74 陽だまりに咲く花 - 8 -
よろしくお願いいたします。
日が落ちたからと言って開けられたカーテン、空気を入れ替えると言いながら開けられた窓。外はすっかり暗くなっていて、ひんやりとした空気がゆるく流れ込んできていた。もちろん祭りは明日も続くのであるから、楽しむ者は楽しむらしく夜とはいえ賑やかな喧騒が聞こえてくる。屋敷は里の中心にあり、煌々と照らす光も甘く香る花の香も漂っていて空気までもが騒がしい。
「なんか騒いでるなと思ったら、そんな事になってたのか」
花祭り二日目。
中日はこれと言った祭典もイベントもないらしく、日没と共に終了となったらしい。露店を引き上げて屋敷へと帰ってきた隼人が呆れたように口にする。
「私達わかんないもんねぇ」
残り物だけど、と大量に持ってきた菓子を皿の上に並べながら、同じように戻ってきた梓がのほほんと口にする。それに手を伸ばすのはリーネンだ、酷く疲れた顔をしながら焼き菓子をばりばりと食べている。長時間に渡る回復霊術という慣れないことをしたからか、疲労の色が濃い。それでも自分の側から離れようとはしないでいた。べったりとくっついてくるやわらかな獣をしかし、その働きゆえに邪険にも扱えずにいた。
普段であるなら面倒な状況説明する人物がいないというのは痛手である。そんなことをルーシェルは考えながら、何があったのかと問う彼らに大体のあらましをかいつまんで口にしたのだった。曰く、暴発、記憶飛ばし、暴れ回ったことを。ふーん、梓は静かに聞いている。隼人は聞いているのかいないのか、帳簿付けだなんだと言って何やら書きつけていた。
「そんなに凄かったの?」
転移してきたただの人間である兄と妹には、派手な力の流れであったとしてもまるで感知できないらしい。騒がしかったよねぇ、とどこか間延びした感想を言うばかりである。
……当事者からしてみれば騒がしかったとかいうレベルではないのだが。そうと首に指を這わせてみる、金色の首輪は溶け落ち細い鎖が残るばかりだが、真剣に生命の危機を覚えるだけの出来事ではあった。感知できない側からの感想などそんなものなのだろうとは思うが。
この二人がこれだけのんびりしているのなら、大した騒ぎになっていないのかもしれない。正直な所周囲のことなど気にかけている場合でなかった、文字通り目の色を変えた別人のような天使。振るわれる刃は容赦なく、紡がれた力は辺り一帯を穿つに余りあるものだった。
「脳筋馬鹿ではあるが、実力だけはあるからな」
「認めてるのか貶してるのかわかんないねぇ」
相変わらず悪口はすんなり出てくるねぇ、梓が苦笑するが事実なのだから仕方がないだろう。なんなんだあの攻撃は、なんなんだあの力は。戦闘特化の脳筋天使、しばらく本気を出したあの男を見ていなかったら虚を突かれただけに過ぎない。
リーネンがこちらの口元へと焼き菓子を一つ、差し出してくるのを押しのける。
「それって、ルーシェルさんの事知らない時期の記憶になったから、ヨシュアさんは剣を向けたってこと?」
「だろうな」
どこか硬い梓の問いかけに短く応える。
現在が異常なだけで、天使というものは元来そういうものだ。相まみえた瞬間刃を交える、悪魔がいるのであれば全力で排除する。人を守るために、そこに理由などはない。挟み込まれる感情など何一つない、あまりに当たり前のことなのだから。あの時、酷く動揺したのは。そう、紫紺色の瞳と、通常の言動とはあまりに乖離していたからに他ならない。柔らかなものを全て削ぎ落としたかのような、抜き身の剣のような鋭さを持つ断罪者。処刑人。それなのに。
「痛かった、……よね?」
梓があんまりにも苦しそうな顔をするので、少し、面食らった。痛かったよね、辛かったよね。そうと触れられてきて、手を取られた。相変わらず酷く荒れた指先に優しく包まれる、眼差しが、空気が、全身でこちらを労わるかのようなそれに落ち着かない。案じられるような立場の者ではない、なんだか座りが悪くて、居心地が悪い。あまり乱暴にならないよう手を振り払う。
「別に、大した事はない」
「ルーシェルさまは嘘つきにゃ」
「お前は黙っていろ」
口の周りを食べカスまみれにしながら、それでも咎めるような眼差しのままリーネンは「はあい」と不承不承といった体で口を噤んだ。
何が嘘だ、別に嘘なんざついちゃいない。
確かに消耗は激しかったが、わけもわからないまま最期を覚悟したのは確かだが。ルアードに唆されたサンダルフォンによって傷口は塞がれ、例の首輪からも解放されている。唆されたとは大した物言いだとは思うが、あれはそう表現されても仕方のないことだとも思う。
