76 陽だまりに咲く花 - 10 -
よろしくお願いいたします。
宵闇が部屋の輪郭を溶かしていた。
開け放たれたままの窓から冷えた空気が流れ込む。緩やかにカーテンを揺らしている。とうに沈んだ陽光の名残はどこにもなく、差し込む青白い月明かりが薄く長く影を生み出していた。風の音さえも息をひそめている。そんな静けさの中で、男の声だけが宙に浮いていた。
――殺してはくれないのですか。
酷薄な声。透明な瞳。
光輝く空の住人が何を言ったのか、すぐには理解できなかった。我らとは違う生き物の、揺蕩う陽炎のような吐息。幸福であるべき男の、その悲鳴のような呟き。
何、を。言ったのだ。いま。
呆然とするこちらへと向けられる青い瞳が、ほんの一瞬、揺れる。
そのまま沈黙が落ちた。
緩やかな吐息、男は口元に手をやり唇に触れる。柔らかな色彩の眼差しがほんの少しだけ左へと流れる。そうと伏せられた眼差し、一つの瞬き。
再び目を開いた男の、纏う空気が変わる。
覗く深淵、仄暗い感情が閉ざされる。覆い隠される。丁寧に形を整えた微笑。そこには未だ動揺の色は濃かったものの、あまりに穏やかでいて。いつも通りの泣きたくなるほど美しく優しく――どこか、白々しいそれ。まるで着込むかのように厳重に封をされた紛い物。
「……何故――貴女が、死ぬ前提なのですか。元の世界に戻って再び刃を交えるのですから、勝敗など、まだわからないではありませんか」
まさか手を抜くつもりではありますまい――紡がれるのは、あまりにも自然な言葉だった。
元の世界に戻る、そこで改めて再戦する。何度もこの男が口にしていた言葉。真実そうするべきであると信じて疑わない男の戯言のような口約束。改めて戦って、その結果の生死など今は不確なものであると。悪魔であるのだから滅ぼされるべきだという発言は、公平な勝負の上で不平等な発言であると訴える男は、そのくせ何かがひび割れているかのような危うげな表情で微笑んでいるのだった。
「なん、だ……それ、は」
「それが、約束ではありませんか」
声はあくまで穏やかで平静だった。震えも迷いもなく、どこまでも滑らかに紡がれていく。それがあまりにも自然で不自然。まるで己の痛みを覆い隠す幼さと歪さを抱えたまま、こちらを安心させようとするような、そうでしょうと確認を取るかのような静かな声で。はぐらかした、はぐらかしたのだこの男は。なんでもないような口ぶりで、明確な意思を持ってこちらの問いを斬り捨てた。
「貴女が悪魔であろうと、交わした約束は果たされるべきでしょう? 私はそれを……反故にしてしまった。それは覆されない事実」
男は、ヨシュアはそう言ってゆるく微笑む。闇の中に溶けていきそうな淡い笑み、声。繰り返される約束という言葉。そうであることが当然であると言いながら、そのくせどこか縋るかのような物言いだ。約束を破ったのだから罰せられるべきである、自罰的なその眼差し。いっそ脅迫的なまでの。
「お前にとって、……約束って、なに……?」
零れ落ちた言葉は酷く乾いていた。
喉の奥に張り付いたまま、夜の闇に掻き消えるようにか細く上がる。
約束など、単なる取り決めであって厳格な契約ではない。そんな風に全身全霊で縋りつくものではない。幾度となく繰り返される約束という言葉、天使が悪魔を排除しようとするなど当たり前のことだというのに。約束を違えてしまった、私を傷付けてしまったとまるでこの世の終わりのように震え、怯え、――何が、これほどまでにお前を追い詰めている。縛り付けている。
