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暁のホザンナ  作者: 青柳ジュウゴ
77/78

77 真誠に微睡む残響

よろしくお願いいたします。

 これは夢である。


 幼少のみぎり、闇よりも濃い闇の中。両手両足に架せられていたのは巨大な鉄球だった。冷たく重く、太く硬い鎖に繋がれたそれは決して外れぬ霊力封じの為のもの。この身に宿る膨大な力は、鉄球により物理的にも身動きを制限されてなお溢れ出んばかりであった。幼い頃の自分では制御の一切が出来ない。向けられる敵意、攻撃、その一切を宿主の意思関係なく弾き、ねじ伏せ、圧倒的な力で蹂躙していく。それこそ無慈悲なまでに。


 口汚く呪詛を放つ悪魔。

 穢らわしいと叫ぶ天使。

 こちらへと悪意を向けた瞬間、すべからく平等に残らず肉塊と化した。


 自身を守る為の防衛反応といえば聞こえはいいだろう。だが私は指示などしていない、術式すら展開していない。ただただ害意に対し勝手に力は動き、反応し、反撃する。膨大な力は比類なき質量を持って相手を物理的に叩き潰していった。無形である筈の力は有形へと変わる。摂理をねじ曲げ、道理を無視し、目に見えぬものが目に見えぬまま、目に見える形で発現する。肉を潰し骨を砕き、形あるものを形なきものへと作り替えていく。残るのは鮮血。夥しい血はやがてどす黒く粘つく海へと変わる。無理矢理引き千切られ、哀れなまでにひしゃげた肉塊ばかりが周囲を埋め尽くしていく。腐臭。死臭。夥しい骸はうず高く積まれていくばかり。


 もういやだと、何度叫んだだろう。


 願いは聞き入れられない。

 殺意、憎悪、向けられる憎しみは果てしなく。殺せ、生かしておくなと呪詛は永遠に。

 誰も彼もが私の死を望む。

 生者は死者へ。命は骸へ。肉は塵へ。

 闇という闇の凝りの中、捕えられたまま逃れられない。幾重にも重ねられた厳重な檻の中、満ち満ちる血臭、悪意という悪意、怨讐は色濃く息も出来ぬほど深く肺腑を貫いた。腹の底へと差し込まれる殺意は冷えて凍えるようだった。私という存在を捉える眼差しはみな一様に氷のよう、ただひたすらに冷たく温もりの欠片もない。向けられるのは憎悪、憎悪、憎悪。暴力的なまでに。生の否定。存在の否定。怨嗟。声は届かない、誰も私を見ない。殺せ、殺せ、早く、早く死んでしまえ。誰もお前を必要としない。赦さない、赦さない、生まれてきたこと自体最初から間違いだったのだ。永遠を不浄にて束縛されよ。一切の望みを捨てよ。救われたいなどとなんと烏滸がましい、身の程知らずの大罪人。お前の存在を赦さない。肯定などしない。何故生きながらえている、何故、何故、何故――


 小さく体を丸め、耳を塞いでも声は消えてくれない。

 ぼろぼろと涙が零れ落ちる。いくら謝罪の言葉を連ねたとて、声は、言葉はどこまでも響き渡る。絡みつく闇、呪詛。ごめんなさいと口にする声すら飲み込まんばかりの怨嗟。渦巻いて。憤怒、怨恨、憎悪、厭悪。ありとあらゆる負の感情。身体の奥深くまで染め上げんばかりに。

 

 これは夢である。そう、はっきりとわかっている。

 

 わかっているのに動けない。だって、だって。そういうものであるのだと自分自身が何よりも理解していたのだ。そうされるべき存在であるのだと骨身に染みてわかっているのだ。自分の意志とは関係なく流れ落ちる涙さえ小賢しい、取るに足らぬ矮小な存在がこのように悲観するなど驕傲以外のなにものでもない。無様に救いを求めて伸ばした手を取るものなど誰もおらず、生者なき空間は墓場と同義だった。生まれ落ちた罪、生き長らえる罰、心は摩耗して感情は無となる。涙は枯れ果て言葉は無価値なものへと成り果てる。あんなに叫んだのに。あんなに、助けてと叫んだのに。誰も応えてくれない。どこにも届かない。どこにもいない。ひとりぼっち。


