58 変革 - 3 -
よろしくお願いいたします。
賑やかな話し合いの後、寝泊まりしている部屋へと戻れば室内はカーテンが引かれ薄暗くなっていた。陽の光が得意ではないルーシェルが室内に残っていたのだから、きっと彼女がそうしたのだろう。そう思っていたのに室内に人の姿はなかった。はっきりとわかるようなものではなかったけれど、どこか不穏な空気が室内に漂っていて――襲う胸騒ぎに焦りを覚えながら見渡した先、部屋の隅に彼女はいた。がらんとした広い部屋の中で、ひとり膝を抱えて蹲るルーシェルには異様な雰囲気が纏わりついていた。常とは違う異質さ。何らかの干渉があったのだろうがそれが何であるかまでは断定できない。それでも薄らと残り香のように漂う気配は、決して良いものではなかった。
どうしたのだと声をかければびくりと細い肩が揺れる。まるで恐ろしいものから逃れようとしているかのように怯え、ただでさえ小さな身体が強張った。ぎゅうと小さく縮こませる。震えてさえいた、あの魔王が。こちらの問いかけなど答えず、気遣いなど必要ないと全てをはねつける彼女が。声すらあげず、こちらを見上げてきた赤い瞳には明確な恐怖が浮かんでいた。もとより白い肌をより一層青白くして、潤んだ瞳がこわごわとこちらを射る。さながら暗闇に怯える幼い少女のように。
は、と。彼女の唇から小さく漏れ出た呼気、自分に対する警戒は解かれない。それでも差し出した手を握り返された。縋り付くかのように。助けを求めるかのように。手を取ることに対する躊躇い、それでも取らざるを得ない切羽詰まったかのような葛藤の先の選択。普段ならしないであろう彼女の行動は、それだけ異変を知らせるに十分だった。気位の高い彼女、魔王という立場。彼女を傷付ける事が可能な者などいない。今はともかく、霊力の高さゆえに圧倒的な強者である彼女が。何をそこまで恐れるのだろう。
「ヨシュアさーん、おっまたせー」
明るい声と共に淡い色彩が視界を覆った。
ふわりと甘い香りに強制的に思考が打ち切られる。
「……ルアードさん、」
「いやーいい日だよねぇ花祭りってやつはさあ! 里の祭りの中で一番賑わうんだよねぇ!」
言いながらくるくると踊るごきげんなエルフの青年の手には、拳大ほどの大きさの花が沢山入った手籠がひとつぶら下げられていた。薄いピンク色をした華やかな花はセセアという名らしい。牡丹に似たそれは幾重にも淡い花弁を重ね、瑞々しく細かな水滴が陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
「随分と沢山あるんですね」
「そ、そ、このお祭りでは男の人は髪にセセアの花と緑のリボン、女の人は花と白いワンピってのが正装なんだぁ。ちょっと待ってね、」
言いながら彼は、そっとこちらの左耳の上にセセアの花を添える。ふうわりと香る花の香は優しく、そうと目を細めた。落とさぬように気をつけながら添えられた花に触れ座りを良くする、薄く柔らかな花弁がゆるやかに指を濡らしていった。
「どうでしょう」
「最高!」
ルアードの表情は酷く満足そうだ。
嬉しそうに笑う彼に、こちらの自然と笑顔になる。
現在時刻は昼前、陽の光は辺りを照らして明るく足元に薄い影を作っていた。淡い色彩の空の下で、自分は屋敷の前に設置されたベンチへひとり腰掛けている。ちょっと準備が必要だから待っててーと言ってどこかへと行ったルアードが帰ってくるまでの間、里のエルフ達を見ながらここで待っていたのだ。道をゆく里の人々は確かに、男性は皆一様に長く垂らした新緑のリボンを髪に括り、女性はふわふわとした白いワンピースを着ていた。今目の前のいるルアードも、薄い緑のリボンを右のこめかみの辺りに結んでいる。
エルフの里では今日から三日ほど、花祭りという祭典が開かれるのだという。里の至る所に生い茂る木々に、花々に、沢山の光の球体がふわふわと浮いて辺りを彩っていた。里の一番大きなセセアの木の枝には色とりどりのリボンが結ばれ、長く垂れ下がっているのだという。
「セセアは花樹でねぇ、細い枝の先にこういったでっかい花を咲かせるんだ。でも好き勝手に枝葉を伸ばすと弱ってしまうから、木を守るために蕾の内に剪定する。んで、落とした枝の蕾を開花させて祭りに使う。生物学的な死と再生を表して葬送がどうとかが始まりらしいけど、ま、無礼講ってなわけ」
ルアードは籠を持つ手とは反対の手をズボンの中へと突っ込んだ。ずるりと出てきたのはそこそこの大きさの瓶、透明なそれには淡い桃色の液体が半分ほど入っている。ちゃぷちゃぷとルアードが動く度に揺れるそれからはほんのりと香るアルコール。
「だからさあ、今日はいっぱい飲んでも許される日なんだよねぇ」
器用に片手で瓶の口を開けると瓶のまま口をつけて中身を煽る。結構な勢いで吸い込まれていく液体はみるみるうちに飲み干され、空になった瓶から口を離したルアードははあ、と。実に気持ちよさそうに息を漏らした。
「昼酒ってサイコー……」
少し濡れた口元を拭いながら、うっとりと呟く。
あまりにも幸せそうに陶然としていて、酒とはそんなに美味しいものなのだろうかと僅かに興味が湧く。これまでに勧められ口にしたものは大体が甘く、舌先に熱く痺れるような刺激を受けた。悪くはない、という感想は覚えたが彼のように進んで摂取を望むほどのものではない。そもそも自分達に飲食は必要がない。
