63 変革 - 8 -
よろしくお願いいたします。
周囲は賑やかな音に包まれている。
少しずつ日が傾き始め、薄暗さが目立ち始めた頃。ぽつぽつと木々に灯る光球の輝きが少しずつ増しつつあった。
薄紅色をした花弁が舞い、辺りを甘ったるい香りが包みこんでいる。至るところに飾られた花をエルフ達は思い思いに衣装にも飾りつけていた。穏やかに笑い合い、睦み合う彼らのその様子は薄暗くなりつつある中でも酷く輝いて見える。陰りのない表情、いわゆる幸せの象徴。あくびが出るほどの平穏、馴染みのない。
空は高く人々は善人でこれといった悪事もない。閉鎖的なこの里に満ちているのはただただ善意である。気遣い、思いやり。光を厭うこの身には元来馴染みのない空間。そもそも煌々と地を照らす世界に身を置く存在ではない、最初から何もかもが間違いであったのだ。
足元に落ちる影が濃くなっていく、徐々に長く伸びていく影が飲み込んでいくかのように。増殖していく闇、塗りつぶしていくかのように視界を覆う。ひやりとした空気、は、と。こぼれ落ちるのはどこか他人のように揺れる呼気。
もつれるように歩を進める、胸を押さえる。上手く呼吸ができない。ぜぇぜぇと自分のものではないような何かが喉の奥で詰まって出てこない。肩の上に乗ったままのリーネンがおろおろとこちらを伺っているが、何か話しかけようとしているのを無言で遮る。きつく唇を噛みしめる、いま口を開けば碌でもない言葉が飛び出してきそうだった。
――お前さえいなければ。
耳の奥で飽和する言葉は、幾重にも重なり合って脳の奥底へと侵食していくかのように。それは父の声だったか白い小娘のものだったか定かではないのに、胸の内を引き千切るかのように痛みを訴えるのだった。振り払うようにふるりと頭を振る、人足を避けるよう足早に雑踏をかき分けていく。すれ違うエルフたちの、不思議そうにこちらへと向けられる緑の瞳が見えない矢のように肌に突き刺さっていく。きっと大した意味など無いだろうに、つま先からゆっくりと冷気が這い上がってくるかのような感覚。凍えるような怖気。
――お前のせいだ。
こびりついたように何度も繰り返される言葉。
罪過。断罪。憎悪の名のもとに。
呪詛。詛呪。灼き尽くさんばかりに。
血に塗れたこの身、犯した罪は消えず償う事すら許されない。夕闇に伸びた闇がぞろりと手を伸ばしてくる、肌に馴染む筈のそれは今やただ呪いのように我が身を絡め取るばかりだった。わかっている、理解している。許さないと怨ずる声が、射殺さんばかりの眼差しがいつまでも消えてくれない。物言わぬ躯から向けられる幾多もの視線。奇異、好奇、何故と問いかけるいびつに歪んだ空洞。かつて生者であった筈なのにただの肉塊化した者達の呪いの言葉。
裾の長い白い衣服、ひらりひらりと手触りの良い布地が足に絡む。汚れたこの身には似つかわしくない真白いワンピース。一部を編み込まれ花と豪奢な髪飾りによって飾り付けられた己の長い黒髪が風に揺れる。
褒めてくれたらいいな、オリビアが去り際に余計な言葉を囁いていった。せっかく着飾ったのだから綺麗だと言ってもらえたらいいなと。全く見当違いなことに気を揉んで、してやったり顔で去っていく無責任さに苛立った。天使なぞに褒められたいわけじゃない、そんな低俗な思いなんて持ち合わせていない。でも、少し。ほんの少しだけ、認めてくれたら良いと。さもしく浅はかなまでに浮ついた心。とんだお笑い草だ。
人の流れに逆らってあてもなく進む。
木々の多い里の中は生命に満ち溢れている。最も縁遠いものが、嘲笑うかのようにさんざめく。
ここは、この世界は、異物である自身を白々と見せつけるから酷く居心地が悪く、あまりにも異質であるからこそ心地良くもあった。相反する感情、そこに覚えたのは安堵。滑稽なことこの上ない。
