66 夜の闇に沈む
よろしくお願いいたします。
シャーロットの言った通り、イーサンが初日の終了宣言と共に腕に絡みついていた布はするりと解けた。リーネンは着ていた可愛らしいワンピースを脱ぎ捨て、ルーシェルも手首から布を千切り捨てる。魔法が解けたせいなのか、地面に落ちた白い布は地に触れるよりも前にふうわりと消えていった。
日が沈んでそれなりの時間が経っていた。
エルフ達のざわめき、色とりどりの光が灯ったセセアの大木。闇色を照らす数多もの淡い光は実に鮮やかだった。
ルーシェルは何か考え込んだかのように黙り込んだまま。心配そうにそれに付き添うリーネン、微妙な距離は変わらないまま、なんとなく寄り添うようにしている梓とアーネスト。それぞれがそれぞれ帰路につく。
屋敷へと戻ってきた時、ヨナは部屋にはいなかった。
酷く疲れたようなルーシェルを先に休ませる事にし、心配する梓達に探してくると言って部屋を後にした。そうして探すことしばらく、広い部屋でひとり、ソファにぽつりと座り込む少女を見つける。大きな窓のある植物に溢れた応接室。明かりもつけずにいるのだが、煌々と輝く月明かりに室内は思ったよりも明るかった。黒々とした影、その中に浮かび上がる小さな姿。
「こんな所にいたのですね」
扉に背を向けたままの白髪に向かって声をかければ、じろりと青みがかった緑の瞳とぶつかる。華やかな真白いワンピース、解いてゆるく波打つ白髪はそのままに。泣き腫らしたのか、目元を赤く染め上げて恨みがましい目。普段よりも着飾っている分、どうしようもなく申し訳無さが襲った。どうしてルーシェルを気にするのかと、どうして追いかけるのかとすがる彼女の手を振り払ったのだ。やむを得なかった、とはいえ、もう少しやりようもあったのではないだろうか。
「ヨナ、先程は、」
「変わられましたわ」
謝罪の言葉を遮るように、肩越しに向けられた非難は嗚咽混じりだった。月光に照らされて少女の白い髪が淡く輝いている。薄く色づく唇が歪む、儚い吐息のように言葉が吐き出される。
「あれほど、あれほど沢山の悪魔を殺してきたあなたさまが、どうして……穢らわしい悪魔を助けるのですか。殺しては駄目だと、そう仰るのなら、あんな悪魔なんか放っておけばいいじゃないですか。サンダルフォンさまだって、お迎えに来られたのに……なんで拒否するの、あなたはみんなに、天界に、こんなにも必要とされているのに……!」
ぼろりと大粒の涙がヨナの頬を零れ落ちる。なんで、どうして。悪魔を殺さない。魔王を助ける。幾度となく繰り返された言葉を、少女は再度口にする。何故だと糾弾する。桜色の頬にぼろぼろと涙が流れる。言葉が崩れる。
――数多の悪魔を殺害してきた。戦場での実践、実行、反動、調整、修正、再び実践と実行。際限なく。血と死臭、腐敗の音。失われれていく幾多もの仲間、研ぎ澄まされる精神、摩耗していく何か柔らかなもの。いびつに歪む心、夥しい悪魔の躯の上、光り輝く世界で望まれ就いた地位。……必要とされている事など、重々承知している。痛いほど理解している。それを踏まえた上でなお、悪魔の側にいる理由など。
「魔王を監視する為ですと、」
「ウソよ!」
噛みつくように。
「あなたさまが悪魔を生かしておく筈なんてないのに! なかったのに! 何の為にあなたが、あたし達が、……ッ!」
それ以上は言葉にならないと言わんばかりに途切れる言葉、しゃくりあげる声、すがりつくかのようにこちらへと伸ばされる手。小さな指先が服の裾をつかんで離さない。きつく握られる指、ほんの一拍ほどの空白。
「やっぱり、恨んでる……?」
砕け散るガラスのような儚い声、俯いた少女の顔は見えない。こちらの胸元へと額を押し付け、爪を立て、絞り出された声色は硬く脆く。
誰を、とも。何を、とも。少女は言わない。言わないのに、何を指しているかははっきりとしていた。突き刺さる言葉、意味、貫いたまま抜けない痛み。――恨み、など。そんなもの。
「さあ……どうでしょうね」
「なによそれ、」
ふ、と小さな微笑を唇の端に浮かべながら返すが、しかしこちらの言葉にヨナは納得しない。顔を上げて、唸るような声と共に腫らした目元のままこちらを睨みつける。