 ――悪趣味だ。


 そう言って、手を取ってくれたのは。

 檻の中から救い出してくれたのは。


「にいさま、」


 笑えるくらい掠れた声で呼ぶと、そのひとは小さく笑った。眼の前を流れる艷やかな黒髪、ぞっとするほど冷えた赤い瞳。薄い唇がゆるく弧を描いて、覚えたのは泣きたくなるほどの安堵だった。とても強いひと。誰よりも美しく誰よりも強いひと。強引なまでの力で、私を闇の中から引きずり出してくれたひと。


 弾け飛ぶ鉄球、枷、訪れた自由。兄の胸に飛び込んですがりつく、苦笑が漏れ出たような気もしたが構ってなどいられなかった。いつものように抱きしめてくれて、どうしたのだと呆れながらも私の話に耳を傾けてくれたのはいつだって兄だった。兄だけだった。もう二度と訪れないとわかっている、でも、これは、これは夢だから。思う存分抱きついてその胸に顔を擦り付ける。夢の中でしか、兄はもう自分に笑いかけてはくれやしないのだ。

 こちらの背へと回される腕、くく、と。低く落ちてくる笑い声に覚える違和感。


「若造には随分素直なんだねぇ」

 

 耳元へと落とされた薄気味悪い声に、反射的に突き飛ばした。突き飛ばした、のに。ぎちりと食い込む男の指にそれも叶わない。押しのけたはずの腕を捕まれている、そのまま力任せに抱き寄せられる。抱きすくめられる、距離を取ることを封じられる。底冷えするかのような男から漂う淀んだ暗い匂いに、覚えたのは身の毛もよだつような嫌悪。


「まぁーたこんな夢見てんの? 自責の念ってやつ? 魔王様ってば懲りないねぇ……後悔ごっこは楽しい?」


 けたけたと耳を震わせる不快な音。こちらの感情などお構い無しに、強引に顎を捕まれ無理矢理に上を向かされる。覗き込んでくる仄暗い紫の瞳、ぼさぼさの灰色がかった青い髪。透きとおった夜のような兄はそこにはおらず、舌舐めずりするかのような獣欲に満ち満ちた男がいた。かつての父の配下、色欲の悪魔アスモデウス――本能的な拒否感、首を振って男の手から逃れるが震える肩を、男は怖気の走る囁きを落としながらなおも強く抱き寄せる。

 

「震えちゃってかーわい。こんなに弱っちくて、かあいそうで、本当にかあいいねぇ……」


 直接流し込むかのように耳元に唇を寄せてくる。頬にかかる男の生々しい吐息、荒く熱を帯びた息遣いが耳を嬲る。する、と掴まれた肩から指が腕の上をなぞっていった。まるで形を確かめるようなその動きに、その全てがおぞましいのに逃げられない。


「ど……ぅして、」

「んー?」


 ようやっと口からこぼれ落ちた。あの時と同じ。あの時のように、夢へと干渉されている。

 震える声に、問いかけに、しかし男はにやにや笑いながら事も無げに口にする。


「……下準備さ。面倒な羽虫は大分叩き潰したんだけど、結構しつこくてね。うるさいったらありゃしない」


 困っちゃうよねぇ。答えになっていない言葉を男は吐く。まるでなんでもないような物言いに、しかしその意味を測りかねた。

 そんな此方の思いなど手に取るようにわかるのか、アスモデウスはにたりと笑った。ひどく近い場所で、底冷えするかのような不快な笑みが浮かんでいる。あまりにも不快なそれに、意地のようになって無理矢理顔を逸らす。大した抵抗にもなっていない、こちらの精一杯の抵抗に男はしかし喉を震わせていた。


「君を傷付けるものはもういないって事さ」


 含みを持たせた物言いが囁きと共に落とされる。

 もう大丈夫だよと、まるで怯える幼子に噛んで含めるような言い方だ。それでいて、紫の瞳の奥に嗜虐の色が色濃く混じる。面倒だったけどとっても楽しかったんだよ――言外に、空気に、残酷なまでの無邪気さが混じる。羽虫。取るに足らない存在。叩き潰したというのは、それは、――それは。

 ぞ、と。背後に冷たいものが走る。


「貴様、……」


 声が震える。

 アステマに襲撃されて以降、魔界側からの接触はなかった。厳重な結界を張られたエルフの里の中にいるからだと思っていたが、そうではなかった。そうではなかったのだ。天界側からの来訪者は来ているのだ、よく考えればわかることだったのに、無意識に考えないようにしてきた。

