70 陽だまりに咲く花 - 4 -
よろしくお願いいたします。
イヤリング購入後、こちらの手を握ったまま腕を組んですり寄ってくるヨナと舗装された道をゆく。風に舞い踊るセセアの花弁が鮮やかに足元を彩っていた。頭上より降り注ぐ陽光、木々に覆われた緑の濃い里の路々を煌々と照らしている。木漏れ日、枝葉の隙間から溢れ落ちる無数の光の柱。露店、賑わい、祭りを楽しむ人々の談笑、熱気、絶えず続く耳馴染みのないメロディ。優しい歌声。
「夢みたい……」
ほう、と。吐息を漏らしながら少女はうっとりと口にする。確かに夢のように美しい光景である。ふうわりと風が通り過ぎていく、セセアの花の香りを含んだそれにそうと目を細めた。
「……こんな日が来るなんて、思わなかったなあ」
「こんな日とは?」
「こうやって二人だけで一緒に歩くこと!」
きゃあ、とヨナの弾んだ声。嬉しそうにしている彼女を見ていると、なんだかこちらまで穏やかな気持ちになれる気がする。ヨナの耳元で先程購入したイヤリングが小さく揺れている、淡い色彩の、小さな花びらを模したそれ。軽やかな足取りと共に光を受けてきらきらと輝いていて、絹糸のような白髪の少女によく映えている。
「イヤリング、ありがとうございます。ずっと、ずうっと大事にしますねぇ」
腕を組んだままのヨナがすり、と身体を擦り寄せてくる。明るくはしゃいだ声色、喜んでくれているなら良かったと思う。ふわりと微笑みを返せば、嬉しいと言わんばかりの満面の笑みが返ってきた。
「おや、かわいらしいお二人さんだねぇ。今日はお天気も良くて暑いでしょう、飲み物はいかが? 甘くて美味しいよー」
声をかけられ、ふと足を止める。
露天の店主がにこにことしながらこちらに透明なコップを差し出してきていた。そこには薄いピンクに色づく液体が満たされている。
「のみもの、」
ヨナが不思議そうに口にする。
経口摂取というものを知識として知ってはいるが、人と違い食べる必要ない我々には馴染みのない行為だった。ヨナはこちらの世界に来てから食事を口にはしていない、生命活動の一環であるとわかっていてもどうも抵抗があると言っていた。それでもヨナはこちらの腕を摑んだまま、じいと差し出された液体を見つめている。
コップの中では淡いピンク色の液体が、しゅわしゅわと音を立てている。食用に処理したものなのだろうか、中に一枚セセアの花びらが入っているようだった。不揃いの氷、かろん、と涼やかな音。きれい、ヨナが小さく口にしたのが聞こえた。興味が湧いたのだろう、可愛らしく零れた呟き。
「一つお願いします」
苦笑しながらも二つ購入すると、ヨナがぎょっとしたように飛び上がった。
「あぇっ、ちがっそんなつもりじゃ、」
「何事も経験でしょう」
「でもこれじゃあヨナがおねだりしたみたいじゃ、」
「私があなたにと思ったのです、〝最初は甘くて素敵なものを〟……これは、ルアードさんの受け売りですが」
どうぞ、そう言って店主から受け取ったコップを一つ、ヨナへと手渡す。呆けたようにこちらを見上げていたヨナが、あわあわしながらも慌てて受け取った。未知なるものへの警戒心と不安に搖れる瞳が透明な容器を見つめている、こちらとジュースとを交互に見やる。
「……大丈夫ですよ」
ほらこうやって。
お手本のように液体の中で搖れているストローに口をつけた。ゆっくりと吸い上げるとじゅわっと口の中いっぱいに甘酸っぱさが広がる。大きな氷の入ったそれはとても冷たく、飲み込めば喉を通り過ぎていく冷感がすうっと染み渡るかのような感覚。
固形物よりは抵抗は少ないのではないだろうかと思う。コップに満たされる液体、薄く透ける色彩が日の光を受けて鮮やかに輝いていた。小さな気泡が反射してきらきらしている。
「きれいないろ……」
ぷくぷくと小さな泡が下から上へと昇っていくのをしばらくじっと見ていたが、意を決したらしい。ヨナはきゅ、と眦に力を込めて恐る恐ると細いストローへと口をつけた。そうしてゆっくりと吸い上げ、