「じゃあ、もう大丈夫?」
こちらを気遣うように声を掛けられ、返答に詰まる。
左右で違う瞳の色が不安げに揺れていた。
「……ッ、だから、問題ないと、」
「本当ね? 嘘ついたら駄目なんですからね?」
梓はやたらと食い下がる。
「だから嘘じゃないと言っているだろう、なんなんださっきから」
「だって、お友達が怪我したら心配するでしょう?」
どこか咎めるような物言いだ。
そんなものなのだろうか、正直な所よく解らないでいた。心配、気にかけられたとて何が変わるとも思えない。友達になりたいと言っていた酔狂な娘は、確かに必要以上にこちらへと構ってくる気はする。
「無駄ですよぉ、悪魔ごときにぃ、そんな繊細な心遣いなんてぇ、わかるはずがないですもん」
嫌味という嫌味を煮詰めたような声色。
真白い髪の小娘が、こちらを見ようともせずに吐き捨てるように口にしたのだ。
「ヨシュアさまのことぉ、随分と悪しざまに言ってくれるものですねぇ? なあんにも知らないくせにぃ」
知らないも何も、何も言わないだろうがあの男は。何を考えているのかも腹の中も何も言わないのだから知りようもない。ただ黙って微笑んでいるだけの男だ。なんだこれは、マウントでも取られているのか。くだらない。
「どうしたんだあれ」
不機嫌であると、全身で訴えている小娘に口を挟むでもなく手を動かしていた隼人がそうと梓に耳打ちする。
「業務連絡するとかで追い出されちゃったみたい」
部屋の隅にぶすっとして座り込んでいる白い小娘は、しょうがないんだもん、とこれっぽっちも納得していない表情でいた。ずっとあの馬鹿天使の側にいたというのに、サンダルフォンが突然やってきて低級者には聞かせられないとかなんとか言われて追い出されたらしい。とても天使がするとは思えない挙動で銀色の天使が転がるようにして部屋を出たあと、代わりにこの部屋へと戻ってきた娘は不愉快であると全身全霊で顔をしかめていた。
大層、それはもう腹の底から気に入らない小娘ではあったが、あれだけ甲斐甲斐しくしていたのに蚊帳の外とは。流石に少しばかり同情した。極々微細な量ではあるが。
「ヨシュアさまはぁ、天界に必要なお方ですものぉ。ヨナには聞かせられないようなぁ、お話もいっぱいあるんですぅ。有能なお方ですものぉ。どこぞの悪魔とはぁ、随分と違いますよねぇ」
前言撤回。小娘はどこまでいっても心の底から癪に障る。今こちらは全くもって関係ないだろうが。口を開くのも馬鹿らしく、ちっと舌打ちをするが小娘は小娘でむくれたように顔を背けていた。相変わらず向けられる敵愾心、蚊帳の外になったこと、サンダルフォンに取って代わられたことが気に入らないのだろうが単なる八つ当たりである。
仕事、ねぇ。
一々取り合う気にもなれず胸中で呟く。
術の暴発自体はそう大したことはなかったのだろうが、飛ばした意識を戻した瞬間業務連絡とは忙しいことである。あの男は今天界にいない上、当面戻る予定もないというのに随分と過重労働をさせるものだ。夢のように美しく、邪悪も不純も存在せず、ただ清さと正しさのみが満ちた美しく清浄な世界だと思っていたが、どうやら認識を改める必要があるのかもしれない。
真面目だとは思うが、馬鹿馬鹿しい。個人を犠牲にしてまで、そうまでして守る必要があるのだろうか。
――私がいなくとも世界は崩壊しませんし、
そう言って、笑っていたのはいつだっただろう。
何か、無闇矢鱈腹が立ったことを覚えている。腹の底の見えない、ただ柔らかく微笑んでいるばかりの男からほんの少しだけ覗いた綻び。深淵。優しい色彩が透明に揺れて、滲み出た寂しさに濡れた悲しい眼差しが光の中で鮮やかだった。……正直な所、気分が悪い。
「ヨシュアさんの記憶は戻ったの?」
「あの程度の術ぅ、ヨシュアさまならぁ、瞬く間に解いちゃうんですぅ」
「元通りってことかな」
「そうですぅ」
……そういえば、またまだるっこしい喋りになっている。演技か何か知らないが、ただでさえムカつくのにその舌っ足らずな物言いは神経を逆撫でするには十分だった。
「そっかあ」
