81 真誠に微睡む残響 - 5 -
よろしくお願いいたします。
「…………迎えが来ているんだ、さっさと帰れ」
そう言い残して遠ざかっていく艷やかな黒髪を、自分はただ呆然と見ていた。淡く舞い散る花弁の中で揺れる真白い布地、翻る裾、木漏れ日は淡く明るく地を照らしている。降り注ぐ光、柔らかな空、さんざめく喧騒。その中で自分はと言えば無様に立ち尽くしている。
後を追わなければならない。
分かっているのに足は重く動かない。
声をかけなければならない。
思うほどに喉がつかえて出てこない。
無理矢理飲み込んだ言葉は出口を失ったまま、舌先に乗ることもなく喉の奥で彷徨っている。震える指先の向こう側、不明瞭かつ不可解なものが全身を苛んで身動きも出来ないでいる。気持ちばかりが逸る、早く行動に移さなければ、思いばかりが膨らんでしかし凍りついたままの身体は満足に動きもしない。
いつも何かしらに巻き込まれてばかりいるルーシェルを、一人にさせておく事など出来ないのに。屋敷にいるのであれば安全だろうと、浅はかにも考えてしまった結果自分は自分自身の手で彼女に怪我をさせてしまっていた。記憶の退行、覚えていない事態、他者から聞かされる己の失態。事情を聞いたとて実感はないのに、手に残る感覚はまざまざと。言いようのない高揚が内に燻っていた。戦うことに覚える感慨。突きつけられる私という存在の歪さ。
約束を、違えるわけにはいかないのに。
魔王ルーシェルは、強大な力を持つ絶対悪である。
今現在自分は霊力を欠片も使えず気配の察知も困難となっている。人通りの多い花祭り、見失ってしまったら探し出せないかもしれない。だから、自分は彼女の側にいなくてはならない。ここしばらく夢見が悪いらしく、一人になることを厭う彼女の為にも。己の犯した罪の、贖罪の為にも。目を離してはならない。追いかけなければならない。
理屈はいつだって明確で、行うべき正道は見えているはずなのに。それなのに、どうしても一歩が踏み出せないでいた。
――貴様は必要ない。
彼女の言葉が耳の奥で飽和する。向けられた拒絶の言葉は、今まで幾度となく投げつけられてきたものだというのに。どうしてだろう、胸の奥を抉るように鋭利に突き刺さっていったのだった。
ルーシェルは口が悪い。物言いもきつい。
けれど、取り繕うような言い方はしなかった。可愛らしい言い訳はあっても不必要な虚偽を口にはしない。そう、向けられるのはいつだって嘘偽りない本心だった。自分のような嘘つきとは違う、ぶつけてくる感情はどこまでも真っ直ぐだった。今まで何度も突きつけられた拒絶。寄るな、触るな、喋るな、そう言って距って、ああでも、最近は少し、……少し。ずきりと、再び胸の奥が軋んだような気がした。こちらを見上げてくるきらめく赤が、鋭く睨みつけてくる。必要ない、いらない、構うな。重ねられた否定。拒絶。心からの。心から、彼女は、自分をいらないと。――それは、そんなこと、は、……。ぎゅう、と。胸元を握り込む。腹の底で不可解な物が渦巻く。
――あの時、何を言おうとしたのか。
普段であれば取り繕えたはずなのに、それが出来なかった。何故と思うのに何かが燻って、答えを出すことを拒んでいる。気付いてはならない。感情は事象を正しく理解しない。責務を蔑ろにする。自分には不必要なもの。喉につかえて胸を焼くそれに名を与えてはならない、私は私でなければならない。痺れるような痛みは理屈の形を持たない。脳内で警鐘が鳴り響く。眩いまでの純白と流れるような黒髪、血のように深い真紅。
「あんたら面倒くさいなあ」
つん、と頬をつつかれてびくりと肩が震えた。首に回されたままだった少女の腕がするりと外れ、そのままこちらから離れていった。そこでようやく異界の少女の存在を認識する。
「……ダーリンあたしのこと忘れてただろ」
ふん、と不貞腐れたように唇を尖らせるアメリアに、そんなことはないと言葉を紡ごうとして。しかし否定の言葉はすぐに形になる事はなかった。喉の奥に言葉の破片がいまだ刺さっている、払いのけるように一つ、咳払いをして。
「す、すみません、そのようなつもりは、なかったのですが」
ようやっと謝罪を口にするのだがしかし、アメリアはむっとしたように顔をしかめた。短い髪を揺らし、可愛らしく唇を尖らせている。
「ひっどい顔しやがって、心臓の音もすごいったらありゃしない」
認めやがったな、少女が続けた言葉になんと返していいかわからなかった。酷い顔、とは。どんな顔をしているというのだろう。自身の頬へと指を這わすがわからない、触れた己の指先が酷く冷えている。
改めて離れていったアメリアを見やった。面白くなさそうに、つんとした表情でこちらを見つめている。彼女の、自分へと回されたその腕の細さも、酷く近い所にあった吐息も確かに感じていた。自分に抱きついている少女の存在を忘れていたわけではないのに、あの時、自分は、…………?
