71 陽だまりに咲く花 - 5 -
よろしくお願いいたします。
一体何が起こっているのかわからない。
振り下ろされた重い一撃をナハシュ・ザハヴで受け止めれば、ぎりぎりと金属同士が悲鳴を上げる。気を抜けばそのまま腕ごと持っていかれそうな圧、震える指先に苦痛が零れ落ちた。再び弾き飛ばされる前にと、体制を立て直そうと距離を取ろうと後ろへと飛ぶ、が。
「く、……ッ」
一瞬にして間合いを詰められ刃を振り上げられる、迸る風圧。幾重にも分かれる無数の刃で周囲が薙ぎ伏せられる。咄嗟に身体を捻り躱したものの、切っ先が胸元を浅く引き裂いていった。僅かではあるが飛び散る血液、焼けるように痛むそこを押さえる。ぬるりとした感覚。抉られる大地、風圧に斬り刻まれる植物、大ぶりで柔らかな色彩の花弁が舞い踊ってどこか非現実。
目の前にいるのは、確かに見知った相手だった。
日の光を受けて艷やかに輝く金の髪が風に搖れている。真白い服が翻る。漂う聖性、男の肉体へ宿る甚大な霊力は変わらない。圧倒的な存在感を持つ強大な天使。第六天に座する天使共の王たるメタトロンに違いない、はずなのに。
「どうした、……気でも、変わったのか?」
零れた声が、笑えるほどに震えていた。
あれほど決着は元の世界に戻ってからだと宣っていたくせに、どうして、――どうして。膝をつき呻くように投げかけるこちらの問いをしかし男は答えない。こちらから逸らされない眼差しはどこまでも虚無だった。ただでさえガラスのように透明で透き通っていた眼差しが、底知れぬ不気味さを湛えている。感情という感情全てを削ぎ落としたかのように虚ろであり無。それに、だ。
天使の瞳の色が変わっている。
どこまでも落ちていきそうな深い紫紺色。じわりじわりと鮮やかな朱色が広がり、あの泣きたくなる程優しい空色を飲み込んでいったのだ。それがより一層異様さを放っている。
――別人、なのか?
ちらとも思ったが、違うなと即座に否定する。姿形を似せることは出来たとしても、纏う霊力までもが同じとはあり得なかった。
霊力とは魂の力。
霊力が同じという事は、魂が同じという事だ。魂までコピーする事は出来ない、一つの世界に魂は一つしか存在し得ない。希有なる光を持つこの魂が、他にもいるとは考えられなかった。
それに、男が握る白銀に輝く長剣は天界で見た覚えがあった。強い聖性を帯びたそれはこの世界へと来る時に失くしたと言っていたが、いつの間に取り戻したのだろう。
「小娘に、何か吹き込まれでもしたか」
明らかに様子がおかしい男に挑発を投げかけるがしかし、冷ややかな眼差しが返ってくるだけだった。男は無言のまま静かにこちらへ向かって刃を向ける。空洞のようにぽっかりと感情の抜け落ちたその表情は、まるで精巧な人形のようですら。
返答のないまま再び踏み込まれる。
向けられる攻撃、そこに迷いはなかった。明確な殺意。避ける、追撃、受けて、流して、絶え間なく続く剣戟を払いのける。
先程のおかしな気配のせい、だろうか。
見やった先で発生した術が暴発でもしたのだろうと思う。無造作に紡がれ雑に組み立てられた、術式とはとてもじゃないが言えない不可解な構築式。ぼうっと所在なく蠢いていた純粋な力がきっと何か作用しているのだろうと推測する。恐らくそれをまともに食らったのだろう、男にとってもきっと想定外の事態。
あいつは――優しいから。
攻撃を受け流しながら、ふ、と。笑みがこぼれた理由など自身でも理解はできなかった。一撃一撃が重く、手が痺れる。気を抜けばナハシュを取り落としてしまいそうだった。向けられる明確な殺意、一切の手加減がない。紫紺の瞳は揺るぎもしない。息が乱れる。
――きっと、誰かを庇ったのだろうと思う。この程度の術の暴発などこいつなら難なく対処できた筈だ、天界の強く美しい天使。ボケたところはあるが、それでも咄嗟の判断を間違えるほど間抜けではなかったはずだ。強かで、意外と我が強くて、こうだと決めたら絶対に揺るがない強情さがあった。間抜け面の木偶の坊、約束をイヤに重視していて、……温かくて。万物に向けられる平等、差し出された手のひらが胸の奥を掻きむしるほどに温かくて。大多数の内の一人でしかない、誰にでも気を持たせるような言動をしておきながら特別を作らない酷い男。
ぎり、と唇を噛み締める。
細かな因果関係はわからないが、記憶でも飛ばしたか、?