「恨んでる、から。これ幸いにって、穢らわしい悪魔と共に、反旗を翻すの……?」
続いた言葉に、少しばかり目を見張った。反旗とは穏やかではない。神に仕える身である自分が、天界最高位のメタトロンの名を戴く、最も神に近い自分が。万物の創造主へと弓引くとでも思われているのだろうか。
「それは……また、随分と突拍子もない」
「だって、それだけの理由があるじゃないですか」
呆れたように言うも、すんすんと鼻を鳴らす少女はさらに続ける。それだけの理由――遥か昔の事。脳裏によぎるのは輝かしい世界、かつての光景。真白い空間、光に満ち溢れた鮮やかな色彩、弾けたようにぶちまけられた赤が燦爛と。
己の唇からこぼれ落ちた吐息は、苦笑とも諦めともつかない曖昧なものだった。
「……もう、過ぎたことでしょう」
ゆるく笑って口にする。
それこそ今更だ。
「戦力増強の為、個々に付加価値を付ける事は理にかなっています。ただただ倫理観がないだけで、……追い詰められた者達の、行き着く先の惨状など。特段珍しいものでもない」
言葉は淡々と口から紡ぎ出される。ゆっくりと己の指を握れば、隅々にまで満ちる膨大な霊力を感じることが出来た。条件さえクリアすれば問題なく発動する霊術、ひたすらに研鑽を続けてきた剣術はそのままに。吐息のように漏れ出る言葉、個としての感情は底に沈め望まれるまま。
「だからといって、……」
ぎゅうと唇を噛み締めて、ヨナは言い淀む。
仕方のないことだったのだと、思う。それは彼女自身もようよう理解している。座して死を待つばかりならばとこの身に施されたもの。魔界側の猛攻、勝つ為には戦況を覆すだけの力が必要だった。悪を薙ぎ伏せるだけの圧倒的な力。一騎当千の兵を用意する事は急務だった。善も悪も、正邪すらかなぐり捨て行われた強化実験、結果は――惨憺たるものであったが。
するりとヨナの小さな指が離れる、うつむく彼女の背後には大きな窓。静かに光を放つ冴え冴えとした月が、濃く深い闇色を煌々と照らしている。差し込む月明かりが柔らかな色彩の床に影を作り上げていた。ヨナの頭を飾るセセアの花、甘い香り。光の筋。緩やかに伸びるそれは、まるで手を伸ばしては絡め取るかのように。
「それに、……恨むというなら、あなたの方では?」
乱暴に擦ったからだろう、腫れた目元のままきょとんとヨナがこちらを見返してくる。大きな目を縁取る睫毛に涙の雫、月明かりに照らされ銀色に輝いている。無理に押し出したような笑顔を浮かべ小さく弾ける雫、表情は苦々しいのに声色だけは妙に明るく。
「あたしは出来損ないだもの、早々にお役御免だったけど……あなたは、そうじゃなかった」
「見た目が変わらないということの方が苦労しそうですが」
「まあ? これは? これでぇ? 使い勝手がぁ、良いものなのですよーぅ?」
両手を頬に当て、きゃるん、とそんな擬音が聞こえてきそうな態度でヨナは笑う。取り繕ってはいるが、無理矢理作ったかのようなどこかぎこちない笑みだと思う。幼い幼女姿の彼女はその実、少しばかり自分より長く生きてきている。
「……施設はとうに閉鎖、研究員もみんな空に昇っていった。あたし達の事を知ってるのは最早当人たちだけ。あたしと、あなただけ」
もう誰もいないと、ヨナは酷く強調する。
施設にいた子ら、研究員達、みな随分と昔に主の元へと旅立っていった。甚大な被害を出し続ける戦況化での、起死回生をかけた実験。成果を急き、肉体にも精神にも高負荷を掛け続けた。強化という名の改造、想定内の異常、想定外の事故、そうして残されたのはヨナと自分だけ。
――約束だよ、
閃光、眼裏に瞬くフラッシュバック。記憶の奥底に沈んだ優しい声が唐突に蘇る。脳裏に焼き付いたまま離れない光景、声色、視界を染め上げる深紅ばかりが鮮烈で。力なく横たわる身体、握った手から少しずつ抜けていく体温が酷く悲しい。徐々に解けていく躯、塵一つ残さず光へと返っていく。掻き集めようとしても指からすり抜けていく、ゆっくりと命が肉体から抜け出していく。抜けて、軽くなる。まるで初めから存在していなかったかのように。残るのは、置いていかれたという事実のみ。