「ダーリンってば酷いやつだな」
「そもそもアメリアが調子に乗るからいけないのではありませんか」
拗ねたような物言いのアメリアに、ソフィアがため息混じりで窘めている。
調子に乗る、とは。少女の言葉の意味を測りかねるのだがしかし、そーよー、と。シャーロットも追随していた。当のアメリアと言えば、その可愛らしい顔をこれでもかと言わんばかりに歪めている。納得いかないのか、なんだよ、と舌打ちとともに反論。
「お前らだって面白がってたじゃないか」
「多少つつく程度でしたらともかく、デートのお誘いはさすがにやりすぎですわ」
「ルーシェルさんーめちゃくちゃ怒ってたものーやりすぎなのー」
「どう見たってまだるっこしかっただろうが」
「それはそうですけど」
「不器用さんだよねー?」
「こういう時は第三者が多少強引にだな、」
「その結果喧嘩別れなのですけれども」
「アメリアはー力任せすぎなのー」
「好き勝手言うじゃんか!」
わあっと少女たちは賑やかに会話を交わしている。
話しているその会話の内容まではわからない、わからない、のだが。ルーシェルの名が上がって、ぴくりと肩が震えた。そう、あの時、彼女は酷く怒っていた。それも唐突に。急に低い声で屋敷へと戻ると言い出して、引き止めたらどうしてだろう、憎々しげにこちらを睨みつけてきたのだった。そうして手酷く振り払われた指、突きつけられる容赦のない言葉。私のエゴ、私の感傷、無自覚さ。自罰感情と償い。彼女自身には不要なもの、私の自己満足? だから、だから彼女はああまで怒ったのだろうか。
「ヨシュアさまもヨシュアさまですわ、きちんと断らなくてはなりませんのよ。既にお相手がいるのに、お誘いされたから言って軽々しく受けては」
「……ルーシェルは、何故怒っていたのでしょう」
ぽつりとこぼれ落ちた問いかけに、ぱちくりとソフィアはその大きな目を瞬かせた。そうしてゆっくりと三人が顔を見合わせ、そのまま三対の緑の瞳が再びこちらを見る。まるで信じられないものでも見るかのようなその眼差し。
「何をおっしゃっているの」
「あのひと滅茶苦茶嫉妬してたじゃん」
「そうよー気づいてなかったのー?」
口々に投げかけられるもわからない。
嫉妬とは、羨み、妬み、羨望と憎悪が含まれる攻撃的な感情の事を指すのではなかっただろうか。攻撃的な感情、憎悪はわかるがどこに羨む要素があったのだろう。それなりに、穏やかに会話を交わしていたはずだった。――自分が、余計なことを口にしたからだろうか。誰にも言えないことがあること、嘘つきなこと。こぼれ落ちてしまった言葉たちは独り言のようだったと思う。説明のないそれらは意味のない言葉の羅列でしかなかった。でも、だからといって彼女が思い悩むようなものでもなかったはずだ。彼女は私を、天使を、そう、酷く嫌っているのだから。
「……何に対してでしょうか」
思い当たるものがなく、疑問を口にした瞬間うわあ、と。少女たちはこれでもかと言わんばかりに顔を顰めた。
「なるほどこれは手ごわい……」
「まあルーシェルさまも大概でしたし……」
「これはー自力ではー無理なのではー?」
「「「ねー?」」」
こそこそと顔を寄せ合って、何やら口にしている三つ子たちの声がぴたりと重なる。どうやら合意が取れたらしい。話し合われている内容はやはりよくわからないのだが、あまり、良いものではないことだけは理解できた。
「あの、」
なんとなく身の置き場なくなって声を掛けると、三対の緑の瞳がこちらへと一斉に向けられる。
身を寄せ合っている、華やかな衣装に身を包まれた少女たちのその様子はなかなかに迫力があった。ルーシェルのように鮮烈なものではないが、それでも圧倒される何かがあり、どこか憐れむかのよう眼差し。はあ、と。アメリアが呆れたように息をついた。