梓はまるで気にした様子もなく、気を取り直したかのようにメイド達が持ってきたティーポットに手を伸ばしていた。そうして慣れた手つきで茶とやらを注ぎ始める。一つを隼人に渡して、小娘にも差し出すのだがむくれている天使はいらないもん、とすねたように拒否していた。梓の柔らかな苦笑、じゃあ置いておくからとテーブルの上に置くとまた一つカップへと茶を注いでいた。それをおつかれさま、と。こちらへと差し出される。揺らぐ湯気、ふうわりと香るほんの少しだけ甘い香り。僅かに逡巡をしたあと、そうと両手で受け取った。疲労はもとより感情が尖りきっているとでもいうのか、感情がささくれたように荒れていて落ち着きたい。
ふ、と小さく息を吹きかけて口をつけると、舌先を刺すような熱さが心地よかった。ほんのりと甘い香り、あのセセアとか言う花のものだろうか。悪くはない。じ、と梓の視線。
「ね、それ、お兄ちゃんの?」
梓がこちらのペンダントを指差して問うてきた。小指の先程の赤い石、金の縁取りをされただけのシンプルなそれ。……花祭り開始以前は着けていなかった事を言われているのだろう。
「気に入ってくれたんだあ」
「そういうわけでは、」
ない、と言いかけて。
変に取り繕う方がどうにも後ろめたさを感じるような気がした。そもそもこれは隼人が作ったものだったのか、刻印を頼んだとは言っていたが――お守りだと言って渡されたもの。深い赤い色をした石はとても綺麗で、華美な装飾がされているでもないそれは確かに嫌いではなかった。
「何か刻まれてるねぇ、これ……なんだろ。模様?」
東洋の娘には馴染みがないのだろう、まじまじと見つめるものの読めはしないらしい。石を囲う縁取りに刻まれた小さなそれは我々が使う文字だった。ヨシュアが、お守りだと言ってわざわざ隼人に頼んだと言っていたもの。そうとつまみ上げる。
「ヘステールと読む。隠すとか、隠蔽とか……まあそういう意味があるな」
説明してやれば、へぇ、と。梓は目を丸くした。
梓もあの男と同じように言語変換のイヤリングをしているものの、やはり文字まではカバーできないらしい。そこまで考えて、つくづく妙なメンツであると再確認する。天使と悪魔、日本人、エルフ、この世界の人間、なんでこんな多種多様なんだ。そうしてなぜ私はこうして茶を囲んでいるんだ。
「お兄ちゃんやっぱり器用だね、これ文字なんだ」
「ん、ああ、ヨシュアが刻印できるかって言い出して……名前入れとかオプションでやってたし、まあその延長だな」
金払いも良かったし。
茶をすすりながら隼人はのんびりと口にする。
闘技場で稼いだ金だろうか、まだ残っていたのか。この世界の貨幣価値や物価などはさっぱりだったが、やはり相当な額を稼いでいたらしい。随分気前よくあれこれ買っているようだが、まだ残っているのだろうか。
「俺も最初見せられた時模様かと思ったんだが、文字だって言われてなぁ。エルフ達の文字とも違うし、ヨシュアのやつが出してきたのもなんか、……なんか、なあ。これ多分だけどあんまり綺麗じゃないだろ」
ひら、と隼人が取り出したのは小さく折りたたまれた一枚の紙だった。そこに書かれた言葉の羅列は、丁寧に書かれてはいるものの確かに綺麗とは言いがたかった。
そういえばあいつ字が汚かったな。
珍しく嫌そうに顔をしかめていた男を思い出して、小さく失笑した。何でもそつなくこなす男の、唯一ともいえる苦手なもの。頭は回るようだが所詮は脳筋である、細かな作業は苦手なのかもしれない。
……どうでもいいことばかり、記憶に残っていた。
この世界にやってきてさほど時間が経っているわけでもない、永遠にも近い生の間、瞬きのような時間の中で知り得たのは交わることのない相手のことだった。高潔で清廉な天使の、その頑固で強情で融通が利かない所など、この世界に来てから初めて知った。意外と人間くさい所があって、そうして、甘く香るような声で。優しい眼差しで柔らかく私の名を呼ぶ。どう受け取られるかなどまるで気付いていないあたり本当にタチが悪い。
「それってさ、ヨシュアさんはルーシェルさんを隠したいってことだよね。愛だねぇ」
梓が明後日の方向のことを言い出して思い切り咳き込んだ。
揺れるカップの中の茶。
は、なに、なんだって?
「……な、んで、そうなる」
「だってそれヨシュアさんからでしょ? ルーシェルさんにすっごく似合ってるし、お守りのつもりで渡したのかなぁって」
いや本当になんで全部わかるんだ。お守りとしてなんて一言も言っていないのに。
きゃー、なんてはしゃぎながら笑っている娘には何やら薄ら寒いものを感じる。その背後で白い小娘がそれこそ悪鬼のような表情をしていた。面倒くさい、本当に面倒くさい。
「ヨナだってイヤリング買ってもらったもんッ!」
ほらほらぁ!