「しゅわって! しゅわって言いました!?」
弾かれたようにこちらを見上げてくる様に思わず苦笑した。淡い色彩の目をまんまるにして、全身で驚きを表現している。搖れるジュース、零れそうになるのを慌てて持ち直していた。可愛らしい反応。
「お口の中が爆発したみたい……!」
「炭酸は始めて?」
店主に問われたヨナが、こくこくと口元を押さえたまま大きく首を縦に振っている。つめたい、ふしぎ、目を輝かせて無邪気に笑う。気に入ったのか、再びストローに口をつける。ゆっくりと液体が吸い上げられ嚥下されていく様を見ながら、ルアードがいっそしつこいまでに食べることを勧めていた理由が何となくわかったような気がした。単純に嬉しいのだ。美味しいと頬をほころばせる様子を目にするとくすぐったくも何やら嬉しい。食事初心者である自分でさえそう思うのだから、生まれながらに食事をする彼らは一層そう思うのだろう。食事は単なる栄養補給ではない。ヨナを見ながらジュース販売の店主も満足そうに笑っているのだ、そう的外れな見解ではないのだろうか。
「これが美味しいって事なのね……ッ」
新たな発見にはしゃぐヨナに、微笑ましさが溢れた。飲み物一つにここまで目を輝かせている少女に、そうと言葉をかける。
「何か、他にも試してみますか」
「えっ」
「ほらあそこの――カップケーキでしょうか。それに、隼人さんの所に行けば梓さんの作られた焼き菓子などもあると思いますよ」
なだらかに続く道の先にある露天を指差す。可愛らしい屋根を付けたそこには宣伝だろうか、ふわふわと可愛らしい色とりどりのシャボン玉が周囲を飛んでいた。隼人が構えている露店はその先、セセアの大木のある広場の手前の筈だ。祭りの間はここにいるからまた何か買ってくれよと言っていたことを思い出す。
折角なら挨拶をしていった方がいいだろう。
ヨナと仲良くなった梓の菓子類を食べてもらうのも悪くない。
「なるほど……見せつけておくのも悪くないですね……」
何やら決意をしたらしい、力強く呟くヨナの言葉にきょとりと小首を傾げる。見せつけるとは? 向けた問いかけはしかし黙殺された。
「じゃあさっそく行きましょう!」
ぐいとこちらの手を引いた少女は再び踊るように先を行く。
手にしたジュースは半分に減っていた、液体の中でゆらゆらと氷とセセアの花びらが揺れている。駆ける道、通り過ぎていくエルフ達。美しく生命にあふれた里、笑顔、歓声、光は満ち溢れ淡い影が足元に落ちる。視界に映る美しい光景、エルフ達のざわめきは耳に心地良く表情は皆やわらかい。
早く早くとこちらを急かす少女の表情はとても明るかった。危ないですよと告げたとて大丈夫ですもんと、ヨナの足は止まらない。明るい日のもとに輝く白髪、搖れるピンクのイヤリング、屈託なく笑う少女。陰りもなく、憂いもなく心安らかなその表情に目を細めた。
過去は遥か遠くへとなっていた。
異世界、名の通り異なる世界。異なる習慣、秩序、常識。霊力と魔力の違い、細かな相違はあれども術式の構築方法にあまり差はない。人々の善性は変わりなく慈しみに溢れている。美しいもの、暖かく豊かな心。似て非なる世界。唇から零れ落ちた吐息、安堵、安寧、安らかであれと。祈りは果てしなく。
――その時。漂う気配にふ、と顔を上げた。
距離があるのか強烈ではないものの、薄っすらと漂う霊力。エルフの里の中に満ちる魔力とは明らかに違う力がかすかに漂っているのに気付いたのだ。サンダルフォンがやってきたのであればもっと強く光り輝くような力を感じただろう、それとは違う仄暗い波動。鮮烈な印象を与えるそれは、深淵を湛えながらも鮮やかに瞬く赤い閃光のように。
「どうかされたんですか?」
「ああいえ、」
