64 変革 - 9 -
よろしくお願いいたします。
辺りはすっかり闇色に染まっていた。
天使が小さな光をいくつも作る様子を、近くの木に背をもたれかけるように座り込んでぼんやりと眺めている。少しずつ周囲を照らすそれは、エルフ達が至る所に置いた光球と同じようにふわふわと浮いていた。陽光のように切り裂くような明るさではない、やさしい色。
「寒くはありませんか」
拳大の光を十数個程浮かべ終ると、男は改めて此方を見た。暗闇の中で淡く発光しているかのような男の長い髪が、さらりと流れる。光を受けて空色の瞳が融けるように揺らめいている。その中で一際目を引くのは、無惨にも引き裂かれた男の右腕だった。傷は癒やされても切り裂かれた衣服までは元には戻らない、真紅に染まった袖は赤黒く変色してきていた。
「……べつ、に」
ふいと視線をそらす。優しい男の声は、眼差しは、酷く居心地が悪かった。どうしてこちらを気に掛けるのかわからない。寒いか、だなんて。たった今その腕を切り刻まれたというのに、何故こちらにそのような問いかけをする。気遣う。
「そうですか」
小さく独り言のように呟かれた言葉はあたたかな色をしている。
天使はこちらから人一人座れるだけの距離を開け、静かに傍らへと腰掛けた。そのまま横たわる無言、何を言うでもなく、こちらを見るでもない。纏う空気は酷く柔らかく、男は黙っている。こちらの言葉を待っているでもない。寄りそうでもない。ただそこにいる。それが、どうしようもなく心地よかった。とろとろと流れていく時。
醜態を晒した自覚はあった。触れられたくない所を抉られ、自暴自棄になったという認識も。この男にまとわりつく小娘を前に余計なことを口走ったと。放っておけばよかったのに、どうしても苛立ちが収まらなくて吐き捨てた言葉。そうして無遠慮に踏み込まれた胸の内。
――まだ、こんなにも痛いんだな。
どこか他人事のように思う。
遠くから薄い膜でも張ったかのように祭りの喧騒が聞こえてきていた。エルフたちの談笑、活気。空間を隔てたかのように別世界。耳に届くのは小川のせせらぎ。川底は黒々と光を飲み込み、流れる風は冷たく心地良い。
膝の上には先程までぐしゃぐしゃに顔から出るもの全部出して泣いていたリーネンがいる。天使の腕から開放されたこちらに飛びついて、泣き叫んで、泣きながら怒って、バカバカと力いっぱいしがみついてきた。一通り騒いだ後はこうしてこちらの膝に突っ伏したまま、ぐりぐりと頭を押し付けてきている。暖かく柔らかいもの。
異国の地で聖と魔がこうして共に在る事の異常。
この男はどうしてここにいるのだろう、自分に構っている暇など無いだろうに。何故追いかけてきた、いや、私が悪事を働かないようにという監視の為か。では何故置いて来た、この男なら小娘を抱えたまま走ることなど問題ないだろうに。一人で自分を探しに来た、探して、何をしていると苛立ちを向けてきた。短絡的な行動に走った自分を宥めるかのように、あやすかのように。そうして、今もこうして隣りにいる。
早く戻ってやれと、言うべきなのに。
「……何故、私を殺さなかった」
ようやっと口から零れ落ちたのはそれだけだった。ゆっくりと男がこちらを見る、空色の瞳が暗闇と光を受けて淡く輝いている。穏やかな表情、咎めるような空気はやはりない。それどころか凪いだ水面のように緩く微笑んでさえいた。まるでこちらを安堵させるかのような優しい表情。
「今ではない、それだけでしょう」
紡がれる言葉、まるで何事もなかったかのように。とてもじゃないが敵対者に向けるものではない優しい眼差しで、もう幾度となく繰り返された言葉が返ってくる。だとしても、この男自身が傷を負ってまでこちらを庇う理由にはならないだろうに。いくら回復霊術が使えるとはいえ痛みがないわけではない、自身を傷つけてまで悪魔を助けるなどと。正常な思考をした天使の行動とは思えない。
何を考えているのかわからない男。
……大切な白い小娘をほったらかしにしている酷い男。
「元の世界に戻る、全ては決それからです」
念を押すように再度口にする。
この世界に来てから最初にした口約束を、男は律儀に守り続けている。霊力が使えないから、万全ではないから。この世界に与える影響を考え元の世界に戻ってから再び刃を交えようと。
理に適っているようでいて其の実一貫性がない。
天使自身は迎えが来たというのに、頑なにこちらから離れようとはしない。監視の為にだというが、男がこの世界に残る理由にはならないだろうに。立場というものがある、銀色の天使に再三戻るよう言われていたのにそれを拒んでいるのを知っている。
義務と願望。責務と希求。
帰りたいのかと問うたこちらに明確な返答を返してこなかった男。慕われて、望まれて、何もかも恵まれているくせに一体何が不満なのだろう。私とは違うのに。違える世界、立場の違い。命を狙われる理由も、何故天界を襲撃したのかも男は問うてこない。こちらの行動を咎めながらも何も言わない。踏み込んでこない。
