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暁のホザンナ  作者: 青柳ジュウゴ
65/78

65 変革 - 10 -

よろしくお願いいたします。

 人気のない川沿いからエルフたちの集まる祭り会場へと歩を進める間、天使は無言だった。ほんの少しだけ前を行く男は、こちらへと歩幅を合わせているのかゆったりとした歩みでいる。まるで何事もなかったかのように先をゆく天使の、その右腕は不自然に捲りあげられている。先ほどずたずたになった袖口を無造作に折り曲げたのだ。傷は癒せても衣類までは出来なかったのか、単に面倒だったのかはわからない。

 綺麗に塞がれた肌になんとも言えない居心地の悪さがある、のに。普段露出しない男の、筋肉質なそれを目で追っている。あの腕は剣を握る手、振るわれるのは美しく残酷な剣戟。優美な動きで無慈悲に斬り捨て、相手を圧倒する一撃を放つ事が可能な腕だ。

 

 雑踏、耳慣れない楽器の旋律。歌声。満天の星空の下に浮かぶ大小様々な光球。淡い色彩をした花の香りが柔らかく満ちていて、仲睦まじいエルフ達の笑い声がふうわりと乗っていた。緩やかに流れる夜風に周囲の木々が小さく木の葉を揺らしている。そうと指をやった己の首には金の首輪と赤い石。

 周囲の喧騒の中、互いに口を噤んでいる。険悪なものではない、柔らかな空気ではあるが共通の話題などありはしないのだった。


 今まで、何を、話していたのだっけ……

 

 淀みなく進む男の後ろ姿を無言のままついて行きながら、ぼんやりと思い返してみる。くだらないことばかりであったような気もするし、そもそも大して言葉を交わした事もなかったように思う。必要にかられて致し方無く語ったこと多数、一対一で話をしたことなどどれ程あっただろうか。そうだ、大抵第三者がいた。この世界に来てからやかましいエルフと無愛想な人間、この里に来てからも、来る前も、大抵誰かがいたような気がする。

 それに――先程の事もある。今更、一体何を言えばいいのか。

 

 唇から零れ落ちたのは澱んだ呼気だった。

 こちらの腕にぶら下がるようにしてしがみつくリーネンが、不安げな眼差しで伺うように見上げてきている。

 天使と、会話を交わす必要などない。こうやって共に行動する理由も。天使が側にいるのは自分の監視の為であるとわかっている、のに。別行動するには些か、……些か、なんだろう。自身に問いかけるも明確な答えは出ては来なかった。ただ一人になるのは嫌だと思った。夢に干渉してきたアスモデウスの影が完全に消えたわけではなく、それに対する恐怖がずっとついて回っている。あの男が望むことなど蹂躙だ、好き勝手に、それこそ力付くで暴かれる。獣的な欲望、今この状態の自分では為す術などない。


 助けてと。言ったらきっと助けてくれるのだろうな。


 そんな事を考える。

 この男ならきっとそうする。呆れと同時に妙な確信があった。

 求められたら応えるまでと豪語する男は、男の中の善を果たすだけだ。そこにはきっとそれ以上の理由も感情もないのだろう。正しいと判断したことを遂行する。ただそれだけ。公平で善性のこの男はきっと見捨てない。見捨てられない。救いを求められたらきっと叶えようとする、たとえそれが、私のような大罪人であっても。


 視線の先で揺れる金の髪、さらさらと流れるように。エルフ達の中にいてなお輝いているそれはまるで光を紡いだかのようだった。光と影。汚れ一つない煌めき、まざまざと見せつけられる。


 きりきりと刺すような胸の痛みは続いている、無様で猥雑な甘ったるい感情。そんなものなど不要でしかないというのに、締め付けるように存在を主張しては我が身を苛むのだった。

 言いたくない事。知られたくない事。痛む胸の内、身の上。触れられたくない傷、見たくない事象。種族間の軋轢、相容れない。相反する存在、知らない感情。清廉で真誠、廉直、美しい男の優しさ。そのぬくもり。知ってしまったから。


