62 変革 - 7 -
よろしくお願いいたします。
「まったく手のかかる……」
ぎこちなく遠ざかっていく二人の後ろ姿を、やれやれと言わんばかりに見ながらオリビアが小さく呟いた。そうしてこちらへと向き直ると、ぐい、と。手にしたままの蔓をやや乱暴に引いた。あぅん、吊り上げられたままのルアードが悲鳴ともつかない声を上げる。気味の悪い声を上げるな、頭上へと投げかけるオリビアの声は疲労の色が濃い。
「私はこの馬鹿どもの相手をせねばならんので、申し訳ないが皆で祭りを楽しんできてくれないか。ロージーを着けてもいいんだが、今夜は振る舞いがあるのでな。人手が足りんのだ」
盛大な祭りを執り行うには事前準備など入念に行う必要があるのだと彼女は言う。会場の設営、露店の把握、名物の準備など色々あるのだろう。人前に出ることもあるからか、正装である白いワンピースとセセアの柔らかな色彩で華やかに着飾られている。
「そこらへんわかってるのかこのクソ馬鹿」
「ねーちゃんお口悪ぅい」
華やかな見目であるにも関わらず、オリビアが渋面で悪態をつく。が、しかしルアードは相変わらず他人事のように笑っていた。蔓に縛られ宙へ釣り上げられているというのに随分と余裕のあるものだ。いや、酔いによる状況判断の低下だろうか。とても楽観的にいられる状態ではないと思うのだが、しかしルアードはご機嫌なままである。ぴしりとオリビアのこめかみに青筋が浮かんだ事にもどうやら気づいていないらしい。
そうかそうか、と。
笑顔が張り付いたままの、オリビアの尚一層低い声。
「…………キリキリ働いてもらうからな」
「ええー?」
「そもそもなに一人飲んだくれてるんだ」
「お祭りじゃん〜〜〜」
普段の彼からは想像もつかない子供のような物言いである。
お祭りは楽しむものじゃん、と駄々をこねているのだ。
「お前は自身の立ち位置を全く理解してないな?」
「俺は面倒なのはゴメンだねぇ」
間延びしたルアードの言葉に、ああそう、と。オリビアが小さく口にした瞬間、びたん、と。釣り上げられていたルアードが地面へと叩きつけられていた。どうやら彼女の手にしていた蔓が重量物を持ち上げることをやめたのだとわかった。それでも一応の加減はされていたのだろうが、突然やってきた地面にルアードは目を白黒させている。
「いたっいたいって、ねえちゃん、ねえってば」
「やかましい潰されたくなかったらもう黙ってろ」
これだから酔っ払いは手に負えんのだと悪態をつきながら、ずるずると蔓で縛り上げたルアードを引きずってオリビアは屋敷へと向かった。そうしてふと足を止め。
「ああそうだ、ルーシェル殿」
思い出したように、振り返って何やら耳打ちしていった。ちっと、ルーシェルの盛大な舌打ちが聞こえてくるが会話の内容まではわからない。思い切りしかめられたルーシェルの眉間、深く刻まれる皺にオリビアはそこまで嫌がらなくてもいいじゃないかと笑っていた。のであれば、さほど不穏な事ではなかったのだろう。
「それでは、楽しんでってくれ」
痛いんですけどお、ルアードの訴えを無視してオリビアはさっさとオリビアは屋敷の中へと入っていってしまった。入り口に数段階段もあったが、それも問答無用で通過していった。ごん、がん、鈍い音と共に悲鳴が上がるが歩みは止まらず、そのまま扉はばたんと閉まった。よほど腹に据えかねたのだろうが、それにしてもルアードの安否が心配である。
しん、と横たわる沈黙。