「……まあ、わかんないんなら別にいいんだけどさ。ルーシェルさんのあれは嫉妬して、怒って、傷ついてたんだよ。ダーリン本当に気づいてないの?」
まるで咎めるかのように問われた言葉に、腹の底の柔らかい所を抉られたかのような気がした。それと同時にどくりと呼吸をも忘れるほどの拍動。巡る血潮は凍りついたかのように急激に体温をなくしていく。内側の、やわいところに突き立てられた刃。己の変化は知覚出来ても理解には到底及ばない。
「どうして傷ついたのかまでは、わたくしたちには分かりませんけども」
ソフィアの静かに呟かれた言葉に、そうそうー、とシャーロットも続く。無邪気に明るい声はさながら矢のように降りそそいで、無防備に晒された庇えもしない肉を穿つ。深く、深く。抉るように。
「泣きそうなお顔をねー? してたのよー?」
「きれいな顔歪めて、そりゃあもう見てるこっちが苦しくなるくらい可哀想だったじゃないか」
「まあアメリアの言うことではないのですけど」
「こじらせた責任はー取らないとだものねー?」
「相変わらず言いたい放題だなお前らは!」
好き好きに言い合い、転がっていく三つ子達のやりとりは微笑ましいはずなのに。その言葉の真意を測りかねる。
「待って、……待ってください、」
耐えきれず少女たちの会話を遮った。
ルーシェルは、怒っていたのではなくて傷ついていたのだと彼女達は言う。どうして。どこにそんな要素があったのだろうか、一体何に対して彼女の感情が損なわれたというのだろう。その理由がわからない。
傷つくには前提条件が必要だ。信頼、期待、向けられていたはずの何かがあったということだ。それなくして成立しない。
彼女は穢れの悪魔であり、強く美しい悪魔であり、強大な力を持つ人に仇なす者である。天界へ単身乗り込み虐殺の限りを尽くした咎人。闇の中の闇、絶対悪、永劫殺し合うだけの相手。天使と悪魔、決して相容れぬ存在、事情が事情であるから共に行動しているだけの関係でしかない。ルーシェルは自分を嫌っていて、天使そのものを憎悪していて、互いの間に信頼も期待も構築されていたとは言い難い。嫌う相手の言動で傷つく事などない、なのに、どうして彼女は傷ついたとアメリアは言うのだろう。
「ルーシェルは、…………泣いていたのですか」
自分でも驚くほど声が震えていた。
何が間違っていたというのだろうか。傷ついた、泣きそうだった。その言葉が、事実が、思考のどこにも綺麗に収まらない。
怒りであれば理解できる。
憎悪であれば納得できる。
けれど――傷つく、とは。
瞬間、記憶が明滅する。押し留めていたものが鮮やかに存在を主張する。忘れてはならないと骨が軋むほどの悲鳴を上げる。慌てて口元を抑えた、そうでもしなければ嗚咽のような得体のしれないものが湧き上がって溢れ出してしまいそうだった。違う、そうじゃない。否定をしなくてはならない、認めてはならない。見えないようにきちりと蓋をしてしまわなければならない。彼女が怒ってたのは、――そう、私が至らなかったからだ。私は欠けた存在であるがゆえに、彼女の覚えた不快を理解できなかったからだ。だから、だから側にいて、きちんと償わなくてはならなくて。
「ルーシェルさまが泣いてたら嫌ですの?」
「………………わかりません、」
問うてくる少女たちに、自分はと言えばそうとしか返せない。
魔界の王である凶悪な悪魔が涙するさまなど想像できないのに、でも、……でも。自分と違い感情に素直な彼女なら、辛ければ泣くのだろうなとも思う。鮮血のように煌めく緋色の瞳から、はらはらと涙が流れ落ちるさまは、白い頬を伝う雫は、きっと……それ以上考えてはならないと静止がかかる。ざらりとしたものが内部でこすれて不可解な痛みを訴える。辛ければ。彼女は、辛かったのか、?