「置かれた状況が違うから、あたしは、なんでこんな目にって、そりゃあ確かに思うけど。姿形が変わらないのだって、施された術式が変に作動しているだけだし……あなたほどじゃない。霊力もこんなだし、下っ端でなんとなく生きてる。それはそれで、いいの。もういいのよあたしは」
ぽつりぽつり、ヨナの口から呟かれる言葉。少しずつこぼれて床の上に転がるよう。
恨みがないわけじゃない、その言葉には諦めの色が多分に含まれていた。どうしようもない、どうすればよかったのかもわからない。持って生まれたもの、施され与えられたもの。与えられたのだから――望まれるまま振る舞う他ない。他の道などない。他の生き方など知らない。心は必要ない。個など、最初から。
するりと、ヨナがこちらに手を伸ばす。
小さく細い腕が、指が、ぎゅうとこちらの手を握る。まるで聞き分けのない幼子を諭すかのように。酷く冷えた指先が宥めるかのように。
「ね、戻ろう? サンダルフォンさまと一緒に天界へ戻りましょ? あなたの居場所は、ううん、あたし達の居場所はあそこしかないでしょう? もう、全部、他の方に任せちゃってもいいじゃない……あんな悪魔なんかにあなたが心を砕く必要なんて無い。地の底の事情にこちらが干渉なんて出来ない。そもそも悪魔なんてものが存在しているから、あたし達はこんな目にあってるというのに。どうしてあんな女にそこまでこだわるの。どうして助けるの」
優しく囁くような声色とは裏腹に、早く殺してしまえと、言外に、眼差しに溢れてこぼれる。
悪魔さえいなければという彼女の言い分は当然のものでもあった。すべての元凶、そもそもの始まりは天から投げ落とされた同胞だ。堕天し悪魔と名乗ったかつて神に仕えた者達。地の底で王国を作り増殖していった天使の成れの果て。自分達は永遠にも似た長い間、ひたすら同族殺しを繰り返しているのだ。
魔界の王、魔王ルーシェル。
何の因果かこの世界に共にやってきた悪魔。
自分の知る悪魔とは随分と毛色の違う彼女と、こうしてこの世界に来た意味を、その理由を。ずっと考えている。
彼女を殺す事はきっと容易い。あの膨大な霊力は恐らく生まれつきのものだ、力の織り上げ方はずば抜けた才があるがそれだけだ。霊力の使用制限下では大した脅威にはなり得ない。異常なまでな攻撃特化で治癒霊術すら使えないのは、霊術だよりだったからではないだろうか。体格差も性差もある、身体も小柄であまりにも細い。現状、自分が負ける要素がまるでない。では何故、そう問われても自分に言える事といえば一つしかなかった。
「約束を……交わしました。元の世界へ戻り決着をつけると。約束は、守らなければなりません」
それ以上でもそれ以下でもない。
ヨナの、くるくるとよく変わる表情が不服そうに歪む。
「穢らわしい悪魔でも?」
「誰であっても」
交わした約束は果たされなければならない。それが悪魔であろうと人間であろうと、たとえ異世界の者であったとしても変わることはない。そう、当然とばかりに小さく微笑んで伝えるのだが。
ヨナは呆れたと言わんばかりにその可愛らしい表情を思い切りしかめていた。こちらの手を握るその指にわずか力がこもる。
「じゃあ、じゃああの女が特別だからじゃないのね?」
苦虫を噛み潰したかのような表情で投げかけられたのは、どこかで聞いたような言い回しである。じろりと見上げてくるのは胡乱な眼差し。青みがかった緑の瞳にはどこか探るような光が湛えられていた。……ルーシェルもヨナも、何故同じようなことを聞くのだろう。
「神の愛は平等です。特別だなんて、そのようなもの私には不要でしょう」
ため息混じりに告げるのだが、少女の疑わしい眼差しが変わることはない。ふうん、そう、何やらぶつぶつと言いながらぱっと離れた指、そのままこちらへと背を向ける。何を言わんとしているかまでは解らなかったが、どうもいまいち信用されていないような気がする。
名を戴いた。そこに特別という名の区別は望まれていない。ただただ平等な情愛。別け隔てなく善を行うべき存在であって、例外的なものは許されていない。それはヨナも理解しているだろうに、どういうわけだか妙に呆れたような声を上げた。