不思議そうな眼差しがこちらを射た。そうして何かを考えるようにはく、と。動く唇はしかし言葉を紡ぎ出しはしない。再び引き結ばれる口元、月明かりを吸ったヨシュアの、その瞳に浮かぶ揺らぐ逡巡。そろりとした深い躊躇い。問いかけに対する拒絶。
「それすら、言えないのか……?」
当然だろう、頭ではわかっている筈なのに気がつけば吐息のように零れ落ちていた。僅かに見開かれる青、困ったように寄せられる眉に困らせたいわけではないのに、などと。何処か他人事のように思った。答えない、応えない。わかっている。この男はいつだって肝心なことは何も言わない。やんわりと、けれど明確な拒絶。こんなにも近くにいるのに手も伸ばせない。鮮やかな光の化身、穢れたこの身が触れていいものではない。
沈黙の底、やがてかすかに男は笑った。息にもならぬ吐息。
「〝……すべての肉は草、その栄えは野の花のよう〟」
「は、」
耳の奥で飽和するかのような痛み。
焼かれるような、ぎっとした耳鳴り。苦痛。聖書の一節を口にしたのだろうことがわかった。不快なそれに思わず耳元を押さえる、いきなり何をと見やるも男は動じもしない。ただ静かにそこにあって、空虚に微笑んでいるばかり。
「……約束とは、祈り」
まるで夢でも語るような声音だった。
それが答えなのだと言わんばかりに、男は微笑んだ。
「幸福はその祈りの外にある」
声は柔らかく、あまりに静かで、あまりに哀しい。完璧で、綻びのない微笑みはまるで形骸化したかのように形だけで空っぽ。美しく作り上げられたかのように、人形的で硝子細工のような危うさをまとっていた。
言葉の意味なんてひとつもわからないのに、胸の奥が締め付けられるようだった。拒絶、明確な拒絶だ。綻びなく取り繕われた穏やかな微笑はその実、これ以上踏み込んでくるなと言う強い牽制。
「私の生は、過ちばかりです」
まるで罪を告白する咎人のように抑揚なく、それでいて酷く耳障りよく空気を震わせる。柔らかな陽の光を思い起こさせるような甘く香る優しい声が、眼差しが、どこか作り物じみた無機質なものへと変わる。
「生きるには……戦わねばなりません」
それはさながら、諦めのように。
無理やり感情を押し込めたかのようなめちゃくちゃな顔だと思った。微笑むかのように表情を作る度、光がひとつひとつ零れていくようだ。痛みを抱えて、感情を押し込めて、取り繕えてない。痛々しいまでに。
ヨシュアの言っていることは何一つわからない。
表面を取り繕って、柔らかな物言いで武装して、一切を拒絶している。踏み込ませないように作られた壁、ただひたすら自罰的に内側へと向けられる攻撃。赦されない、赦してはならない、男の腹の底には彼自身に向ける叫びのような苛烈な憎悪が渦巻いている。自己嫌悪。自己否定。全てを見透かすようでいて何も映さない空色の瞳。その感情は、とても――とても良く、知っていた。
「約束がどうだの、祈りだの……知ったことか」
気づけば声が出ていた。
自分でも驚くほどに震え、掠れた声。
「私が知ってる貴様は、頑固で強情で融通のきかない木偶の坊のクソムカつく馬鹿天使だってことだけだ」
吐き捨てるかのように一息に言い放つ。
男が驚いたように顔を上げた。空虚な眼差しが僅かに見開かれる。揺らめく青に室内灯の明かりが灯って、ほのかに色づいた。悲しい目をした男。何も言わない男。私に、手を伸ばしてくれたのに――躊躇いなく、触れてくれたのに。自身に対する一切の救済を拒絶している男。
どうしてこんなにも優しくて、泣きたくなるほど暖かくて、皆から慕われていて、望まれていて、私とは違う、誰からも愛されて誰よりも幸せであるべきこの男が。何故ここまで自分を責め立てているのだろう。約束に縛られている? 過去に、囚われたまま?