「そんな顔しといてわからない、かあ」
アメリアの苦笑。どんな顔をしているというのだろう。わかりたくない、きっと酷い顔をしている。
揺れてはならないのに正解がわからない。感情は必要ない、感情は判断を鈍らせる。感情、は。理性を容易く凌駕していく。囚われてしまえば正邪の判断などつかなくなる。正しくあれ、神聖であれ。そこに個人の感情が入り込む余地などない。あってはならない。判断を誤ればそこには惨劇が待っている、ただ清く、あまねくものの救済でなければならない。私という個は必要ない。
「でも同じ世界から来たんだろ?」
「仲良しはーだめー?」
どうしてと、揺らぐことなく真っ直ぐに向けられる疑問は素直で素朴なものだった。無邪気に小首を傾げるばかりの彼女たちはこの世界の住人で、天使と悪魔というものを知らない。我々が置かれている立場を理解していない。理解していないからこそ口に出来る言葉は、柔らかくも真を突いてはいない。
「そう、……は言いましても……私と彼女は敵同士で、元の世界に戻る為一時的に協力しているだけに過ぎません。なのに、私は、彼女を傷つけてしまったから、約束を違えてしまったから。その贖罪の為に傍にいるだけで、」
気の遠くなるような長い間殺し合ってきた。
同じ世界であろうと、天と地に分かれて住まう我々に接点などない。地の底の底、天より堕とされた果てない闇の住人。未来永劫交わらぬ、天より最も遠く離れた存在。美しくも強大な悪魔。仲良しだなんて、ルーシェル自身も否定していたではないか、仲良しこよしなど冗談じゃないと。そう、あくまでも協力せざるを得ないから共にいるに過ぎない。
この世界であってもエルフ、人間、竜人、それぞれの種は交わらない。彼らにとって共存は不可能ではないのかもしれないが、それは自分達に当てはまるものではない。本来であるなら言葉を交わすことすらない、昼と夜が同時に並び立つことがないのと同じ。永劫殺し合うだけの間柄。
――ルーシェルさんは小さくて華奢なただの女の子だよ。
不意に、いつかのルアードの言葉が蘇る。
彼はよくルーシェルのことをそう表現していた、引っ掛かりを覚えるものの概ね表現としては間違ってはいないとは思う。小柄で色白で、酷く華奢な体躯に似合わぬ苛烈さを内に宿した悪魔。かと思えば触れるのも躊躇うほどの弱さを抱えた少女。痛みは罰だと、何もかも諦めたかのような表情で口にして、終わりを待ち望むばかりの、……それ以上言語化できない。絡まりあったまま、ただそこにある。胸が痛い。わからない。理解してはならない。響き続ける警鐘は鳴り止まない。蓋を、しなければ。押し込めて、気付かないようにしなければ。そうしなければ、……また、同じ道を辿ることになる。真白い空間、光に満ち溢れた鮮やかな色彩、弾けたようにぶちまけられた赤。それは、それだけは避けなければならない――そこではたと思考は止まる。どうして、避けねばならない、?