 悪魔に秩序などない、強者が絶対の世界。

 この男は、私に執着するこの男は。

 向けられた刺客のことごとくを、殺したのだ――

 

「君をいじめていいのは俺だけってことだよ」

 

 まるで褒めて欲しいと言わんばかりの声色で、男は自分勝手な物言いをする。

 こちらの世界で安穏とした、あまりにも飽き飽きとした時を過ごしてきた。反吐が出るほどの平和、穏やかで平穏で極めて退屈な空間。交わされる緩やかな情。あたたかなもの。触れた指先の熱、泣きたくなるほど優しい眼差しに随分と腑抜けていたようだった。あまりのことに声も出ない。ほとんど無意識に首元に手をやる、ちゃり、とか細い音を立てて首飾りが揺れる。


「――気に入らないね」


 ぐ、と。首元を彩る金鎖を男は指に引っ掛けた。

 赤い石のペンダントトップ、細い鎖、似合うと思って。お守りのようなものだから。そう言って渡してきた男の青い瞳が脳裏を駆け抜けていった。理由のわからないことばかりを言う本心を見せない男、それでも、それでも。その、きっと意味なんてないだろうその善意が。向けられたやわらかな感情が。


「やめろ……ッ」


 引き千切られる前に、アスモデウスの手を力いっぱい払いのける。とたん、呆けたように見開かれた瞳が苛立ちに満ちるのに時間はかからなかった。害意を隠しもしない下卑た笑みが消え失せる。すう、と。軽薄だった気配が変わる。

 

「……気に入らない」


 繰り返す。地の底を這うような低い声。

 機嫌を損ねたのだろう、びりびりと肌を刺すような怒気が空間を震わせる。


「君は俺のものだよ」

「違うッ」


 再びきつく両の肩を掴まれる、覗き込まれる。

 触れられたくないと、赤い石を握り込んだまま体をひねるが大した抵抗にはならなかった。ぎりぎりと肌に食い込む男の指が痛い、強大な悪魔、父の直属であった配下。あまりにもいい加減な軽佻浮薄ではあっても、その実力は随一だ。今の自分にどうこう出来る相手ではない。だからこうしてこの男はわざわざ私に干渉してくるのだ、〝どうこう〟することが今なら可能であるのだから。それこそ、男の思うままに。猫に嬲り殺されるネズミのように。


「そういう気丈なところもかあいいね」


 睨みつけてやるものの、男は動じもせず醜く顔を歪ませて笑う。

 そうしてどこか満足したように目を細めて、唇が震える頬へと寄せられる。さながら手に入れた獲物を嬲る獣のように、喉の奥で笑いながらべろりと舐められる。その生温かさに吐き気がする。

 

 ――いやだ、

 

 身を強張らせるこちらを見て男は笑う。笑う。

 抵抗を、しなければならない。これは夢で、私の見ていた夢で、なのに今はまた支配者が変わっている。この男の領域と化した場で出来ることなど何もなかった。ナハシュを呼び出して戦えばいい、そんな事はわかっているはずなのに身体が動かない。神経を直接撫でつけられるかのような不快感、本能的な恐怖。逃れられない。諦めたくない、この男の好きになんてされたくない。それなのに、なのに。息が乱れる、紫の瞳に覗き込まれて、身がすくんで、目が逸らせない。歯の根が合わない、まともに息もできない。

 

 瞬間、左の手の甲がかっと熱を帯びた。

 それと同時にぶわ、と。柔らかな光の渦が溢れ出る。


 左手には、あの男の瞳と同じ色をした青い石の増幅装置を装着している。霊力を使うためのそれから、降り注ぐ陽光のように穏やかで暖かな光が突如として出現したのだ。まるで闇を切り裂くかのようでいて、どこまでも白く淡く優しげな光。それがアスモデウスに触れた途端、じゅ、と。焼けるような音と共に男の手を焦がす。慌てたようにアスモデウスが離れていく、強い聖性、光の本流、流れ込んでくるのは果てない優しさ。邪悪を焼きつくす筈のそれはしかし私自身を傷付けることはなく、まるで守るかのようにやわく渦巻いていた。