エルフ達の楽しげな声が飽和したように周囲を覆って、相対する四人、まるでここだけ切り離された空間のようだった。
残されたのは自分自身と抱き上げたままのヨナ、黙り込んだままのルーシェルとその肩に乗った猫の姿のリーネン。双方花祭りの参加者の体ではあるが、奇しくも敵対する天使悪魔という構図となってしまっている。
先日何かあったらしい悪魔は、相変わらず何も言わぬまま。今日に至っては酷く機嫌が悪いようだった。美しく着飾っている姿での怒気は迫力がある、何かに腹を立てているようだがしかしそれが何かまではわからない。
どうしたものかと思い悩んでいる間、不意にヨナはこちらの背へと手を回した。そうして綺麗に結い上げられていたこちらの髪をするりと解く、己の長い金の髪がぱさりと自重で再び背中へと落ちた。三つ子のエルフ達に丁寧に編み込まれ飾り付けられた三つ編みをくしゃくしゃと揺すって完全に崩してしまったのだ。
「ヨナ、折角結っていただいたのに」
「女の匂いのするものなんてぇ、ヨシュアさまにはぁ、必要ないですもん!」
むうと唇を尖らせ、しかしヨナは聞き入れない。
こちらの首にかじりついたまま、ヨシュアさまは何もしない方がずっと綺麗ですもん、と。ほどいた髪を指に絡めてうっとりとしている。支える少女の身体は軽く、ふわりふわりと風にそよぐワンピースの裾が視界の隅で踊っていた。
すり、と。抱き上げたままのヨナはこちらの頬へと頭を寄せる。嬉しそうに。幸せそうに。
「ヨシュア様ぁ、ヨナぁ、セセアの大木が見たいですぅ。里の隅にあってぇ、すっごくすっごく綺麗なんですってぇ! 夜にはぁ、明かりもついてぇ、それを一緒に見た者はですねぇ、」
「いつまでそうしているつもりだ」
はしゃいだまま、尚も続けようとするヨナを遮るように冷ややかな声が飛んだ。見やった先には見るからに機嫌の悪い女悪魔が一人。ようやっと口を開いたルーシェルが蔑むかのようにこちらを見ているのである。不機嫌さを惜しげもなく晒しながら、そのくせ興味など無いと言わんばかりに、ふん、と。小さく息を吐くと顔を背けた。
「天使は純潔を尊ぶものだと聞いていたのだが。とんだふしだらもいたものだな」
「ふしっ!?」
つん、とこちらを見ぬまま吐き捨てられた言葉にヨナが飛び上がる。
――ふしだら、とは。だらしないこと、身持ちが悪いことを指すわけであるが。そのような事実はないわけであって、単なる罵倒にしてはあまりにも飛躍しすぎているのではなかろうか。そもそも何を持って彼女はこちらにそれを告げてきたのか、見当もつかないのであれば目を丸くするに留まるわけであって。
「女に好きにされている男なぞふしだらも良いところだろうが。男にすり寄る小娘も随分と節操のないことだ、なにが汚れなき天使だ名ばかりの売女が」
ふしだらに続き売女と来た。
元より口が悪いとはいえ、今日は特に辛辣である。淡々と感情の起伏なく重ねられていく言葉にさすがに苦言を呈そうとしたのだが、先に爆発したのはヨナの方だった。
「随分とぉ! 言ってくれるじゃあないですかあ! だぁれがふしだらで売女ですってぇ!?」
「場所も弁えずおぞましいものを見せつける貴様ら」
「おぞましいって言いましたああ!?」
きーきー言い返すヨナにしかしルーシェルはまるで興味を示さず、じろりと再び向けられた瞳はまっすぐにこちらを射る。向けられる感情はただひたすらに自分へと投げつけられているのだ。触れたなら切り裂かれそうなほどの怒気がそこには渦巻いている。夥しい怒り。苛立ち。だが、一体何に対して?
