72 陽だまりに咲く花 - 6 -
よろしくお願いいたします。
「あなたの為なんかじゃないんだから!」
白い小娘が力一杯叫ぶ。
場所は里長の館、騒ぎに気付いた周囲により連れ帰られていた。
簡易的な応急処置を施され、おとなしくしていろと放り込まれた部屋で小娘はこちらに向かって憎悪を向ける。きゃんきゃん喚くその様子を前に、あのまだるっこしい間延びした喋り方はどうした、普通に喋れるんじゃないか。そんなどうでもいいことを考える。キャラがぶれている、というよりはこちらが本質なのだろう。演技じみた言動を取っ払ってしまえば、そこにいるのは融通の効かないただの天使である。
「ヨシュアさまが、望まれてないから! それだけなんだから勘違いなんてしないで!」
わかりきった事をしつこく口にする姿に、呆れを通り越していっそ憐れみさえ覚えていた。神の御使いなどと大層な自負があるようだが、その実態は単なる下僕であり主人に尻尾を振る犬でしかないというのに。随分と偉そうなことを宣うものである。
魔王である自分を天使達が生かす必要などない、今ここでこうしているのも全てあのクソ馬鹿脳筋野郎が待てをかけているからに過ぎない。それを唯々諾々と従うこいつらもこいつらだが。待てと言われたら待つ、良しと言うまでひたすら待機とは大層聞き分けの良い獣である。意思がないのか?
ふいと視線をそらす。
閉め切られた窓、こちらへと配慮され引かれたカーテンが室内を薄暗くしていた。日光を通さない厚い布の端からほんの少しだけこぼれる光に、まだ日が高いことを知る。
――あの後。
散々暴れたクソ馬鹿天使はすっかり大人しくなり、別室で待機という名目で屋敷の別室にいる。増幅装置が破壊されたので霊力は使えないのだが、それでもあの長剣がある。どこからか呼び出したのだろう、強い聖性を持つそれは自分には必要以上に脅威であった。
悪魔は殲滅する、と。
低く重く放たれた言葉。
向けられた白銀の刀身、明確な殺意。感情の起伏なく振るわれた刃は迷いなくこちらへと振り下ろされた。それは、悪を許さない天使としての正しい行動ではある。ただの天使であれば特段おかしなことではないのだが、生憎よく知るあの馬鹿は普通ではない。……小娘の言うことは素直に聞き入れていたのが気に入らない。
「あなたなんて、お優しいヨシュア様さまのお情けで生かされてるだけなんだから! その程度で済んで感謝しなさいよね!」
その程度とは随分軽く言ってくれるものである。じろりと睨みつけるも、小娘はわずかに怯んだだけで己の正当性を誇示するかのようにその唇を引き結んでいる。弱いくせにこちらへと噛み付いてくるその度量は確かに称賛すべきかも知れない、思うだけだが。
「そもそもが自業自得でしょ!?」
天界を襲撃しなければ、転移なんてしなければ、さっさと死んでれば。言外に多分に含まれるのは実に率直かつ乱暴な言い分である。そもそもが結果論でしかない、あの男が約束とやらを必要以上に遵守しなければよかっただけだろうに。
……こちらとしては息をつくのも一苦労だというのに、反論できないことを見越してか実に好き勝手言ってくれるものである。こちらの胸元にしがみついているリーネンが牙を剥いて威嚇する、これ以上面倒事はごめんだとばかりにそれを制した。そもそも今現在、自分はまともに発話ができないでいる。
そうと己の首筋に手をやれば、尖った棘が指先を刺激する。こちらの肉を貫いたままのそれは、強く触れたなら指すら貫通させるほど鋭い。
首に巻かれた金の首輪はどうしても外れなかった。霊力を流し込んで無理やり引き剥がそうとして、少しばかり隙間ができただけでそれ以上は変形しない。きりきりと締め上げる力もなくなりはしたが、首を貫く針はそのまま。小娘が見てて痛いから仕方なくですからね! と文句を言いながらもなんとかしようとはしたものの、所詮は低級者。罪人用の強固な首輪はびくともしなかった。
エルフ達も手を貸してはくれたものの、結果は変わらず。じくじくと痛む傷からは血がにじみ続け、声は相変わらず発することが出来ずにいる。リーネンがひたすらこちらの霊力をその小さな体に回し回復霊術をかけ続けてくれてはいるが、その場しのぎでしかない。
「それだけ!」
言いたい事を言いたいだけ喚き散らしていった小娘は、ばん、と扉を乱暴に閉め部屋から飛び出していった。どうせあの馬鹿の所だろう、実に甲斐甲斐しいことだ。
