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暁のホザンナ  作者: 青柳ジュウゴ
83/84

83 真誠に微睡む残響 - 7 -

よろしくお願いいたします。

 ざあ、と風が通り抜けていった。

 淡い色彩の花弁、降り注ぐ光が揺れて視界に踊る。ルアードの揺れる金の髪が、伏せられた瞼に落ちる影が、紡がれた慈しみに溢れたその声が。まるで宙に浮いているかのように、非現実なまでにぽかりと漂っている。


 ――違う世界から来た人がいるんだよ。

 

 まるで御伽噺でも語るかのように。

 事実から置かれた距離、自己なく他人事のように口にしているが、誰の事を言っているのかは明白だった。脳裏に浮かぶのはこの里では目立つ黒髪。転移の影響ゆえに聴力を失った兄と、歩行能力を失った妹は私達と同じ世界からやってきたという。双方片方ずつ視力さえ失ってなお、二人は元の世界へとは戻らないと決意していた。この世界で生きることを覚悟していた。


「素敵なことだよねぇ」

 

 ふ、とルアード再び瞳を開く。開いて、こちらを見てにこりと笑った。そこに宿る柔らかな光は静かに輝いていて、普段の騒々しさからは想像もできないほどの静寂があった。凪いだ湖畔の底のように透き通る明度。彼らは一緒にいられる――そこに、話者であるルアードは入っていない。そう気付いた瞬間、胸が詰まった。締め付けられるように傷んで、息が乱れた。種族、立場、性別。ささいなこと。告げられた言葉。諦められたら苦労はしない――それは、〝諦められないからこそ苦しい〟側の論理だ。


「お前……、」


 思わずこぼれ落ちたのは、引き連れたような声だった。絡む視線、綺麗な緑の瞳は何ら変化のない透き通った新緑のまま。その柔らかな色と光に満ちた目を少しだけ瞬かせたルアードは、それでも困ったとでも言わんばかりにへにゃりと顔を崩す。

 

「いやだなぁ、これは誰かのお話だよ?」

 

 そう言って、こてん、と。まるでわざと演じるかのように小首を傾げて男は笑う。笑う。柔らかな笑顔、まるではぐらかすかのように。なんでもないように。優しくとろける視線、表情、……「誰かのお話」だなんて。そんなのは嘘だ。否定も肯定もしない物言いだが、そこに込められたであろう想いが痛いほどわかった。わかってしまった。

 言語化できない感情が押し寄せて、静かに笑う男の顔を見ていられなくて、ぐ、と視線が落ちる。己の黒髪が滑り落ちて視界を覆う。揺れる毛先、鮮やかな里、色彩の対比。そよぐ甘い花の香。苦しくて、悲しくて、遣る瀬無い。感情が込み上げてきて喉を突いて出てきそうだ。


「…………苦しくは、ないのか」


 声が。震えた。ぎゅうと胸元を握る。

 応えてほしい、受け入れてほしい。愛してほしい。そんな当然の感情すら、この男は当たり前に抱えたまま。抱えて、捨てるでもなく、そのくせ決して表には出そうとしていない。どうして笑っていられるのだろう。自分を見ない相手を、どうして大切にし続けることが出来るのだろう。どれだけ想っても、どれだけ一緒にいても、どれだけ、支えても。選ばれないのに。特別に、なれないのに。

 

「私は……いやだ、そんなの……」


 耐えられない。

 決して手にすることの出来ないもの、自分以外の誰かと紡がれていく絆、恋情。私には向けられない優しい眼差しを、言葉を、柔らかく触れるその指先を。名を呼ぶ声を。眼の前にして笑うなんて出来ない。祝福なんて出来ない。仄かに振り注ぐ光のような金の髪、淡く儚い空色をした瞳。どこまでも慈愛に満ちた穏やかな声。真白い存在。どうしたって手に入らないことなんてわかりきっているのに。それでも誰かに取られるなんて、それを、受け入れるなんて。