 気付いてしまえばもう見て見ぬふりなど出来なかった。兄と重ねているのだと誤魔化そうともした、そうやって、これは違うのだと納得させようとした。偽った。地の底の悪魔が天上の清らかな天使に恋をしたとて、報われるはずもない。誰に言うつもりもない、どうこうなりたいわけでもない。なれるとも思わない。

 

 群衆、ざわざわとさんざめく。

 エルフ達の集まる会場だという草原の隅には、一際目を引く大木があった。取り囲むようにエルフ達が集まっている。生い茂る枝には色とりどりのリボンが結ばれ長く垂れ下がっていた。それらをうっとりと見上げる沢山の金の髪、緑の瞳、その中で際立つ二つの黒髪が覗いた。目立つな、と思った瞬間、ぱちりと色違いの眼差しと合う。とたん緩く溶け出す輝く黒い瞳。


「ヨシュアさんにルーシェルさん、リーネンちゃんも!」


 こちらに気付いたらしい梓がぱっと顔をほころばせた。その傍ら、ほんの少し隙間の空いた隣には酷い渋面のアーネストの姿。その両手にはそこそこの量の食べ物を抱え――どういうわけだか、えらく派手に髪を結い上げられている。揺れる緑のリボンとこれまた随分と派手な衣装。切れ長の青い目元がより一層きつくなっていて、その無愛想な仏頂面でどうにかあの人間の青年だとわかった。別れた時とはまるで別人である。

 

「お二人もこちらに来ていたのですね」

「そうなんですよー、やっぱり花祭りはここを見なきゃ始まらないんですもん」


 天使の声にふわりと梓が笑う。椅子に座った梓の、足元を彩る白い裾がゆらゆらと揺れて綺麗。足の不自由な少女はそんなハンデなどものともせずにいて、明るくにこやかなその笑みは素直に可愛らしいと思う。

 ――あんな風に、屈託なく素直に笑えたら。また違ったのだろうか。そんなくだらないこと考えて、馬鹿馬鹿しいと自嘲した。随分と女々しいこと。


「アーネストさんもとても素敵です、梓さんが髪を結われたのですか?」


 普段なら無造作に流されているばかりの黒髪を結った男にも天使は声をかけた。珍しいと思ったのは自分だけではなかったようだ。

 アーネストの長い黒髪は手の込んだ編込みがされている。細かく編み込まれ緑のリボンと花を添えられたそれは、自分でするには少し無理があるように見えた。そもそもそんなに器用な男ではなかったはずだ、旅の最中、アーネストの長い髪の手入れは基本小言を言いながらもルアードがしていた。硬質な髪質でそうそう絡まるようなものでもなかったが、自分では適当に縛るくらいしかしていなかったと記憶している。


「ううん、私じゃなくってですねぇ、」

「おやダーリン、髪はほどいてしまったのかい」


 むっつりとしたアーネストを見ながら、梓の漏らした苦笑を遮るかのように背後から第三者の声。目をやればそこには髪の長さだけが違う同じ顔をした、見知らぬ小娘が三人いた。こちらも祭りを目一杯楽しんでいるらしい、それぞれ飲み物や菓子などを手にしている。…………ダーリン?


「三つ子ちゃん!」


 梓の弾んだ声に、はあい三つ子ちゃんでーす、と小娘共が全く同じ動きで指を三本立てる。わあ、とはしゃぐ梓とは対象的にアーネストの眉間に寄る皺がさらに深くなるのが見えた。ただでさえきつい眼差しが更に鋭さを増す。

 

「アメリアさん、ソフィアさんにシャーロットさんも」


 こんばんは、天使が挨拶と共に丁寧に名を呼んだ。普段と変わらぬ声色ではあるが、ダーリン呼びに対しての反応はこれと言ってない。さらりと流したようにも見えるが、動じないということは、それはつまり、受け入れたと言う事か?