「誰しも、言いたくないことの一つや二つあるでしょう」
事も無げに男は口にする。
それがあまりにも自然で、不自然だった。意図して隠されたもの。
「……貴様も、か?」
天使はこちらの問いには答えず微笑んだまま。
空色の瞳は美しく、空っぽで、どこか空虚なのに霧が覆い隠すかのように底にあるものが見えないでいた。言うつもりがない。見えない壁のようなもの、踏み込ませないように取られた距離。空白。
「ヨナの、非礼を詫びます。あの子は昔から私に対して盲目的なところがあって……こちらから言い聞かせますので」
すみません、そう言って男は肯定も否定もしなかった。何事もなかったかのようにするりと話題を変える、余程言いたくないのだろうか。はぐらかされたのだとわかったが、それよりも引っかかる言葉に意識が向いた。
昔から。
昔からって、いつからだ。
「貴様の、昇任式を知っていたが」
ぽつりと口にすると、ほんの少し目を見開かれた青が揺れる。
「メタトロンへの就任式典を見たと言っていた。貴様は、私が即位するよりも遥か昔から在位していたと記憶しているが……悪魔に襲われていた小娘を助けたとも言っていたな」
ひとつ問いかければ、疑問点がとめどなく溢れる。
「外見と年齢が一致しないのはないことじゃない。だが、貴様が戦場に出ていたのは一体どれほど前のことだ? ただの、吹けば飛ぶような低級天使に好きなようにさせているのは何故だ? 嫁発言もそうだ。あの小娘は、貴様にとってそんなに、そんなに」
特別なのか――
喉元まで出かかった言葉はついぞ舌先からこぼれ落ちることはなかった。ぎゅうと痛む胸、はく、と唇が戦慄いた。苦しい。苛立ちは意味のわからない焦燥へと変化していた。突然やってきた低級天使、常に男の側にいる小さな白い小娘。見せつけるかのように怖気の走るやりとりを繰り返し、恥ずかしげもなく甘える。慈しみ。情愛。吐き気を催すようなそれは目が眩むように眩しい。
階級が絶対の天使。
今、ここにいるこの男は低級者が気安く触れられる存在ではない。魔界であっても霊力量が物を言う、しがないアンカー風情が同じ空間に居ることさえ許されることではないというのに。
「……随分と、気になるのですね」
少し驚いたように男は目を丸くしている。
先程既に拒絶されている、再度問い詰めたとて答えないだろうことは分かっているというのに問わずにはいられなかった。浅ましい、こいつらの関係など知ったところでどうなるというわけでもないのに。
「別に……博愛精神の貴様の特別がどんなものか気になっただけだ。別に、他意など、」
「特別?」
興味などないと、取り繕った声に返ってきたのは色のない音。
「……そのような方はいませんよ」
掻き消えそうな声でほつりと男は口にする。
張り付いたかのような笑顔はそのままに、ほんの少しだけ揺れた眼差しに胸の底がざらりと冷えた。ような気がした。それと同時に嘘だと思った。何故と言われてもわからない、ただただ、直感的にこの男は嘘をついている。でも小娘じゃない、きっともっとどこか遠くの自分の知らぬ誰か。特別を作らない、平等の、ただただ慈愛に満ちた、真面目で誠実が服を着たような男が。嘘をついてまで知られたくない相手。
「貴女の父上がご健在だった頃、私がまだ階級が低く戦場で悪魔と戦っていた時のことです。ヨナを助けた私は酷い怪我を負い、ヨナと同じ施設に収容されました。それからあの子は私を酷く慕ってくれ、今回もアンカーを名乗り出てくれたのでしょう」
つらつらと語られる。
まるであらかじめ用意されていた答えのように淀みなく、模範解答のように。
「全てを話すことは出来ませんが、大体の事情はその程度のものです。貴女が気にする程のものではありません」
にこりと殊更深い笑みで返される。感情の伴わないそれはこれ以上踏み込むなといった牽制だ。感情の起伏なく、常と同じ声色に戻っている。問いに答えたようでいてあの小娘の本質については伏せられたままだ。言えない、言いたくない? 明確な拒絶。指先が冷たい、ぎりぎりと胸の痛みは増すばかりだった。
何も言えないでいるこちらから、ふいと逸らされた視線が空に向けられる。
綺麗な横顔。透き通った眼差しは夜空の色を吸い込んで綺羅星と同じように瞬いていた。光を反射するばかりで表情のないそれ。こんなにも側にいるのに、手を伸ばせば触れられそうなのにこの男のことを私は何一つ知らない。知らなくていい、目的を果たす為に。それで良かった筈だった。それなのに胸がざわつく。
何を見ているのだろう、何を考えている。この男に、特別に想われている相手が空にはいるのだろうか。そんなことばかりが頭の中を駆け巡る。考えたとて詮無いことなのに。貴様は戻りたいのではないのか、あの静かで穏やかな空間に。何よりも清いこの男は、息が詰まるほど清浄なあの世界こそ似合うだろうに。どうして未だここにいるのだろう。
「綺麗ですねぇ」