小さく揺れる、花びらを模したそれを小娘は見せつけてくる。確かに幼女には似合いの、随分と可愛らしいデザインのものである。それをえらい剣幕で必死に、それこそ泣きそうになりながら自分だって選んでもらったもんと主張しているのだ。
「あのな、貴様があの馬鹿を懸想しようが乳繰り合おうが私には全く、全然、一切の関係がない。いちいち騒ぐな見苦しい」
「見苦しいってぇ! なによう!」
「一々張り合うなというんだ」
あいつは優しいから変に気を回しただけで、こちらのことなんざこれっぽっちもわかっちゃいないのだ。向けられる懸想なんてまるで理解していない。どれだけ秋波を送られたとて欠片も気付いちゃいない。
男が女にアクセサリーを渡すなんて、深い仲でもなければそうそうする事じゃない。あるいは下心か。どちらも該当しないのだから単なる考えなしなだけなのだ。いちいち反応するのも無駄なのだ、何も届いていないのだから。優しさは平等で特別などいない。わかっている、それがあいつにとっての善であるだけ。……声を大にわめきたくなるのも、わからんでもないが。そう思えばひたすら献身する小娘は酷く哀れに見えた。
不意に、とんとん、と扉を叩く音。
そんなことなどないはずなのに、何処かしら柔らかなものが漂うかのようなノック音。
「すみません、戻りました」
言いながら室内に入ってきたのは長い金の髪を揺らした二人の男。
空色の瞳の柔らかな笑みを浮かべた聖女のような男と、凍りつくような赤い瞳をした騎士然とした男の二人。天界最高位の天使、熾天使の二人組はそれはもうなんというか派手だった。見た目ではない、纏う空気というか雰囲気が華やかと言うかなんというか、派手で圧倒的だ。
ひゃー、梓が場違いなまでに間の抜けた声を上げる。
「ヨシュアさまあ!」
白い小娘が抱きつくのを、ヨシュアは抱きとめていた。素早い。
本当にあの馬鹿のことが好きなんだろうと思う、一途で懸命な姿は滑稽でもあり、あそこまでできるその気概は少し、羨ましくも思える。真似をしたいとは思わないが、素直に感情を出せるのは幼女の強みだろう。
「ヨシュアさんも、もう大丈夫なんですか?」
「はい、私は問題ありません。ですが皆様にはご迷惑をおかけしたみたいで」
すみません。声をかけた梓にそう答えながら、深々と男は頭を下げる。
それを隣りにいたサンダルフォンが飛び上がるようにして悲鳴を上げた。
「何をしている!?」
「謝罪は当然でしょう」
「頭を上げろ! そんな事する必要はない!」
「それはこちらが決めることではありません、ご迷惑をおかけしたことには変わりないのですから」
相変わらず頑なである。
いつも通りの綺麗な金の髪と優しい空色の瞳。纏う空気が柔らかく溶けていて、あの冷たい人形然とした無機質なものはなくなっていた。否、綺麗に覆い隠した、?
「ルーシェルも、体調はどうでしょう」
ふわりと微笑みながらも柔らかな問い。
いつも通りの問いかけである。ある、が。一体どの口が言うのやら。
「………………、」
なんと答えるべきか少し考えて、結局そのままふいと顔をそらした。
別に腹を立てているわけではないが、それにしたってなかったことにはならないだろうに。謝罪を求めているわけでもない、少し、説明は欲しいとは思うが。
奴の攻撃を受ける時に名前を呼んでしまった手前、なんとなく気まずさもあった。口の周りを食べかすまみれにしているリーネンも警戒したようにこちらの前に出れば、当然、妙な空気になる。さすがに鈍い天使も何やら感づいたらしい。
「なにか……ありましたか?」
困ったように眉を下げて問いかける。
白々しく見えないのは、本当に心当たりがないのか。
「ヨシュアさん、覚えてないの?」
「なあ、兄ちゃんも説明してないのか?」
兄妹二人が揃って口にする。
本当に何も覚えていないのか、ヨシュアはきょとんとしていた。兄ちゃん、と呼ばれたサンダルフォンが苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめていた。これはあえて言っていないな。清らかな天使は嘘を吐くことはない、となれば黙っているという選択をしたのだろう。
「あの、また何かあったのですか?」
本当に解らないのだろう、ヨシュアはこちらを不安そうに見る。また何かに巻き込まれたのか――眼差しがそう語っていた。気遣うようでいて、呆れたようでもある。淡く透き通った空色の瞳が憂慮に濡れる。心からの。その表情がふと、曇った。
「――首輪は、どうしたのですか」
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