「そういう事にしておいてあげます」
「ええと、……?」
言っている意味がわからないのだが。
特別などいないと言っているのに「そういう事」とは一体どのような事だというのだろう。よほど困惑した表情でもしていたのか、ふは、と。ヨナは吹き出した。笑顔、けれどどこか頬に寂しい自嘲が浮かんでいる。
「ねぇ、どうしても戻る気はないの?」
くすくすと笑っていた少女が、ぽつんと呟く。
優しい色の瞳が緩く融けてこちらを見つめていた。静かに凪いだ色。
「今は時期ではないと言っているのです。いずれ、時が来れば」
「相変わらず真面目だなあ……でも、そうよね。ヨシュアさまはぁ、そういう方ですものねぇ」
納得しているのかいないのか、普段の調子でヨナはため息混じりに口にする。
間延びした喋り方は彼女なりの処世術なのだろう、幼さの残る態度で低級天使として溶け込んでいるようだった。外見などどうとでもなる、あえて幼い姿をとる者もいなくはない。
不意に、ぴょん、とヨナは座っていたソファから立ちがった。少女の柔らかく波打つ白い髪がふわりと揺れる。月灯りに照らされてまるで銀糸のよう。そうしてこちらへと振り返ると、にんまりと。いたずらっぽく笑って。
「ね、ね! 明日ぁ、デート! しましょぉ?」
突然、ぱっと華やぐようにヨナは声を上げた。
デート、とは。恋い慕う間柄で行うものではなかっただろうか。ヨナは自分と同じ過去を持つ協力者であり、唯一の同胞でもある。デートという言葉が適応される関係性ではなかった筈だが。
「急にどうしたというのですか」
「えー? さっきはぁ、悪魔を優先してぇ、置いていかれたのでぇ、ヨナの心はぁ、とおってもぉ、傷付いたのですよぉ。これはもぉ? お祭りをぉ? ご一緒しない限りはぁ? 癒やされないんですぅ」
両手のひらを胸の前で合わせて歌うように。
確かに手酷い仕打ちをしてしまった自覚はあったので、それを突っぱねるのも何か違うような気がした。ふわりふわりとゆるやかに踊る少女の、足元の影が同じように跳ねる。窓から差し込む銀色の光が薄暗い室内で陰影を濃くしていた。
するりとソファを避けてヨナの傍へと近寄る。
見上げてくる淡い色彩の瞳には、駄目でしょうかと。ほんの少しだけ不安げな色が滲んでいて小さく苦笑。強引なようでいて彼女はいつだって自分の事を案じてくれている。このような自分でも慕ってくれている。拒否するだけの理由などなかった。
「私などで姫のお相手が務まるでしょうか」
うやうやしく少女へと手を差し伸べると、ぱっとヨナは顔をほころばせた。そうしてそのままこちらへと抱きついてくるのを柔らかく抱きとめる。ぎゅう、と腰へと回される細い腕。
「わかってぇ、ないですねぇ? ヨシュアさまじゃなきゃぁ、だめなんですよぉ」
嬉しそうに、楽しそうに。けれどどこか軽い物言い。
しがみつくかのように抱きついてきているヨナの表情は見えないでいた。ありがとうございます、言いながらふわりと少女の頭を撫でてやれば、嬉しそうにこちらの手のひらへと押し付けてくるのだった。さながら甘えてくる猫のよう。
「ヨシュアさまはぁ、必ずぅ、帰ってこられますものねぇ……? 約束、ですからねぇ?」
うっとりとこちらへ身体を預けながら、彼女は微かに笑っていた。どこか試すかのような声色、確かめるかのように。まるで、そうじゃないのではと疑っているかのように。
元の世界へと戻る、そこに嘘偽りはない。それが最善であり自身に課せられた責務であることを十分に理解している。そもそも、己に他の道などない。元の世界へと戻り、ルーシェルを殺し、何もかも元通り。
だからこそ、はっきりと告げる。
「ええ、もちろんですよ」
そう答えるとヨナは小さく笑った。満足げに、でもどこか泣き出しそうに。
「約束ですよぅ……?」
繰り返すその声は、囁くかのようにか細く、そして優しかった。
月は高く、影は長い。
そしてすべては、夜の闇に沈む。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