「本当に、忌々しいやつ……ッ」


 近付くことすら出来ないのか、随分と距離を取ったアスモデウスが吐き捨てる。憎悪に目を光らせて、わなわなと声を震わせる。本当に邪魔しかしない、激越な声色はさながら呪詛のように。

 がしゃん、と音を立てて空間が崩壊する。降り注ぐ硝子のような闇色の破片が光に溶けていく。よほど嫌な光なのか、それともこの場に対する制限でもあったか。アスモデウスは目尻を釣り上げたまま、すう、と。掻き消えるかのようにその姿を闇の中に溶かしていった。残ったのは静寂。無音の中で砕け降り注ぐ欠片。

 息が詰まるような空気は霧散し、は、と零れ落ちた吐息と共に座り込む。

 強張った身体から力が抜ける、きらきらと光を反射する破片をきれいだなと見上げていたら光がそうと身を寄せてきた。まるでこちらを案じるかのように暖かなそれに、そのままふわりと意識が揺蕩う。寒くない。痛みもない。柔らかな光に包まれ、零れ落ちた安堵と共に身を任せた。そのまま目を閉じて――

 

「目が覚めましたか?」


 ふ、と再び目を開いた瞬間飛び込んできたのは、流れる金の髪に淡く輝く空色の瞳だった。

 側に座り込んでいるのか、近くにいた男がふうわりと微笑んいる。まるで地の底から引きずり出されたような気分だ、視界いっぱいに広がる鮮やかでいて優しい色彩はあまりに眩しくて目を細める。

 夢が終わってしまえば、眼の前に広がるのは大したことのない日常が転がるばかりだった。皆で雑魚寝をしている広い室内、日が昇ったのだろう、薄いカーテンが掛けられているとは言えほんのりと明るい。光を受けて輝くような金色の髪、昨夜のような悲壮感漂う表情はもう影も形もなく、相変わらず女神のような様相をした男がそこにはいた。ほう、と。張り詰めていた吐息が漏れ出る。


「…………ちかい、」


 言いながら身体を起こしかけて、はた、と。そこでようやく気がづいた。

 左の手の甲に、男の掌が重ねられていた。丁度、増幅装置を挟むように緩く握っていたのだ。自分よりもずっとずっと大きな手、硬い皮膚の感触、暖かなそれが、指を絡めるかのようにして触れてきている。どこまでも柔らかに重ねられたそれに、一瞬何が起こっているのか解らなかった。しばしの沈黙。夢か現かと目を瞬かせて、寝起きで判断力のすこぶる落ちた頭が正確に事態を把握した、瞬間。


「う、わあああああッ?!」


 悲鳴と共に飛び起きた。

 力任せに男の手から引き剥がす。

 

「なにしてんだ!」

「酷くうなされていたので……」


 怒鳴りつけるのだがしかし、何故か不思議そうな顔が返ってきた。


「だからってなんで、て、手!」

「私のしていた増幅装置は破壊してしまったようですので、霊力が使えないのです。ですので、貴女のものをお借りしたのですが」


 問題なく作用したようでよかった――何のてらいもなく、ヨシュアは穏やかに微笑んだ。微笑んだまま、どうしてそんな事を聞くのだと言わんばかりに小首をかしげてもいる。

 作用、作用って言ったか今。

 つまりは、あの光は。私を守るように突然空間を裂くように現れた光は。ぎゅ、と飛び起きたことでずり落ちた毛布を胸元へと寄せる。


「見た、のか……?」

「え?」


 夢の中に現れた光がこの男のものだとするなら、あまりにもタイミングが良かった。過去を知られてしまったのか。アスモデウスの存在を知った上での介入だったのだろうか。あの淫猥で下卑た男に触れられる私を見られたのか。それは、……それは、あまりにも嫌だと思った。ただでさえ血に汚れた両の手、清廉な光の化身には受け入れがたいに違いない。

 あの柔らかな瞳に、穢らわしいものとして捉えられる。この身が汚濁であると重々理解していると言うのに、暖かな空色の瞳に知られるのはなんだかひどく耐え難いもののように思えたのだ。ぞくりと、胸の内側が急速に熱を失っていくのがわかる。