 

「こんな所で奇遇だな」

「まあアメリア、今日は花祭りですわよ。皆様こちらにいらっしゃるわ」

「ねーそろそろ開幕の儀がーはじまりますしー?」

「あ、こちらが例のお嬢様ですね。わたくしソフィアと申しますの」

「アメリアだ、噂に違わぬ美人だなあ」

「ねこちゃんもーかわいいーなんでリボンだけなのー?」

「こっちはシャーロット。猫耳がかわいいな」


 三つ子とやらがそれぞれ好き勝手に喋り始める。

 その勢いに圧倒される上、まるで値踏みでもされているかのような視線を向けられ非常に不愉快だった。こちらを見つけて寄ってくる三人、ダーリンと、天使のことを呼ぶその馴れ馴れしさ。

 

「あのねあのね、アーネストさんの髪を結ってくれたのはソフィアちゃんなの。お洋服もね、シャーロットちゃんがきれいなものを作ってくれてね! 本当にありがとう!」


 満面の笑みで梓がこちらに説明する。

 

「祭りに参加する為には正装じゃないと駄目だからなぁ」

「緑のリボンとーセセアのお花はマストなのー」


 短髪と長髪のエルフが苦笑しながら言葉を添えた。


「シャーロットさんがアーネストさんのこのお洋服を作ったのですか? なんだか梓さんのものと似てますね」

「ダーリン解ってるじゃないか、リンクコーデというやつだよリンクコーデ。我らがシャルのセンスは間違いないんでね」


 得意げに短髪エルフがふふん、と笑った。

 どこまでわかっているのか知らないが、天使はなるほど、と。感心した声を上げれば、そうですの! と今度は別のエルフが続いた。


「アズサの王子様なのに酷い格好だったのですもの、もうわたくし我慢ならなくって!」

「んぐッ、」


 とっちめてやったんですのよ! そう言ってソフィアと呼ばれていた小娘が叫んだと同時に、我関せずと仏頂面のままもくもくと手にした菓子やら何やらを食べていたアーネストが素っ頓狂な声を上げた。どうやら喉にでも詰まらせたらしい、胸を押さえるのをびっくりしたように梓が目を見開いて、おみず、おみずどうぞと手にしていたコップを差し出していた。

 あらあらまあまあ、周囲から上がる声、梓が実に甲斐甲斐しく世話をするのを皆が微笑ましく見守っている。面白がっているのもあるのだろうが、向けられる眼差しは概ね柔らかい。まるで皆から祝福されているようだ、そんなことを思う。生まれ育った環境どころか元来いた世界そのものが違うというのに、その肌に触れて、心を寄せることを、…………。

 

「なんだその……王子サマって、」

「えっ、あ、あのね、その……」

 

 ごほごほと咳き込んだアーネストの、その青い瞳にうっすらと浮かんだ涙が薄く膜を作っていた。海の底のような深い青が暗闇の中、光を受けてきらりとより一層輝いたように見える。ひえ、梓の、小さな悲鳴のような声が人混みの中にこぼれて消える。


「いやですわこの朴念仁、みなまで言わせる気ですの?」

「ダーリンも何か言ってやってよ」

「アズサがー可愛そうなのー」

「えっと、可哀想、なのですか?」

「おっと状況を飲み込んでないのがいるんだが」

「いやーん、頭の硬い方なのー」

「シャーロット失礼ですわ、真面目な方ではありませんか」

 

 状況をイマイチ理解していない天使とエルフが脳天気で不毛な会話を繰り広げている。見つめ合ったまま黙り込んで固まっている人間二人を前に好き勝手な事を言っているのである。

 ……天使を真ん中に取り囲み、きゃっきゃとはしゃいでいる三つ子の姿に、何か、酷く。腹の底がムカムカする。ような気がする。

 

「…………知り合いか?」


 知らず声が低く固くなる。

 馴れ馴れしいのは好きじゃない。自分は元より、身の程を弁えずにいる者は自他共に酷く苛ついた。高位のくせに低級者へそれを許すのも、別け隔てなく誰にでも丁寧に接するのもいらいらする。ダーリンなどと、気安く呼ばせているのも気に入らない。べたべたと触れさせているのも。何が博愛の天使だ、そもそも変に気を持たせるような言動をするのが悪い。見目好い外見、腰の低い美しい所作。穏やかでいて圧倒的な強さを持つ男の、その無自覚な傲慢さに腹が立つ。

 

「ええ、先程お世話になった方々なのですよ」

 

