80 真誠に微睡む残響 - 4 -
よろしくお願いいたします。
「ダーリンはいつも違う女を連れてるなあ」
不意に投げかけられた女の声にはっと我に返った。瞬間、思い切り男を突き飛ばす、のだが。脳筋の体幹お化けはびくともしなかった。からん、と手にしていたカップが足元に転がり落ちて、日傘が肩に引っかかった。慌てて傘を持ち直して視線を足元へと落とす、動揺するこちらの挙動などお構い無しに男がゆっくりと声の方を振り返るのが見えた。
「アメリアさん」
「わたくしたちもいましてよ」
「シャルもーいるのー」
ヨシュアが口にした名に続くのは、いつぞやの三つ子の声。
ちらりと視線だけ見やった先には、果たして今日も今日とて気合の入った揃いの衣装に身を包んだ小娘達の姿があった。髪の長さだけ違う同じ顔の三人がにやにやしながらこちらを見ているのである。揃いも揃っていかにもおもしろそう、といった顔をしているというのに、この阿呆天使はにこやかに微笑んで突然声をかけてきた小娘らを受け入れたらしい。こんにちは、と。間抜けなほどにいつも通りのあいさつをしている。
「ごきげんようですわ」
「ようダーリン、今日も綺麗だな」
「ルーシェルさんもー随分とー気合がー入ってますねー?」
かしましい小娘達は思い思いに喋りだす。甲高い声を無視して、変わりにころころと転がっていく空のカップをヨシュアが丁寧に拾い上げるのを平静を装いつつ目で追っていた。……かすめるようにして触れられていった頬を手のひらで押さえる、馬鹿みたいに熱い。自分の意志とは関係なく跳ね上がった体温、早鐘のような心臓をなんとかして落ち着けようとするのだが。
「お顔がーまっかねー?」
随分と愉快そうな声と共に、遠慮なくこちらを覗き込んでくる影に唇を噛みしめた。
こてん、と。日傘の隙間から、髪の長いシャーロットが小首を傾げながらこちらを覗いてきているのだ。にやーっと、実に邪悪な笑み。
「お取り込みちゅーだったー?」
「…………うるさい、」
小娘を睨みつけるのだがしかし、シャーロットはけらけら笑っている。何が嬉しいのか知らないが、小動物のように身体をゆらゆらさせながらこちらを見ているのである。へぇーふぅんー、品定めでもするかのように下から上から眺め回す不躾な視線。
「うんうん、そのお洋服もーすてきなのー」
何か言いたげな眼差しでありながら、その口から吐き出されたのは着ている衣類についてだった。ぱっと満足げにシャーロットが笑えば、ショートボブのアメリアがそうだなあ、とまたもや笑いながらヨシュアに抱きつく。首に腕を回してすがりつくようにしなだれかかる。
それをやはり諌めもしない男に、なんだかこう、腹の底がひりついたような気がする。困った顔をしながらもされるがままの、接触を拒否しないのを見せつけられる度、この男の優しさは誰に対しても平等であるのだと突きつけられる。
「ダーリンもなんか昨日より気合入ってるよなあ、よく似合ってるぜ?」
「ルーシェルさまとデートなのですわね!」
「違うが?!」
ソフィアの言葉を反射的に否定すれば、ヨシュアはびっくりしたように目を瞬かせていた。三対の緑の瞳も同様に目を見開き――そうして、にっこりと。それはもうにっこりと笑ったのである。獲物を見つけた肉食動物のような、子供の無邪気さのような、純粋な残酷さが滲んでいるようなそれ。言いようのない警戒心が湧き上がる、わずかに身を強張らせる。対して三つ子たちは実に愉快そうに笑いながら、へぇ、ふうん、そうなんだ、と。紡がれるその声はどこまでもあくまでも可愛らしい。
「オリビアさんに香油を買ってくるようお願いされたのです。閉会式まで戻ってこなくていいと、せっかくなのだからお祭りを楽しんで欲しいと言われていて」
三つ子が明らかに何やら企んでいるのに、どうも気付いていないらしい男が苦笑しながらさっくりと状況の説明をする。
そう、オリビアの「二人で出かけてこい」の号令のもと、わけの分からぬまま屋敷を追い出されたのだ。その時にメイド達にこれでもかと豪奢に着飾られ、同じようにメイド達の作品とされた天使と相成ったのだった。気合が入っているというのなら周囲からの干渉のせいである。せっかくお風呂に入ったのだから! と抵抗虚しくメイド達に散々着飾られ、花祭り最終日なのだから! と傍らにいる男も似たような結果となった。こちらの意思も意図もありはしないのだが、外野はそれこそ好き勝手に判断し適当なことばかり言い募る。
「ねこちゃんはー?」
「リーネンさんはお屋敷でお留守番してるそうですよ」
「んじゃあ昨日一緒にいた白いお譲ちゃんは?」