「夢の内容というのでしたら何も」


 はて、と答える男にひとまずの安堵。

 流石にそこまでは出来なかったという事だろうか。


「私は、なにか言っていたか」

「特には……」

「……………、」


 問うたが反応は鈍かった。嘘を付くような男でもない、はぐらかすような様子もない。変な所で聡い奴だが、この反応なら夢の内容までは知られていないと思ってもいいだろうか。闇色の世界、罪と罰。汚濁という汚濁に塗れたこの身、血塗られた生。罪と罰。穢れ、罪人。囚われていた幼少の頃の事。誰にも知られたくない過去の事。――兄の事。


「勝手な事をするな」


 ようやっと出てきたのはそんな、どこか震えた声だった。

 誤魔化すように睨み付けてやるのだがしかし、男は動じもしない。


「こちらの世界で力の発動させるには何かを噛ませればいいのですから、貴女のものを使ったとしても問題はないでしょう? きちんと効果はあったようですし」

 

 ヨシュアは相変わらず何か問題でもありましたでしょうか、と不思議そうにしているばかりだった。いや、問題しかないのだが。というか、なんで力を使う必要がある。ここはエルフの里で、私はただ眠っていただけで、たしかに夢は見たもののそれだけだ。うなされていた、悪夢くらい誰でも見るだろうに。使えない霊力を無理やり使ってまで、私の夢を散らす必要などないだろうに。そもそもである。


「手を握る必要はないだろうが……ッ」


 そんな、きっちりとした接触を必要としたものではなかったはずだ。触れてさえばいい。現にヨシュアのしていた増幅装置は遊びも大きい大ぶりな銀の腕輪であったし、私のだって手の甲を彩る装飾品の意味合いが強い。霊力を流し込んで回す、術式を展開させるためだけの物質。

 しかしこれに対してヨシュアは大真面目に語りだす。

 

「効果の程が確かではありませんでしたし、貴女も酷く怯えていたようでしたので」

「怯えてなどないッ!」

「こんなに酷く汗をかいているのに?」

 

 する、と。ごく自然に額に張り付いていただろう前髪を男は払った。空色に覗き込まれる、ほんの少しだけ触れていった男の指先に意識が持っていかれそうになる。のを。力一杯はたき落とした。


「いきなり触るな!」

「はあ……」


 何もわかっていない天使は、やはりよくわからないといった表情でいる。赤み一つ差さない男の手、痛みに鈍感なのかさすりもしない。

 わからないなりに甲斐甲斐しくタオルを差し出してくる、こちらの汗すらその手で拭いかねないので慌ててひったくった。柔らかな手触りの、良い匂いのするタオル。額を拭くが気休めでしかなかった。寝汗がひどいと言われるだけのことはある、体中がベタついて不快だ。これみよがしに息をついて立ち上がる。かけていた毛布をタオルごと男へと放った。


「どちらへ?」

「……貴様には関係ないだろう」

「ですが、」

 

 毛布を抱きとめた男が見上げてくるのを尻目に、横で腹を出して寝ているリーネンを小突いて起こす。ひょわ、素っ頓狂な声を上げて目を覚ました使い魔の、金色の瞳がぼんやりとこちらを映した。ぐしぐしと目元をこすりながら、ふわああ、と。大きなあくびはあまりにも間抜けで気が削がれる。どこまでも自由で気ままなものである、それが腹立たしくもあり、ある意味肩透かしでもあった。


「るーしぇるさま? おはようですにゃー…」

「風呂に行く、ついてこい」


 ぼうっとしていながらもきちんと挨拶をする使い魔に短く告げれば、はいにゃー、と随分と間延びした返答を返しつつのそのそ動き出す。

 どこへ行くかなどヨシュアには関係のないことだった、何か言いたげにしている男を無視するのだが。どういうわけだが天使もするりと立ち上がった。相変わらず体重移動が滑らかで動きに無駄がない、ではなくてだ。

 ぱたぱたと毛布を軽く振るいながらそうと寄ってくる男を訝しげに見やると、清廉で清い白亜の天使であるヨシュアはにこりと微笑んだ。

 

「私もご一緒します」


 あまりにも穏やかに美しく紡がれた一言に、一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。

 は? と。呆けた声を上げたのが良くなったのだろう、だろう、が。それこそ手遅れというものなのだろう。放り出された一拍の間、言葉の意味を正しく理解するよりも早く、それこそ館全体を震わせんばかりの絶叫が響き渡る。