 返って来るのは間の抜けた返答だった。

 やはり特に気にした様子もなく、へらへらと笑ったまま。向けられている秋波などまるで気付いていないらしい、他者へと接する態度は何も変わらずいつも通りである。丁寧で、優しく、品がある。天使は誰に対しても平等で、贔屓などしているわけでもないというのにまるで自分が特別な存在になったかのような錯覚を覚えさせる。この男から大切にされていると、思わせるだけの何かがあった。くそくらえ。


「やだなあダーリン、水臭いじゃないか。私達との仲だろう?」

「えと、あの。アメリアさん、?」

 

 髪の短い小娘がいたずらっぽく笑って、男にするりと手を取って身を寄せる。左腕を組んで、背の高い男を見上げているのだ。緑色の瞳がちらりと、ほんの一瞬だけこちらに向けられそのまま男へと笑みを向ける。どこか勝ち誇ったかのような眼差しは、明らかな宣戦布告である。


「やっぱり綺麗だなぁ、アップの髪もいいがあんたは下ろした方があたしは好きかもしれないな」

「まあアメリア、ヨシュアさまがお困りですわ」

「なんだよソフィアだって名残惜しそうにしてたくせに」

「それとこれとは別問題ですわ!」

 

 かしましく騒ぎ立てる小娘達。ぎゅうと腕を抱き込まれた天使はさすがに困惑の表情を浮かべるものの、これといって窘めたりはしないのだった。振り払われないまま小娘と組まれた腕、……どこまでも丁寧に接する男に、じりじりと焼け付くような苛立ちが湧き上がる。あの男が誰とどうなろうと関係ない、自分は異質な存在で、この場に在ることがそもそもの間違いだと言うのに。わかっているのに、焼け付くような不可解な怒りが腹の底からせり上がってくる。


「シャーロットはーこっちが気になるかなー」

 

 髪の長いエルフがひょい、と。突然しゃがみ込んでリーネンを覗き込んできた。びくっと、こちらはこちらで飛び上がらんばかりに体を震わせている。


「な、な、な、なんにゃ!」

「いいえー? かわいいなーって思ってー」


 警戒するリーネンに長髪エルフ、シャーロットと言ったか。それが実にあっけらかんと答える。そうして何を思ったか、随分と可愛らしい鞄の中から小さな白い布を取り出した。ひらりと広げ、ふぅ、と息を吹きかける。吐息と共に紡がれる魔力、ごく微弱のものが織り上げるように幾重にも重なり合っていく。手にした布が少しずつ解けていくように見えた――とたん、ふわっと。リーネンは可愛らしくもシンプルなワンピース姿になっていた。

 どうやら先程の白い布を魔力で作り変えたらしい。……明らかに布量が増えているのだが、質量は一体どうなっている。ではなくてだ。

 

「ごめんなさいねー似合うかなーと思ってー」


 目を白黒させているリーネンに、悪びれもせずこれまたけろりと小娘は告げる。アーネストのあのやたらめったらひらひらした衣服もこうやって作ったのだろう、色々と無頓着なあの男が素直に着るなど珍しいと思っていたがなるほどこういうからくりか。


「なんにゃあ脱げないにゃあ!」


 じたばた暴れているリーネンの様子を見るに、脱着もどうやら術者の意思一つらしい。たしかにそこにボタンがあって脱ぎ着するためのリボンも結ばれているのに、何故か触れられないでいるのである。アーネストの仏頂面もおそらくは格闘した結果の諦めが多分にあったのだろう。


「今日のーお祭りが終わるまではー駄目よー?」

「ウソにゃあ……」

 

 窮屈なのはいやなんにゃ! ぶんぶん頭を振りながら、喚くリーネンがなんとか脱ごうとしているようだがどうやってもリボンに届かない。見えている筈なのに、そこに在るはずなのに、触っているはずなのに脱げないらしい。紡がれた術式は大したものではない、解いてしまえばいいのだが低級者にはそれも難しいのだろう。

 苛立ちは収まらないまま、暴力的とも言える溜息を吐いた。何もかもが億劫だった。どいつもこいつも勝手なことばかりする。

 