きょとん、と不思議そうにこちらを見上げてくるヨナに、小さく苦笑をこぼした。周囲を見渡してもルーシェルの姿は見えない、けれどもどうやら一定の距離を保ったまま着いてきているようだった。近付くようでいてそうではない、離れていくわけでもない。彼女は人混みを嫌っていた筈なのに、一体どういった風の吹き回しだろう。
「いえ……どうやらルーシェルも祭りに来ているようなので、珍しい事もあるものだなと」
ふふ、と小さく笑みを零す。
何か目的でもあるのだろうか、いや、花祭りは誰が楽しんでもいい筈だ。でも体調がすぐれないようだったのに、こんなに鮮やかな光に満ち溢れる中出歩いて大丈夫なのだろうかとも思う。あの悪魔は本当に想定外の事ばかりに巻き込まれるのだ、結界の張られた屋敷内で休んでいるのなら安全かと思ったのに――いや、何かは、あったのだけれど。夢見が悪かったのか何かに怯えるようになったルーシェル、自分自身に刃を向けた悪魔。散歩にでも来たのだろうか。気晴らしになればいいとは思うものの、あまりに魔界とは違うであろうこの空間が更なる負荷にならなければいいのだが。
「ほんっと無粋な悪魔!」
吐き捨てるかのようなヨナの暴言に驚く。目を丸くして見やれば、先程までの無邪気さは一体どこへ消えたのやら、思い切り、それはもうこれでもかと言わんばかりにヨナは顔をしかめていた。
「そのような事を言うものでは、」
「ヨシュアさまはお優しすぎるんですよぉ! 悪魔なんかさっさと殺しちゃえばいいのに!」
「ヨナ」
嗜めるのだが、白い少女は不服そうなまま。それはもう信じられないと言わんばかりに唇を戦慄かせながら「はあい」としぶしぶ口にするのだった。あんなにも穏やかなに幸せそうに微笑んでいた表情はもはや影も形もなく、口をとがらせてぶすっとしているのである。本気で嫌そうに顔をしかめながら、なんで来るのよぉとぶつぶつ悪態をついているのだ。
「そんなに嫌がらなくても良いではありませんか」
「相手は悪魔ですよぅ、暴れてこのお祭りをめちゃくちゃにするかもしれないってのに!」
咎める言葉を連ねるのだが、しかしヨナは聞き分けない。
悪魔がやってきて暴れる、自分の知る悪魔であればそれは危惧すべき事象だったかもしれない。彼女の言い分はしかしどこか的外れだった。ルーシェルがわざわざやってきて、暴れる可能性を自分はどうしても想像できなかったのだ。意に沿わない事に対しては徹底的に抵抗するだろうが、そもそもこのような催し物には端から不参加を選ぶタイプである。
強大で忌むべき存在、天界を襲撃し同胞を惨殺した穢れの悪魔。
尊大で態度も大きく口も悪い癖に、しかしこれといってこの世界で暴れ自発的に問題を起こしたことはなかった。あくまでも巻き込まれた結果である。どうもふわふわとした女性には弱いらしく、リリーにも梓にも流されているように見える。配下にしたリーネンもそれなりに可愛がっているようだ。力こそ全ての魔界で、自分が斬り捨ててきた悪魔とはあまりにも違う変わり者の悪魔。
「……彼女はそのような事をする方ではありませんよ」
殆無意識のまま口にしていた。
ああ、でも体調不良が続いているからかもしれない。この世界にやってきてすぐは日の光に弱り、竜人に攫われ気を失い、魔界側の刺客に襲われて負傷、カレブに攻撃され負傷。そうして現在は精神的に酷く疲弊しているときた。思い返してみても元気であった期間がほぼないのではないだろうか。常に具合を悪くしている。
「随分とあの悪魔のこと、信用されているんですね」
ヨナが眉をしかめて酷く憂鬱そうな顔をする。実に嫌そうな物言いだ。信用、小さく呟く。私は彼女を信用しているのだろうか。考えみる、自問自答。ルーシェルを信用しているのかと問われたら、それはそれでなんだか違うような気がした。確かにこの世界に来てしばらくは監視という名目で側にいた、彼女がこの世界の者に害為す存在だと信じて疑わなかったからだ。交わした約束の遂行、その過程で知りえたルーシェルという一個人。悪逆非道の悪魔とは違う、弱さを抱えた一人の少女。ああそうだ、ルアードが以前言っていた「小さくて華奢なただの女の子」、だ。