魔界とはまるで違う異世界、自分を恐れず触れてくるこの世界の住人達。受け入れられたようで、少しだけ許されたような気になった。なってしまった。忘れるなと、繰り返し夢を見るのに。その夢の中に現れた男の、べたりとした声。逃さない、必ず迎えに来ると笑う執着、戻りたくないと願ってしまった。嫌だと、感情を乱したこちらへと伸ばされた手のぬくもり、あたたかさ。差し伸べられた手を掴んでしまった、向けられた優しさに縋ってしまいたくなってしまった。もういいんじゃないかと、弱い心が泣き言を吐いた。
「馬鹿みたいだ……」
言葉は人々の喧騒に掻き消えていく。
何もかもから逃げるように突き進んでいけばやがて川辺りへと辿り着いた。森の奥から流れる小さな小川、開けているが皆祭り会場へと向かったのか人の気配はない。
誰もいないことにようやく人心地ついた気がした。清らかな水の流れを前に足を止める、薄紅色の花弁を浮かべさらさらと流れていくそれ。流れ流れて不浄を押し流す。そこにあるのはただただ美しく清らかなもの。沈みゆく陽の光を受けてきらきらと輝く水面が、さらりとたゆたう金の髪を思い起こさせた。
――貴女だって、そうではありませんか。
いつもとは違う、どこか固い男の声。
常であれば妙に回りくどく、要領を得ない言い回しをするだろうにそれがない。
どう見ても普通ではない小娘をかばうような男の態度は、苛立ちを一層かきたてるものだった。苛立ちまぎれに問い詰めるも当てつけのように返ってきたのは答えられない、伝えることはない、悪魔だから、敵対者だから――そちらだって何も言わないじゃないかと。隠し事があるのはお互い様ではないかと。男はそう言って拒絶したのだ。
そんなにも、知られたくない関係なのだろうか。まとわりつく小娘を好きなようにさせている男、そんなに大切なのか。そうまでして守りたいのか。ごく自然に抱き上げて、小娘を甘やかす男。見せつけられる穏やかな関係性。
無垢を装って甘える小娘に、どうしようもない苛立ちが湧いた。何故かなどわかりやしない、ただただ不快で、理由もなく胸の内がざわついて、怒りにも似た何かが身を苛んだ。真白い天使、ふわふわと。揺れる髪、衣服、穏やかに微笑んで。果てない純白。清らかでやわらかなもの、幸せの象徴。どうしたって手に入らないもの。手に入らないから。こんなにもかきむしるように胸が痛いのか?
ただそこにあって弛まず流れ行く小川。
流れ流れてここまで来た。最初は、何であったか。それすら最早定かではない。
もうぐちゃぐちゃだった。
蔑まされようが侮蔑されようが、どうでもいいはずなのに。触れてしまったから、知ってしまったから。あの男はそんなつもりもないだろうが、あの美しい空色の瞳が負の感情を宿してこちらを見るのはもう耐えられそうになかった。犬猫に向けるような無意味で無責任な優しさ、あいつは誰にでも同じことをする。私だけではない、そんな事はずっと前からわかっている筈なのに。それなのに、どうして。どこまでも優しい天使、限定された瞬きのような時。必ず終わりは来る、この間違った立ち位置。元の世界に戻れば殺してくれる、そうすればもう心乱されることもない。
……ああ、そうだ。ぱちんと頭の中で何かが音を立てて砕けたような気がした。霧が晴れ渡るように透き通る思考に、ふは、と。小さく笑みがこぼれた。足元がふらつく、よろりと側にある木に身体を預ける。
そもそも、こうしてここにいるのが間違いであったのだ。誰も彼もが私の死を望んでいる、存在の否定。私のせいで。私さえいなければ。そんなことは重々わかっているのだ。それなのに浅ましくもまだ生き永らえている、誰にも必要とされていないのに。許されたような気がした? 有象無象に向けられる気まぐれな優しさに触れていい気なって、厚かましくも自惚れた? 馬鹿馬鹿しい、勘違いをするな。そんな資格など有りはしない、最初から終わりを望んでいたくせに!