「ルーシェルさま! なんで反撃しなんいんにゃ!」
木の陰に身を隠しながら身を乗り出していたリーネンが叫ぶ。
そう、攻撃を、しなくては。
受けるだけではなくて、こちらからも動かなければ。
そう思うのに、息が上がるこちらとは違い男は平然としたままだった。焦りばかりがつのる、体幹お化けのクソ天使、体力馬鹿の脳筋、馬鹿力、悪態なら幾らでも出てくるのに肝心の解決策はさっぱりだった。
そう、応戦すればいい。いい加減にしろと斬り伏してしまえばいい。体力面で大いに劣る自分に可能かどうかは置いておいて、要望を突きつける程度には反撃すればいい。ナハシュ・ザハヴを振るって、一撃でも入れてやればいい。そう、一撃だ。振り下ろされる剣は重いがその分いくらか遅い、隙をついて懐に飛び込んで、この黒い刀身を滑らせ男の身体に食い込ませればいい。そのまま手を引けばいい。そうすればたとえ天使であろうとも肉は容易く引き裂かれ、骨すら、砕き、……行動の末の想定した明確なイメージに、ぞわりと。頭から冷水を浴びせられたように総毛立った。同時にいつか見た夢がフラッシュバックする。
折れた白い翼。
肉を突き破る真白い骨。
光を無くした空色の瞳。放たれる呪詛。
闇の中で無造作に投げ捨てられていた骸が目の前の男と重なる。汚濁の上で千々に乱れる金の髪、輝きを失った瞳。人形のように白い肌が、色なくしたそれが原型を失い壊れていく。どくどくと激しく脈打ち始める胸、指先が凍えるように冷たい。跳ね上がる心拍数とは裏腹に身体がいうことを聞かない。
びっと躱せなかった切っ先が右腕の上を走る。深くも浅くもない傷口から吹き出る赤、そう、赤だ。血に塗れたこの手、男の、救う手とは違う。私は、殺すことしか知らない。それでしか生きるすべを知らなかったから。
――いやだ、
腕の痛みを無視してぎゅうとナハシュ・ザハヴを握りしめる。
私は、この男を殺したいんじゃなくて。
振り上げられた刃の軌道を弾いて逸らす、押さえる事は出来ないがそれでも一拍の間の確保。ぎっと睨みつけた先には息の一つも乱さない男。その姿はまるで操り人形のようですらあった。
見慣れた姿の見慣れぬ紫紺の瞳は不気味で、あのふわふわした間抜け面は影も形もなく、ただただ感情の消え失せた人形がこちらへと力を振るう。柔らかさも優しい眼差しも消え失せた男は整った顔立ちも相まって生き人形にしか見えなかった。当然ながら強い、こちらが必死に受け流しているというのに男にはまだ余力があるように見えた。
「この、ッ」
意味のない言葉が口から突いて出る。
男の剣は祝福でも受けているのか強い聖性を帯びていた。重症ではないものの傷口が焼けるように痛む、男の手は一切緩まない。感情がないと言うのに殺意の乗った剣の軌道は迷いなく鮮やかだ。押されている、でもだからといってどうすることも出来なかった。
「何が、あったか知らないが、……ッ」
相変わらず無反応の男にだんだん腹も立ってきていた。
小娘にうつつを抜かしたあげく、いいようにされやがって。対して強力でもない術式に振り回される男、何が天界最強の天使だ、術の暴発とは言え不甲斐ないとは思わないのだろうか。過去に何があったかなど知らない、今の状態がどんなものなのかは興味もない。ただ、あれだけ約束だと言って、こちらを殺すことをあれほど忌避してきた男がこの体たらくなのだ。どこまでも勝手な男。
「いい加減、正気に戻れ、………ッ」
ナハシュ・ザハヴの柄でぶん殴れば多少は狂った頭のネジでも戻るだろうか。
