き誇る花、瑞々しい緑の中でエルフたちの金の髪が揺れている。歩みは止まらない、にぎやかな里、祭り、その中で彼女はどこにいるのだろう。陽光を苦手とする悪魔だ、日を避けるようにしている可能性もあった。ああでも、彼女は今日は日傘をさしていて――
ざあ、と一際強く風が吹き抜けていった。
思わず目を細める。
視界を埋め尽くしていくのは優しい色をした花弁だ、緑の木々が擦れて大きく音が落ちてくる。噎せ返るような甘い香り、翻る白布、己の長い髪が煽られて目の前を覆っていった。絡みつくそれを乱暴に掻き上げる。指の隙間から覗いたその先に、視界の奥に。人影の中に、見慣れた黒があった。どくりと、胸の奥で何かが確かに熱を持つ。理解の及ばない熱を帯びた胸元を握りしめる、こぼれ落ちた吐息は確かに安堵の形をしていた。
この里では目立つ黒髪が風の中で踊っている。揺れる白いワンピース、日傘。満天の星空のように黒々とした、星の輝きを散りばめたように艶めく美しい髪は見間違いようがなかった。
騒がしかったはずの里が急速に音をなくしていく、喧騒、木々のざわめき、耳に痛い拍動。視界は色鮮やかにうつろう。彼女との距離はまだ少し遠い、日傘を差した彼女のその表情は見えないまま。なんて声をかけたらいいのかなど、わからないでいた。また帰れと言うだろうか、詰るだろうか。それとも、――泣いて、いるのだろうか。
不確かに湧き上がり続ける熱は体温を上げていく、反して冷える胸の内、言いようのない衝動。正しい解は見つからない。わからない、わかってはならない。それでも立ち止まっているらしいルーシェルとの距離を詰める、ちゃんと、話をしなければと思う。罪を償わねばならない、雑踏、覚える焦燥、声をかけなければ。声をかけて、――名を、呼ぼうとして。彼女の隣に立つ影に気付いた。足が止まる、ルーシェルの側に誰かいる。肩にかかるほどの金髪、見知ったエルフの姿。瞬間、急激に空気が薄くなったような気がした。喉の奥が冷える、胸を剣で貫かれたように息苦しい。不可解な感情だ。痛みを訴える胸の内は理解の範疇にない。
彼女までの距離は未だ遠い、真白い日傘が影を落としてルーシェルの表情は見えないまま。向かい合った二人、ルアードと話しているようにも見えた。
ぞくりと、胸の奥がざわつく。
雑踏に紛れて声までは聞こえない、思い出すのは先程自分へと向けられた言葉達だった。必要ない、構うな、帰ってしまえ。失望したような突き放すような低い声。
三つ子たちの言葉が脳裏をよぎる。傷ついている、泣いている――視界の先にいる彼らは一体何を話しているのだろう。彼は、彼女を慰めているのだろうか。彼は思慮深く正しく善人だ、善きサマリア人だ。泣いている人を放っておくような人ではない、彼女の頬を濡らす涙を見れば優しく拭うだろう……そこまで思い至り、は、と。こぼれ落ちたのは掠れた吐息だった。それが一体何を形作ろうとしたのかわからない、わからないのにひび割れるように肺腑が痛い。
彼がいるのであれば自分は必要ないだろう。一人で泣いているわけではないのだから、寄り添う人がいるのだから自分が駆け寄る必要などない。構われることを嫌う彼女だ、その彼女が、彼を選んだのであれば。感情を吐露する先が、彼であるのであれば。
視線の先の彼女は、立ち尽くすこちらを振り返りもしないまま。ふいと離れていく。霊力の使える彼女がこちらに気づかないはずがないのに、一瞥もなく意図して向けられた背。明らかな拒絶。
二人の間で一体どのような会話がなされたのかは知ることは出来ない。けれど、遠ざかっていく彼女をエルフの青年が追う様子はなかった。離れていく影、淡い色彩の中に霞んでいくように。――駄目だ、と。頭のどこかで悲鳴のような声が上がった気がした。
思考よりも早く、身体が前へと動き出す。
必要とされていない、理解しているのに感情が納得しない。感情、なんて。そんなものを抱えたとて事象を正しく理解しないのに。与えられた責務を蔑ろにするのに。自分には必要ないもの、なのに。それなのに、この身を引き裂くような痛みを無視することは出来なかった。どこにも行き場のないものが胸の内で暴れて唇からこぼれ落ちていく、しとど濡れる吐息、腹の底に突き刺さる棘を振り払うように腕を伸ばす。伸ばして、掴んだその腕はあまりに細かった。