「ヨナはカレブ……ええと、私の友人と共にオリビアさんのお仕事のお手伝いを頼まれていて」
「「「へぇ~~~~」」」
シャーロットとアメリアの問いかけに、ヨシュアは丁寧に答えている。ぴったりと揃った意味ありげな三つ子の声、含み笑いをしているその表情など全くと言っていいほど気付いていないらしい。
べたべたと遠慮なく触る小娘達を、少しも諌めやしない男。気にした様子もない。きゃあきゃあと甲高くはしゃぐ三つ子の声は酷く癇に障る、耳障りだ。目の前で繰り広げられている実に不快な光景に、無理やりにでもリーネンを連れてくればよかったかとそんな事を思う。重く吐き出される吐息、胸がむかむかする。
使い魔はあのあと付き合いきれないと言って二度寝していたし、サンダルフォンはオリビアの売り言葉に買い言葉で何やら里の仕事とやらに手を貸すことになっていた。白い小娘も屋敷に残るようヨシュアに言われては従わざるを得ない。白も銀もそれはもう凄まじく顔を歪めてはいたものの、この脳筋馬鹿天使の命令は絶対らしく不承不承ながら了承していた。指示系統がきちんと機能しているのは羨むべきことなのかもしれないが。今はそれどころではない。
「そっかそっか。じゃあさーデートじゃないってんならさ、ダーリン。今日は一日あたしたちと一緒に回ってもらえないかな? 花祭りは今日が最終日だし、ほら、里は綺麗なもんだろう?」
見せたいものとかも沢山あるんだよなあ。
アメリアが歌うように、誘うように口にする。ダーリン呼びをやめない小娘が発する、そのうっとりとした声色はそれこそ恋する娘のものにしか聞こえなくて非常に不愉快だった。
白い小娘の、男に向ける感情が憧憬から発生する清廉なものなら、この小娘が向けるのは肉欲的な欲求が近いように見える。触れたい、触れられたい、酷く即物的なもの。魂ではなく肉体の接触。いっそ強引なまでに距離を詰めて、しなだれかかって、無遠慮に触れて「女」であることを強調しているのがよく分かる。意図的かそうでないかまでは判断できないが、肉体的な接触での生殖が主である種族は我々とはまた違った本能があるのは確かだった。動物的な行為、種の保存、……異界の娘に気に入られて、高潔な天使が本能的な接触を厭わないで、随分と俗世に染まったものである。
ぎゅうと日傘を握る手に力がこもる、再び足元へと目を落とす。顔を上げられない。小娘の白い腕が男の首に絡んだ様が脳裏から離れない、わけのわからない怒りにも似た苛立ち、煮えたぎるように。
「……それがいい」
感情を押さえつけ小さく呟いた。男を見ないまま立ち上がる。
誰にでも優しい男、光り輝く聖なる存在、穢れ果てた自分が触れていい存在ではない。天使と悪魔、次元を違えたこの世界の住人ならそんなもの容易く踏み越えられるのだろう。そもそも、禁忌すら存在しないのだ。三つ子たちはこの世界のエルフという他種族だ、我々とは種族も生きる世界も違うのであるから常識といった規範には多大なる相違が発生する。そんなに欲しいならくれてやる、どうせ、私のものにはならない。側にいることすら、本来であるならあり得ないのだ。
胸が痛い、きりきりと捩じ切られるようで苦しい。痛みに苛まれ、胸の内が圧迫され、満足に息も出来ない。向けられる平等、義務としての慈しみ、博愛、慈愛、穢れにも心砕くその圧倒的な聖性。
「戻る」
短く口にして、そのまま踵を返す。
来た道を一人戻ろうとしたら、急に強く腕を掴まれた。
「いけません」
慌てたような男の声に引き止められる。
先ほど頬をかすめていった男の指先が思い出されて、一際きつく引き絞られるような胸が痛む。暖かくて力強いそれは、逃さないと言わんばかりに込められた力は、いつもより、そう、強くて。自分とはあまりにも違う大きな手のひら、力、再び飛び跳ねるように心臓が大きく鳴った――それと同時に目眩がするほどの怒りが湧き上がる。なにがいけませんだ。
「放せ」
「いけません、私は貴女にまだ何一つ償えていないのに」
振り払おうとしてびくともしない。馬鹿力め。
忌々しく睨みつけるのだが、こちらを見据える青い瞳はどこまでも真摯で必死だった。償えていないのだから、だから傍にいる。離れない。気を揉んで気遣ったりする。意志の強いまなざしで、この男は自身の信じる「正しい行い」を口にする。そこに私の意思はない。
贖罪、償い、怪我の責任。繰り返される戯言。そもそもの話、天使が悪魔に贖罪などそんな馬鹿げた話があるか。大体こいつはいつも、いつだって、人の気も知らないで好き勝手にしているというのに……!