あの小娘からも、銀の天使からも、あまつさえ魔界側の襲撃者からも私を結果的に守った頭のおかしな天使。あんな綻びだらけの術式で更におかしくなったのなら、強い衝撃を与えたら元に戻るかもしれない。いや、もっと酷くなるだろうか。解決策なんてわからない、でも、これは、この状態はどうしても、どうしても、……そう、納得いかなくて。息が上がる、傷口が痛む。無表情の男、この男が自分に望んだ事は何だっただろう。感情の抜け落ちた表情のまま攻撃を繰り広げる天使、天界最高位の熾天使。役職名はメタトロンで、馬鹿クソ真面目にここでは名乗れないからと、呼べと言っていた、かつての名は。
「ヨシュア!」
万感の思いを込めて力いっぱいその名を叫ぶ。
す、と男が目を細めた。瞬間。
「よく囀る悪魔だ」
酷薄な声と共に首に衝撃。
「…………ッ、」
ごふ、と唇から血が吐き出される。
サンダルフォンによって着けられていた金の輪が形を変えたのだと分かった、首輪が巻き付いたまま鋭い針となり首を刺し貫いているのだ。それが、きりきりと締めあげる、引き剥がそうにもびくともしない。息ができない、声帯を傷つけられたのか声も出ない。立っている事が出来ず両膝をつく、リーネンの上げる悲鳴がどこか遠くから聞こえた。
がしゃりとナハシュ・ザハヴが音を立てて転がる。両手で喉元を抑えたこちらへと向けられるのは無感動な眼差しだった。とめどなくあふれる血、ぼたぼたと赤黒く地面を汚している。ともかくこの変形した首輪を外さなければと、思うのに指が滑ってうまくいかない。その間も締まり続ける金の輪、さながら獣の首輪のようだ。聖なる天の御遣い、地の底で罪に塗れた天より堕とされたもの。光が鮮やかなほど影は色濃く存在を主張する、永遠に相容れない。触れたことが最初から間違いだったのだ、偽りのぬくもり。泡沫のように儚く消える暖かな日々。男は、天使は。ヨシュアは私を許さない。
「も、やめるにゃあ!」
突然の声と共にばっとオレンジ色が飛び込んできた。
「なんでこんにゃことするにゃ!? なんでルーシェルさま、……殺さないって言ったじゃにゃいか! おまい、約束破るんにゃ!?」
霞む視界の中に踊る明るいオレンジ色、使い魔が自分の前へと躍り出て天使へと立ちはだかっている。耳を頭にべったり張り付け、ぶるぶる震えているというのに。怖くて仕方がないと声が酷く震えているというのに。それでも必死になって破れかぶれに天使へと食ってかかるリーネンに、逃げろと言いたいのに、首輪のせいでそれもできなかった。こひゅ、と小さく空気が漏れただけ。
天使は静かに立ってちこちらを見下ろしている。何も言わない、届かない、何も届いていない。ぼんやりとした感情のない眼差し、こちらから逸らされない深い紫紺色。搖れる金の髪、真白い衣服。白銀に輝く刃の玲瓏さ。慈愛に満ちた天使はだからこそ人を惑わす悪魔を断罪する。永劫殺し合う。戦闘特化の戦天使。数多の悪魔を斬り捨ててきた無慈悲な処刑人。
視界が狭まる、暗くなっていく。
男を睨みつけたまま震える指先で首輪へと無理矢理霊力を流し込む、外れはしないもののわずかに緩んだ。とたん、喉の奥へと流れ込む空気にごほごほと咳き込む、痛み、飛び散る赤が更に周囲を染め上げる。ぼろぼろ泣くばかりのリーネンの手を無理矢理に掴んで、呼吸が可能となった首へと押し当てた。リーネンは低級者で大したことなど何もできない、それでも契約を交わしているのだからこちらの霊力を使う事ができた筈だ。こちらの霊力で簡単な回復術を使わせる、声帯まで治りはしなかったがそれでも随分とましとなった。は、と。零れ落ちた吐息にリーネンが安堵したようにしがみついてくる。
「約束、」
