67 陽だまりに咲く花 - 1 -
よろしくお願いします
夢を見た。
随分と自分に都合の良い、甘やかで、優しい夢。濃い闇の中に差し込む光が刃に貫かれたこの身体を癒やし、両手両足の枷を砕いていった。血と腐臭に塗れた一面の闇の中、火花のように弾ける鮮やかな金。決して届かぬものと信じて疑わなかった透き通るような空色が、やわらかく、真っ直ぐにこちらを見つめる。どこまでも優しいのに、強い力で手を引かれ檻の中から救い出される。光の中へと導かれる。向けられる優しい声、暖かな言葉。泣きたくなる程、滑稽で、無様で、不毛で不合理で愚にも付かないのに何よりも欲していたものを、惜しみなく与えられる。目覚めてからも余韻が続くような穏やかな穏やかな。
――ぼんやりと見上げた天井、周囲はしんとしていて薄暗い。
ゆめ、小さくこぼれ落ちた呟きは酷く乾いていた。喉の奥に文字が張り付く感覚。数度瞬きをして、乱暴に目元を拭った。なんて夢を見たのだろう。
明確な意識の覚醒と共にのそりと身体を起こす、己の長い黒髪が夢の残滓のように絡みつくのを無造作に払いのけた。とぐろを巻くかのように波打つそれを忌々しく見つめながら、はあ、と。これでもかと息をつく。胸の内に燻る感情は重くべたついていて、酷く不快だった。
最初は、いつもと変わらない夢だった。闇が支配する世界、満ち満ちた死の匂い、怨嗟、詛呪。犯した罪を忘れるなと幾度も繰り返され、肉体を破壊されていく。それなのに、……突然、全ての悪を断罪する天使が現れた。いや、あの男が夢の中に現れたのは前にも一度あったが、あれはあいつが勝手にこちらへと干渉してきた結果だ。だが今回は違う。今回の夢は明らかに、あまりに、自分に都合の良い……
もう一度息をつき、傍らに目をやれば使い魔が転がっていた。人型の姿のまま、腹を出して布団からはみ出ているのである。他に人はいない。
花祭りとやらの二日目。
今日もどうやら天気は良いらしく、きちりと閉められたカーテンから薄っすらと明るさが滲んでいる。閉じられ静まり返った室内、窓の外からは遠く遠く賑やかな音が微かに聞こえてくる。まるで薄い膜で隔てられたかのように。そこに確かにあって触れられないもの。光と交わらぬ異質な自分。まるで隔離されているかのよう。
「ふがっ、?!」
胸中を満たす不愉快な感情そのままに、呑気に寝息を立てているリーネンの鼻をつまみ上げれば妙な声と共に飛び起きた。状況が飲み込めないのか、どこか焦点の合っていない金の瞳がきょろきょろと周囲を伺い――ぱちりと。こちらと視線が合う。とたん、ひゅ、と。息を呑む音が聞こえた。
「る、るーしぇるさま、」
「起きたか間抜け」
百面相か貴様、と続ければ赤くなった鼻を擦りながらもリーネンは「もっと優しく起こしてほしいにゃあ」と力なく呟いた。使い魔ごときが主人に意見するとはどういう見解だ。そもそもお前が私を世話する立場だろうに……思うものの、使えない使い魔を選んだのは自分であるし、今更処分する気にもなれなかった。現在唯一自分の味方とでも言える存在。本心はどうであれ、裏切るだけの利がこいつにないのだからとりあえず寝首をかかれるようなことはないだろう。血の契約もある。
「えっと、お支度しますにゃ?」
気を取り直したらしい、ぷるぷるっと首を振ったリーネンがさっと梓から貰ったという櫛を手にとった。髪質のおかげか然程絡まることはないとは言え、最近はリーネンに髪を梳かせている。ちゃんとお手入れしてあげると艶が増すんですよぉ、梓が言っていた。何が嬉しいのか、頑張りますにゃあと意気込んでいたのを思い出す。お前こそ寝相が酷く、寝起きはぼさぼさ頭だろうに。オレンジ頭が今日も今日とてあまりに酷いので指先で鳥の巣のようになっているそれを払ってやると、むうと目を細められた。
「いや、……」
乱れ散らかした布団も髪もそこそこに、こちらの背後へと回ろうとする使い魔を制止する。そうして己の長い黒髪を手ぐしで適当になでつけると、簡単にひとつ結びにした。するりと尻尾のようになったそれを軽く流してゆっくりと立ち上がる。まずはこのぐちゃぐちゃな気分を変えたかった。
「顔を、洗いたい。ついて来い」
「はいにゃー」
わかりましたにゃーと陽気な使い魔を引き連れ、ふうと軽く息をつきながら部屋から出た。ら。