あ、とその赤い唇から吐息のような声が漏れ出た。彼女の手から離れた真白い日傘が宙を舞う、握り直そうとしたのだろうか、傘の柄へとわずかに伸ばされたその細く白い指先が視界で踊る。わずかにこちらから視線が逸らされる。腕を掴んだ勢いそのまま引き寄せれば、小さな身体はあっさりと腕の中へと収まった。あまりに軽い、細い。壊さぬようにぎゅうと肩を抱き込めば、見開かれる深紅の瞳とぶつかった。驚いたようにこちらを見上げてくるそれは、強い光を湛えて煌めいている。その長い睫毛は濡れた様子もなく、目元も腫れていなかった。彼女のその白い頬に涙の跡はない。呼吸は乱れてはいるが嗚咽でもない。
ああよかった、泣いてはいなかった――
胸の奥に張り詰めていたものが、音もなくほどけていく。知らず強張っていた身体から力が抜けていく。あんなにも不可解な痛みを訴えていた胸が、静かに凪いでいくのがわかった。それと同時にあたたかい灯りが灯ったような気がする。知らず口元が緩む、ほうと胸に満ちていた息苦しさが外へ流れ出る。
互いの長い髪が絡んで滑り落ちる。驚いたように見開かれたままの深紅の瞳、小さく震える身体、そうして彼女の唇がはく、と。何かを紡ごうとしたのだろう、僅かに戦慄いた瞬間。
頬に、強烈な衝撃が走った。
※
何が起こったのか、最初わからなかった。
頬を打った衝撃、遅れてやってくるのはじんと痺れるような痛み熱。平手が飛んだのだと、理解したのはその後だった。
「何しに来た!」
眦をつり上げてルーシェルが叫ぶ。平手を見舞ったままの格好で、こちらへと噛み付かんばかりに声を荒げる。腕の中に収めていた身体が離れようともがく。酷く慌てたように、こちらを振り払うように押し返される。
「私は帰れと言ったんだ!」
血のように赤い深紅が、放せと言わんばかりにきつくこちらを睨みつける。細い腕が距離を取ろうとこちらの胸を押しのけようとする。
事態が飲み込めていないこちらのことなどお構い無しに、彼女は顔を赤くして怒りをぶつけてきていた。そう、怒りだ。先程まで脳裏にこびりついて離れなかった、あの物悲しげな翳りはどこにもない。
打たれた頬はじわじわと痛みを訴える。
以前もそう、同じようなことがあった。あれは確か、最初に訪れた街で夫婦を装った時ではなかったか。あの時も唇を戦慄かせて、白い頬を怒りで真っ赤に染めて、語彙力さえ吹き飛ばして平手を見舞ってきたのだ。
強い拒絶、剥き出しの感情、あの時と同じだ、そう思う。何故追ってきた、帰れと言ったのに。彼女の言葉に従わなかったこちらへ対する苛立ち。勝手に触れるなと暴れるのは、いつも通り怒りを隠そうともしないルーシェルだった。
――ああ、と。
唐突に腑に落ちる。
「この……いい加減はなせ……ッ!」
拒絶されているのは変わらない筈なのに、先程まで胸を締め付けていたものはいつの間にか影を潜めていた。腕の中の悪魔、白い頬、細い体、煌めく深紅。忌々しくこちらを睨みつけてくる彼女は泣いていなかった――腫れた眦も、濡れた痕もない。一人で涙を拭った様子も、今は見当たらない。
「何を笑っている……!」
「いえ、」
こちらから目をそらさないまま、全身を戦慄かせながら。ルーシェルはきりきりとこちらを睨みつける。いつも通り。あの、自分を拒絶した仄暗い眼差しは。悲しげな瞳は今やない。たったそれだけのことなのに、どうしてだろう。緩む口元を止められないのだった。
「いえ……いえ、貴女はそうだったと……」
本当は、傷ついていたのかもしれない。
本当は泣いていたのかもしれない。
ルアードと交わした言葉に、何か、救われたのかもしれない。
それでも今、こうしてこちらを睨み、怒りをぶつけてくる彼女は自分のよく知っているルーシェルだった。強く美しい厄災の悪魔、気高く傍若無人で、己の感情に素直で大層口も悪い。態度も悪い。苛烈な気性。終わりを望む孤高の王。本質は変わらない。
……様子がおかしいと調子が狂う、とは。確かにそうだと思う、以前彼女が言っていた言葉。我々は相容れないもの。交わした約束、彼女を殺すのは自分だ。それは変わらない。
握ったままの彼女の右腕、手首。放さないままそうと指を這わせて彼女の掌を握り込むと、びくりと。その細い肩が大仰なまでに跳ねた。見下ろした先、揺れる深紅。
「……貴女が、貴女のままであった。それが、良かったと」
吐息のように。
こぼれ落ちた言葉はきっと偽りではないのだと思う。
