52 思考と恋慕 - 3 -
よろしくお願いします。
里長の館からアーネストに半ば引きずられるようにしてやって来たのは里の外れであった。様々な植物が植えられている畑からも離れたここはそれなりに広い土地で、請われるまま、剣の稽古を行なっている。
ヨシュアは手に馴染む白銀から紺碧へと変わる刀身の長剣を構え、黒髪の青年と向き合っていた。力を持たぬ人間だ、霊力など一切使わぬ単純な力比べ。向こうはこちらの力量もわかっているようで、互いに真剣で実戦さながらの打ち合いを行っている。じりじりとした空気、向けられる鋭い視線に気分は否応もなく高揚していた。
ふ、と。幾度目かの相手の踏み込み。
突き刺すように繰り出される剣戟を切っ先で緩やかに払い、返す手で一撃を返す。こちらの振り上げる刃をアーネストは交わし、距離を取り、再びこちらへと刃を振るう。
ここエルフの里へ来る旅の最中、時折付き合って欲しいと言われ何度か剣を交えていた。このように稽古を行うのは何も初めての事ではない。互いに扱う武器が同じだからだろう、人間の青年は無表情ながらも自分に対し興味を持っているようだった。どうすれば強くなれると、問うてきた彼へ出来る限り応えるように剣を振るう。
彼の扱う黒い刀身の長剣が、ひゅう、と風を切ってこちらへと振り下ろされる。素早さは申し分ないと思う、乗せられる力も力強く身体さばきも悪くない。
ただ、癖なのか攻撃の後どういうわけか刃が相手の中心線から僅かにずれる。恐らく本人にも気付かない程度の誤差のようなものではあるが、気になった。いわゆる照準がほんの少しだが外れるのだ。ずれからの修正も恐らく無意識に行っている、瞬きのような一瞬のタイムロスだが、本来不必要な一拍である。だからこちらが攻撃に転じると、反応がわずかに遅れるのだった。不要な労力は体力も集中力をも削っていく。
基礎は習ったがその先は我流でやって来たというのがよくわかる。彼は文句無しに強い、力を持たぬ人間の中では。だからこそそのずれが妙に目についた。
一撃必殺ならばそこまで不利になる癖ではないが、彼の最終的な目的はそこらの『魔』を倒す事ではない。人ならざるものを相手にするのだから、隙にしかならない癖は修正しておくべきだろうと思った。修正するには数をこなすしかない。誤学習の上書き、正しい軌道、踏み込み、繰り返し繰り返し、血となり肉となるように。それこそ無意識で振るえるようになるまで。
癖はなかなか抜けない。
気を抜けば姿を表す、それを指摘するかのように向けられる切っ先を払う。緩急つけた攻撃、隙をなくすようにわざとわかりやすく刃を打ち込む、それを返されて更に追撃。決して傷付けることのないように。人の為に生きる我ら、ただただ、彼の力になりたいと。
――敵討ちなのだと。
殺意を押し殺して告げた彼の声が忘れられないでいた。神殺しの力を求める護るべき人間、世界を違えた人ならざる自分が出来る事といえば彼を死なせない為のすべを伝える事しかなかった。
刃を交え、身体捌きから生じる隙を突き、反応速度上げる。呼吸を速く深く、そして長く切れぬように。ぶれぬ体幹、踏み込み、間合いの取り方と防御。隙を突いた攻撃、攻める時の構えと刃の角度。
内容としてはいつもと変わらないのだが、普段冴え冴えとしている切っ先が今日は酷く乱れていた。振るわれる剣技の軌道は荒れて読み取りやすく、冷静になろうとしているのは分かるのだが、常とは違う感情に振り回されているのが容易く見て取れる。
きん、と金属のぶつかる音。
乱れた刃を受け止めぎりぎりと押し合う、こちらを見据える彼の青い瞳は酷くざわめいている。汗で滑るのか、何度も握り直す傷だらけの指が目に付いた。
普段からきちりと首まで覆った衣服だったが、里の中だからかアーネストは旅の最中よりはずっと薄着だった。腕をまくり汗ばんだ肌を露出している。その肌の至る所には目を覆いたくなるような深い傷跡。
わずかに手首を捻り、鍔迫り合いから剣を払って距離を取る。身をかがめ、じりじりと間合いを取りながら彼は鬱陶しそうに首を振って黒髪を払った。それが、流れるように視界に踊る。長く艷やかな黒髪、体格はまるで違うというのに、彼のその纏う色彩が思考の奥底を乱暴にこじ開けた。ふ、と短く吐き出される呼気、踏み込みの為のそれがこじ開けた奥底を更に殴打する。