ぎちりと両の手を握る、覚えたのはそう、純粋な怒りだった。
「貴様の過去なんか知るか。そんなもの、私には一切、関係がない」
知らない、何も。この男のことなど何一つ。語りもしない、言いたくない事、知られたくない事はうず高く積み上がって檻の中に厳重に閉じ込められている。長く長い生、過去、紡いできた時間、得たもの、失ったもの。知らない。知らなくていい。触れられたくない傷、見るのも痛ましい痂皮、ぼとぼとと血が滲み続けている。傷口を塞ぐことも出来ず、血溜まりの上で立ち尽くしたまま。この男が抱えているもの。この男が背負っているもの。
――そんなもの。
「興味もない……」
罪過。罪科。罪咎は果てしなく。
唇をきつく噛みしめる、激しい憤りが肌を焼く。
わけのわからないことばかり言って煙に巻き、こちらを遠ざけようとしている事に心底腹が立ったのだ。悪魔である私に向かって聖書の一節を口にする事自体が明確な拒絶だ。私のような血に塗れた罪人に何ができるわけでもない、それでも、それでも人形のように感情を無にして有耶無耶にしようとしているのがこの上なく癪に障ったのだった。
過去も今も関係ない、結果だけが全てだろう。
今ここにいるのは。私に手を差し伸べてくれたのは。
誰でもない、お前自身だろうに。
きつく睨み据えた先で、呆けたようにヨシュアは目を見開いていた。本当にきょとん、と。まるで夢から醒めたばかりの人間のような、そんな心もとない表情でこちらを見つめているのである。
それが、たわむかのようにふ、と。揺れた。
「……敵いませんねぇ」
ふは、と。乾いた吐息が一つ落ちる。柔らかく口元が緩む。
ほんの少しだけ、男の纏う空気が柔らかなものになったような気がした。張り詰めた切っ先のような研ぎ澄まされたものとは違う、ほうと柔らかなものへと変わる。色をなくしていた瞳にほんのりと明かりが灯るかのように、さながら悪夢から目覚めたかのように。緩やかに笑みを刻む。
「馬鹿にしているのか?」
「いえ、――いいえ。魔王様を軽視するなんて、そのようなこと」
なんだそれはと、意図して発した言葉にヨシュアは小さく笑った。返ってくるのはいつもと同じような軽やかな笑み、軽口。
そこにはもう、あの不可解なまでの自罰的な感情は見えなくなっていた。きれいに隠しただけかもしれない、何も解決などしてない。それでも、なにか、そう、体温とでも言うべきものが確かに変わったように見えた。
春を思い起こさせる柔らかな色彩が柔らかさを取り戻して、淡く光を宿す。人形から生者へと移り変わる。
納得なんかはできない、苛立ちは残っている。それでも、あの作り物のような眼差しはいつの間にか消え失せていた。きっと沢山のことを隠されているのだと思う、けれど。だからといって無理矢理暴く気にもなれなかった。
「――――痛みは、ありませんか」
扉の前で立ち尽くしたままだった男が、そろりとこちらへと近付く。それでも距離は縮みきらない、何処か怯えるようにこちらを見る切なげに瞳が揺れる。改めて見え隠れする自罰、自責、心からの憂慮。それでもあふれんばかりの慈悲。本心からなのだとわかる心配と気遣い。どうであれ、この男は真実優しいのだろう。
「この度は本当に、申し訳ありませんでした」
繰り返される謝罪の言葉。
本当に、本当にこの男は面倒が過ぎる。いつまで繰り返すつもりなのか。
「くどい」
これ見よがしに吐き出せば、クソ真面目な天使があからさまに狼狽えた。想定外の言葉だとでも思ったのだろう、なんだ、詰ってやればよかったのか。罵って、口汚く罵倒してやれば気が済むのか。馬鹿馬鹿しい。何を考えているのかなどもうどうでもいい、気が済むまで自虐していろ。そっちがそうならという気もあった、お前の謝罪など私は受け取らない。
「ですが、」
「しつこいと言っている」
なおも食い下がる男を切り捨てると、困ったように眉を下げられた。言いかけた言葉が宙に浮いたまま、行き場をなくして揺蕩っている。まるで叱られた子供のよう、どうしたらいいのかわからないのだろう。うろうろと揺れる空色の眼差し。
