59 変革 - 4 -
よろしくお願いいたします。
明るい室内では女共のはしゃぐ声が響く。
甘やかな匂いと独特の香りが充満したここは、なぜだか始まった合宿場と比べて大分小さな部屋だった。フィッティングルームとでもいうのだろうか、壁一面の作り付けの棚にはそれぞれ着飾る為の小物が並び、床には細長いスツールと鏡台がいくつか置いてある。そこそこの大きさのクローゼット、部屋の中央には白い布の山を乗せた小洒落た机が一つ。そこで人間エルフ天使と悪魔とが仲良く騒いでいるのである。
「白いワンピースというのは決まっているんだが、デザインや装飾は個々の好みでな」
「私はいつも裾の長いワンピにするんですよー脚がこれなんでねぇ」
オリビアの説明に梓の突っ込みづらい自虐が続く。皆が黙り込んだ事など気にもせず、これなんか良さそう〜と机の上に並べられた白い布の山から一着取り出していた。それは確かに裾の長い、ふんわりとしたシフォンスカートのワンピース。器用にふわりふわりと室内を飛びながら、梓は自身の膝に当てて長さを確かめていた。
「ヨナちゃんはこういうのどう? おそろいもいいよねぇ」
「悩ましいですぅ、ヨシュアさまはぁ、シンプルなのがお好きだからあ……」
言いながら小娘が一生懸命布を漁っている。
祭りで着用が義務付けられている白いワンピースは個々人で用意する事もあるが、サイズアウトやらなんやらでここに収納されているものもあるのだという。自分で一から作り細かな刺繍を施す者もいれば、毎年ここに来て気に入ったものを選んでいく者もいるらしい。合理的ではある。ワンピースの収蔵数はそこそこの数になるらしく、この時期以外には魔力で圧縮して収めているとはオリビアが言っていた。随分と便利なものだ。
「そもそも天使って派手なの嫌うんじゃなかったんにゃ?」
ああでもないこうでもないとワンピースを漁る幼い天使の姿に、リーネンが呆れたような声をあげた。白い衣服は天使が特に好むものである、極力肌を出さぬよう指の先まで覆うずるずるとした布の塊を高位の天使は身にまとっていた。きっちりと着込むことを嫌い、派手さを好む悪魔とはまるで違う。小娘は……階級が低いからか、現在着ているのはそこまで裾の長いものではない。例に漏れず白い衣服の、それこそわざわざ新たに選ばずともそのままでも良さそうな格好である。
「好きな方にぃ、美しくなったぁ、自分を見て欲しいという乙女心をぉ、解さぬやつですぅ」
しかし何故か白い小娘はむっとしたようだった。
乙女心、ねぇ。清廉潔白を良しとする天使にしては色恋沙汰に随分とうつつを抜かすものだと思う。嫁だの何だのと豪語しているが……天使も悪魔も、低級者は物質世界に最も近い場所で活動をしている。俗物的な考え方は人間にでも感化されたか。
「だいたいぃ、露出が激しかったりぃ、ゴテゴテしてるぅ、悪魔にはぁ、言われたくないですぅ」
じろりと青みがかかった緑の瞳がこちらを見る。
まあまあ、と梓がたしなめるもこちらへと向ける蔑みの眼差しを止めるような殊勝な小娘でもない。いちいち相手にするだけの労力も惜しく、黙っていたのだが。
「ゴテゴテってなんにゃ! 変に制約がある天使より好きな格好ができる悪魔のほうがよほど自由にゃ!」
何故かリーネンが噛みついた。
「自由とぉ、配慮はぁ、別ですよぉ!」
「配慮ってなんにゃあ!」
「汚らわしいんですよお! 見苦しいのぉ! なんでぇ、悪魔はみんなあ、あんなに肌を見せるんですぅ!? 女悪魔なんてぇ、裸も当然だったりするじゃあないですかあ!」
恥ずかしいんですよお! と大声で叫ぶ小娘の言葉は、まあ言われてみればそうだなという感想にしかならない。自分はあまり派手に露出しているつもりはなかったが、魔界に在籍してる者など大抵ゆるい衣服で肌を晒らしているか、嫌味なくらいきっちりと着込んでいるかの二つに一つだった。四大諸侯にも一人女悪魔がいるが、彼女もまた豊満な肉体を惜しげもなくさらしていた。我々にとってはよくある光景ではあるのだが、こちらがあいつらの裾を引きずるような衣服が理解できないのと同じように、天使共から見れば信じられないのかも知れない。
「肉体美にゃあ! 美しい方々の! 素肌! 隠すようなもんじゃないんにゃ!」
「それはあ! つまりい! 見せびらかしているんでしょお!? 大したあ! 自信ですことお!」