ばったりと天使と鉢合わせた。
驚いたように見開かれた空色の瞳が、こちらを映してやがて緩く溶け出した。透き通るようにきれいな笑み、に。ぶわりと自分でもよくわからないところが発火したような感覚。
「おや、おはようございます」
嫌味なくらい穏やかに微笑んで、いつも通りの朝の挨拶。なんの意図もないのだろうに咄嗟に言葉が出ない。いや、そもそも挨拶に応えた事は一度だってないのだが。
「体調はいかがでしょうか」
男は少し身をかがめ、こちらを覗き込むようにしてごく自然に気遣いの言葉をかけてくる。ので、思わず半歩後ずさった。自分の後ろにいたリーネンに軽くぶつかる、あまりにいつも通りなので面食らったというのがいくらか近いのかもしれない。……昨夜は、酷く取り乱した自覚があった。この男の勝手ではあるが傷付け、泣き言を漏らした。気まずいなどと言うレベルではない。
「べ、べつに、」
放っておいてほしいとばかりに、ふいと視線をそらすのに男はそれを良しとしない。
それならよかったと裏表のない優しい声。ちらりとやった視線の先、柔らかく溶け出す空色の瞳にやはりどこか落ち着かない。室内とは違いほんのりと光の差し込む廊下、うすらと日の光を受けて淡く輝く金の髪。なんで、この男は笑えるのだろう。
「昨夜は酷く顔色が悪かったものですから。やはり、貴女も何か食べた方が良いのでは? オリビアさん達が朝食を用意してくださっていますから、少しは口にした方が――」
こちらに語りかける男の言葉など半分も聞いていなかった。ごはん? ごはんあるにゃ? と人の気も知らず声を弾ませるリーネンの言葉も耳を素通りしてく。お前も食べる必要ないだろうに。
眼の前にいる天使は既に身支度を終えていた。花祭りの、確か女の正装である白い衣服で上下を包み、長い金の髪が豊かに背に流れて緑のリボンが揺れている。……なにか、いつもより、洒落た装いのような気がする。宝石などの煌めく装飾品が着いているわけでもない、華美な刺繍が施されているわけでもないのに何か、こう。
「せめて飲み物を、」
「どこか、行くのか?」
食事を摂ろうとしない自分に対する苦言と、これはどうだと思ったらしいものを口にし続ける男へと向けられた言葉。きょとりと、意外そうに男が目を瞬かせたのに気付いてそこで初めてぎょっとした。殆ど無意識に口からこぼれ落ちていたのだ。慌てて口元を押さえるも後の祭り、明らかに聞いていないとわかっただろうに、天使はやはり気を悪くしたでもなく。小さくへらりと笑うものだから、慌てたようについ言い訳のようなものが飛び出していった。
「ち、違う、貴様がどこで何しようが私には関係がない、」
「そうですねぇ」
返ってきたのはゆるい肯定の言葉。
慌てるこちらとは対象的に、のほほんと男は不思議そうにしながらも穏やかに笑っている。こちらも何を言っているのか定かではなかったが、輪をかけて天使はふわふわと微笑んでいるばかりだった。関係がない、それは、そうだ。天使がどこで何をしようが悪魔である自分には何も関係がない。自分で言っておいて妙に胸が傷んだ。ような気がした。
もう少し可愛らしいことでも言えたら、きっと違うのだろうに。
何がどう違うのかさえはっきりわからないのに、そんな漠然とした感情が胸中で荒れ狂う。何かを言わねばと思うのに言葉が出てこない、いつもより着飾った天使、どこへ行くというのか。誰か一緒なのか。何かあるのか。聞きたいことはそれだけなのに、うまく感情はそれらを制御できないでいた。いや、聞き出した所で、自分に何があるというわけでもない。文字通り、「関係ない」――ただそれだけ。
現在己の姿が昨夜のような派手なワンピースではなく、ゆるい寝具でもあるのも狼狽えるのに拍車をかけた。さっと思わず胸元を隠す。
「私は少し出かけてきます。貴女はもう少し休まれてはどうですか、まだ調子が悪そうだ」
ぐるぐる目まぐるしく駆け回る感情、不可解な浅ましさ、羞恥。打算的なもの。それらをなぎ倒すかのように、ふわりと。額に男の手の甲が触れてきて文字通り飛びあがった。声もなく男の手をはたき落とす、驚いたかのように目を丸くする男の表情が酷く間抜けだった。ただの気遣い、他意など微塵もないのだとわかる分、このさりげない優しさは単なる凶器にしかなり得なくて。
「どうしたのですか、」