夜空を見上げたまま、男は小さく感嘆を漏らした。
「天界には夜が存在しません。だから、こちらの世界に来て初めて自分の手も見えなくなるような闇を知りました。瞬く星々の美しさ、〝光は闇の中で輝くが、闇はそれに打ち勝たなかった〟⋯⋯」
きん、と耳に響く悪寒。おそらく聖書の一節なのだろう。男は歌うように、独り言のように小さく呟いた。
「きっと、全ては意味があるのでしょう。この世界に来たことも、……貴女と、こうして共にいることも」
ふわりと青が落ちてきてこちらを射た。
夜色を吸い込んだ淡い色彩が、そうでしょう? と。こちらに同意を求めてきらめく。
「この世界に来た意味を、ずっと考えています。理の違う世界、文化の違い。霊力の使用制限、まるで人間のように。種族間の問題、互いに抱える傷、痛み、誰にも言えない秘密。今まで知り得なかったもの、貴女という悪魔の存在を、身を持って知ることの意味を」
甘く香るような声と共に、月明かりのように儚く微笑む。
明確な知覚。認識。種族という集団ではなく、私という個で捉えられたのだと理解した瞬間、ぶわ、と。肌が熱を持った。まっすぐに見据えてくる瞳、囚われる。逸らせない。
瞬間、空で何かが大きく瞬いた。続いて、ばあん、と乾いた破裂音。
「なに、」
「花火……でしょうか」
夜空に弾けて消える光の粒が、まるで男に降り注ぐかのように落ちてくる。強力ではないものの力の流れがわかる、きっと魔力で作り上げたものなのだろう。いくつも夜空を彩る色とりどりの光、輝くそれらが闇の中に複雑な文様を描き出しては消えていく。
すい、と男が立ち上がった。
身構えるこちらのそばへとやってくると音もなく膝をつく。そうして懐から何やら取り出しこちらへと差し出してきた。
「なに、」
「こちらを」
そう言って差し出された男の手のひらの上には、小さな透明な袋があった。その中には深紅の石が一つついた、酷くシンプルなペンダントが丁寧に入れられている。楕円形の石を、細い金が縁取っている。
「……なんだこれは」
「お守りのようなものです。貴女には、神の加護は苦痛でしょうから」
祈りは込められていないのだと言いながら、男はペンダントをゆっくりと袋から取り出した。そうしてこちらへと手渡してくる。訝しげに男を見上げながらつまみ上げてみれば、光球に照らされて闇夜の中できらりと光った。ほんのりと漂うような力があるので魔石なのだろう。透明度の高い、深い赤。
……石を縁取る金属部分に、ごくごく小さな文字で何か書いてある事に気づいた。この世界のものではない、見慣れた元いた世界で使われていた文字。
「ヘステール……?」
隠すという意味を持つ単語。
「隼人さんに頼んで刻印してもらったのです、おまじないのようなものとでも言いましょうか。貴女を、きっと守ってくれる」
「……わざわざ用意したのか」
「貴女に似合いそうだなと思ったのと、最近、……あまり、元気がないようでしたので」
差し出がましいかと思いましたが。男は困ったように口にする。
こちらに何があったのかは聞かないくせに、こうやって気遣うのか。慈悲、慈愛、柔和で情け深い天使。別け隔てなく誰にでも親切な男の、単なる気まぐれでも博愛でもなんでもよかった。痛む胸はそのままに体温が上がる、自分の為に用意されたもの。助けになればと。
「……そろそろ、行きましょう。冷えてきました」
どうぞと、再び立ち上がった男が手を差し伸ばしてくる。きれいな顔の、それでも確かに男の大きな手。
――この男の事など何も知らない。
小娘の事、特別などいないと口にしながら何かを隠したままの男。言いたくないこと、言えないこと、元の世界に戻るという口約束。ただ優しくて。こちらの事情に触れてこない。
他意などないのだ。真実善人で清らかな天使。悪魔など塵芥にしか考えていない。それでもこの男は、男の信念でもって行動をしている。求められたら応えるまで。その言葉が全てを物語っている。優しさは万人に向けられる、正しいと判断した事をただ実行しているに過ぎない。他意などない、解ってる。そんな事は重々解っている。
無言のまま、その手を取った。
柔らかく握り返されて、立ち上がりを助けるようそうと引かれる。指先まで気遣いが行き届いていて不快さがない。所作の全てが嫌みなまでに美しい天使。
「せっかくですので楽しみましょう、会場の方にはオリビアさん達もいらっしゃるようですよ」
するりと離れていった手。
ゆったりと髪を揺らし先を行く男の背を見ながら、渡されたペンダントを握りしめる。捨ててしまえと頭の奥底で叫ぶのに出来ない。痛い、痛くて苦しい、のに。なにもかも捨て去ることなどもはや出来ないでいた。泣きたくなるほどの衝動。
「ん、……」
小さく口にして、男の後を追う。
――自分ではもうどうしようもないくらい、この男が好きなのだと。気づいてしまったのだ。
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