表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁のホザンナ  作者: 青柳ジュウゴ
57/78

57 変革 - 2 -

よろしくお願いいたします。

 早朝、サンダルフォンとオリビアが屋敷の玄関先で随分と激しく口論をしているのをルーシェルは二階の窓から見ていた。天使とエルフという珍しい組み合わせではあるが、そこに覚える感慨はない。気の強い者同士馬が合わないのだろうと思う。


 銀色の天使も世界を違えているというに、良くもまあ頻繁にやってくるものである。それだけあの男を心配しているのか、それとも相当暇なのか。

 熾天使サンダルフォン。

 天界の指揮官でありメタトロンの副官だった筈だ。あの沸点の低さからはとてもじゃないがそうは見えないが、霊力量は確かに高い。自分に比べれば劣るが高位の天使であるというのは間違いないのだろう。

 こちらへの敵愾心を隠しもしない天使らしい天使、というよりは、あの金の男がおかしいだけなのだが。元の世界に戻ること、決着をつけることにえらく拘っているがこちらとしてはさっさと片をつけてほしい。


 ふぁ、と。小さく漏れ出たあくびを噛み殺す。

 なんだかんだと理由をつけられ、大部屋での雑魚寝が続いていた。


 それとなく男女に別れ固まってはいるが、白い小娘はあの木偶の坊の側から離れなかったし、隼人は梓の近くにいる。アーネストは部屋の隅の方を好んで寝転がっていたし、その横はたいていルアードが陣取っていた。就寝だと言って明かりは落とされるものの、木偶の坊は小さな明かり一つで未だに何やら本を読んでおり、それぞれが好きなタイミングで寝ていたように思う。全く気にせず腹を出して寝るリーネン、朝早いからと言って早めに眠る梓と皆好きなように過ごしていた、が。……自分はと言えば、どうにも人の気配が煩わしくてあまり寝付けないでいた。元の世界では人の気配どころか命すらないのが常だった為、雑多な生き物の吐息は酷く耳についたのだ。


 体力は回復しつつある。

 ここに来るまでの道中過ごした夜はほとんど気絶に近かった。外傷、霊力の暴発、体力の消耗。大抵は出血量故に意識を手放していた。天敵である天使の前で意識を失うなど自殺行為だというのに、それなのに自分はどういうわけだか未だこうして生きている。

 

 何故ここにいるのだろう。

 何故生きているのだろう。


 そんなことばかりを考えている。

 魔界にいた時よりも遥かに賑やかな世界は鬱陶しくて苦痛だ。明るい陽の光は肌を焼くばかりか、こちらの罪を白々と照らし出すようで酷く居心地が悪い。畏怖するどころか妙に懐く人間の娘、何も知らないこの世界の住人が働く親切など理解できるはずもない。理解したとて意味がない、自分は彼らとは次元と種を違える者。交わらぬ。異物は異物としてどこにも属さない。元の世界に戻ったとて追われる身だ、自分には最早どこにも居場所がない。

 

 天使達は話し合いだなんだとするらしいが、まるで興味がなかったので不参加、と。それだけ口にして引き続き部屋に閉じこもっている。用意された食事も拒否し、ごはん、となんとも情けない表情でいるリーネンを追い出して一人きり。あの低級悪魔はすっかりこちらの世界の食事に慣れ、味が分かっているのか定かではないがよく何か食べるようになっていた。


 体力は回復しつつある。

 それでも気だるさは抜けない。


 明るく差し込む光に不快感を覚えカーテンを引き、ほんのりと薄暗くなった室内の隅でぼんやりと座り込んでいる。広い室内、清潔な部屋。しんと静まり返ったそこはまるで揺蕩う水の底のようだと思った。緩やかに流れていく空気、梓が昨夜灯した柔らかな香油の香りが残っていて、ふうわりと鼻先を掠めていく。暖かで指先から凍りつくような寒さもない。は、とこぼれ落ちた吐息。僅かに覚えた、覚えてしまった安堵に吐き気を催すほどのおぞましさが襲う。なにを、と。安寧の地などと。汚濁の身、割れた皿が戻らぬように罪は罪、元には戻らない。今更、そう今更だ。喉の奥から小さく零れ落ちたのは自嘲。