「だからそれはもういいと言っただろう! いい加減しつこい!」
いきり立って怒鳴りつけて、僅かに怯んだような男の手を無理矢理に引き剥がした。
賑やかな花祭り、道行くエルフ達がぎょっとしたようにこちらへと振り返った。向けられる奇異の眼差しを不快に思いつつも、それ以上のいいようのない感情が胸の内を焼く。
離れていった男の手、指、向かいあったヨシュアは酷く困惑した表情をしていた。まっすぐにこちらを見つめる瞳、憂いたように下げられる眉、己の行動を一つも疑問に思っていないがゆえの表情である。だからこそむかつく、腹が立つ。何一つ届いていない。ヨシュア自身のエゴ、こちらの事など一つも考えず正しさを行うだけの人形。義務としての善、やさしさ。そんなもの。
「贖罪だなんだ……貴様のエゴに付き合う気などない! 貴様の感傷に私を巻き込むな!」
喉から迸るのは明確な拒絶だった。
贖罪など必要ない。自己満足なだけの情愛などいらない。
それなのに、言葉とは裏腹に胸の内は不可解なまでに痛みを訴えるのだった。引き裂かれるかのような苦痛、そして憤り。そう、酷く苛立つ。腹の底が不快で感情は言葉にならない。ぎり、と唇をきつく噛みしめる。気に入らない、焼け付くような怒り。ただひたすら湧き上がるのは、誰にでも善を働く真実清らかな天使に対しての一種異様なまでの怒りだった。
男に他意などない、その心は澄み渡り相互協力をはなから拒んでいる。与えるばかりで一切を受け取らない。柔らかく微笑んで、手を差し伸べて、そのくせ向けられる感情は他者と一切の差がない。特別がいない。誰もなれない。それなのにこいつはどこまでも、不必要なまでに心を砕くのだ。暴力的なまでに。
誰よりも優しい天使さま。
それが、どれほどこちらの胸の内を抉っているかも知らないくせに。
「感傷だなんて、」
「違うとでも言うつもりか? その無自覚さに反吐が出るというんだ」
悲しげに顔を曇らせる男を震える声でなじる。
何一つ届かないのなら強く糾弾してやればいい。そう、どうしたって伝わらないのだから、この際徹底的に傷つけてやればいいのだ。二度と私に構わないように。優しくなんてしようと思わない程に。私が、私自身が。この男が万人に向けられる善意に対して勘違いをしないように。
それは、酷く名案のような気がした。
眼の前にいる天使はどうも私という存在を勘違いしている、悪魔とは天使にとって唾棄すべき存在だというのに。そこに在ることすら天使は許さない。誰にでも手を差し伸べる善性。そうして男は足を踏み外すのか。堕落とは何も悪事を働いたから地に投げ堕とされたのではない、甘言、誘惑、悪に染まりやすい清い魂の穢れ。神へと続く門戸はあまりに狭く差別的だ。
「……自罰感情の清算に私を使うな。何も言いやしないくせに我ばかり通すな。何が贖罪だ、罪の償いだ、馬鹿にしているのか?」
殊更低く口にする、対する男は何も言わない。黙ったまま、きらめく瞳からすう、と光が消える。色をなくして、酷く、……傷付いたように。こちらをただ見つめている。薄く開いた唇は何かを言いたげであり、呼気そのものを飲み込んだようでもあった。
ざわつく風がゆるゆると髪を揺らす、視界を覆うのは華やかな色彩。耳にうるさい喧騒、きらびやかに降り注ぐ光、そんなもの知らなかった。あたたかく胸を満たす感情、泣きたくなるような甘い声、掻き毟りたくなる程の焦燥。その何もかもを、知らなかったのに。
優しさ、天界ではそれで良かっただろう。ひたすらに献身、慈愛を振りまき情愛に満ちた者。それでいて誰のものでもない。目に痛いほどの聖性。神の申し子。清廉であり無垢であり、およそ人間らしい一切の感情の外側にいる者。
「おい、随分な言い方じゃ、」
「部外者は黙っていろ」
苦言を呈すアメリアを遮る。
きつい眼差しで睨みつけてやれば、異界の小娘はびくりと肩を震わせていた。ひぅ、と。喉の奥で空気の潰れる音。たかだか三百年程度の寿命しかないエルフなど、赤子同然の若輩者でしかない。赤子がこの私に大層な口をきくのか。