「みんなそこまで気にしてないにゃ! 好きな格好の一つ出来ないほうが不便にゃ!」
「好みなんてそれこそ人それぞれでしょお!?」
……よくわからない言い合いが始まる。内容はともかく全くもって子供同士の喧嘩である、癇癪を起こした子供が双方譲れないらしい持論を一方的にまくし立てているのだ。わざわざ止めるほどの事でもない。
くだらないとばかりに壁に背を預ける、殆ど無理やり連れてこられてきているのだ。エルフの里の花祭りとやらは、セセアとかいう薄ピンク色をした大ぶりの花を頭に挿して過ごすのだと言う。男は緑のリボン、女は白いワンピース。そしてこの祭りは、恋人探しの為のモノでもあるという。
「ルーシェルさんもシンプルなのがいいですよねぇ」
きゃんきゃん喚く低級者二人を完全にスルーしていたのだが、ひょいと覗き込んできた梓が唐突に投げかけてきた。目の前で繰り広げられるくだらない子供の喧嘩を完全スルーした上で、満面の笑みでこちらに向かって、ね? と。こてんと小首をかしげて続けられても返答に困る。
里の祭りに出る理由も、着替える必要も何もない。自分にはなんら関係がないのだ。
部屋の隅にはメイドたちが控えている。従者宜しく無言ではあるものの、それはもう楽しいと言わんばかりの表情でにこにこと手をこまねいているのが気配で解った。メイド達の手でえらく派手に着飾られていた男の事を思い出す、きらびやかな装飾、施された化粧。いくら女顔だとは言え、長身の男があそこまで化けるのだからメイド達の技術は確かなのだろう。だからといって自分が同じような目に遭う道理などない。
「それとも派手なのがお好き?」
「ああ、ルーシェル殿は確かに美しいからな。シンプルなのもいいが、こういったものも悪くないかもな」
黙ったままのこちらへ梓の追随、そこへさらに続いたのはオリビアだ。その手にはスカート部分に白いレース生地が幾重にも重なった、随分とボリュームのあるもの。というか、それはもうウェディングドレスと言ってもいいのでは……
わさわさと折り重なったスカートの布がこすれて音を立てる。随分と派手なそれは意匠を凝らしたデザインだとは思うが、正直に言って自分の好みではなかった。派手なものも肌の露出が多い衣服も好きではないのだが、だからといって今、シンプルなものを選べばまるであの男の好みに合わせたようになってやしまわないだろうか。小娘の余計な一言に小さく舌打つ。本当に、余計な事しかしない。
天使の為に、自分が着飾る……考えただけでも胸が悪くなる。ではその、シンプルではないふわふわと派手で可愛らしい衣装に身を包むのか。それはそれで抵抗があった。可愛らしいものが自分に似合わないことなど最初から知っている、梓なら難なく着こなすだろう。それに――見るからにすべらかな手触りの、淡く光沢を放つ綺麗な布地はこの世界に来た時不本意ながら借りた天使のストールを彷彿とさせた。精白で清浄なもの。あの時はやむを得ない状態であったのだから致し方ないとはしても、今改めて触れるにはあまりにも清麗にすぎた。
「…………どうしても着なければならないのか」
言外に嫌なのだがとこれでもかと込めるのだが、梓とオリビアはどうしたって聞き入れない。この部屋の扉は既に閉ざされていて、その前にメイド達が陣取っているのだ。この場で着換える為なのだろうが、完全に退路を断たれている。暴れた所で――ここから出たとて。一人になるには未だ抵抗があった。自分が祭りに参加する気も着替える気もないのにここにいるのは一人になりたくないというただ一心でもあった。
きゅう、と。己の手を握る。
夢の中に訪れたアスモデウスの影が、声がちらついて何もかもが恐ろしくなってしまっていた。こんなのは自分ではない、恐れなど。あれは夢で、外部からの干渉であったことは疑いようもないけれど。一人にならなくとも、側に誰かがいたとしても、何も解決にはならないのだけれど。かつての自分よりも劣る霊力とは言え、ああも容易く主導権を奪われるとは思わなかった。夢への干渉、異世界にいる自分を見つけ出し接触してきた。そうして嬉しそうに告げられた言葉が耳の奥に飽和して消えないでいる。
必ず、迎えに来るから。
そう言って消えていった男。