 

 ぎゅう、と膝を抱え込んだ。それはいつもの体勢。暗い室内の入口から一番離れた場所、仄暗い闇、影の凝る隅。小さくなって来訪者から見えないように。見つからないように。身を守るように。

 長く長くそうやって過ごしてきた。昼夜など定かではない空間で、殆どの時間をそうして過ごしてきた。魔王、だなんて。大層な名で呼ばれるがそれも大した意味などない。私はずっと、……ずっと。檻の中に囚われていただけに過ぎない。生まれ持った尋常ならざる霊力量、私が生を受けた瞬間すべてが狂ってしまった。


 生まれ落ちた罪。

 この手を汚した罪。

 死すら叶わぬこの身。

 

 さら、と。流れ落ちる己の長い黒髪を無造作に払い除けた。床の上に広がる黒髪はとぐろを巻いている。漆黒の中の漆黒、闇の中闇。光が強ければ強いほど濃く深みを増す影は、黒々とこちらを絡め取るかのよう。

 しんと静まり返った室内、賑やかな声が飽和してそこかしこに染み付いているかのようだった。聞こえない筈の音が揺蕩う、ない筈の他者の息遣い、自分ではない体温をはらんだ空気は冷えて無機質に流れていく。


 己の息遣いだけが耳につく。

 それなりの広さのある空間にひとり、真白い画布の上に散った黒い染みのように存在している。


 壁一つ隔てた先に広がる平穏な世界。

 光に導かれ、光には永遠に届かない。


 とろりと意識が揺れる。

 ふわりふわりとした浮遊感はしかし肌を刺すように冷たく、ゆっくりと瞼を閉じる。思考を絡め取る闇色の底に沈んで――再び意識が戻れば、既にぼとぼとと滴り落ちる血が全身を濡らしていた。のったりと視界を開く。広がる漆黒の世界。ひやりとした空間。腐臭と死臭が満ち満ちて肺腑を染め上げる。

 そろ、と見やった先には闇が凝った槍。

 光沢を持った美しいそれが何本も全身を貫いている。腕を。脚を。腹を。縦横無尽に。汚泥の上に縫い留められたように動けない、倒れることも許されずまるで操り人形のよう。口の中に溢れ出る鉄臭いものを何とか吐き出す、びしゃりと音を立てて足元を汚す、穿たれた肉から止めどなく血が流れ落ちる。肉という肉がずたずたに引き裂かれ痛みに苛まれていてもなお意識を手放すことが出来ない。

 

 これは、夢だから。


 永劫続く責め苦、苦痛は鮮やかで生を突き付ける。何故生きているのだと断罪する。

 視界の先には男が一人。穏やかに微笑んでこちらを見ているのが解るのに、やはり顔は子供の落書きのように塗り潰されていて見ることは出来ない。その背に広がる漆黒の皮翼、うつくしいひと。やさしいひと。悠然と佇んで、こちらを見て笑っている。まるで慈しむかのように。かつてのように。何もかも、記憶の中のままなのに。

 

 ――にいさま、

 

 呼ぼうとして、細く小さな槍が横から飛んできて首に突き刺さる。

 ごふ、と呼気と共に再び赤が口から噴き出す。ぼたぼたと足元を濡らす赤、赤、赤。赤が全てを覆い尽くしていく。自分のものとその他大勢のもの。死臭。腐臭。視界は狭隘。苦痛。苦悶。精神は鋭利。


 幾度も繰り返される。忘れるなと。

 安堵。安寧。甘受できる身かと。


 詰る声は優しく甘やかでじりじりと追い詰められていく。わかっています、声は届かない。届かない。発話する器官をことごとく破壊される。言い訳など聞かないと、彼は笑っている。見えない優しい表情、纏う空気は鋭利で憎悪に燃えている。檻の中から助け出してくれた方。愛しい人。明確に向けられる殺意。楽に死ねると思うなと美しい唇が怨嗟を投げかける。わかっています――告げようにも喉の奥からはひゅうひゅうと音にならない呼気が漏れ出るばかりだった。言葉にならない、謝罪の一つも告げられない。もどかしさに苛立ちを覚えながらもなんとか、なんとか口にしようとして。