 シャーロットは満足気にしたかと思えば、今度はこちらをじいと見つめてくる。

 緑色の瞳、はエルフ達共通のものだが個人差があるのかルアード達とは随分と違って見えた。明るい色のそれは腹の底を見透かすかのように、じろじろと不躾な眼差し。

 ややあって、


「やっぱりすっごい美人ーそのドレスもーよく似合ってますー」


 うっとりとした感嘆の声を上げた。


「お着替えはーお屋敷でー? なるほどーメイドさん達ぐっじょぶですー髪もきれいー髪飾りもとっても素敵ーオリビアさまが選んだー? さすがー私達のオリビアさまー」


 この小娘も大概七面倒臭い喋り方をする。

 褒めてくれているようだが、一人でぶつぶつ喋っているのはなかなか迫力があった。見た目派手に着飾っている分それなりの拍車もかかる。付き合いきれないとばかりに短く息を吐けば、小娘はゆっくりと立ち上がった。こちらに不躾な視線を向けたまま、しゃら、と音さえ聞こえそうな緩慢な動き。


 そうして小娘はニヤリと笑った。

 こちらの首元を指差して、綺麗な赤、と。小さく口にしたのだ。


「そのペンダントもーお似合いですーまるであなたの事をー沢山考えた方がー贈ったものみたいー」

「は?」

「いえねー? あなたなんだとー思ってー? へー、ふーん、なるほどー?」

 

 にやにやしながら呟く。

 得体のしれない長髪エルフは言うだけ言うと満足したようで、さっさと離れていった。去り際に意味ありげな笑みを一つ残して、わあわあと小娘二人が喧しくしている天使の元へ。揺れる長い金の髪を呆然と見送った。

 

 首にかけた赤い石のペンダント。


 そうと触れてみれば硬く冷たい感触しか返ってこないというのに、なんだか酷く熱を持ったような気がした。お守りだと言って渡されたもの。わざわざ文字を刻んだもの。捨てることも出来ず、そこまで言うのだからと着けた。そうだ、お守りだと言うから。藁にも縋る気持ちだったからだ。きっと、男にも何かしらの意図があった。ただの親切心だけで、わざわざ隠すという意味を持つ文字を隼人に彫らせたのだろうか? 隠す、私が、何かに怯えていると気付いているから? 似合いそうだと思った、守ってくれるから。特別、違う、小娘の言葉を信じるなどどうかしている。でも、ほんの少しでも、何か。あの男の、なにかに引っかかることが出来たのだとしたら。胸の奥底から湧き上がる、泣きたくなるほどの衝動。

 

「あらいやだーお洋服がー破れてるじゃーないですかー」


 シャーロットの随分と棒読みな言葉が耳に届く。

 見やった先には、むんずと天使の腕を掴む小柄なエルフの姿があった。そこには捲り上げたとはいえ、赤黒く変色した布きれが巻き付いている。光源があるとはいえ、周囲は薄暗い。べたべた無遠慮に触っていたからだろう、小娘達は血が付着していることにようやく気が付いたらしい。肌に傷が残っていないことは確認したらしいが、それでも赤黒い染みを見れば出血量の多さは明らかだった。ひ、とソフィアの息を呑む声。


「ど、どうなさったのですかこれ、」

「誰にやられたんだ」

 

 小娘達が途端騒ぎ出す。

 ――勝手に自分を助けた男、自己責任だ。そう思うのに怪我に言及されては妙に居心地が悪い。自暴自棄になっていた自分に対する恥、何か言われたわけでもないというのに、まるで責められているような気がしてふいと顔をそらす。忙しない胸の内、無沈着なああ、と呟いた男の声。


「大したことでは、」

「シャーロットがー直してあげますねー? よいしょっとー」


 天使が言い終わるよりも先に再び鞄の中から小さな布を取り出した。この娘にとっての触媒なのだろう、ここに魔力を流し込んで術式を織り上げる。遠慮のない小娘達に混じって、有無を言わせないまま問答無用で白い布を男の腕に被せると、ぴしりと力の発動。布の形状ですらなかった袖がするすると再び糸を編んでいくかのように再び元の姿を取り戻した、のだが。


「え、と……」

 