「信用とは少し違いますかね……彼女が何か暴挙に出たとて制圧することは容易いですし、」
「あ! ね、ね、相性占いですって!」
ぐいと突然腕を引かれて言葉が途切れる。
急になんだろうと目を瞬かせるも、会話を無理矢理打ち切るかのようにほら見てください! と。ヨナが殊更声を張り上げて道の先を指さしていた。つられて視線をやる、指の先にはなるほどエルフの男女が向かい合って座っている露店が一つあった。他の店とは違い、屋根から長く垂れている紫色の布がふわふわと風に揺られている。占ってもらおうよーと、交わされるエルフ達の言葉が聞こえてきていた。
「相性、?」
「ヨナとヨシュア様の相性ですよお!」
小さな身体ではあるものの、なかなか強引にその占いの店へと腕を引かれていった。よくよく見ればこちらの文字で「占いの館」と書かれた看板が出ている。布が日の光を遮ってほんのりと薄暗い店内には小さなテーブルが一つ。その上に大きな丸い水晶が在座に乗せられて鎮座している。
「おや、お嬢ちゃんやってくかい?」
「どうやってぇ、相性を見るんですぅ?」
声をかけてきた店主に、ヨナが問う。
「ああ、この水晶に互いにちょっとずつ魔力を入れて、お互いの持つ魔力の相性を見るんだ。水晶の中に沢山花が咲けばそれだけ相性がいいという事になるね。どうする、やるかい?」
「やります!」
店主の説明に、食い気味にヨナは挙手する。そんなにやりたいものなのだろうかとは思うが、今日は一日付き合う約束だ。それに、ヨナが喜ぶのであればそれは叶えてやりたいとも思う。
わくわくしながら水晶の前へと用意された席につき、さっそくヨナは水晶へ手をかざしていた。一抱えほどはある大きなそれは、綺麗に丸く削られ曇り一つない。そこへゆっくりと流されていていくヨナの霊力、微々たるものだが鮮やかな光が注ぎ込まれ水晶の中でゆらゆらと揺れている。
魔力の相性占いとは初めて聞いた。扱える術には相性があるとルアードが言っていた、仕組みはよくわからなかったが恐らくそこから術式を再編成したのだろう。
「ヨシュアさまも早くぅ!」
興奮気味に急かされて小さく苦笑した。
少し気分を害してしまったと思ったが、それでも祭りを楽しんでいるようでよかった。ぱたぱた両手を動かしながら満面の笑み、はしゃいだ声色、早く早くと同じように席をつくよう催促される。
「そんなに焦らなくても大丈夫ですよ」
小さな椅子を引いて、ヨナと向かい合うようにして腰掛けた。
ルーシェルの気配は相変わらずほんのりと漂ってきている。受ける印象は鮮烈なのに、よくよく気にしなければ分からない程薄い霊力。付かず離れず、一体何をしているのだろう。彼女も楽しんでいるのなら良いが……移動はしているようなので倒れてはいないだろうが、その目的が気になった。
促されるままヨナと同じように水晶に触れようとして、そこにふと。素朴な疑問が湧いた。
「霊力でも花は咲くのでしょうか」
「レイ……リョク……?」
何気ない問いかけに、店主がきょとん、と。目を瞬かせた。
あ、これはよろしくない、そう思った瞬間。
「――ッ!」
ばちん、と何かの弾ける音。びしびしと水晶の周りで雷のように力が蠢いている。そうしてそれが、きゅう、と。透明な石の中で霊力が急速に収束する。まずい、とっさに腕を伸ばす。
「ヨナ、……ッ」
小さな身体を引き寄せ、弾け飛んだ力から庇うように抱きしめた。やはり魔力で駆動させているものに霊力を流し込むのは駄目だったらしい。似て非なる力、形容しがたい感覚、暴発だ。水晶の中に書き込まれた術式がそれ以外の力に不可解な挙動を弾き出し、剥き出しの力が身体を貫いていく。
激しい頭痛、受けた力が無理やり何かを押し込めていくかのような感覚。眼裏で瞬く閃き、喉の奥が引き絞られるかのように。
――意識があったのはそこまで。