「ヨシュアさまあ、悪魔がいじめますう……」
目を潤ませながらヨナがすり寄ってくる。その小さな頭をゆるく撫でてやれば、少女は嬉しそうにこちらの手にさらに身を寄せてきた。白く脆い低級天使、吹けば飛ぶような儚い存在。力ある者は弱き者に手を差し伸べるのが責務である。
「ルーシェル、暴言の撤回を求めます。根拠のない暴言など貴女らしくもない」
こちらにしがみついてくる少女の肩をそうと抱いてルーシェルを咎めるのだが、強く美しい彼女はぶるぶると肩を震わせてこちらを睨みつけていた。
「暴言だと?」
何が彼女をそこまで突き動かすのか、きりきりと噛み締められる赤い唇、気に食わない、焦燥、軽蔑、憎悪に敵愾心。全てを混ぜ合わせたような不可解な眼差し、胸の底まで刺し通すかのように。戦慄く鮮やかな唇が、怒鳴りつけたいのを抑え込んだかのように震える声を紡ぐ。
「貴様らがべたべたべたべた人前で鬱陶しいからだろう、張りついたまま身を擦り寄せるなど男を誑かす悪魔と何が違うと言うんだ。そもそも貴様は……貴様らは、」
不意に言い淀んで。
「貴様らは、なんだ……」
喉の奥で引き絞ったかのような声。
顔を歪めてこちらを睨みつける赤い瞳には困惑が色濃く表れ形容しがたい色が宿る。不快。懐疑。得体のしれない者を前にした純然たる忌避感情、踏み込まない。明確に取られる距離、壁。一線。
「そこらの低級者じゃない、なんだ、何なんだお前は。嫁? 天使の婚姻なぞ聞いたこともない。大した力も持たぬアンカーのくせに、何故、最高位のメタトロンと共に存在できる。気安く触れる。馴れ馴れしいにも程がある、明確な階級制度である貴様らが何故それを許す」
押し込めていたのだろう、段々と語尾が荒いものとなっていく。普通ではない、こいつはなんなのだと。ヨナに対する彼女の問いは当然のものだった。
「それは、」
天界において階級は絶対である。
悪魔のように使い魔がいるわけでもない、アンカーとして使うことはあれどそれも一時的なものだ。リーネンのように血の契約を結ぶことはなく、あくまで仕事としての依頼である。仕事としての範疇を超えたヨナのような低級者など他には存在しない、疑問に思うのは致し方がないことだと思う。けれど。
「……お答えできません」
そう、ただ一言。何か言いかけたヨナを抑えて言い放つと、ルーシェルはわずかに怯んだようだった。ぴくりと眉尻が震える。赤く彩られた唇がはく、と。小さく戦慄く。何故というあからさまな苛立ちを向けられながらも、彼女の問いに答える理由にはならない。
「そもそも私達は敵同士、表面上の対話は可能ですが本質的な事を語り合える仲でもないでしょう?」
幾度となく繰り返してきた言葉を白々しくも連ねる。敵同士、永遠の対立、殺し合うだけの種族。ただ今は一時的に協力関係にあるだけの間柄にすぎない。ヨナがどういった存在であるかなど、ルーシェルには関係のないことだ。
望む回答を得られなかったからか、忌々しげに赤い瞳がこちらを射る。鮮血のようなそれは、怒りに燃えてきらきらと輝いていた。力強く燃え上がる命の色。細く華奢な身体には似つかわしくない程の強い力を放つそれ、強烈な閃光。
「手の内を晒すことになると」
「そんな大仰な話ではありません。ですが、そう、確かに普通ではないのでしょう。戦場で彼女を助けたのは嘘ではありませんし、ヨナが他とは違う立ち位置にいることもそうです。けれど、その理由をお伝えする事はありません」
吐き捨てるように投げつけられる言葉を、ゆるく笑って拒絶する。何故だと苛立った眼差し一つで訴えてくる彼女に、言ったとて。何が変わるということもない。そもそも、ルーシェルだってこちらには何も言わないのだ。
夜毎うなされていること。
身の危険を覚えるようなことがあったこと。
それなのに助け一つ求めることもしない。
終わりを望み殺戮の限りを尽くした悪魔。その理由も、動機も、何一つ教えてくれないくせに。こちらへ疑問を投げかけ回答を乞うのはいささか虫が良すぎやしないだろうか。
「貴女だって、そうではありませんか」
狡い言い方がこぼれて落ちる。
驚いたようにルーシェルの目が見開かれる。
そちらがそうなのだからこちらも同じように立ち振る舞う、なんとも子供じみた言い分だ。言いたくないこと、言えないことを並べ立て、疑問に思うことすら封じるのは真っ当な関係性ではない。当然だ、そもそも自分達は友好な間柄ではないのだから。疑問は気になるものだが、では踏み込めるか? その、土足にもなりかねる追及を行使したとて。互いに許せるのか。答えは否だ。
「私達が気になるの?」
じりじりとした深紅の眼差しに対し、ヨナは酷く含みのある言葉を放った。空気がさらにひりつく。