 困惑したような、天使の間抜けな声が飛んだ。

 綺麗に修繕された袖口、何故か、元通りに直ったそこからリボンのようなものが長く垂れ下がっているのである。そうしてその先がどういうわけだか、こちらの手首に絡まっているのだ。いや長さ。明らかに取り出した触媒にした布の面積を無視してやいないか。


「貴様、何を、」

 

 やわらかな布地が天使の右腕からこちらの左の手首へと続いている。冗談じゃない、引き剥がそうとしたら何故かぐいと引っ張られた。布自体が縮んだというか、短くなったというのか……ともかく、男の元へと引き寄せられたのだ。唐突な動きにバランスを崩したこちらを、天使が慌てたように柔らかく片腕で抱きとめる。まるで抱きついたかのような格好だ、意識してしまえば最早後戻りもできない。太い男の腕、固くて、力強くあたたかい胸、熱を感じた瞬間。ぶわ、と。吹き上がる体温と共に肌が泡立った。


「いやーん、困りましたー失敗しちゃったー」


 流石に疲れちゃったかもしれませんねー。

 ぷう、と息をつきながら白々しく口にする小娘に、はあ? と。天使の左腕にぴったりと身を寄せたままのアメリアがわけがわからないとばかりに声を上げた。

 

「いやお前、そんな失敗したことなんか」

「ねーシャーロットねー? 疲れちゃったのでー帰りたいかなー?」

「ちょっとシャーロット、これからオリビアさまのお言葉が、」

「あーそっかーじゃあ座れるところにー行きたいかなー?」

「そっかあってお前、え、あ、ちょ、おいシャル!」

「きゃ、ちょ、シャーロット、あなた疲れたって、ちょっと!」

「それではーみなさまーたのしんでってねー?」

 

 満面の笑みを浮かべ、天使の腕からアメリアを引き剥がしたかと思うとシャーロットは殊更甘やかな笑顔でこちらを見た。そうして状況が飲み込めていないらしいソフィアの手も掴んで、有無を言わせないままずるずると引きずって離れていく。一体その体のどこにそれほどの力が在るのだろう、なんでだと暴れる二人を無理やり連れてどこかへと行ってしまったのである。あまりの勢いに声を発することも出来ず、三人の姿を見送る。

 取り残されたのは、自分達とやはり呆然としている梓とアーネスト。

 

「なんだあれ、」

「まあ、うん……」

 

 ようやく硬直状態から抜け出したのだろう、ぽかんとしながらも口にするアーネストの言葉がひとつ、宙に浮く。上の空でそれに答える梓の、こちらを見る眼差しが酷くやかましいものであったもののこちらからすればそれどころではない。

 

「賑やかですねぇ」


 頭上から天使の柔らかな声が落ちてくる。

 未だ抱きすくめられたままの身体、自分よりも遥かに背の高い男の腕の中にすっぽりと収まっていて、身動きが取れない。手首に絡みついたままの布、あいつ、絶対面白がってわざとやったんだ。嫌がらせのようだと思うのに、術式の織り目など厳重でないのだからさっさと解くことだってできるのに。いつまでそうしているつもりだと、天使を罵倒と共に突き飛ばせばいいのに。

 

「ルーシェル? まだ辛いですか?」


 黙って男の腕の中に収まっていることを不思議にでも思ったのだろう、普段ならさっさと逃げ出していたのだから。寄るな触るなと、散々拒絶してきたのだから様子がおかしいと判断されたのだ。それなのに離れていかない腕、あくまでのこちらの状態を優先しているのだと思う。辛いのであれば抱き上げることさえ厭わないと言わんばかりの声色。

 

 気遣いの声は甘やかで、優しくて柔らかい。泣きたくなるほどに。

 

 大丈夫なのかとただ問うてきているだけで、困っているのなら手を貸すと言っているだけで他意などまるでない。そんなのわかっているというのに動けなくなる。そろりと見上げた先、淡く輝く空色の瞳。まっすぐにこちらを射るそれに囚われる。ただひたすらに優しいだけの眼差しに勘違いしそうにいなる、私は、この男の特別などではないのに。

 