「……黙っちゃった」
「なんか滅茶苦茶悩んでるなあ」
「悩むようなことではないと思うのですけど……」
「なあ、全部言い訳にしか聞こえなのはあたしだけか?」
「ねー、必死に探してくっつけた後付けっぽーい」
きゃっきゃと弾む三つ子の声にはっとした。
そんなことはない、と言いかけて。言葉は喉の奥で止まった。否定するための理由はいくつもあるはずなのに、そのどれもが相応しくないような気がした。言い訳、違う、そうじゃない。事実だ、敵同士なのも、この手で彼女を怪我をさせたのも、事実であり何も違わない。犯した罪は償わなければならない。
――お前はどうなんだ。
静かに問うてきた深紅の瞳が鮮明に蘇る。真っすぐに見据えられて逸らされない、冷えた色を湛えたそれに胸の内を撫でつけられたような気がした。あの時も答えられなかった。どうしたい、なんて。甘さのない女性にしてはやや低い声、鋭くこちらを睨みつける真紅。その細く白い首元で揺れる赤いペンダント、意図して刻んだ刻印、そこに他意はない。そうすることが正しいと思ったからに過ぎない。気休めにでもなればいいと。
「……ねえダーリン、どうせ答えなんて出ないんだろ。もう考えなくていいからさ、とにかく追っかけてみたら何かわかるんじゃないか?」
アメリアが、ふっと笑った。
まるで何でもないことのように。当然のことのように。
「考えてもわからないならー行動あるのみってねー?」
「ここにいても、大して何も変わらないのですわ」
「本当にひっどい顔してるんだぜ、気付いてなさそうだけど」
「です、が……」
明るく口にする少女たちの言い分は最もだと、ここで立ち尽くしていたとしても何も変わらないと。行動に移さなければならないと頭では理解してるのに、それなのにどうしても動けないでいた。第一、今更追いかけたとて――どんな顔をすればいい。何を言えばいい。拒絶されて、天界に帰ってしまえと言われて、必要ないとまで言われて。
胸が痛む、感じたことのない感覚は理解の範疇にない。快とも不快とも言えないそれはきりきりと内部を引き千切るかのように身を苛んだ。拒絶を受け入れる必要はない、自分は彼女と交わした約束を果たすため側にいる。彼女を死なせるわけにはいかない、それはこの世界の住人の為に。
きゅ、と。腕を引かれる感覚にびくりと身体が跳ねた。
シャーロットがこちらの袖口を掴んで、じいと見上げてきていたのだ。やわらかな金の髪、鮮やかな新緑の瞳。にこりと微笑んだ幼さの残る笑顔はそれでいて、どこか見透かすような色を湛えていた。
「あのねー? 今ねぇ、ルーシェルさん一人でしょー? 泣いてるんじゃないー?」
心配だねぇ、その言葉にぞわりと肌が泡立った。
それは、……それは。なんだかとても、よくないことのような気がした。泣くような相手ではないとわかっているのに、わかっているはずなのに。誰よりも強く美しい悪魔が、顔を歪めて帰れと言った。あの時の表情がどうしても頭から離れない。一人で泣いている、それは。それはとても、耐え難い事のように思った。思ってしまった。
「……あ……、」
呼気が乱れる。こぼれ落ちたそれが、一体何を形作ろうとしたのかわからない。わからないのに、理解してはならないものが内側で酷く暴れている。息苦しさを感じ胸を押さえる、泣いている、のは。一人で涙しているのは。駄目だ。不可解なもの、確かに感じているそれに明確な名を付けられずにいる。自分が側にいたとして何ができるとも思わない、でも、駄目だと思う。頬を伝う雫を、ひとりで拭うのは。そんな苦しいことは駄目だ。それだけははっきりとしていた。
「……………すみません、」
気づけば足が前に出ていた。
理由を考えるより先に、身体が動いていた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