視界が黒く塗り潰される前に、遥か過去の光景を見た気がした。
※
じいと見つめる先で、天使共は相変わらず呑気に祭りを楽しんでいるようだった。引っ付いたり離れたりしながらも男の側から離れず纏わりつく白い小娘へと、何やら買い与えられているのが見えた。遠くからはよくわからないが、往来で跳ね回っているのがわかる。相変わらず無自覚に慈愛を振りまく男である。
「ルーシェルさまはヨシュアのどこがいいんにゃ?」
木々の影に身を隠しながら覗いていたら、背後から投げかけられてぎしりと動きを止めた。振り返らない、背後から向けられる視線は非常に白けたものだった。見ずともわかる。こほん、と一つ咳払いをして。
「……悪魔の王である私が、なぜ天使なんぞに、」
「そーゆーのいいんで」
ぴしゃりと言い切られる。
流石にむっとして振り返れば思った通りしらっとこちらを見つめているオレンジ色の使い魔。琥珀色の瞳がじいとこちらを見つめていて、何となく、いたたまれなくて居心地が悪い。無言の圧力。
「……貴様、随分な態度だな」
「勝手に死のうとしたの、だんだん腹立ってきたんにゃ。にゃーは怒ってるんですからにゃ!」
ぷんぷんなんですよ!
可愛らしい擬音と足を踏み鳴らす様子に、まあ確かに腹を立ててはいるんだろうがどこまでも愛玩動物的な可愛さがついて回る。力を持ってないというのを差し引いても全くもって怖くないのだった。そもそも何を怒ってるのだか。あれか、私が死ねば契約が解除され庇護がなくなることを危惧しているのか。飼い主は飼い主らしく最期まで面倒を見ろということか。
「どうせ魔界には帰れないんだろう、私との契約がなくなればこちらの世界で自由だろうに」
「なんでそんにゃこと言うんにゃ!?」
今度はわあっと半泣きでこちらへと抱きついてくると来た。低級者は大して役に立たないというのに感情表現ばかり激しい、そもそも意味がわからない。
「にゃーはルーシェルさまの使い魔にゃ! ルーシェルさまは命の恩人なんにゃ! 誠心誠意! 平身低頭! 頑張らせていただくんにゃ!」
「お前のそれのどこが平身低頭だって?」
「ルーシェルさまが悪いんじゃにゃいかぁ!」
小さく暖かく柔らかいものが自分にしがみついてみーみー泣き出すのはそれはそれで非常に鬱陶しかった。視界の先で実に穏やかにデートやらを楽しんでいる天使どもとはえらい違いである。
はあ、とこれみよがしに溜息を付けば、ひどいにゃあとリーネンは更にきつくこちらへとしがみついてくるのだった。これのどこが誠心誠意平身低頭だというのだか。
目をやった先、明るい世界で笑い合っている天使やエルフども。
わざとそこから外れた所を選んで歩いているとはいえ、明確に境界を引かれたような感覚に小さく息をつく。そうと目を細める、交わらない。当然である、例え自分があの場にいたとしても白布に広がる黒いシミのように異物感を感じるだけだ。伸ばした己の腕すら見失うほどの闇の中に住まう自分が、圧倒的な光を求めた所で焼き尽くされるのが関の山である。焦熱。焦炎。骨も残さず焼け落ち灰燼に帰せば、少しはこの罪も償われるだろうか。
「仮に、……そうだとして。どうなる?」
く、と零れ落ちたのは自虐的な自嘲だった。
自分が、あの男に焦がれているとして、実際問題一体どうなるというのだ。
「例えあいつに対する……想いが、私にあったとして。最初から告げるつもりなどない。天使と悪魔が手を取り合ってなどとお笑い草もいいところだ」
永劫殺し合うだけの種族である。
地に堕とされた我ら悪魔を天使は許さない。神の名のもとに断罪。粛清。今現在が異常だから勘違いしそうになるだけで、最初からおかしな関係なのだ。共にあること、協力すること。手を伸ばせば触れる事が出来る、向けられるのは優しくて温かな眼差し。泣きたくなるほどに。
「そもそも、あいつからしたら……願い下げだろうよ」
ほつりと口にした己の言葉に、きりきりと胸の奥が傷んだ。