 あの暖かな眼差しが別の誰かに向けられるのは嫌だ。

 あの優しい指先が自分以外の誰かに触れるのは嫌だ。


 溢れ出るどうしようもないエゴイズム。

 言えたらいい、ぶつけてしまえたらいい。でも、きっと。恥も外聞もかなぐり捨てて縋りついたとて、きっと何一つ伝わらない。こんなにも苦しいのにあの男には響かない。情に厚いからこそ優しさで返される、平等であろうとする男の情けを。誰にでも向けられる平等の愛を。でもそれは、欲しいものではない。


 ――思い起こされる黒髪の人間達。人間であるという以外の共通点がないのに一緒にいる。いられる。元来ならあり得ない接点、交流、触れ合えるのはここが異世界だからだ。だから、愚かにも夢見てしまう。天使はあまりにも優しいから。あまりにも眩しいから。出会ってしまった。願いは変わらない、あの手で最期をもたらして欲しい。それは本当、不変、だったらさっさと手放してしまえばいいのに。突き放して、傷付けて、自分から離れるように仕向ければいい。斬り捨ててしまえばいい。それなのに。


「選んでもらえないのは、悲しいよね」


 ぽつん、と。

 空に融けていくかのような静かな声に、のろのろと顔を上げる。ルアードの、そのあまりにも透き通った声に心が悲鳴を上げていた。伝えられずに宙に浮かんだまま誰にも気づかれない感情、報われない想い、悲しくて。痛みを抱えたまま静かに笑う男。こんなにも苦しくて、悲しくて、行き場がないのに何故平気な顔をしていられるのだろう。想いが溢れて止まらない、とめどない。滴り落ちて渦を巻く。不毛だ、理性はそう叫んでも心は納得しない。他者を恋しく思う感情は、静止しようと思うほどに制御を失っていく。駄目だとわかっているのに、重々、痛いほどわかっているのに。捨てられない。

 

「でもね、俺は好きな人が幸せならそれでいいんだ。たとえ、そこに俺がいなくても」


 ルアードは歌うように口にする。

 それは決して、諦めの声ではなかった。愛おしさに溢れていて、本当に大切にしているのだと痛いほどにわかった。強がりなんかじゃない、心からそれでいいと。種族、立場、一体どれほどの葛藤を経てそこへまで覚悟できたのだろう。どれほどの痛みを堪えてきたのだろう。好いた相手への幸せを願って、でも自分はそこにいなくていいだなんて。そんな苦しいことをどうして、そんな穏やかな表情で言えるのだ。

 平然としているように振る舞える男の、その強さに。痛みに。泣きたくなるほどの激情が腹の底で渦巻いて堪らなかった。

 

「馬鹿だな……貴様も、私も」


 形容しがたい感情が溢れて、口をついて出た。歪む唇、こぼれたのは自嘲だったのだろうか。馬鹿だ、本当に。こんな滑稽なことがあるだろうか、互いに叶わない想いを抱えて、そのくせ傍から離れるという選択ができないでいる。こんなにも苦しいのに。捨ててしまえたらいいのに――堂々巡り。


「違いないねぇ」

 

 男はそう言って笑う。柔らかな声からは、もうあの一種異様なまでの透明感は消え去っていた。急激に色彩を取り戻して、ふふ、と。様相を崩すさまは、あれほど滴り落ちるようであった翳りを感じさせないでいる。行き場のない想い。永遠に閉ざされる感情。


「……唇、切れちゃったね」


 ふっと空気が緩んで、ルアードは小さく呟いた。そうして指先でつい、とこちらの口元を指す。つられるようにして自分の口元へと指をやる、ぴりりと僅かに走る痛み。唇を噛み締めすぎて裂けたのだと思い至り、ぼんやりと口内に広がった血の味を思い出す。