「ルーシェルさまどうしたんにゃ? どこか痛いにゃ?」
ぼんやりとした視界に鮮やかなオレンジ色が揺れる。覗き込んでくる金の瞳に、ああ、リーネンか、と。どこか他人事のように考えていた。こちらを見上げる金色の瞳にじわじわと涙が浮かんでいる、何故だろう、必死になってこちらへしがみついてくる小さな手。いつのまに肩から降りて人型に変化したのか覚えがない。
「あのバカ天使のせいにゃ? 好き勝手なことばっか言ってあいつのせいにゃ? あいつやっつけたら元気になるにゃ?!」
そうならにゃーがぎたぎたにしてやるのにゃ、半べそをかきながらリーネンは勇ましい事を口にする。好き勝手なこと、私のせい、私がいなければ。そう叫んだ小娘の言葉は的外れなものではなかった。真実そうなのだから正確に糾弾されているに過ぎない。自身を正当化するつもりもない、自分さえいなければ父も母も兄も狂うことはなかったのは紛れもない事実。
ゆらゆらとリーネンの頭の上で揺れる三角の耳。脆弱な低級悪魔。あたたかく柔らかい小さな生き物。何の役にも立たない毛玉だが、自分の配下にしてしまったからこのままではリーネンも狙われるようになる。契約の破棄、は。手取り早いのは術者の消失だろうか。
静かに小さく息をつき、ゆっくりと自身を回る力を紡ぐ。手にしたままの増幅装置を壊さない程度に己の力を流し込んで回せば、ちりちりと音を立てて空気が震え始める。そうだ、どうして早くこうしてしまわなかったのだろう。ここは元いた世界とは違う、霊力は使えずこの身を守るようなことはない。少量は弾けたとしても向けられた攻撃は正しくこちらを貫く。
詠唱術は規模が大きくなる上、現在の状態でどこまで有用かははっきりしない。
被害を最小限に、けれど確実性を求め霊力を織り上げ鋭利な刃を出現させる。ひと思いになどと甘ったれたことを言うつもりもない、これは罰であり贖罪でもあるのだから。自身を中心に幾多ものきらめく黒い刃が周囲に浮かぶ。原型も留まらないほどに斬り刻んでしまえ。罪人にはおあつらえむきだ。
「る、ルーシェルさま、なに、」
「終わりにしよう。お前は好きに生きるといい」
何かを察したのか、震える声で名を呼ぶリーネンにふ、と。小さく微笑みかけ思い切り突き飛ばした。仰向けに転がる小さな身体、夕闇を受けてきらめく漆黒の刃、終わりだ。やっと、やっと。生まれてきたことが間違いだった、これでもう痛む胸を抱えていなくて済む、ナハシュ・ザハヴもくれてやる。静かに目を閉じて息を整える、いやにゃ、だめにゃと半狂乱になって泣き叫ぶリーネンの声を最後に、ぐしゃりと肉が力任せに引きちぎられる音がして――あたたかく浮遊感。
「何をしているのです」
押し殺したかのような低い男の声に、びくりと肩が震えた。何が起こったのかわからない、わからないのに痛みはやってこず、あまつさえ温かなものに包まれていた。それが、男の腕の中にいるからだと気づくのに僅かな時間を必要とする。気がつけば苦しいほどにきつく抱きしめられている。
ぼとぼとと男の腕から音を立てて深紅が流れ落ちている、自分へと向かうはずだった刃が深々と男の右腕に突き刺さっていた。ずたずたに引き裂かれた腕、庇われたのだと、ぼんやりと思った。どうしてこんなことをするのかと、思うよりも先に失望感があった。また駄目だった。死ねなかったという絶望。まだ生き続けなければならないのかという絶望。
「何を、しているのかと問うているのです」
天使の苛立ったような声。
突然やってきて邪魔をしてくれたのは何もかも恵まれた男、身勝手な男の苛立ちなどこちらの知ったことではなかった。もう楽になってしまいたいというのに、それを妨害されたという事実がこちらの神経を逆撫でる。怒りたいのはこちらだ、男の胸を押しのけて逃れようとするがぎちりと囲まれ叶わない。本当に余計なことしかしない、もう全部全部、終わりにしたいのに。どうしてこの男は、私を殺すことが目的だというのにこうも邪魔をするのだろう。霊力の拡散、この世界の秩序を乱さない為、幾度もなく口にする理由。そんなもの、この男なら如何様にも出来るだろうにどうして幕を引いてくれない。
「勝手なことを、」
「勝手?」
男の怒りが肌を刺すように空気を震わせる。