敵討ち。暗渠。煌めく黒い刀身、人間の青年と忌むべき女悪魔とが重なる。絡まることのない長い髪から覗く弧を描く赤い唇、その先の濡れた肉が紡いだ言葉。仄暗い色を湛えた紅く輝く瞳、一度見たら忘れられぬ強烈な印象を与えるそれがこちらを射て――ぞわりと。肌の上を電流が流れるような痺れが走る。柄を握る指に知らず力が籠もる。
こちらへと振り下ろされる黒刃、訪れる彼の癖、連撃の前の一拍。見え透いた隙、コマ送りのように酷くゆるやかに見える刃の軌跡。鋭い銀光、その切っ先の軌道をわずかにそらし返す刀でそのまま横薙ぎに振り抜いた。派手な打撃音が周囲に響き渡る。
「…………ッ」
声にならないアーネストの悲鳴が漏れ出る、苦痛に歪む青い瞳にしまったとようやくそこで気がついた。どうやら彼の攻撃を避けた時の反撃に、思った以上に力を込めていたらしい。勢い余って弾き飛ばしていたのだ。右に振り抜いた己の剣先、彼の握っていた黒い長剣が遥か向こうの大木に突き刺さっている。
「え、あ、す、すみません……ッ」
完全に無意識だった。
深々と木に突き刺さった黒い長剣とその持ち主を交互に見やる、対峙していたアーネストは剣を握っていた手を押さえていた。血は流れていないようだったが、それでも人に振るっていい力ではなかった。稽古だといえども人間を護る事が第一である自分が傷付けてしまった――さあ、と。血の気が引いていく。
「お、お怪我は……!」
何の罪滅ぼしにもならないがそれでも現在自分はある程度の霊力が使える、切り傷でなければ打撲だろうか、打ち所が悪くて筋でも痛めただろうか。力の加減はかなりしていたつもりだ、けれど悪魔と対峙する己の力が脆い肉体しか持たない人間に対してどれほどの衝撃を与えるのかまでは把握出来ていなかった。刃がやわい肌の上を走ったわけではなかったが、向けられた剣の中程を思い切り打ち付けていたのだ。握られていた柄から離れた指先、大木へと突き刺さった黒剣。
「いや、……」
呆然としたように手首のあたりを握りしめていたアーネストは、慌てて駆け寄ろうとしたこちらを片手で制し、ふは、と。小さく笑った。
「あんた、やっぱり強いな」
見えなかった。
そう言って、彼はこちらの事など気にした様子もなくそのまま崩れ落ちるかのようにその場に座り込んだ。そうして、はああ、と。大きく息をつきながら汗で張り付く前髪を乱暴にかき上げる。乱れた黒髪から覗く海の底のように青い瞳、――彼女とは似ても似つかないのにどうしてあの時。重なって見えてのか自分でもわからなかった。
覚えるのは当惑。
それでも怪我をさせてしまったのなら治さねばなるまいと、握っていた剣を鞘に戻してから改めて問う。
「あの、痛みがあるようでしたら治癒を」
「いらん」
短い拒否。けれど、別段腹を立てているようでもない。
困惑しているこちらなど気にした様子もなく、アーネストは酷く荒い呼吸を繰り返しながら俯いて、がしがしと乱れた黒髪も気にせず頭をかきむしっていた。そのまま横たわる無言。
「……悪い、集中出来てなかったろ」
長い髪に隠れて表情は見えないが、何とも言えず居心地の悪そうな声色でぽつん、と。アーネストは口にする。事実、普段よりも明らかに気もそぞろなのは見て取れていたので、そんな事はないとも言えなかった。
「随分と……荒れた剣先だなとは、」
そう、正直に伝えるのだが。だよな、と小さく口にしたアーネストはまた黙りこんでしまった。喋るのは得意じゃないと言う彼の続かない言葉。何か言いたげでありながらも続く空白。そこにはきっと言葉にできない感情と思いが詰まっているのだろう。言葉がないから何も感じていないわけではない、見えなくともそこに確かに存在するもの。彼自身の、彼だけの情感。
先を促すこともないと思い、ひとまず己が弾き飛ばしてしまった彼の長剣を回収することにした。周囲に誰もいなくてよかったと思う、幾年もの年輪を重ねた大木の幹に深々と突き刺さった黒い刀身。一体如何程の間使い込まれたのだろう、柄は手の形が分かるほど擦り切れていた。一思いに引き抜いて己が打ち込んだ打撃の跡を確認する。丁寧に手入れが施された刃、多少の刃毀れこそあれど致命的な傷はなくほっとした。折ってしまったかとさえ思っていたのだ。
「すみませんでした」
彼の方に剝き身の黒剣を差し出せばアーネストはのろのろと顔を上げる。あまり表情を変えることのない彼だったが、今はどこか苦しげにその薄い唇を歪ませていた。そろりと伸ばされた指が黒い刀身に触れる、すり、と表面をなぞってからアーネストは剣を取った。