「傷、治しとこっか」

「…………いい、このくらい、」

「心配されちゃうでしょ。それに、痕にでもなったら大変」


 痕になった所で、そう思うがルアードは最早聞いていなかった。ええっと、と言いながらいつも身につけているらしい革袋の中を漁っていた。先程までのあの儚いまでの苦しい空気は跡形もなく消え失せている、いたって普段通り。せっかくの美人さんなんだからさあ、いつもの調子で軽口さえ叩く、「この話はもうおしまい」とでも言わんばかりに。

 

 しばらくがさごそと漁っていた革袋の中からようやく見つけ出したのか、ルアードは指先ほどの赤い石を一つ取り出す。そうして巡る魔力、ほんのりと石の中に光が灯る。構築されていく術式、ふわりと紡がれ溢れ出すのは回復魔法だ。


「その……悪かったな、」


 落ち着いてしまえば己の失態を再認識させられる。気まずさもあった、あれだけ否定してきた己の感情をぶちまけてしまったのだ。そうして、この男の、きっと誰にも告げるつもりのなかったであろうものを開示させてしまった。急激に冷える思考、残るのは羞恥でしかない。

 

「んー? まあねぇ、苦しさはわかるからねぇ」

 

 ルアードは大して気にした様子もなく、ちょっと失礼するよー、と言いながら指先に宿った力をそうと口元へと伸ばしてくる。やはりこちらへは触れては来ない、相変わらず保たれた距離はそれなりに近いもののそれ以上は踏み込んでは来なかった。

 ……最早抵抗するだけの気力もなく、好きにさせることにする。

 指先に灯るほのかな光が撫でるよう口元に触れる。傷の修復、癒やしの力は暖かい。


「それよりもさー、もうちょっと身体大事にしなね。せっかくこんなにも綺麗なんだからさあ、美人さんの怪我は世界の損失なんだよ?」

「美醜など、」

「女の子の顔に傷があっちゃダメでしょう」

 

 んもう、小言を言いながらルアードは肩を竦める。軽薄とも取れる言動、すっかりいつも通りである。ふ、と消える魔力、離れていく指先、じっと見据えてみてもへらへらしている顔に落ちる影はなくなっていた。綺麗に隠されたもの、……随分と切り替えが早いように思うのは、場数の問題だろうか。幾度となく繰り返してきたのだろうか。葛藤、諦め、それでも捨てられなくて、掻き集めて、……一体、どれほどの数を。

 塞がれた傷口を指でなぞりながら、はあ、と。これみよがしにため息を吐いた。だいたい、女の子などと、悪魔を捕まえてよくもまあ宣うものである。綺麗なものが好きというこの男らしくはあるが――そこでふと、思い至った。


「……男は?」


 意地の悪い問いを投げかける、傷だらけの男には一人だけ心当たりがあった。目の前にいる男の旅の相棒、長い黒髪の、そう、目つきの悪い酷く無愛想な男。

 ルアードはほんの少しだけ驚いたように目を見開いて、そうして悪童のようににっと笑った。


「野郎は傷ついてなんぼでしょ。……まあ、可愛く見えることもあるかもしれないね」

 

 どこまでも他人事のように、それでもどこか嬉しそうに。

 あの男の傷を負った経緯は知っている、ルアードが助けたのだと言うことも。なかなかに凄惨な生い立ちだ、善人が心を傷めないはずもないのだろうが――それとこれとは違うのだろう。まるで大切なものを柔らかく掬い上げるかのように、あんまりくすぐったそうに笑うものだから。こういう愛し方もあるのかと、思う。強く穏やかな情。捨てるでもなく、なかったことにするでもなく、ただ愛おしげに抱えている。

 

 ――ふと、種族の違いなど、と。この男が口にするのは男自身に向けられたものでもあったのだろうかと思う。元々の住人と異世界から来た娘、世界も生活様式も言葉も何もかも違うのに人間同士であるという一点でのみで括られた二人。異世界同士で結ばれる事が可能なら、同じ世界の者同士でのタブーなどあってないようなものじゃないのかと。そう言いたいのだろうか。さながら、願いのように。