「ダメに決まってるでしょおぉぉぉぉッ!?」

 

 声も枯らさんばかりに、この世の終わりのように、全身全霊でもって拒絶を口にするのは白い小娘だった。ヨシュアに気を取らていたせいで気づかなかったが、広い室内にはもう二人の天使がいた。悪魔を毛嫌いする奴らは離れたところに陣取っていて――サンダルフォンなど、それこそ卒倒しそうなほど青白い顔をして頭を抱えている。

 

「お風呂!? お風呂!!? いいわけないでしょお!!!?」

「ヨナ、別に一緒に入るわけではありませんよ?」

「当たり前なんですよおおおおおッ」


 飛びついた勢いで半狂乱になりながら捲し立てる小娘に対して、穏やかにヨシュアは弁明にもなっていない言葉を連ねていた。言葉もないこちらの隣で、流石に完全に覚醒したらしいリーネンもが絶句していた。白いのの叫びは当たり前である。あまりにも突拍子もない事を言いだした男に言葉もない。言葉もない、のに。当の本人はと言えば何が嬉しいのか穏やかに、美しく、それこそ儚いまでの綺麗な笑みを浮かべているのである。己の言動に一切の疑問を感じていない。


「貴様、ついに気でも触れたか?」

「昨夜から、ずっと考えていたのです。傷付けてしまった貴女への贖罪を」


 しかし返ってくるのはどこまでも真面目な物言いである。しょくざい、おもわず口の中で同じように呟いていた。贖罪、とは。罪滅ぼしであるとか、過失を償うとか、天使で言えば罪の赦しを求める精神的な行為を指したりするものである。天使が、悪魔に。その贖罪を申し出してきたのだ。意味がわからない。


「今の私に出来ることは限定的です。ですので――貴女の、側にいて護ることを。贖罪とさせてください」

 

 ふ、と落ちる眼差し。悲しげな表情はどこまでも真摯である。

 声色についうっかり流されそうになるが何か、とんでもないことを言われたような気がする。贖罪。護ること。天使が、それもそこらの有象無象ではない、天にあって光り輝く栄光の肩書を持つ大天使が。熾天使が。悪魔である私を護る? は? 魔王である私を、?

 脳内には大量の疑問符が浮かんでは消えていった。罪、傷付けたから。断片的な言葉からの憶測。記憶を飛ばした結果、天使の行動理念に則り悪魔である私を排除しようとした。それは本人の意志とはかけ離れたものであったのは理解している。こちらが狼狽えるほど自責の念と自罰感情でぐちゃぐちゃになっている男に対し、責めるほどのことではないと。それが当然だろうと。伝えたはずであった。それでもまだ気が済まないとでも言うのか。

 

「普通に嫌だが?」

「そうおっしゃらず」


 言葉が通じない。

 向けられているのは悪意ではない、あくまでも善意である。善意も行き過ぎれば単なるはた迷惑な害意になりかねない、なんだこれは。嫌がらせか?


 こちらが投げつけた布団を丁寧に片付けた男は、さもそれが当然であると言わんばかりにこちらの傍に寄り添った。有言実行、付かず離れずの距離はただただ男の本気度を示している。ふざけているようには見えなかった、そもそもしょうもない冗談を言うような男ではない。


「おいッ!」

「お側におりますので」

 

 押しのけようとするも微動だにしない。

 ふわふわと気の抜けるような穏やかな笑み、絵画のように完璧で女神のようなたおやかさがあるものの、これはもう決めた顔だ。完全に決意の顔だ。これが最善であると判断したのだこの男は。

 背筋に薄ら寒いものが走る。

 この男は、ヨシュアは。良くも悪くも真っすぐであり、善であり、その上強情で頑固である。謝罪は受け取らないというこちらの言い分聞き入れないのであれば、気が済むまで自虐していろとは思ったが。流石にここまでしろとは言っていない。


「一刻もこいつをなんとかしろ!」

「俺の言うことを素直に聞く奴なら苦労しないんだよ……!」


 この場の責任者はこいつしかいないだろう、そうサンダルフォンに向かって叫ぶのだが。返ってきたのはさらなる悲痛な叫びであった。どうしようもない至言である。覆せない。

 かくて、善意によって舗装された不安を抱えたまま。花祭り最終日は幕を開けたのである。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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