82 真誠に微睡む残響 - 6 -
よろしくお願いいたします。
来た道を足早に戻る。
喧騒、周囲に満ちるのは温かな感情と称されるものだった。すれ違うエルフ達の穏やかな表情、視界を覆うのは淡い色彩、花という花に埋め尽くされた里、落ちる光は鮮やかで足元で踊っている。煌めく金の髪、揺れる真白い布地、反吐が出るほどの平穏。足元に落ちるのは黒々とした影、目眩がするほどの光は白々と己を照らし出す。即ち、異物であるということを。
男は追って来もしないようだった。当然だと思う自分と、納得していない自分とがいる。どうして、そんな風に思うことすら愚にもつかないのに胸が痛い。痛くて満足に息もできない。
日傘をきつく握る。
足は止まることもなく前へ前へと進んでいく。拍動は酷く乱れたまま、堪らずこぼれた吐息は重く嗚咽のように滴っていった。ぐいと手の甲で口元を乱暴に拭う、馬鹿馬鹿しい、それでも荒れた感情は少しも薙ぐことはない。
眼裏に浮かぶのは愕然と立ち尽くす姿だった。
何かを言いかけて止めた男。口元を抑えて、どこか怯えたように。
清らかで慈悲深い天使、清廉を体現した男。あのように無垢でいる存在など自分は知らなかった。差し伸べられるあたたかな手、優しい眼差し、まっすぐに私の名を呼ぶ。悪魔にすら心を砕く木偶の坊、善性の化身、すべからく平等。誰にでも心を尽くすのに誰にも触れさせない。優しくて――泣きたくなるほど、ただ優しくて。見返りを求めない善意、ひたすら与えられる暖かなもの。
するりと男の首へと絡む白い腕が、目に焼き付いたまま離れない。
伸ばされた小娘の指先、それを振り払いもしない男。覚えたのはそう、沸き上がるよう苛烈な怒りだった。高位の天使がそこらの有象無象に簡単に触れさせていること、それを嫌がりもしないことに対する苛立ち。それと同時に、認めたくない確かな感情がそこにはあった。住む世界、種族、壁はあまりにも高く分厚い。光が強ければ強いほど闇は色濃く炙り出される。永劫交わらない。自分も小娘たちのように、屈託なく、何の憂いもなく手を伸ばせたらなどと――日傘の、細い柄を折らんばかりにきつく握りしめる。馬鹿なことを。思うのに、沸き立つような血の高ぶりは正常な思考を破壊し不毛なまでに感情を掻き乱していく。地の底で願い続けた空色、焦がれて止まなかったもの。暖かく優しい光、願望。受け入れられたなら。
……悪魔にさえ心を砕く男の、その本質が変貌しないという確証などどこにもなかった。白は容易く黒に染まる、他者の為に献身する自意識の希薄な男が、己というものを確立し続けられるのか。そんなこと誰にもわかりはしない。此方からの警戒がいつの間にか薄らいでいた男、監視と言いながらも私を自由に行動させる男。一見温かな色でありながら、穢れたものを見つめる氷のような眼差しが溶けたのはいつだっただろうか。柔らかく私の名を呼ぶようになったのは。
あの男が向けられる好意を丁寧にすくい上げるさまを、嫌と言うほど見てきた。ひとつもぞんざいに扱わない、感情そのものを理解しているかどうかは別として、あいつは一切を拒絶しない。すべて平等に受け入れる。誰にでも手を差し伸べる、その危うさを、あの男自身が自覚しているとも思えない。
「あれ、ルーシェルさんどうしたの。そんな殺人鬼みたいな顔して」
気の抜けるような間抜けな声に名を呼ばれ、思わず足を止めばっと顔を上げた。その先には見知った男の姿。ルアードだ。何か作業でもしていたのか、手に抱えた木箱を持ち直しながらきょとん、と。その緑の瞳を瞬かせていた。その腕には山ほどの飾り紐や紙細工がぶら下がっている。……緑の瞳、は。先程の小娘たちと同じで。ゆるく細められるやわらかな色彩、えらく含みのあるその色。瞬間、こらえていた怒りが爆発する。
「なんで貴様がここにいるんだ!」
「ええー……流石に理不尽じゃない?」
ここ俺の故郷だよ?