なにか事情を知っている風な小娘も、人形のように感情の抜け落ちた表情のままの男も、それが何故かなど自分には知り得ない。光と闇、相容れない。相反する存在、永遠に殺し合う相手。悪魔のいる部屋になど長居できるかと言わんばかりに飛び出していった小娘、扉の向こう。私はあちらへはいけない、明確な線引き。
「ほんっとあいつムカつくにゃ……ッ!」
何様のつもりなんにゃあ、いらいらしながら吐き捨てるリーネンの表情はしかし疲労の色が濃い。人間と変わらない程度の霊力しかない低級者だ、微々たる回復霊術とは言え長時間の使用は辛いだろうに。いらん、もういい、何度その手を押しのけたかもわからないがその度にフザケンじゃないにゃと何故かこちらが罵倒された。随分と態度が横柄になったものである。あとで絶対ヨシュアぶん殴るんにゃ、威勢のいい事を言いながらも術を使う事をやめない。諦めと呆れ、少し乱暴に頭を撫でてやればこのけなげな弱い使い魔は泣きそうな顔をするのだった。
金の首輪は――恐らく、術者であるあの銀色の天使かクソ馬鹿木偶の坊にしか解術出来ないのだろうと思う。だがあの強情な脳筋野郎が、今の状態で悪魔である私を助けるような事をする筈もなく。結果そのままとなっていた。ヘタをしたらトドメになりかねない。
ぎゅうと手を握る。
普段と違うから、きっと、調子が狂うのだ。
天使の聖剣に傷付けられた傷口は塞がれたものの痛みが地味に長引いていた。
悪を焼き尽くす聖性、紛うことなき光の化身。
こちらを見据える漆黒にも似た紫紺色、冷たくて。憎悪とは違う蔑みの眼差し、柔らかさ、温もり、一欠片もなく。吐息が零れ落ちる、胸の内が酷くざわつく。暴発した術式は雑な出来だった、いつかは元の腑抜けに戻るのだろう。けれど、それが一体いつまでなのかは誰にも解らない。
ぎしりと音を立てて腰掛けている椅子へと体重をかける、首がこの状態では横になることもままならない。静かな室内で痛みに耐えている、オリビア達は被害状況を確認すると言って屋敷にはいなかった。一応、あの馬鹿にもそれなりに理性は残っていたのか祭り会場から弾き出すかのように向けられた攻撃。木々は薙ぎ倒され、地面はえぐれてはいるものの人的被害はなかった、ように思う。
駆けつけたオリビアの、また騒ぎを起こしたのか、と非常に複雑そうに放たれた小言。ルアードのフォローもあったとは言え、まったくだと溢れる自嘲ももはや乾いていて意味がない。
じくりじくりと痛む傷。
呼吸は可能でも息苦しいことに変わりはない。口内に広がる鉄錆の味、舌先を刺すように苦く生臭い。喉の奥の血の流れ。気怠さに支配された身体は重く思考は鈍麻する。脳裏に浮かぶのは夢の中の光景、仄暗い室内、生者など皆無の空間。凍えるような空気、腐臭と死臭。肺腑を満たすのはおびただしい血臭。そうと目を伏せる。
痛みは罰だ。
罪過は果てしなく。
望みは終焉。
斬り捨ててしまえ。
小娘の言っていたイゼヴェルとは、あの男のかつての上官の名であるらしい。騒ぎに駆けつけたオリビアとルアードに小娘はそう説明していた。待機を上官命令で告げたのだから、きっともう大丈夫だと。
術式の暴発、小娘を庇ってヨシュアがまともに食らった事、多分、記憶が幼少期に戻っている事。必死に説明しているのを男はぼんやりとしたまま傍らで聞いていた。その瞳の色は再び優しい空色に戻っていたが、相変わらず感情は抜け落ちたまま。ぽっかりと虚空。無表情。図体のでかい男がただそこに立ち尽くしているさまは酷く無骨で、無様で、物悲しい。
……あれが、あいつの幼少期の姿なのか。
一体いつ頃のことなのかは定かではないが、今のあの男には幼さが酷く残っているように見えた。子供が無理やり背伸びしているかのような印象。指示通りに動くだけの人形、命令に忠実で自我がない。こちらへと向けられるのは憎悪ではなかった、殺すのだという明確な意志はあるもののそれ以上がない。殺気はあれどもそれに伴う怨恨も厭悪もなにもないのだ。全くの無。機械的な動き。幼い頃から自我なく生きてきたのだと、そう思わせるには十分な酷薄な声。感情の乗らない無機質な。
――貴女に、似合うと思って。
甘く香るような優しい声が蘇る。
柔らかな笑み、ほんの少しだけ触れたのは暖かな手のひらだった。