 馬鹿が付くほどのお人好し、そう称したのは長い黒髪の傷だらけの男だった。

 どいつもこいつも人のことばかりだ。もっと……自分のことを、大事にしてやればいいのに。一体どれほどの痛みを抱えて、堪えて、そんな事が口にできるのだろう。どんな思いでいたのだろう。ぎゅうと拳を握る、視線が落ちる。


「ね、本当に屋敷に戻っちゃうの?」

「…………、」

 

 柔らかな声、しかしその問いかけにすぐには答えられない。

 胸の内は相変わらずささくれ立ったまま。それでも、周囲の喧騒や降り注ぐ陽光を意識できる程度には落ち着いてきていた。はらはらと舞う花弁、足元に落ちる影。光と影、この男の不器用な愛し方を知ったとして、自分にはどうしようも出来なかった。何度考えたとしても天使から離れるべきだという解が揺らがない、他に術がない。

 

「…………そうだ、」

 

 そうとしか答えられない。

 掠れた声での返答にルアードはただ、そっか、と。言うに留まった。納得していなさそうな表情ではあるが、それ以上は口を噤んでいる。静かな眼差しは物言いたげにしているが、かといって特段諭すでもない。それが酷くありがたかった。ありがたくて、そう思ってしまう自身に対して反吐が出る。

 

 足元に落ちる影が揺れる。

 色濃く踊って、己の立ち位置を明確に突きつける。


 光に満ち溢れる世界、こすれる木々のざわめき、笑い声。喧騒。優しく甘い香り、満ち満ちる生命の息吹、あたたかな熱に溢れるここは酷く居心地が悪い。仄暗い地の底、凍える闇、穢れた自分とはあまりにも違う。交わらない。共には居られない。光と闇、あの暖かなものがその存在を変質させていく様は見たくなかった。傍にいたらきっとこちらへと手を伸ばしてくる、あの男はそういう男だ。普く者を救おうとする。優しい青、甘く香るような声。

 

 は、と。唇から漏れ出たのは一体どのようなものだったのだろう。わからない、わからないのに顔を上げれば、この世界では異質な力を感じ取った。強大な霊力、真白く清らかな力は天使のものだ。何を思ったのか近づいてくる、帰れと言ったのに。会いたくなくてその場を離れようとして、突然、右腕を掴まれた。

 次の瞬間強く後ろへと引き寄せられる。

 手にしていた日傘が指から離れてふわりと宙を舞う、あ、と思った時には遅かった。強く引っ張られてバランスを崩す、己の黒髪がばさりと流れて――背中に、何かが当たる。そのまま暖かなものに包まれた。強い聖性。光の渦、優しい空が落ちてくる。


「は、……」


 目を瞬かせると空色とぶつかった。

 こちらを覗き込んでくるのは光の化身、煌めく金の髪が視界を覆って、ゆるく落ちていった。酷く近い場所に男の顔がある。どこか不安そうな表情でこちらを覗き込んで来る男、きつく抱きすくめられている。伝わる熱、拍動、ふわりと香る甘さ、――ヨシュアに、抱き込まれている。理解した瞬間、どくりと鼓動が跳ね上がった。全身の血という血が沸き立つように悲鳴を上げる。どうしてここにいる、帰れと言ったのに、やっぱり追ってきた、感情が体温に引きずられる。耳に痛い拍動、頬にかかる男の吐息、不安そうに揺れていた青い瞳がふっと柔らかく融ける。どこか嬉しそうにさえ見えるその表情に、言いしれぬ激情が胸の内に湧き上がって、渦巻いて、自我が容易く飲み込まれていった。目眩がするような熱、痺れるように甘くやわく、脳髄まで焼き尽くして――


 ばん、と。乾いた破裂音。

 

 掌に遅れてやってくるじんとした痛み、大きく見開かれた天使の瞳。そこでようやく、平手を見舞っていたのだと気付いたのだった。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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