纏わりつくような喋り、重く黄昏るほの暗い空気。愉悦に頬をほころばせながらも逃すものかと隠しもしない執着をまざまざと。必ず手に入れるという激烈な執心、向けられる獣欲と圧倒的な支配欲。舌なめずりをしてこちらを捉えようと伸ばされる手をしかし、払いのけられるだけの力は現在なかった。ナハシュがいたとて、自身が一度に扱える霊力量などたかが知れている。抵抗をした所で意味ある結果になるとは到底思えなかった。触れられた耳を、唇を、ぐしゃりと掻きむしる。たかが触れられただけだろう、そう言い聞かせていてもおぞましさがいつまでも消えてくれない。
は、と。呼気が漏れ出る。
思っていた以上に堪えているらしい。
まあまあまあ、と梓に手を取られ、こちらの抵抗虚しく鏡台の椅子に座らされた。当人そっちのけでどれがいいかと衣装選びが始まる。何が楽しいのか皆目検討もつかないが梓がノリノリである。オリビアも積極的ではないものの、あれこれと衣装を出してくる。気遣われている、それが何よりも情けない。それでも恐怖心は拭えない。魔界にいた頃は誰も自分に害をなせなかった、持って生まれた膨大な霊力は如何なる攻撃をも通さなかった。向けられる憎悪、殺意、強者が絶対の理の魔界では弱い奴が悪い。圧倒的な力を前に誰もが膝を折った。刃を向けてきた者は皆死んだ。私が殺した。向けられるのは害意ばかりで、あの男のように、あからさまな性的対象として見られた事はなかった。いや、中にはいたのかも知れないが。今となっては知りようもない。
「ルーシェルさんせっかくキレイなんだから、色々とオシャレしてみればいいのに」
こちらの挙動などまるで気にした様子もなく、ぷう、と頬を膨らませながら梓があれこれ衣服を持ってくる。流石エルフの収納、とてもじゃないが背が高いとは言えない自分のサイズに合うワンピースの数もかなりの数あるようだった。
「うーん、プリンセスドレス、マーメイドも捨てがたい……」
「せっかく綺麗な黒髪だ、結ってみては?」
「不肖ロージー、その大役任されました」
「まだ何も言っていないが……」
あれこれとこちらのワンピースを決めるだけなのに非常に頭を悩ませている梓に、金の髪飾りが似合いそうだと棚からなかなかの大きさの箱を持ってきたのはオリビアだった。どれがいいだろう、とこれまたこちらの意思など完全に無視して髪飾りを選び出すこの館の主に、髪結いならお任せください! と。きらきらした眼差しで挙手をするメイドと皆好き勝手なことを言い出す。こちらの呆れた声など届いていないのか、聞いておいて改めて無視しているのか。賑やかなのは非常に精神的負荷が高いものの、それでも幾分か気が紛れる。
リーネンと小娘は未だ言い合いをしている。最早何がきっかけだったかすら覚えていないが、原型を留めていないのは確かだった。肌がどうとか衣服がどうとか、些細なことでよくもまああそこまできゃんきゃん吠えられるものだと思う。
繰り広げられる子どもの喧嘩、理路整然としたものではなく感情的なただの言い合い。悪魔と天使の対立は目新しいものではない、程度の程はさておきむしろこれこそが正常なのだろうと思う。天から堕とされた悪魔を天使は神の名の元に許しはしないし、神に従うことを拒んだ悪魔は天使に刃を向ける。相容れない。聖と邪、光と闇。利他的な天使、利己的な悪魔。穢れを許さない天使、存在自体が穢れの悪魔。白い小娘は腹立たしいものではあったが態度としては正しい。天使は悪魔を断罪する。忌むべき者として排除する。永劫交わることのない永遠の敵対者。解っている、そんな事重々わかっている。それなのに。
あの日、差し伸べられた手を取ったのは紛れもない自分自身の意志だった。
絶望の底で見た光。正しく救いの手だった。
性の匂いのしない男。泣きたくなるほど優しい眼差しに、下卑た下心などと言った低俗なものなど一切ないのだった。どこまでも相手を思いやる気遣い、優しさ。善性。清らかな生き物。ありとあらゆる享楽に溺れる我々にとって対極に存在するもの。差し出された手が特別なものだとは思っていない、それでもあの温かな手に覚えた感情は言いようもなく胸の奥が苦しくて悲しい。あの男にとって他者に向けるものはすべからく平等な感情であるのだと理解している、あの男はきっと誰にでも同じことをする。見ていてわかる、あいつに特別な者などいない。皆同じ。傷ついた者を受け入れる絶対的な聖。光。慈悲の天使は慈悲深いがゆえに依怙贔屓などしないのだろう。皆平等で差別もなければ別け隔てもない。
勘違いを、してはならない。