あの夜、自暴自棄になった自分へと差し伸べられた手。光を紡いだかのように柔らかな金の髪が揺れて、淡く美しい空色がこちらを捉えていた。目を閉じたとて痛みに遮られ意識ははっきりとしたまま、眼裏に浮かぶのは慈悲と慈愛の天使の姿。流れ落ちる己の黒髪をかきあげる、首元で赤い石が揺れる。そうと指先で触れてみる、返ってくる硬い感触。ペンダントに傷は付いてはいないようでよかったと、安堵する己の滑稽さ。
――貴女を、きっと守ってくれる。
そう言って差し出されたペンダント。元気がないからと、夢に怯える私へと渡されたもの。意図など何もないのだとわかっている、ただただ平等であり善である博愛の天使。困っているからと魔王である自分にすら心を砕く頭のおかしい男、――時折、酷く悲しい目をする男。儚く美しい天使、穢れなき魂。聖性。光の園の住人、永遠の楽園に住まう者。何も知らない、私は。あの男のことなど何も。記憶をなくし過去へと戻った男の精神状態は、本当に地続きなのかと疑わしい程に違う。何があったのだろう、思ったとて。知るすべなどない。資格もない。扉の向こう側、固く閉じられたまま開かれることはない。光と影。長く長い生、誰にも知られたくない過去。遠い眼差し、透き通った寂寞の色。抱える深淵、あれが、あいつの過去の姿なのだとしたら。
「ルーシェルさまは、生きてたくないにゃ?」
囁きのように零れ落ちた声にびくりと肩が震えた。
リーネンはこちらを見ないまま、術を紡ぐのをやめず独り言のように。
「いっぱい、いろんなこと……しんどい事、あるにゃ……でも、にゃーは、生きててほしいにゃ……」
しがみつく力が強くなる、こちらへと伝えながらもその声は震えている。単なるご機嫌取りでそう言っているのではなさそうだった。使い魔の体温は高く、ゆっくりと流れ込んでくる回復霊術は温かい。
「がんばるにゃ、だから、だから」
悪魔のくせにまるで祈るかのように。
悲痛な叫びのようなそれに何か言おうとして、結局何を口にすればいいのか解らず開きかけた唇を閉じる。そも、現在声は出ない。明るいオレンジ色の髪が搖れる、泣きそうに震える小さな肩。哀れには思うが己にそう願われるだけの価値があるとは思えなかった。そうだ、過去を知られたくないのはなにもあの馬鹿だけではない。向けられる感情の変化が恐ろしかった。眼差しが怖かった。だから、最初からなかったかのように、この手の汚濁を知られる前に、己という存在そのものを消してしまえと――。
「上でやる事やってようやくこっちに顔出してみたら、ええ? 便利に使いやがって。俺をなんだと思ってるんだ!」
どかどかと乱暴な足音と共に、えらく腹を立てた男の声が廊下から聞こえてきた。
傲慢とも取れるその物言い、声色には聞き覚えがあった。強い聖性、強力な天使の気配にげんなりする。
「何度も言うようだがな、そちらの世界のことはそちらで何とかしてくれ。被害が出たら補填してもらうのは当然だろうが。せっかくの森をズタボロにしおって! 貴殿らは本当に何かしら騒ぎを起こす!」
「俺じゃないと言っただろう! どうせあの魔王が暴れたんだからあれにやらせればいい!」
「状況判断もままならんのか!」
「あいつが意味もなく暴れるわけ無いだろうが!」
「だから! 情報を! 精査せんと! 判断できないと言ってるんだ!」
「ま、まあまあ」
ルアードも一緒らしく宥めるような声が聞こえなくもないが、白熱してく二人に声が届いているとも思えなかった。エルフの里のオリビアと天界第二位であるはずのサンダルフォンの声は遠くから聞こえてきている、どうやら屋敷に戻ってきたらしい。相変わらず酷い言い合いである、ヨシュアが基準になってはいけないのだろうとは思うものの、随分激しい天使である。親友だなんだと言っていた気がするが、あまりにも性格が違いすぎて本当かどうか疑わしくもあった。いや、静と動という意味では釣り合いが取れているのか。
疲労の色が濃いリーネンの、その表情はあからさまに面倒くさそうになっていた。明らかにこの部屋を目指している足音、オリビアはこの首輪をどうにかさせたいのだろうが銀の天使からしたら悪魔を助けるなど冗談ではないのだろう。ぎゃあぎゃあとやかましい事この上ない。
……あの男にも、何か変われるだけのきっかけがあったのだろうな。そんな事を考えながら開かれるであろう扉を前に、ほんの少し、身構えた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