「やめてください、アメリアさんは関係ないでしょう」
それでも男はこちらの態度を咎める。
なおも離れない小娘、男の首へと回された腕に力が込められ更に密着する身体。男の手が所在なさげに浮いている、酷い身長差だと言うのに小娘の腰を支えることもしないとは随分と意気地のないこと。それがあまりにもらしくて、く、と。乾いた笑いが出た。上手く笑えていたかはわからない。
「それはそれは、天界の王は異界の者にも大層お優しい」
感情が揺れる。日傘の柄を握り込んで胸を押さえる。
嘲笑とともに吐き捨てた言葉。平等、博愛、反吐が出るほどの甘ったるい精神はきっと男にとって尊いものなのだろう。行動規範、善であること。誰に対しても腰の低い男、分け隔てなく自分とは違い誰からも愛される男。清らかな天使に道を踏み外させてどうするという理性と、どうせならこのまま共に闇の底まで落としてしまえという相反する感情が湧き上がる。きつく見上げた先、圧倒的な聖性を纏う男と視線が絡む。闇の底の底で渇望した淡く美しい空色の瞳、地を暖かく照らす光そのものを紡いだかのような金の髪。泣きたくなるほど優しいいろ。
「大体――今の貴様に何ができる、力を失った者に如何程のことが可能だというのだ。我らの怨嗟も知らぬくせに、罪を償うなどと恥ずかしげもなく宣うその傲慢さ。成せることと言えば可愛らしい児戯程度のくせに、思い上がりも甚だしい」
侮蔑の色を殊更に強めて吐き捨ててやれば、男はいやに焦ったような態度をとるのだった。真摯な表情、焦り、そのくせ、自身の首に腕を回す異国の少女を引き剥がしもしない。
「ですが、ですが私は貴女を傷つけて、」
「貴様に出来る事など何もない」
当惑している男の言葉をぴしゃりと退ける。
「私は貴様の償いごっこに付き合う気は毛頭ない」
重ねるように。
静かに見据えた先、明らかに動揺の走る瞳には言いしれぬ焦りがありありと浮かんでいた。大方、ここまで明確に拒絶されるとは思っていなかったのだろう。己の行動に責任を負う、見上げた精神ではあるがその愚鈍さは余りある。まさか受け入れられないとは思ってもいないという、そのあまりにも無邪気で驕り高ぶった不遜。
善である男は無自覚に相手へも善を強要する、良い事をしているのだから受け入れられるだろうという随分な自惚れ。優越性の誇示、甚だしい思い上がり。
そもそも贖罪だ罪滅ぼしだと言っているが、こちらは必要ないと再三言ったのだ。天使とは悪魔を滅ぼすもの、当然の行動なのだからと。現在の記憶がなければそうなるのは当たり前なのだと。それをわけのわからない理屈で全部放り出したのはあの男の「罪悪感」だ。慈悲深い男が最良だと判断したのであろう単なる罪滅ぼし。そこに、この男の感情も意思も何もない。
「でも……ですが、……」
なおも男は引き下がらない、狼狽えてはいてもどこまでも真摯な眼差しは揺るぎもしない。いい加減しつこい。心の底から己の行動が正しいと信じて疑いもしない。己の正当性を貫こうとする男の、その必死さが哀れでさえあった。それしかない、他の手段を知らない。強情で頭の硬い天使の、悲しいまでに自我のない、神の御旨にのみ生きる哀れな生き物。
ぎり、と唇を噛みしめる。
感情度外視で「正しい事を行う」だけの天使、そこに男自身の意志はないのだ。悪気も打算もなければ別段へつらうでもない、どこまでも善意。善性。湧き上がるのはそう、憐憫でもあった。
「貴様は必要ない」
いらない。こんな血塗られた悪魔になんぞ心砕く必要などない。
努めて残酷に告げれば、男はびくりと身体を強張らせる。拒絶、拒絶、周囲へと平等に向けられる善性、誰よりも清らかな存在。誰にでも善を働く男。思いやり、思い上がり、痛いほどの聖性がこの男を形作っている。存在自体が清廉で透き通った美しい天使。白は容易く黒へと染まる、圧倒的な光は闇をも引き裂くが無垢がゆえに飲み込まれていく。個の確立、存在を保つ為の砕身。闇色に染まってしまえば、それはもう、ヨシュアではない。だから。――だから。