「みいつけた」


 不意に耳元に響いた男の声に、ぞわりと総毛立った。いつの間にか背後から覗き込まれている、兄ではない第三者の気配。長く細い槍に縫い止められたまま動けないこちらにすり、と。頬を寄せられた。生ぬるい肌の接触。首筋にかかる男の陶然とした吐息に覚えるのは本能的な恐怖。


「なに、……ひっ、」


 べろりと耳を舐められ悲鳴が上がる。

 何をするとばかりに目だけそろりと動かすと、そこにはひどい猫背の男がいた。だらしなくまとった布切れのような服に両手を突っ込んで、にたにたと笑っている。蛇のように赤く蠢く舌先がちろりと唇をなめていて、あまりの事に声が出ない。ここは夢の中だというのに、どうして。どうしてここにこの男がいる。


 愕然としているこちらに構いもせず、男は、ふ、と。小さく息を吐く。

 瞬間、ぞる、と空間が蠢く。ざらりと場が変わる。


 悠然と佇んでいた兄の姿は溶けるように消え、己を貫いていた無数の槍も跡形もなく消失する。まるで何事もなかったかのように、時を巻き戻したかのように。あれほど血にまみれていたというのにの身から傷一つなくなっているのだ。肉を穿ち内側から伝わる冷たい異物がない。そろりと喉元に手をやるが同じように血の流れた痕もなく。ただひたすら広がる闇の中に自分と突然現れた男と二人だけ。苦痛に強張っていた身体から力が抜け、思わずぺたりとその場に座り込んでしまった。


「こんな所にいたんだねぇ。いっぱい探したんだよ?」

 

 声もなく見上げるこちらを、にたりと男が笑う。笑う。見下ろしてくる紫紺の瞳、ぼさぼさの灰色がかった青い髪が肩口で緩くうねっていた。


「やあっと見つけた」

 

 恍惚の表情を浮かべ、纏わりつくような喋りの男がのったりと首を傾ける。しゃがみ込んでこちらを覗き込む。低く冷たく、くつくつと笑いながら嬉しそうに。なくした気に入りの玩具を見つけだした子供のような無邪気さ、さあどうやって遊んでやろう――そう、胸を弾ませてさえいる。

 男の歪に弧を描く口元、ぎらついた眼差し、加虐、嗜虐、声色から滲む隠しもしない残虐性。そのすべてが薄い皮膚の内側を撫で付けるような嫌悪感をもたらす。胸の内が凍りつくような不快感。


「ぁ、……」


 かすれた、声とも呼べないものがこぼれ落ちる。

 これは夢だ。夢だったはずだ。

 それなのに夢の支配者がこの男に変わっている。突如としてこの場に介入してきたこの男のことを、自分はよく知っていた。強大な力を持つ父の配下が一人、享楽と色欲の悪魔。

 

「アスモデウス……?」

「はあーい」


 呆然と名を呟くと、深い紫の瞳が細められ口元の歪みがより一層濃くなる。表現としては笑っていると称されるように男は表情を変化させるのだが、瞳に宿る光は剣呑としていて牙を剥く獣のようだった。逃さないと、全身全霊で男はこちらに告げる。宣言する。やっと見つけたのだからと。醜悪なまでの執着をまざまざと見せつける。

 

「なんで、ここに、」

「手間取っていてねぇ、もう少し待っててね?」

 

 こちらの問いには答えぬまま、酷く機嫌のいい男はまるで幼子に話しかけるようにこちらへと言葉を向ける。宥めるような言い回しからはしかし、とてもではないが温かみの欠片もない。喉元に噛みつかんばかりの獣性。こちらから離れることのない視線はねっとりと絡みつくようで。


「いっぱい、可愛がったげる」


 囁くように。うっとりと男は口にした。

 男の紫の瞳が嗜虐にまみれ、獣欲がそこには満ち満ちている。舌なめずりをするかのように絡みつく視線、向けられる情欲はあからさまで生々しい。男の長い爪の先が、ついと頬をなぞっていく、皮膚を裂かないように、けれど痕を残すように。じっとりと。形を確かめるように鋭いそれをすべらせていく。