そう言って男は眉を下げ困ったように笑う。理不尽だと言われたとて、それをいなせる程の余裕などなかった。揺れる金の髪、ああ、嫌だ。嫌なんだ。微妙な差はあるとは言えこの里の住人は皆一様に金色の髪をしている。考えたくないのにあの男の影がちらついて離れない。
――感情ひとつ満足に言えない男。
ぎり、と。唇を噛み締める。
あの時。自分の声に怯えたように口を噤み、言いたかったであろう言葉を呑み込んだ男。口元を覆って無様に震えていた男。感情の表出を拒んだ天使は、酷く哀れだった。他者には惜しみなく情愛を振りまくというのに、己には一切の頓着をしない男。与えるばかりで、全てを受け入れるくせにその実なにひとつ受け取ろうとはしない男。冷静で、清廉で、どこまでも天使らしい光の化身。自我というものが存在しない神の人形。
「ルーシェルさんは今日もとってもきれいだねぇ。黒髪にその真っ白なワンピースがとっても映えるよ。うちのメイドさん達、結構押しが強いんだけど仕事は出来るんだよね」
いやあ、眼福眼福。ルアードはへらへらしながら、手にしていた木箱をよいしょっと下ろした。そうして腕にぶら下がったままの飾り紐や紙飾りを丁寧に木箱の中に押し込み、此方へと改めて向き直る。どうやら作業は中断するらしい。動く度にさらさらと揺れるエルフの金の髪に、意味もわからず鳩尾のあたりに鈍痛を覚える自分がいる。
「ね、ね、お祭り楽しんでる? 俺はねえちゃんに言いつけられてこのザマですよ。まあちょーっと飲みすぎちゃったのは悪かったけどさ、人使いが荒いったらないよねぇ」
ルアードは相変わらず屈託なく話しかけてくる。こちらの返答を期待していないような、ともすれば独り言のようなその物言いにしかし何も返せないでいた。あまりにもいつも通りの男、言動は軽いものの妙に聡く侮れない男。朗らかに微笑んだその間抜けな顔は、否応もなく男の快活さを全面に出していた。天使とはまた違った種類の善人。するりと内側に入ってきて、道化のように振る舞いながらも他人のことをじっと見ている男。……今口を開けば余計なことが飛び出してきそうで嫌だった。この男のおせっかいさは重々理解している、変に口出しをされたくない。
足を止めたことに後悔しながら、再び屋敷へと向かう。
口を噤んだまま、ざくざくと歩みを再開したこちらに、ルアードはびっくりしたと言わんばかりに「えっ」と声を上げた。
「ちょっとちょっと、せっかくのお祭り最終日なのに屋敷に戻っちゃうの? そういえばヨシュアさんが一緒だったんじゃ、」
「知るかあんな馬鹿!」
反射的にそう叫んでいた。叫んで、思いの外大きく出た自分の声に心底驚いて、心底失望した。再び止まる足、馬鹿は一体どっちだ。唇を噛み締める、そうでもしなければ無様にも泣き叫んでしまいそうだった。今その名を聞きたくない、それは本心。不可解な感情が腹の底で渦巻いて、酷く息苦しい。胸の底で悲鳴が上がる。
「ありゃ、また喧嘩したの」
あの馬鹿と同じように呆然と立ち尽くすばかりのこちらに向けられたのは、どこか呆れたような声だった。そのくせひどく甘やかで優しい。喧嘩、などと。そんなものではなかった。あれは言い合いなどではない、一方的に此方が罵って、遮って、勝手に落胆しただけに過ぎない。それだってどうせ、何も伝わっていないのだ。善である天使に仄暗い思慕など伝わりもしない。伝わったとて――どうなるものでもない。あれは、あいつは、きっと。私が望めば、縋れば。慈悲を与えるのだろう。清らかな天使、与える者だと自ら称する者。望まれたなら応えるまでと、自己というものがないあいつは言うに違いないのだ。そうして与えられるのは上辺だけ取り繕ったがらんどうの情、本当に欲しいものは手に入らない。永遠に。
「……あんな馬鹿は、さっさと天界に帰ればいいんだ」
深く俯いたまま、ようやっとそれだけが言葉になった。