「私に構うな」
冷ややかに突き放す。
これまでも幾度となく繰り返してきた筈の言葉に、あからさまに男は反応した。血色をなくして、呆然と。青い瞳は逸らされないまま沈黙だけが返ってくる。揺れる空色、何か言葉を紡ごうとしてか唇が戦慄くのに、しかし一音も発されることはなく。酷く焦ったような表情、――気配が、揺れる。
「そん、なこと……い、――」
なにかを言いかけて、男は慌てたように口元を押さえた。押さえて、大きく見開かれた瞳は驚愕の色を湛えていた。そのままふらふらと視線が落ちる。愕然としたように。
言いたかったであろう言葉無理やり飲み込んだのだろう、まるで自分の声に怯えたかのように口を噤んだまま。口元は隠されたまま、指先が細かく震えている。言葉は続かない、普段であるならそう、もっと嫌味なくらいに綺麗に取り繕えるだろうに。それがない事の違和感。
一体何を言おうとしたのだか。
イケマセンなどという、いつもと変わらない否定の言葉だったのだろうか。だが、それならここまで取り乱したりはしないだろう。嫌味なまでに揺らがない男、その口を突いて出た言葉は「そんなこと」だった。そんなこと、そんなこと、は。――いや、だ?
そこまで思い至り、堪らなくなった。
不本意ながらもそれなりに共に過ごしてきた。だが、思い返してみてもこの男が自身の感情を零す所はついぞ見たことがない。こうであるべきと雁字搦めで、言動そのすべてが彼らの規範に則ったもの。秩序と正義と正しさのみで生きる男が。嫌だと口走った。本当は違う言葉だったのかもしれないが、それでも男の様子からそう的はずれではない気がする。
感情の発露。
けれど、ヨシュアはそれすら己で律してしまった。
可哀想な天使、感情さえ抑制された哀れな天使。悪魔の粛清は天使の責務だ。いくら私が傍から離れろと言った所で、到底受け入れられるものではないのだろう。監視のために、野放しにして人間に害をなさぬように。神の尖兵、悪を焼き払う聖職者。課せられた果たすべき責務と、彼自身がそうするべきだと信じて疑わない贖罪とが相反している。罪は償わなければならない、それが例え悪魔であろうとも分け隔てなく。けれど私はそれを受け入れない。強固に拒絶する。何よりも他者を尊ぶ男はきっと、どうしたらいいのか分からないのだ。だからこそそんな言葉が滑って落ちて、でも言ってはならないと無理やり飲み込んだ。
……見ていられない。
己の課した責務を果たせない事を、これほどまでに苦痛に感じるのか。抑制された感情を、吐露せざるを得ない程に。
思わず目を細めた。見たことのないくらいに狼狽える男に対して、覚えるのはただただ哀れみだった。
天上に住まう者は清らかで、一切の苦悩などないのだと思っていた。暖かく美しく光に溢れた永遠の楽園、憂えることなど何も無い幸福の園。穢れなき清浄の天に住まう、穏やかに微笑むばかりの男の仄暗く揺蕩う陰り。時折覗く陰影は酷く物悲しくて。
もし、許されるなら――そんな夢物語を願う資格など自分にはなかった。
穢れを滴らせる悪魔が、その手に触れるなど烏滸がましい。悪魔が天使に恋焦がれたとて一体何になる、あの男は私を見てなどいないのだから。向けられるのは平等、博愛、底なしの慈悲。感情の発露など、この男の良しとする善を行えないからでしかない。そこまで行動を縛られ追い詰められているのだと思えば、嘲りよりも嘲笑よりも憐れみが勝るのだった。この男はここにいてはならない。
「…………迎えが来ているんだ、さっさと帰れ」
低い声で絞り出し、その場を離れる。
背を向けて、視線こそは突き刺さるものの追いかけて来る気配はない。かけられる言葉もない。それが全てだろう。それでいい、清らかな男が穢れていくさまは見たくなかった。歩を緩めることなく、足早に早にその場を離れた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