こちらも立ち上がって無理やりに距離を詰めてやった。
苛立ちのまま、ずかずかと傍まで行って見上げてやる。自分とは頭一つ違う男は酷く困惑していた。腰が引けてはいても男は、天使は、ヨシュアは逃げなかった。見下ろしてくる柔く透き通った空色の瞳、金の髪が揺れてまるで鮮やかな空のよう。
「貴様が、そんなだと、そう、……調子が狂うだろうが」
どん、と。男の胸を拳で叩いた。
力を込めたつもりだがヨシュアは揺れもしない。柔く硬い胸板、じわりと伝わってくる熱に気付いて慌てて手を払った。殴るではなくてひっぱたけばよかった、そう思うものの最早後の祭り。ヨシュアはやっぱり呆けたように目を丸くしていた。どこまでも間抜けヅラ。ああでも、あんな人形のような表情よりずっといい。
「貴女は――、」
ほつりと。掻き消えるかのような囁きと共に、そ、と。手を取られた。
まるでガラス細工にでも触れられるかのような繊細な手つき。触れただけというのが幾分か近い、両手で包みこまれるように触れられて、拘束されているわけでもないのに振り払えない。
「な、なに、」
声が裏返る、ヨシュアは儚く微笑んだまま。
こちらに触れる手のひらは大きく、暖かく、酷く乾いて皮膚が硬かった。長く剣を握ってきた手だ、ふと足元へと落ちる空色の視線。金色の睫毛がふるリと震えて、僅かな明かりを弾いていた。
「――貴女は、私を、見つけてくださいますか」
宵闇の中に掻き消えていきそうな儚げな、吐息のような問いかけに思わず眉をひそめる。見上げた先、空色の瞳。そこに再び、じわりと滲むかのように仄暗さが滲み出る。
「またわけのわからないことを、」
「いえ、……私が。始めから存在していなくとも、貴女ならきっと見つけ出してくれるのではないかと。すみません、そう思ってしまったものですから」
「はあ?」
ヨシュアは相変わらず要領を得ない物言いをする。困ったように笑ったまま、どこか取り繕うかのように。言いたいことがあるのならはっきり言えばいいのに。本心を語ることに対して躊躇うのは、その性格ゆえだろうか。立場もの的なものもあるのかもしれない。光輝く天上に住まうお綺麗な天使様、は。思ったより制限があるのかもしれない。随分と息苦しいことだが、そんなものなど自分にはそれこそ、関係がないのだった。
ばっと男から手を引き離す。あっさりと離れていく温もりに、妙に心がざわついた。じろりと青い瞳を見上げる、穏やかに微笑んだままの男の表情は変わらない。
「……じゃあ、お前はなんだ? 今ここにいて、叱られた犬みたいな顔をして、悪魔なんぞに謝罪だのなんだのする頭のおかしい天使が他にもいるとでも?」
初めから存在していないとは大層な事を口にするものである。何だ、謎掛けか。意図してるのか無意識なのかは知らないが、どうも言いたくないことをこういった回りくどい言い回しではぐらかす傾向があるように思う。
考えたとてわかるはずもない、不毛な思考はもういい。
ただそこにあって、間違いなく今ここでこの理由のわからない男に向かって言えるのは一つだけだった。
「こんなムカつく天使が他にもいてたまるか」
それは本心。心からの。
慈悲も慈愛も疑いようもない、暖かくて優しくて、泣きたくなるほど優しくて、そのくせ頑固で強情で融通が利かない。こうと決めたらてこでも動かない。例えようもなく清らかな天使、天上の聖者。強い聖性は疑いようもなく、それでいて銀や白の天使とはまた違った面倒くささがあった。
くだらないとばかりに吐き捨てたのは、ともすれば単なる悪口であった。
それなのに男は少しだけ目を丸くして、それから静かに笑った。
「貴女は……本当に、変わった悪魔ですね」
月明かりの下で、男の声が淡く溶ける。
冷たい空気の中に、ほんの一瞬だけ、あたたかな音が残った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