「……形見なんだ」
独り言のように、かすれた声で呟く。
昼から夜に変わりゆく空の下、彼の黒髪が光を受けて鈍く光っていた。辺りを朱色が照らしている、夕焼けが何もかもを赤く染め上げる。周囲を紅く飲み込んで長く長く伸びる影が黒々とその口を開く。仄暗い闇が漂い始める。
「みんなみんな、喰われた」
押し殺した声で、食いしばるかのように漏れ出る言葉。殺意に満ち満ちた青い眼差し、湧き上がる憎悪。
ぎちりと握りしめられた黒剣の柄が鳴る、憎しみが、恨みが渦巻いて彼を焼き尽くすかのようだった。激しい怨嗟、宿怨。
あまりにも痛々しい感情の発露の前に、かける言葉などそこには存在しなかった。
「みんな、死んだのに、」
無機質な声。
苛烈に燃え上がっていた怒りが一転、光を失って呆然とした眼差しがこちらを見上げる。色をなくして、ぽっかりと感情が抜け落ちたかのよう。代わりにそこにあるのは深い絶望だった。
「アズサに好意を向けられて、一瞬でも嬉しいと、思った自分が、俺は、許せない」
言葉と共に吐息が乱れていく。酷く汗をかいているのに顔だけが青ざめていく。胸を押さえて荒い呼吸を繰り返し、子供のように剣を抱き込んで身体を小さく丸めるように。
「アーネストさん、」
「俺一人が生き残って、なのに、みんな生きたかった筈なのに、なのに俺だけが!」
ぎりぎりと音を立てて剣の柄を握りしめる。
指先から血の気が引いて白く白くなっていた。
「俺が! あんたみたいにもっと強ければ! 誰も死ななかったのに!」
喉の奥から迸る激情。
彼の苦しみが、彼自身に向かう自責の念が胸に突き刺さる。苦しい、苦しいと叫ぶ。もう二度と戻らない過去、奪われた憎しみ、臓腑食い破る憤怒。
これは、懺悔だ。
否定する事は簡単だ、そうじゃない、あなたのせいじゃない。けれど彼はそんな言葉など望んでいない、自分が弱かったからだと、何故生き残ったのかと彼はずっと自分を責め続けているのだ。後悔と絶望に押し潰されそうになりながらも、それでも剣を取って、敵討ちの為に。幸せになんてなってはいけない、生き残ったのだから。殺されてしまった彼の同胞、その先に続く筈だった生、誰も彼もが幸せになる筈だった未来から永遠に切り取られてしまった。
圧倒的な暴力に蹂躙され覚えるのは途方もない無力感だ。
復讐を誓い、怒りを燃やし、それでようやく立ち上がることが出来る。
生き残ったとて、すべてを忘れ一人幸せを掴み取る道もあるのにそれが出来ない。塞がれてしまう。背後について回る罪悪感。そんなもの覚える必要などもないのに、ふとした瞬間に仄暗い囁きが背後から訪れるのだ。どうして、と。繰り返し問いかけてくる声。何故生きているのかと。何の為に生きているのかと。
――そろりと彼の側に膝をついて、哀れなほどに固く強張った肩をそうと抱く。触れた瞬間びくりと跳ねる身体、けれど拒否はない。きつく剣の柄を握りしめたままの指先をゆるく撫でる。せめてその苦しみを、悲しみをほんの少しでもいい、払えたらいい。
「……とても、苦しいですね」
上手く声になっていただろうか。
アーネストは僅かに目を見開いてこちらを見て、音を立てるほど固く唇を噛み締めた。まるで泣き叫び出したいのを必死に堪えているかのように酷く表情を歪めている。
生き残るという事。
生きなければならないという事。
それは、とても残酷で、酷く苦しい事だ。
約束は守られねばならない、自死は許されない。
こんなにも会いたいのに二度と叶わない、触れる事もできない。永遠に失われた大切なもの。
握られたままの剣、彼の手に馴染むよう擦り切れたそれを傷だらけの指が握りしめている。固く骨ばった彼の指、彼自身も重傷だったろうに脆い人の身で一体どれほど修練を積んだのだろう。怒りを燃やし、憎しみを糧に立ち上がったのだとしても生半可なものではないだろうに。
「よく、ここまで努力されました。とても苦しくて、辛いことだったと思います」
竜人によって滅ぼされた村の生き残り。
彼の全身を覆うように走る深い傷跡はどれも致命傷になりかねないものだ。獣の牙、引き千切られた肉の痕、それでも尚立ち上がって、敵を討つ為に血を吐くような努力を続けてきたのだろう。