何から作られるかによって味も香りも千差万別だといっていた、喉を焼く強い酒精、やがて訪れる陶酔感がいいとも。この淡い、セセアの花と同じような色彩の酒はきっとまた違った味わいがあるのだろうか。
というか、生物学的な死から無礼講とは随分と飛躍したものだと思う。あれだろうか、植物に対する葬儀からの派生なのだろうか……
「女の子たちはもうちょっとかかるみたいだねぇ」
中身のなくなった空便を名残惜しそうに弄びながら、ルアードは楽しみだねぇと続ける。
祭典の正装である白いワンピースを着る為だと言って、女性達は現在この場にいない。美しくなってきますぅ! 意気揚々と宣言してヨナも彼女らについていっていた。梓とは随分打ち解けたように思う、カレブもなにやら呼び出しを受けていて、朝方から一旦天界へと戻っていた。くれぐれも絆されるなよと再三の釘を差して。ルーシェルとリーネンは面倒臭そうにはしていたものの、着飾ることを拒否こそすれどこかに一人で行ってしまうようなことはなかった。問答無用で梓とメイドたちに捕まっていたとも言うかもしれないが。
「さ、ヨシュアさんもとりあえずリボン結んで。髪にならどこでもいいよー」
普段からにこにこと穏やかなルアードではあるが、酒のせいだろうか。いつもよりも更に頬を柔らかくして、間延びした声でこちらにリボンを差し出してくる。長く細いそれは新芽のようなきれいな緑色をしている。
先に差したセセアの花を落とさないように気をつけながらそうと己の長い金の髪を一つに括ってみる。彼らと同じ金の髪に、芽吹いた緑が溶け込むかのように交じる。光の中で美しく伸びていくような鮮やかな色。
「……ルーシェルさんなら大丈夫だよ、ねえちゃんもいるし」
ふ、と。そう言って、こちらを安堵させるかのように彼は笑う。気遣われている、それが解っても自分はなんと返せばいいのかわからなかった。
――あの日からルーシェルはどこか落ち着かない様子で、何かに怯えているように見えた。何があったのか彼女は言わない、別段、助けを請われたわけでもない。それでもあの時、差し伸べたこちらの手を振り払わなかった。おずおずと微々たる力で握り返してきた指は細く儚げで、小さな彼女の手は氷のように冷たくなっていて、哀れなほど冷たくなっていて。
自分に何が出来るとも思わない。それでも悲しいまでに冷えきった彼女の指先に熱が灯ればいいと思った。強張る身体に、指先に、体温が移ってほどけていけばいいと。
酷く動揺したままのルーシェルに、リーネンや梓、オリビアが付き添って別室に連れて行った。ちょっとしばらくはダメそう、随分と時間が経ってからひとり戻ってきた梓の、困ったような表情に己の無力を思い知らされる。何が出来るわけでもない、本当に。彼女は悪魔だ、敵対するものだ。永遠の対立者。交わらない。互いに殺し殺され、憎悪を向けあう存在。悪魔とは血と腐臭に塗れし穢れた者、我々と存在を違える者。それでも、……それでもあれは。
「少しは気晴らしになればいいんだけどね」
ルアードは小さく口にする。
あれから数日、ルーシェルは一見いつもの様子を取り戻したように見える。いつものように集団行動を厭い、天使なぞとカレブやヨナに絡まれるのを鬱陶しそうにあしらい、じゃれつく梓に迷惑そうな顔をしながらも割と素直に受け入れているように見える。メイド達に着飾る事を迫られたなら拒否し、それでも、今まで単独行動が目立っていたというのに誰かの傍にいることがあからさまに増えた。一人にならない。リーネンは元より、こちらの視界の隅から離れない。ような気がする。イヤそうではあるものの、極力一人にならないよう行動しているように見える。一人になることで訪れるだろうなにかに怯えている。それが、なにか。知らされないというのはその程度の信頼関係だからということだ。
――信頼、など。
小さく自嘲。
悪魔が天使を信じると。
肉体を物理的に護ることは可能かもしれないが、意志ある生物である以上存在する心を守るのは力技では上手くいかないのだとつくづく痛感する。あんなふうに怯えるルーシェルに気の利いた事など一つも言えやしない。梓やオリビア、ルアード達のように上手く出来ない。性の違い、種族の違い。そんなもの大した差ではないのかも知れない。子猫のように怯え瞳に宿る恐怖心はきっと。人だろうがなんだろうが違いないのだと思う。
「悪いんだけどさ、アーネスト探してきてくんないかなあ。俺はこれからこうやって花を配ったり色んなとこに顔出さなきゃなんなくてさ」
里長の孫なんて立場ってやつは面倒だよねぇ。
意図してだろう、努めて明るく言いながらルアードは再び反対側のポケットに手をいれる。と、もう一本ずるりと酒瓶を取り出された。こちらは先程のものとは違い未開封らしく、薄い紙で封がしてある。殻になった瓶は入っていたポケットへと再び収納し、新しい方をやや乱暴に開封する。
「多分あいつハヤトんとこじゃないかなー、ハヤト露店やってるからさ、覗いてきてもらえる?」
お姫様には王子様が必要でしょう!
ご機嫌なルアードは、そう言って二本目の酒瓶を豪快に煽った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