「…………別に、」


 ようやっと口にできた言葉が、わあ、とエルフ達の歓声によって遮られた。イーサンさま、オリビアさま、エルフ達が館の者達の名を口々にする。今年はルアードさまもいるんだろう、大分酔い潰れていたが。ざわざわと周囲のエルフ達の声。良くは見えなかったが、どうやらこの祭りの象徴であるセセアの大木の側へとやってきたらしい。そうと天使の胸を押して身体を離す、これ以上触れ合っていたらどうにかなってしまいそうだ。


 ざわめきの中で流れてくる落ち着いた老年エルフの低い声。

 イーサンが今年も開催できた喜び、変わりなく皆と祭りを迎えられる僥倖とを挨拶にしているのが聞こえる。続いてオリビアの、花祭りの由来を簡単に説明する声に、どくどくと跳ね回る心臓が徐々に冷静さを取り戻そうと足掻き始める。のに、天使は離れたこちらをそれとなく気遣っているのがわかって、オリビアの声がさっぱり頭に入ってこない。最早嫌がらせではないかとさえ思う。そんな気なんて無いくせにひたすらこちらの心を乱していく男。そんなのだから小娘達が調子に乗るのだ……


 もやもやとした、原因のはっきりとしない不快な感情。怒りにも似た何かがまとわりつく中、緩やかな力の流れを感じてふ、と顔を上げる。ふわりふわりと小さな明るさが舞う、周囲のエルフ達がひとり、またひとりと小さな光を手のひらの上に作り上げていた。


「えっとですね、初日のラストはイーサンさまとオリビアさま、あ、あと今年はルアードさんがいるから三人かな。里長さまがセセアの大木に魔力を灯すしきたりなんですって。里のみんなも自分の魔力を使って一つ光を灯す。生と死の象徴だって、聞きました」


 梓がアーネストに説明している。

 さして興味もなさそうに、そうか、と口にしたアーネストが大木の方に目をやった。

 

「あの馬鹿の姿が見えないが?」

「えっ、うーん……、大分酔っ払ってたって聞いてるからなあ……」

 

 生まれ育った世界が違う二人はどこかぎこちなく、それでも穏やかに会話を交わしている。今ここにいるということ意外の共通点など無いのに。種が違うということは前提条件が違うことだ、常識などカテゴリー内で繰り返されてきた共通事項の積み重ねでしか無い。カテゴリーが違えばたとえ同種であってもわかり合えない、対立し、いがみ合い、殺し合う。人は争い続ける生物である。


 好きだからといって、すべてが叶うわけもない。

 手に入らないからこそ渇望する。手を伸ばし、絶望を掴む。

 

 ふわりふわりと宙を浮く光は個人差でもあるのか、それぞれ少しずつ色が違っていた。魔力のない梓とアーネストはそれらをただ見上げている。大木に灯されていた光、私達もしましょうか、と天使が周囲に倣って小さな光を作り出す。光に濃度も何も無い筈なのに、ひときわ輝く明るいそれに揺るぎない善性を見た。戯れ程度に自分も指先に意識を込める、現れるのは闇色の光。聖魔の違いをまざまざと見せつけられて、消してしまおうと指をふりかけて。


「……綺麗ですよ」

 

 手を、取られた。

 男に遮られて、指先からふわりと闇が飛び立つ。


「持って生まれたものは変わるものではありません。ありのままの貴女こそが美しいのに、取り繕うなど」

 

 柔らかく握られた手、制止されたのだとは理解できたのにそれ以上はもう頭が回らないでいた。何を、言っている。本当にこいつは無自覚なのかとさえ疑いたくなる、明らかに何かを過剰摂取させられている。行き過ぎた善性は毒ではなかろうか、それを補強するかのようにひゃー、と梓の浮ついた声。自分はといえば最早言葉もない。


「個が集まって全となります、無理に迎合する必要はないかと」

 

 尤もらしいことを言って男は静かに笑っている。

 エルフ達の祭り、ゆるやかに歓声。ふわりふわりと飛び立つ色とりどりの光が周囲を照らし、天使の顔すら鮮やかに彩っていた。それらが淡い色彩の花が咲き乱れる大木に灯る。まるで夢のように綺麗。


 こそりと、梓がこちらへと耳打ちした。

 

「これを一緒に見た恋人達は幸せになれるって、言い伝えが在るんですよ」

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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