色のない声。風に掻き消えるような声色で、男が呟いた。
のろのろと顔を上げると、見やった先で男が剣の構えを解いていた。何かを考え込むように虚ろな眼差しが僅かに揺れ、――そうして、す、と。こちらへと指先を向ける。その双眸には既に僅かな迷いは消え失せていた。ぞっとするほど冷淡な色。
《――玲瓏たる光芒
蒼然たる刃を以て
御代に仇成す悪辣者を祓除せよ》
とうとうと紡がれる詠唱。
膨大な霊力が言葉と共に周囲に満ちる。蠢いて、規則正しく幾重にも織り上げられていく。無形が有形に変換される、ふうわりと立ち上る霊力の流れ。搖れる長い金の髪、真白い衣服がはためく。リーネンの、こちらにしがみつく力がさらに強くなる。
ああ本当に、本当に殺すつもりなのだ。
こんな所で大規模な術式を展開するなど正気じゃない。周囲を多少吹き飛ばしてでも悪魔を殺すのだという明確な意思表示。誰よりも何よりも他人を優先していたのに、何故こんなことになっている。この世界の者を護る為に私を殺さないんじゃなかったのか。記憶を飛ばしたと思っていたのだが違うのか、本当に別人なのか。何もわからないのに、こちらを殺す意思だけははっきりとしていた。こんな訳のわからない状態での決着は望んでいない、でもナハシュを構えたとて。防壁を張ったとて。大した意味があるとは思えなかった。
光という光、力という力が高度に圧縮されていく。織り上げられていく術式、あと幾ばくもすれば完成する綻びのない完全で完璧なそれが放たれる。
ガシャン、と音を立てて天使がしていた増幅装置である腕輪が砕け散った。瞬間織り上げた力が周囲へと弾け飛ぶ。強い聖性が霧散する。
過負荷だ、強大な霊力を使おうとして焼き切れたのだ。加減が出来ていない、否、していない? 詠唱霊術、明確な殺意。ヨシュアはぼんやりと砕けた腕輪を見ていた。状況がわかっていない、のは。やはり記憶がないからか?
しばらく天使は手を握ったり開いたりとしていたが、霊力が使えなくなったことが分かったのだろう。再びこちらを見据えると、仕方なさそうに剣を構えた。どこか幼さすら漂うその仕草。大きく振り上げられる銀色の刃、逃げなければ。リーネンだけでも逃さなければ。でも一体どこに。ナハシュ・ザハヴを再び手にして構える、
「ダメェッ!」
今まさに剣を振り下ろそうとしていた男の動きがぴたりと止まった。そうしてゆっくりと振り返る、遠くから駆け寄ってくるのは白髪の小娘だった。必死に追いかけてきたのだろう、息を切らせている小娘を、ヨシュアは不思議そうに小首を傾げて見やる。
「ヨナ?」
男が小さく名を呼ぶ。
どことなく不服そうな声。
「そう、ヨナ、です。駄目です、駄目、やめてください……」
「何故? 悪魔は殲滅するもの」
「い、イゼヴェルさまからの命令です。ここで殺してはいけないと、」
しどろもどろとしながらも、知らない名を小娘は口にした。ぎゅうと男の腕を握る、息を乱して縋るように懇願する。
「イゼヴェルさまが?」
「そう、だから駄目なの。剣を納めて? ね?」
まるで小さな子供の癇癪を宥めるような物言いにわずかに眉をひそめたものの、ヨシュアは大人しく従った。全身感から力が抜ける、ふわりと、漂う気配から殺意が抜ける。強い警戒心は残ったまま、表情はやはり変わらず無のまま。
「…………わかった」
こくりとヨシュアは小さく頷いて、言われた通り手にしていた剣の構えを解いた。それはどこか、そう、やはりどこか幼さを感じさせる言動だった。
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