「貴様、」
「ふふ、こわあい」
少しも怖がった素振りもなく、ヨナはきゃ、と。かわいらしい悲鳴のようなものをあげてこちらにぎゅうと抱きついてきた。まるで見せつけるかのような行動に、ルーシェルの表情がどこか苦しそうに歪む。ルーシェルの肩の上にいるリーネンが毛を逆立てるがしかしヨナは止まらない。
「悪魔風情がぁ、私達のことに口を出すなんてぇ、おこがましいとは思わないんですかぁ?」
「おまえにゃあ! 黙って聞いてれば好き勝手なことばっか言ってんじゃないにゃ!」
「なによう! なーんにも知らないくせに!」
声を上げてヨナが笑う。
「好き勝手なこと? どっちが! どうしてヨシュアさまが答えなきゃならないんです? 全部全部、あなたのせいなのに! あなたさえいなければこんなことにはなってないのに!」
「ヨナ!」
それは違うと静止をかけるのだが、放たれた言葉は最早戻りはしない。
天界を襲撃した悪魔、破壊、殺戮、異世界への転移。
引き金は確かにルーシェルである、彼女が単身乗り込んで来さえしなければこのような事態にはなっていない。それは間違いない。けれど、自分とヨナの関係など彼女にはまるで関係がないことだ。
「ヨナやめなさい、それは関係ないことでしょう」
「どうして止めるんです! 本当のことじゃないですか! 穢らわしい悪魔がいるからこそ、こんなに、こんなにあなたさまが苦労しているのに……ッなにもかも、全部、悪魔のせいでしょう!?」
「ヨナ!」
喉の奥からほとばしるような絶叫に、やめなさいと告げるもヨナはだって本当のことじゃないですかと声を荒げるばかりだった。周囲のエルフ達がぎょっとしたようにこちらを振り向く、淡い色彩の花弁がはらりはらりと舞い散っていく。優しい色に包まれたエルフの里、花祭り、異端である自分達が騒ぎを起こしていいものではない。
「そんなこと、」
癇癪を起こしたようにぎゅうぎゅうこちらへとしがみついてくるヨナをなだめていると、不意に上がった消え入りそうな声にはっとした。風に紛れていきそうなほどの小さな声なのに、不思議と耳に突き刺さるそれ。
振り返った先には呆然と目を見開いたルーシェルがいた。先程まで怒りと不快感できらきらと力強く輝きを放っていた瞳からは光が消え失せ、呆然と、ただ呆然と。力なく立ち尽くしているのだ。
「…………そんなこと、私が、いちばん、よくわかっている」
自嘲のようにふ、と。感情の抜け落ちたような表情で。
仄暗い声、生者と死者の狭間、普段とは違う明るい布地が彼女の黒髪を一層引き立てているというのに漂うのはどこまでも陰影だった。闇より濃い闇、暗澹たる絶望。傍若無人の、口の悪い普段の彼女からはとてもじゃないが想像もつかないその姿に。正直、酷く動揺した。
「ルーシェル!」
ふらりと立ち去ろうとする彼女の、綺麗に結われた髪が風に舞って緩く揺れる。それが、どうしようもなく儚さを漂わせた。そんなことなど無い筈なのに吹けば飛ぶような、掻き消えていくかのような錯覚に陥る。
後を追おうと抱き上げたままだった少女をゆっくりと下ろすが、ヨナはイヤイヤとこちらの腕を掴んで離さない。必死になって立てられる指の強さ、どうして、泣きそうな顔で引き止めてくるがそれでも逸る気持ちはなくならない。小さな手を取って、行かなくてはと伝えるのにヨナは首を振ってやめさせようとしがみつく。
「どうしてそんなにあの女を気にするのです! 私達の天界をめちゃくちゃにした魔王なんですよ!? 血に塗れた穢らわしい存在、だいたい最初から気に入らなかったんです! あなたさまが心砕くに値するような存在じゃない!」
「だからこそ、放ってはおけないでしょう」
強大な力を持つ魔王を一人にはさせられない、目を離した隙に問題ばかり起こす彼女を放っておくことなど出来る筈もなかった。この世界の住人達にこれ以上迷惑をかけない為にも、場を整えてくれたオリビアの気遣いを無下にしないためにも。だから追わなければならない。
――わかっている。
まるで泣き笑いのように口にしたルーシェルの表情が頭から離れない。
世界の全てに絶望したようなその眼差しに、あれほど強烈な光を宿す瞳が曇天のように曇ったその事実が酷く胸の内を刺し貫いた。惨苦、悲痛、ぼろぼろに傷付いて尚ようやくの思いで立っている。立ち尽くすしかもう方法がない、癒えない傷口を抱えて動けないでいる。そう、わかってしまったから。
「ヨシュアさま!」
多少強引ではあるがヨナの手を引き剥がし、雑踏へと消えていったルーシェルの後を追った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