「私が、誰か、わかっているのか」


 震える声を、身体を。抑え込んでアスモデウスのその手を払う。父亡き今、自分が魔王である。魔界において力がすべて、天使のように頭を垂れて隷属こそはしないが、それでもこの男は自分に仕える者だというのに。


「もちろんわかっているよ! 魔王の娘ルーシェルさま。君がずうっと小さいころから知ってるよ?」


 アスモデウスはそう言って笑う。おかしいと、何を言っているのと。一笑に付す。

 ルーシェル様だって俺のこと知ってるでしょう――? にたにたと笑いながら、動じもせず男はあっけらかんと答えた。そうしてぐい、と。座り込んだままのこちらを顎を乱暴に掴む。俺を見ろよと、視線を固定される。ぶつかる深い紫紺色の瞳、そこに宿るのはどこまでも利己的で自己本位な強い感情。貪欲なまでの自分勝手さ。


「でも今は力を使えない」


 それが何を意味するか、わからない君じゃないでしょう?

 獲物を逃さないとばかりに獰猛な眼差しのまま、男は一層笑みを深くする。口元が半月のように、細く長く、伸びる。噛みつかんばかりに歪む口元から覗く鋭い歯、蠢く舌先。


「震えてるの? かあいいね」

 

 愉快そうに、男は目を細める。

 顎は掴まれたまま、じっとりと形を確かめるように唇の上を男の親指がなぞっていく。つつくようにその奥にまで潜り込もうとさえするそれに、嫌だと、恐いと。恐怖に身が竦むのに、それなのに男の手を振り払えない。夢は自分自身のものだと言うのに、この場を支配する男、いとも簡単に書き換えられた。逃れられない。意思が通らない。

 

 ふ、と。男の視線がこちらから離れる。

 虚空を一瞥して再びこちらに向かいあう、そこには先程までの醜悪な笑みは消えていた。


「……邪魔者が来たよ」


 ちっと舌を打ち、ぞっとするような冷ややかな声で男は呟いた。心底忌々しそうに。

 アスモデウスがそう口にした瞬間、かたりと小さな音が響いた。薄い膜の外側から聞こえてくるかのようにどこかぼやけた音。瞬間、どろりと解け落ちるかのように闇が滴り落ちる、急激に意識が覚醒へと向かう。夢の終わりは実にあっけなかった。ざざ、ざざ、と蠢き変わる世界、こちらの意志とは関係なしに場が崩れ壊れていく。訪れる浮遊感。

 

「忘れないで。必ず、迎えに来るからね」

 

 突然やってきた男は愉悦に顔をほころばせながら、たしかにそう言ったのだ――


   ※


 目が覚めた時、全身びっしょりと汗をかいていた。

 浅く早い呼吸が自分しかいない薄暗い部屋の中で響いている。膝を抱え込んだままの体勢で、一体どれほどの時間が経過したのだろう。定かではない、随分経ったような気もするが、閉めたカーテンが遮る陽の光はさほど変わっていないような気がする。ぽつんとひとり。夢は夢だったというのに、それでも介入してきた男の、他者の吐息をはっきりと覚えていた。


 必ず、迎えに来るからね。

 

 こびりつくかのように男の声が耳の中で飽和していた。ぐしゃぐしゃと男の舌が触れていった耳を掻きむしる、唇を乱暴にこする。迎え。それは、当初の目的である。元の世界に戻って天使と再び対峙する。そうして全てを終わらせる――ずっと、そのつもりだというのに。

 あの男、が。迎えに来る。

 昔から妙にこちらへ興味を向けていたが、まさかここまでしてくるとは思わなかった。

 こちらを舐め回すような眼差し、瞳に宿る隠しもしない欲望。享楽と色欲の悪魔、力ある者が絶対の魔界において、霊力が殆ど使えない自分が一体どのような慰みものにされるのか。わからないほど呆けたつもりはなかった。蹂躙。弱者は強者の玩具でしかない。天使達と違い階級が明確にあるわけではない、形だけの服従。主従などあってないようなものなのだから、当然、霊力の使えない今の自分に従う者など皆無だ。気が済むまで嬲られるか、飼い殺しにされるか。男の好きなように、物のように扱われて、死ぬ事さえ許されずただの生き人形にされるなんて冗談ではなかった。あの男はそれが可能なのだ。迎えだなんて言いながら、魔界に戻る気などさらさらないのだ。何処か別の場所、隔離された場所。恐らく、きっと。