自惚れなどしない。あの男はそういった存在で、自分は悪魔である。今はただ、元の世界に戻るという目的があるから共に居るだけで、共闘という体であるからこそ優しさもぬくもりも与えられるけれど。天使は悪魔を許さない。あの眼差しも柔らかな声も全ては仮初の慈悲。本心などわかりはしない。本当はあの男も同じように自分を穢らわしく思っているのかも知れない。汚濁に満ちた身、汚れ果てしこの身、今更なにを――そう、思うのに。きゅう、と。何故か胸の奥で悲鳴が上がったような気がした。今まで感じたことのないその儚げな痛みに、なんだこれはと。自身に問うていた、ら。
「ルーシェルさまは! 美しいんにゃ!」
一際大きな声が響いたかと思うと、突然小さな塊が飛びついてきた。
視界を覆うオレンジ色の髪。それが必死になってこちらにしがみついてきたのである。
「ちょっと怖いとこもあるけどきれいで強いんにゃ! 何着たって似合うに決まってるにゃ! おまいなんかがどうこう言えるもんじゃーないにゃ!」
「なによお! 悪魔ごときがあ! ヨシュアさまの美しさにぃ、叶うわけぇ、ないじゃないぃ!」
こちらはこちらで絶叫である。
鬱陶しいとリーネンを押しのけるも、何をそこまで必死になっているのか一向に剥がれない。
「おい、」
「悪魔が着飾ったってぇ! たかが知れてるのよお!」
「にゃにおー!? ヨシュアなんか男にゃ! 男が女に勝てるわけないにゃ!」
「偏見ですぅ! すっごい偏見ですぅ! あんな美しい方をぉ! 前にしてぇ! よくそんな事言えますねぇ!?」
妄信的な小娘は癇癪を起こしたように顔を真赤にして尚も叫ぶ。
美醜は力の象徴、霊力値に比例していくものだ。天界最高位であるメタトロンに座する男が美しいのは当然のことではある。……女装させられていた時のあいつは、それはまあ、デザインのせいもあるのだろうが。それはもう儚さの漂うまごうことなき美女ではあった。性差ゆえの体格の差はあったが上手く隠せばそれほど気にするほどのものでもない。ないように見えてしまう。見えてしまった。きっとああいうのを、神に愛された者とでもいうのだろう。
ヨナちゃんは元気だねぇ、梓の呑気な声が間延びして転がっていった。
「ヨシュアさまのぉ、メタトロンへの昇任式なんてぇ、ほんっとうにぃ、涙が出るほどお美しくてぇ……光あふれる神殿でぇ、前任者さまからぁ、短剣を受け取るさまなんてぇ、夢のように美しくてぇ……」
リーネンと変わらない幼い姿の小娘が、うっとりしたように口にする。
昇任式。そんなものわざわざするものではないだろうに、厳格な階級制度かつ式典を好む天界らしいやりかたである。魔界では実力社会が故に、地位などは奪い取るものだ。いちいち誰をそれを集めて何かを行うようなことなどない。皆やりたいように好きに生きている。格好も地位も第三者から押し付けられるものではない。
そこでふと。小娘の口ぶりに違和感を覚えた。
「……見たことがあるのか」
あの男、は。
そこそこ長く在位していた筈だ。それこそ自分よりもずっと。リーネンと変わらない背格好の幼い娘、外見と年齢が等しく連動する限りではないとは言え昇任式を見たというのはいささか無理がないか。記録として残している可能性はある、だが一介の低級者がそのアーカイブに触れられるだろうか? そもそもこの小娘とあの男との接点は何だ。悪魔に襲われていた時に助けられたと言っていたが、天使は高位になるにつれ実戦から離れていく筈だ。あの男が戦場に出ていたのは。一体どれほど前のことだ?
「興味があるのです?」
心底不思議そうに、きょとん、と。小娘はその青みがかった緑の瞳を見開いた。
あれほどまくし立てていたというのに、口を噤んでじいとこちらを見る。幼い外見には似つかわしくない、どこか底しれぬ光を宿した眼差し。
「関心なんてないでしょうに」
おかしそうに笑う。
人間と変わらない程度の霊力量の、幼い外見の低級者。
「……お前は、何だ?」
低く問うこちらに、白い小娘はくるりと一回転した。ふわりと広がるスカート、軽やかな動き。踊るように、歌うように、芝居がかかったその動き。
「ヨナはぁ、ヨシュアさまのぉ、お嫁さんですぅ」
小娘はくすくすと笑いながら答えになっていない言葉を吐いた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