悪魔に想われるなどあの男にとって害にしかならない。そんな事は重々理解している。穢らわしいこの身、汚濁に満ち罪に塗れた自分が同じ空間にいること自体がおかしいのだ。元の世界に戻ることを願われ、部下に慕われ、小娘に愛を囁かれ、何もかも違うあの男に私が懸想した所でどうなるものでもない。限定的な慈悲と慈愛、気遣い、元の世界に戻り再戦するという約束をあの男は律儀に守っているだけに過ぎない。
「そんなこと、」
「あいつの手は救う手だろう、だから、もういいんだ」
これ以上望むことなどない。ぎゅうと胸元で揺れるペンダントを握りしめて、ひとりごちるように。
差し伸べられた手の暖かさに、どれだけ救われたのかなんてあの男は知らなくていい。誠実が服を着たような男の馬鹿みたいなおせっかい、気遣われて渡された赤い石のペンダント。これで十分ではないか。
改めて天使達を伺い見る、また何やら露天先で足を止めているらしく随分と楽しんでいるようだった。望むことなどない、想いを告げるつもりもない。それでもこうして尾行などという魔王にあるまじき行為をしているのは、あの白い小娘が心底気に入らないからなのだろうと思う。さも当然のように男の側にいる、わがままを言う、それを許している男がたまらなく気に食わないのだ。
「…………、?」
ざわめきの雑踏、木々の擦れる音。
何やら不穏な力の発露を感じて眉を顰める、そうと意識して気配を探ってみる。エルフ達の持つ魔力が濃密に漂う空間に、まるで柔らかく灯る明かりのように輝く天使の霊力がぽかりと浮いていた。それが、妙な形で蠢いている。織り上げられた術式とは違う何か、純粋な力と見せかけて不可解な回路が構成されている。形にもなっていない構築式、放り出された力が、織り上げる事すら出来ない酷く乱暴な演算に組み込まれようとしているかのように。
なんだか様子がおかしい、と身をわずか乗り出した瞬間。
こちらへと襲いかかる煌めく銀光、咄嗟にリーネンを突き飛ばした。
「ナハシュ・ザハヴ……ッ」
金属のぶつかる嫌な音が響き渡る。
呼び出した愛器で振り下ろされた刃を受け止めるが、そのまま力任せに吹き飛ばされた。ざっと地を蹴って体制を立て直す、街道から離れた森の中で何かが更にこちらを追って向かってくる。大勢ではない、一つの聖性。天界からの敵襲か、びりびりと痺れる手で改めてナハシュの柄を強く握りしめる。馬鹿力め、と悪態をつきながら相手を改めて見据え、斬り結ぼうとして。ひゅ、と。喉が鳴った。
真白い衣服、輝く金の髪。
こちらに刃を、向けているのは。
「よ、よしゅあ、……?」
リーネンの呆然とした声が風に乗って舞う。
どうしてと呆けたのが悪かった、そのまま男に腹を蹴り上げられる。詰まる息、ぐ、と悲鳴とともに後ろへと飛び退る。なおも追撃、向けられる剣戟、受けることしか出来ない。幾重にも連なる攻撃、感情のない刃は的確で起動が読めない。いなすことしか出来ない。
「…………ッ」
男が動く、状況が飲み込めないでいるこちらへと一瞬にして間合いを詰められる。向けられる刃、受け止めるが端から力比べでは敵うはずもない。相殺して距離を取ろうとするが、それすら敵わず更に幾多もの刃が降り注ぐ。
防戦一方だ、体格差もあって非常にやりにくい。
天使は黙ったまま、攻撃の手を緩めない。そこにはここでの決着をあれほど嫌がっていた男の名残はなかった。ぽっかりと感情が抜け落ちたかのような無表情の天使に、ぞわりと肌が泡立った。
「貴様、何を、」
「悪魔はすべて排除する」
ぞっとするほど冷ややかな声に、びくりと肩が震えた。同じ声色なのに、気配なのに。纏う霊力の聖性さえ微塵も変わらないのにまるで違う。
あんなにも優しい空色の瞳に、鮮やかな朱色が混じる。
こいつは誰だ。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