胸の内に満ち満ちるもの、形容しがたい何か。ただそこにあって、確かに存在を主張するのに不明瞭で理解の及ばないもの。喉につかえて胸を焼くそれに名を与えてはならない、私は私でなければならない。痺れるような痛みは理屈の形を持たない。鳴り響く警鐘、振り払うように彼女の細い指を握り直す。放してはならない気がして、どうしてそう思ったのかまでは自分でもわからないまま。
「なん、だそれは……」
掠れたようなルーシェルの、その声が酷く心地よい。
呆けたようにこちらを見上げてくるのは揺れる深紅。怒鳴る勢いも、押し返す力も、わずかに弱まる。じわりと伝わる体温、吐息、その熱さ。その時だった。
「はいはーい、お二人共そのへんで。そういうのはもっと隠れてするものだよー? 間違っても通りのど真ん中ですることじゃないよー?」
場違いなほど軽い声に、腕の中にいるルーシェルがびくりと大きく身体を跳ねさせた。顔を上げて声の方へと目をやれば、少し離れた場所で口元を押さえ肩を震わせているルアードの姿がある。
「場所は選ばなきゃねぇ」
そう言いながら、彼は放り出されたままになっていた真白い日傘を拾いあげる。そうして、笑いを押し殺しながら、ね? と。こちらへと近づいて日傘をルーシェルへと差し出していた。それを呆然と受け取る彼女の様子を前に、こちらへと向けられる多くの視線へようやく気付く。そう、通りの真ん中でのやり取り、ひそひそと交わされるエルフたちの囁き。好奇心と生温かい視線。
「……っ、離せ!」
殊更強く胸を押されるが、状況を理解してもなお腕はすぐには緩まなかった。いい加減にしろと更に怒号を飛ばすルーシェルを見ながら、ルアードがさらに肩を震わせている。おかしくってしょうがないと言わんばかりであるが、一体何がそこまで彼を愉快にさせているのかはまるでわからないでいた。
そういった表情が表に出ていたのか、ルアードはこちらの肩をぽん、と叩く。
「いやもう、ね? 痴話喧嘩なら場所選びなってね?」
「違う! というかいい加減離せ! いつまでこうしているつもりだ!」
こちらへと向けられたであろう言葉に、ルーシェルが真っ赤な顔で叫ぶ。遮る。痴話喧嘩、その言葉の意味を探るよりも先に、ルアードはさっさとこちらから離れていった。そうして彼は隅に置いてあった木箱をよっと、と抱え上げる。きちんと閉められていない木箱の蓋から色とりどりの紐や紙飾りが溢れていた、どうやら仕事の途中だったらしい。
「ま、後はお二人でね。俺は仕事に戻らなきゃだからさあ」
ねえちゃんにどやされるのはゴメンだからねぇ、そう言って苦笑した彼は、ちらりとルーシェルを見る。
「……さっきの話は、秘密ね」
しー、人差し指を一つ口元に立ててにこりと笑えば、ルーシェルはぐっと押し黙ったようだった。秘密、何の話だろう、問いかけるより先にルアードはひら、と。こちらへと手を振った。
「せっかくの祭りなんだし楽しんでおいでね」
にやりと笑い、彼はそう言って人混みに紛れていった。
残されたのは周囲のざわめきと、奇妙な沈黙。
そして。
――さっきの話。
腕の中で視線を逸らしたまま黙り込むルーシェルに、説明のつかない引っ掛かりが残った。秘密。二人だけの、?
「さっきの、とは。何の話でしょう」
「……別、に……大したことじゃない」
問いかけたのはほとんど無意識だった。
しかし酷く気まずそうにルーシェルは言葉を濁す。逸らされる視線。
「貴様が、何も言わないのと同じだ。意味ありげなことばかり、言う貴様と……別に、本当に、……なんでもない……」
こちらを見ないまま紡がれたのは非常に歯切れが悪いものだった。
そうして、やがて諦めたように小さく息を吐き、
「……いいから、いい加減離せ。暑苦しい」
そう言いながらも押し返す力はどこか弱々しい。
祭りの喧騒が、ようやく耳に戻って来たような気がした。ざわめき、向けられる視線、鮮やかな色彩に溢れた里の中で彼女だけが異彩。
腕の中で不満そうに顔をしかめる彼女から手を離せば、するりと小さな身体は離れていく。そのまま傍らに立つ彼女は、はあ、と。溜め息とも呆れともつかない息を吐き出している。日傘の柄を両手で握り、落ちる影の中でなお一際強く煌めく深紅。どうしてだろう目が離せないでいる。
「お前は、本当に……」
呟かれた言葉はそれ以上続かない。
それでも、そのどこか諦めたかのような柔らかな音に、声に。理由はわからないまま、胸の内に残っていた痛みだけが静かに消えていくような気がした。
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