「う、う、うるさい! 気安く触るな!」
びっくり、という言葉をここまで表現できるのかと言わんばかりの表情で男は困惑している。それはそれで非常に愉快で滑稽なはずなのに、跳ね回る心臓がそれどころではなかった。男の触れていった額へと手をやる、ほんの一瞬のことだったというのに男の体温が残っているようで落ち着かない。距離感のおかしい男の、その離れていった大きな手。意識する必要などないのに己の抱える感情に気付いては最早毒にも近かった。
ぱたぱたと、軽い足音が聞こえてはっとした。
窓を背にした男と共に、廊下を挟んだ影の落ちる扉の前から音の方を見やれば白い塊。
「ヨシュアさまーぁ!」
酷く間の抜けた声と共に、白い小娘が天使へと文字通り飛びついた。
それを柔らかく抱きとめる男、親と子のじゃれ合いのようでいて仲睦まじい恋人同士にも見えた。幸せそうにほんのりと頬を染める小娘は男にしっかりと抱きついて、それを支えるように男が抱きかかえ――じわりと、なんとも言えない感情が胸を逆撫でていく。
白い小娘は昨日着ていた豪奢なウエディングドレスのようなものではなく、シンプルながらも上品なワンピース姿だった。華美な装飾を好まない天使らしく、やはり宝飾品などは身につけていない。天使同士、二人並ぶと酷く絵になるような、そんな対とも言うべき調和の取れた衣服。意図されたものだと一目でわかるその姿。
「ヨシュアさまぁ、とってもぉ、お綺麗ですぅ!」
「ヨナもよくお似合いですよ」
「今日はぁ! デートですのでぇ! 気合を入れましたぁ!」
夢見るようにうっとりとした表情の小娘を、男はゆっくりと降ろしてやっていた。その一瞬、まるで見せつけるかのようにふふん、と勝ち誇ったかのような小娘と目が合う。そうして小娘は再び男へと向き直るとごく自然に腕を組んで幸せそうな表情を浮かべた。するりと身体を寄せる小娘、こちらを無視して二人はほんのりと明るい廊下で互いに微笑んでいる。天使達の影が並んで伸びる。相変わらずやかましいやつだにゃあ、ぶつくさ背後で悪態をつくリーネンの声がどこか遠くで聞こえた。
「……デート?」
思わずぽつりと。口にしていた。
自分でも驚くほど低い声に、天使どもの視線が向けられた。空色の瞳、淡く青みがかった緑の瞳。金糸のような金の髪と白絹のような白髪。どちらも淡く清らかで真白い。柔らかな光りに包まれた廊下、光源は天使達の背後。窓から差し込む柔らかな光。照らされるほどに足元の陰りは色濃くなっていく。
……昨夜も、随分遅くに帰ってきたらしい事を知っている。階級の差はあるとは言え二人は同郷だ、同じ天界に住む天使なのだから、それなりに積もる話もあったのかもしれない。どんな関係なのかと聞いても適当にはぐらかされた、ただの知り合いではないのは確かなのだろうが全ては憶測。私は、あの男のことなど何一つ知らない。
「いえ、」
「だったらぁ、なんだっていうんですぁ?」
何やら否定の言葉を口にする男の声を遮って、白い小娘が挑発的な態度でのたまう。
「悪魔であるぅ、あなたにはぁ、関係ないじゃぁ、ないですかぁ」
圧倒的有利を確信したかのような悠然とした声。表情。こちらを睨みつけきっぱりと拒絶。可愛らしく微笑んでいるというのに眼差しは鋭い。その淡い色彩の瞳は蔑みの色を隠しもしない。向けられるのは直球の、腹立たしいまでの嫌悪。猛る憎悪。
すり、と男に絡ませた腕へ額を寄せながら、まるでこちらへと見せつけるかのように小娘は男に寄り添う。これでもかと言わんばかりに煽り立てる。
「ヨナ、」
流石に鈍感な男も小娘に対し不穏さでも感じ取ったか、諌めるように声を掛けるが小娘はつんとそっぽを向いただけだった。言うことを聞く気などさらさらないらしい。そのくせ、まるで懇願するかのように男を見上げる。か弱い低級者のおねだりの体で、男の腕をぎゅうと抱きしめる。どこまでも強かな、わかりやすい愛玩行為。
「約束、ですもんねぇ? 今日はぁ、付き合ってぇ、くださるんですもんねぇ?」
そう言えば男が断らないと見透かしている言動だ。
案の定男は困ったように眉を下げるものの、もちろんですよとへらりと笑いながら随分と安請け合いをしている。デートの意味を、小娘の感情をどこまで理解しているのかすら定かではない。