び、と男は傷だらけの腕を払った。飛び散る深紅、へたりこんだリーネンがみいみい泣いている。力を使ったのか、腕に刺さった黒い刃がざらりと溶け落ちるようにして消える。数が少ないと思ったがどうやら一部は力を使って消したようだった。間に合わないとでも思ったか、こちらを庇う時に腕を犠牲にしたようだった。どうしてそうまでするのか、博愛の天使、見捨てられないのは義務か。実に難儀なことだ。
「……何を笑っているのです」
回復霊術でも使ったのか、とめどなく流れる血が止まり眼の前でゆっくりと傷口が塞がれていく。真っ赤に染まった袖はそのまま、熱を失い冷えた血の感触に懐かしさを覚えながら、男の腕から逃げ出すことは諦めた。力比べではどうしたって勝てやしない。怪訝そうに向けられる言葉にそろりと顔を上げれば、訝しげにこちらを見やる男の青い瞳とぶつかった。そうか、私は笑っていたのか。
「貴様こそ、小娘を放っておいていいのか?」
もうどうでもよくなって、くつくつと笑いながら問いかけると天使は酷く困惑したような表情をした。天使はどう見ても一人だ、あんなに大切にしている小娘を置いてこちらに来たのか。私の監視のためとはいえ随分酷い男だ。そう、監視が必要だから。この男は苛立っているのだろう、私が何かしでかさないよう、この世界の住人の為に男は常に私の側にいる。私のせいで。ここでも私はただの厄介者でしかない、仲睦まじい二人の邪魔をする疎ましい存在でしかない。
「何を、言っているのかわかりかねます。私は貴女の様子がおかしかったから、」
「それはそれは随分とお優しいこと。さすがは天界最高位のメタトロン様、穢らわしい悪魔ごときにも随分と心をお砕きになる!」
喉の奥から乾いた笑いが溢れて止まらない。あはははは、人気のない川辺に響く笑い声に男の顔が青く引きつるがそんなもの構う暇など無い。男の言葉など、偽りの優しさでしか無いというのに。都合の良い甘言では勘違いしてしまう。どういった意図なのか定かではないというのに抱き込まれたままの腕の中、あたたかくて、嫌でも伝わってくる鼓動に泣きたくなった。まるで大切にされているみたいだ、そんな筈なんてないのに夢を見そうになる。
「ルーシェル、一体どうしたというのですか」
なだめるように私の名を呼ぶ声は、困惑の色も濃いがそれでも酷く優しいものだった。責めるような色など何もなくて、なんだか自分が価値あるもののような気さえ起こさせる。もう沢山だった。優しくてあたたかい、地の底で焦がれ続けた透き通るような空色をした瞳の男。十分だ、これ以上望むことなど何もない。優しさに触れて、暖かさを知って、これ以上何を望む。分不相応に欲しがって、なんて卑しいのだろう。
「もういい、もう、さっさと殺せ……」
ぴくりとこちらを抱き込んだまま離れない腕が小さく跳ねた。
そもそも、最初から望んだことだった。
魔界では誰も自分を傷付けることができず、自死すら不可能だった。唯一の希望がこの男だ、殺してもらうために、憎悪を煽るために天界を襲撃した。殺戮の限りを尽くした。今更この男が躊躇する理由がわからない。わからないのに、天使は抱き込んだままこちらを放さない。
「……落ち着いてください、それは今じゃないでしょう?」
「うるさい、もういい、もう、ぜんぶ、終わりにして……」
宥めるように殊更柔らかくこちらに語りかける男の言葉を撥ねつける。離してくれない腕、すがりつくように男の胸に両の手で爪を立てた。手のひらに感じる体温、いつかの夜のように。懇願するように額をこすりつける、顔を見せたくない。男は黙ったままで拒絶もない、どうするべきか考えているようでもあった。逡巡、躊躇、困ったような気配。何を悩む事があるのだろう、さっさと手を下して欲しい。自分が殺すのだから勝手に死ぬなといったくせに、どうしてこちらの望みを叶えてくれない。
するりとこちらに回された腕の力が緩む。
男は怖々とこちらの両肩に手を置くとゆっくりとこちらを引き離していった。ようやく覚悟を決めたかと思ったのに、そこにあったのはどこか悲しげな表情。
「……今の貴女は正常な判断ができていない」
言うに事欠いてそれか。
正常な判断とは何だ、最初から最後まで私が望むのはそれしか無いというのに。
「何を躊躇う必要がある、貴様は、私を、」
「そう急ぐこともないでしょう。今は祭りで、騒ぎを起こすわけには」
何を考えているのか歯切れ悪く紡がれる言葉。世間体を気にするかのような要領を得ない態度に苛立つこちらにしかし、天使はふわりと微笑んでゆっくりと、噛んで含めるかのように提案する。
「少し、話しをしませんか」
ここまでお読みいただきありがとうございました。