優しい天使。清らかな天使。光の化身はそれが穢れであっても寄り添おうとする。心を砕き救いを与えようとする。無自覚に。そうして闇色に染まる。いびつに歪み原型を失う。それはもうヨシュアではない。汚濁の中で焦がれ続けた空色を穢したくはない。光は光の中でのみ存在を確立する、闇の側にいたとて害こそあれ利益など一つもない。だから、――だから。あの男は、さっさと元の世界に戻すのが最善なのだ。
「ヨシュアさんのこと、本当に大切なんだねぇ」
ふ、と影が落ちる。囁きのような声が頭上から柔らかく響いて、俯いた視線の先に男の靴が見えた。やたらと使い込まれた革靴は思いの外大きい。
「……違う、」
こちらを尊重するようなどこまでも穏やかな物言いに、反論するも喉が詰まって上手く言葉が出なかった。笑えるくらい弱々しい声、苦い笑みを微かに含む。大切に、だなんて。なんでそんな事を言うんだ。
「違う、そんな筈がない……」
震える声での否定は、自らを嘲るように虚しく転がっていった。
善人の言葉は的外れで性善説を疑いもしない、悪魔である私が、魔王であるこの私が抱えるこれがそんな綺麗なもののはずがないのに。大体、大切にするということはもっと優しい感情を指すものだろう。あいつのように。優しくて、温かくて、柔らかいもののはずだ。この胸にあるものとはあまりにも違う。こんな風に、重苦しく醜い執着を持つものではないはずだ。
あの時、ヨシュアは自分の声に怯えたように沈黙した。
こちらが吐いた暴言に酷く取り乱し、言いたかったであろう言葉を呑み込み、口元を覆い、明らかに狼狽えた表情を晒していた。眩いまでの善性を持つ光り輝く天上の住人が、女神のような天使が、その表情を歪ませ、苦悶とも言える色をそこへ浮かべていたのだ。これの一体どこが大切にしているなどと称される。穢れである自分、大罪人。闇が光に焦がれるなど滑稽なことこの上ない、どうしたって手に入らない。私のものにはならない。向けられる平等、博愛、哀れみ。誰かを恋しく思う資格なんて自分にはないというのに。
「…………苦しいね」
ぽつんと落ちた言葉は無色透明だった。
先程までの軽口とはあまりにも違うその声色、思わずそろりと顔を上げればふわりと緩められた緑の瞳とぶつかる。普段のふざけたような色ではなく、まるで天使が向けてくるような酷く慈愛に満ちたもの。肯定も否定もない。その――その甘く優しい声に、細められた穏やかな眼差しに。胸の内で凍りついていたものが緩やかに溶かされていくのがわかった。溶かされて、汚らしい泥水がどろどろと溢れて止まらない。喉の奥で小さく悲鳴が上がる。
「こんな……筈じゃ、なかったんだ……」
押し留めていたものが決壊する。震えるように唇が戦慄いて、醜く頬が歪む。
望んでいたのはただ、自分という存在の終わりだった。
生まれ落ちた罪、生き残った罪、犯した罪、生の否定。存在の否定。幽閉されていた闇の奥底で長く長い間夢見た空色。己の滴らんばかりの汚濁を、罪過を、焼き尽くす圧倒的な聖性、光。塵一つ残さぬ完全な消滅を、それだけを望んでここまで来たのに。
「好きになんか、なる、つもり、……なかったのに……!」
声が震える。言葉にしてしまえばもう取り返しがつかない。光の温かさを知ってしまった今、今更あの仄暗い闇の中へは戻れない。
好き、なんて陳腐で下劣な感情だろう。こんなにも自分が自分でなくなってしまう。何のためにわざわざ天界を一人で襲撃した、意味もなく天使どもを虐殺した。憎悪を煽るためだろう。容赦なく殺してもらうためだろう。全部全部、私というものを〝終わり〟にするための行動だったはずだったのに。
周囲の喧騒は変わらず、淡く舞い散る花弁が風に舞ってルアードの髪を揺らしていた。光に解けるその金色に、違うと分かっているのに胸が掻きむしられるように痛んだ。痛んで、ふいと視線をそらす。手の甲で口元を押さえる。そうでもしなければ泣き言を延々と吐き出してしまいそうだった。
ふ、と。
小さく笑ったような吐息。
「……理屈で、諦められたらいいのにね」
ルアードの、静かに落ちた言葉は儚かった。
こちらに対して諭すでも、かといって嘲るでもなく。さながら彼自身に言い聞かせているかのようにさえ聞こえた。そうだったらいいのに――それは、どこか願望が滲んでいるようで。