 

「ルーシェル? そんな所でどうしたのですか」


 ふいに柔らかな声で名を呼ばれて、びくりと肩が震えた。

 膝の上に伏せたままだった顔をのろのろと上げる、見上げた先には地の底でずっと焦がれていた空の色があった。淡い色彩の金の髪、泣きたくなるほど綺麗な透き通った空色の瞳。優しい光を湛えた眼差し、穏やかな表情の金色の男がこちらを覗き込んできているのだ。いつの間に戻ってきていたのだろう。

 

「具合でも悪いのですか」


 顔色が悪いですよと男は、天使はごく自然にこちらの身を案じる。

 座り込んだこちらの前に膝をついて、大丈夫なのかと不安げに見つめてくる。他意など欠片もない善意だけの気遣い、思いやり。は、と。呼気が漏れ出る。ようやく息が出来るような気がした。夢の中の男とはまるで違う泣きたくなるほど優しい色の、縋りつきたくなる優しい声をした天使。ぼんやりと揺らぐ視界に、涙の膜が薄く貼っていることにようやく気づいた。叫び出したい程の恐怖がゆるりとほどけていく。

 光に焦がれ永遠に届かない。解っている、そんなことは重々わかっている。

 目が潰れそうだ、そんな事を考えながら男から視線を外す。直視するにはあまりにも眩しい。

 罪と罰、闇より濃い闇の中で囚われていた。檻の中で何度も終わりを願った。目の前にいるのは全てを薙ぎ伏せる慈悲の天使。圧倒的な力、誰よりも美しく清らかな男。

 黙ったままの自分を不審に思ったのか、大丈夫かと天使はそろりとこちらへと手を伸ばしてくる。どこまでもこちらを傷つけまいと遠慮がちに、決して触れてこようとはしないその手を払いのけられない。なんでもないと、放っておけと。突き放せばいいのに、覚えた安堵には抗えなかった。


「…………、」


 恐る恐る男の手を取った。

 女のような顔をしているというの差し伸べられた手は確かに男のものだった。大きな掌、太く長い指。自分の細く小さなものとはあまりにも違う。剣を握るからだろう、思った以上に皮膚は硬かった。

 普段の自分なら、決してこの男の手なぞ取らないのに。天使もほんの少しだけ驚いたようだったけれど、それでも振り払われない。伝わる熱、体温。月明かりの下で触れた皮膚と同じ。ここにいる。生きている。


「怖い夢でもみましたか」


 幼子をあやすような優しい声に、涙が出そうになった。

 こちらの震える指先を、掌を。両手で包みこんで柔らかく握り返される。温かくて、優しい。嗜虐に満ちた粘ついた眼差しとは無縁の慈悲深い色。さながら、暖かな日差しのように。強烈ではない、柔らかく周囲を照らす光。


「なあにしてるんですかぁ!」


 絶叫と共に男の背中に白い小娘が飛びつくが、男は微動だにしない。おやおや、と少し困ったように小娘へと向けられる表情は自分とさして変わらない。わかっている。この男は誰にでもこうする。博愛の天使。すべからく平等で特別がいない。多少の打算はあるようだが、それでも困っている他者を見逃せない。単なる偽善と括るにはあまりにも、――あまりにも。

 

 自分の様子がおかしいから。

 この世界への影響を考えたから。

 

 この男がこちらの身を案じた理由などその程度なのだろう。別に大した意味などない。ただそうすべきであると判断しただけに過ぎない。汚濁に満ちたこの身を、天使が気遣う必要などない。

 男の背で何やらきーきーまくしたてる小娘をぼんやりと見ながら強く思う。勘違いなどしない。自惚れなどしない。

 それでも、この男のやさしい手を、ぬくもりを。今はまだ手放したくないと思った。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