「え、ええと、それでは。ルーシェルは休んでいてくださいね」
「デートなのにぃ! 他のぉ! 女のぉ! 名前なんて呼ばないでくださいよぉ!」
「え、あ、す、すみません……?」
低級者であるはずの小娘が、噛みつかんばかりに遥かに階級が上の男に食って掛かっていた。気迫に気圧されでもしたか男は困惑しつつも謝罪の言葉を口にしている。小娘は小娘で、わかればいいんですぅ、などと唇をとがらせていた。いいのかそれで、思うものの、自分ごときが何を言えるでもない。悔しい、と。思った。何故かなんてわからない。何に対してかすらはっきりしていないのに、腹の底が冷えて、酷くむかむかする。
そのまま、ずるずると小娘に引きずられるようにして天使は廊下の向こうへと消えていった。遠ざかっていく楽しげな声、リーネンがべーっと舌を出して嫌な奴! と詰るように吐き捨てていた。
見送る背中、立ち尽くすしか出来ない自分。何か言ってやりたい、のに。猛る胸中、言葉は舌先に張り付いたまま放たれることはなく。ぎゅうと拳を握る、絡まることもない己の黒髪がさらりと揺れて不快。
きっと、多分。小娘にいいようにされている男が気に入らないのだと思う。自分に対抗できる唯一の存在、天界最強の天使。そのくせ誰にでも向けられる善意。腰の低さ。
「――気になる?」
不意に上がった第三者の声にびくりと肩が震えた。
ばっと振り返る、そこにはいつの間にいたのだろう、にこにこと笑う梓の姿。その手には大きめの籠がぶら下がっている。移動用の空飛ぶ椅子は足音がしないので、どうにも気配が読みにくくあった。ではなくてだ。
「何が、」
「ヨナちゃん、すっごく気合い入れてたなあと思って」
じろりと睨みつけるも、梓はまるで堪えた様子もなく。「ご飯持ってきたんだけど食べられる?」などと言いながら籠の中から小さな包みを一つ取り出していた。それにを受け取ったリーネンがごはんにゃあとはしゃぐ。だから、お前は食べる必要がないだろう。そんなどうでもいいことが苛立ちと共に胸が濁る。燻るような怒り。
小娘が気合を入れて着飾った、男の為に。デートの為に。だからそれが一体何だというのだ。
「……別に、気になんか、」
ならないと言い返しかけて、言葉が喉につかえる。
あの男にとって誰かに優しさを振りまくのは意味のある行為なのではないのだ、きっと。なにもかも、なにもかもだ。誰も彼もあれの特別にはなれない。私が、あの二人のことを気にした所で何が変わる筈もない。あいつは既に「特別な誰か」を決めている、後生大事に抱えているのだと気付いてしまった。小娘ではない誰か、滑稽にも映る小娘のその必死さがだからこそ痛く、苦しく、苦い。男はただ独善的に孤高、平等、博愛、絶対的な善性。別け隔てなく振りまかれる慈悲。そのくせ他者を一切を踏み込ませない明確な一線。
「えっとねぇ、今日はお天気もいいし、お散歩に行ったらいいんじゃないかなぁ」
「はあ?」
黙り込んだこちらに、そらとぼけたような梓の物言い。
じろりと見やるも、どこ吹く風でへらりと笑っている。
「ルアードさんにもこれ届けて欲しいんですよねぇ。オリビアさまに叱られて、朝ごはんも食べずにお屋敷を追い出されてるんですよ」
そう言って梓は籠をこちらに差し出してくる。
一抱えほどある大きさのそれには、小さな包が幾つかと小振りな果実、飲み物の入ったらしい水筒が一緒くたに入れられていた。
「何やったんだあいつは……」
「どうもお酒をいっぱい飲んでたみたいなんですよねぇ。夕べの開幕式にも出れてないし、オリビアさま激おこなんですよ」
「自業自得だろうそれは」
「んー、でもまあ、ほら、やっぱりごはんって大事だし?」
ねー?
梓が包みを抱えたままのリーネンと共に顔を見合わせて笑っていた。そうしてこちらが受け取ろうとしない籠をぐいぐい押し付けてくる…⋯どうでも、出かけてこいという事らしい。何故自分がと拒否をしたところで収まりそうにない、断るとなるとそれなりの労力が必要になりそうだった。
はあ、と。こぼれ落ちたのはどこまでも深い溜息。だから、この判断は仕方のない事なのだ。
「…………わかった」
まるで自分自身に向けるように、言い訳が口をついた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