つと、視線を戻せばそこにはゆるく微笑むばかりのルアードがいた。新芽のように鮮やかな緑が、静かな光をたたえてこちらを見ている。
「種族とか、立場とか、それこそ性別とか、さ。そういうことで諦められたら、苦労しないと思わない?」
そう言ってにこりと笑う。
互いに向かい合っているのにルアードはそれ以上近寄りもせず、触れもしない。ただ寄り添うだけの僅かな距離。横たわる沈黙、静かに佇む異界の異人種。ゆるく伏せられた眼差しと共に続いた言葉は、どこまでも儚く繊細で、まるで讃美歌でも歌っているかのようだった。
「……理想論だ」
それに対して、なけなしの反論をぶつける。
この世界のことなど私が知らないのと同様に、この男も我々の関係を理解しているわけではないのだ。互いに表面上だけの理解、だからこそ出来る言葉。深く知らないからこそ並べ立てられる耳当たりの良い単語の羅列。綺麗事は綺麗事でしかないがゆえにどこにも刺さらない。理想論。そう、単なる絵空事。種族、立場。それは覆せない事実。地に投げ堕とされ穢れ果てた悪魔、それを断罪する無垢なる天使。諦めること以外何が出来るというのか。
ヨシュアに対して覚えた嫌悪は数しれず、強情で融通の効かない木偶の坊と怒鳴りつけたことなど幾度もあった。天使特有の理解できない思考回路、言動の不可解さ。どこまでも他者に尽くす自我のない人形、献身的な態度。そうかと思えばどこまでも不遜であり、甘く柔くあり、穢れである私に、手を伸ばすことをやめない奇特な男。どうして、問いかけは天使の言動を諦めると共に意味をなくしていった。
もっと早くに離れるべきだったのに、あの男の側にいることに慣れてしまった。息がしやすいことに気付いてしまった。あたたかさ。やさしさ。触れて、その肌の熱を知ってしまった。純一無雑であるはずの天使の内側に、隠すようにして抱えられている何かを見つけてしまった。そもそも最初から触れるべきではなかったのに。覗く仄暗い綻び、囁きのように落とされる謎掛け。見つけて欲しい――そう告げてきた時の、まるで迷子の子供のような孤独に。触れてしまった。
「しがらみって、ほんと、面倒だよねぇ」
ルアードは深く呼吸でもするかのように、掠れた声で静かに口にする。それは、いつかも言っていた言葉だった。元いた世界ではないのだから素直になればいいと。感情は自由だと。咎める人はいないと。この男は一貫してそう言っているのだ。ぎり、と唇を噛み締める。じわりと口中に広がる鉄臭さ、知らないくせに、なにも、知らないくせに。部外者は好き勝手なことばかりを並べ立てる。
「貴様に、何がわかる……」
ほとんど吐息のように漏れた小さな声。
声を震わせまいと力を込めたせいで、言葉の端が不自然に途切れた。取り繕うようにルアードをきつく睨み据えると、里長の孫だというこの男は少しだけ困ったように笑う。笑って、うん、と。そうだね、と。独りごちる。
「ごめんね。君たちのこと、ちゃんとはやっぱり理解はしてあげられないんだ。そう簡単に相互理解が出来たら、争いなんか起こりようもないもんねぇ」
へらりと眉根を下げて、なんでもないように口にする。
相互理解、争い、言葉は静かに地に落ちる。エルフのこと、人間のこと。彼らの共通の敵としての竜人のことを言っているのだろうか。我々と同じく種を違え、対立する存在とを重ねているのだろうか。魔力を持つエルフと竜人、持たない人間、種族、立場、――理屈で、諦められたなら。気持ちに片がつくのなら。
「でも……ここにもさ、違う世界から来た人がいるんだよ。生まれた世界も、言葉も、文化も常識も何もかも違う人たちがさ」
そう言ってルアードは小さく笑った。
笑って、ゆっくりと目を閉じる。
「それでも、ね。彼らは一緒にいるよ。いられるんだよ」
まるで子守唄のように柔らかな声色で、言葉で。ルアードは愛おしそうに言葉を紡ぐ。眼裏に浮かぶのはつややかに揺れる黒髪だった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