生き残ったのだから幸せになどなってはならないと、己に課すその心情に胸を締め付けられる。そんなことはないのに。好きだと言われて嬉しいと思ったのなら、受け入れたらいいのだ。誰も責めたりしない、何もかも忘れて剣を捨てたとて、誰も咎める者などいないのに。穏やかな生を望んだとて、誰が一体非難する。
腕を伸ばして柔らかく彼の頭を抱き込む。自分などが何が出来るとも思えない、それでも、彼の苦しみが少しでも和らげばいいと。
抵抗はやはりない、されるがままのアーネストの頭をそのままゆるく撫でる。ほつれ乱れた黒髪を優しくなでつけるように、何度も何度も。強張っていた身体から少しずつ力が抜けていく、こちらの胸へと頭がもたれかかる。互いに口を開かず周囲の木々の擦れる音ばかりが耳についた。緩やかに通り抜ける風、周囲の闇は一層濃くなりつつある。
――どれくらいそうしていただろう。
稽古後煮えたぎるように熱かった彼の肌は元の体温へと戻り、汗も引いたようだった。アーネストは相変わらずこちらに体を預けたままだったが、そわそわとどこか落ち着かなくなってきていた。ややうつむきがちに明後日の方に目をやり、きつく握りしめた剣の柄を緩めたりまた握ったりを繰り返している。
「…………あんたは、何も、言わないんだな」
ややあって、ぽつりと。か細く呟いた。
やはり視線の合わないままのアーネストに、きょとりと目を瞬かせ。
「何も、とは」
「生きてる事はいいことだと、前を向けと、……いや、」
違う、愚痴とかじゃなくて。
ぼそぼそとどう言うべきなのだろうと思案する声が腕の中から聞こえてくる。そこまで大きく開いた身長差でもない彼から腕を離し、改めて彼の横に腰を下ろした。ふいと逸らされる顔。
「大丈夫です、わかりますよ」
囁くように口にすればアーネストは安堵したようにほうと息を吐いた。口下手な彼らしい。
彼の周囲にいる皆もまた、彼を勇気づける為きっと沢山話しをしたのだろうと思う。生きていて欲しい、死んでほしくない。それは本心だろう。死んでほしくないのだと、こちらに告げてくれたルアードの硬い声。死なせてくれるなと、武器屋の店主の切望。それはきっと、彼に関わるもの皆が願うことだと思う。改めて自分が言うことではない。
彼だって本当はわかっているのだ、ただただ心がついていかない。納得できない。失われた命がある事、なかっ事には出来ないからこそ苦悩するのだろう。
ぎゅ、と彼の両手を剣の上から握るとまた大きく肩が跳ねる。何か言いたげに目をうろつかせているアーネストに構わず、皮膚の固くなった手のひらに意図して力を込める。さながら祈りのように。
「皆さんに、大切にされていると、ご自身が一番よくわかっていらっしゃるでしょう? だからこそ素直に受け入れられない自分が許せなくて、苦しい……」
思われている、想われている。
温かな人、温かな場所。苦痛を背負ったまま立ち続けるにはあまりにも気力が必要だ。助けられている、愛されている。わかっている、恵まれているのだと。恵まれているくせに、差し伸べられた手を握り返すことに覚える後ろ暗さ。覚える罪の意識は掻き消えることなく、躊躇いと飲み込む感情。消える事のない染みのように広がって。
――どの口が。
努めて穏やかに告げながら、その実腹の底で煮え滾る憎悪を苛烈に焼き尽くしていた。どの口がそのような事を言う。偉そうに御高説を垂れて、何様なのかと。救いたい、それは心から。神の愛し子。自分は彼らに使える僕でしかない。生きる事はいい事だ、いい事でなければ。生きる事は命あるものの責務だ。置き去りにされた意味などそこに集約される。それでも、心は叫ぶ。辛いと、苦しいと。悲しみは寄り添うように常に共にある。
「……会いたい、ですね」
ほつりと唇から漏れ出たのは殆ど無意識だった。
会えるならもう一度。もう一度名を呼んで笑いかけて欲しいと。
「あんたも、誰かを亡くしたのか?」
問いかけにはっとした。
伏せていた顔を上げると、アーネストがこちらをじいと見ているのだ。やや吊り目の青い瞳をわずかに見開いている彼に、ええ、そうなんですと。何でもないように振る舞って微笑んだ。
「私も長く生きていますので。別れなど星の数程ありますよ」
これでもかなりの長い時を生きているのですよと続ければ、そういうものか、と。眉根をわずかに寄せてアーネストは呟いた。
人とは比べ物にならない長く長い生、哀惜は数限りなく。戦いの中で命を落とした者、悪魔の甘言に飲み込まれ堕天し行方のわからない者。志半ばで儚くなった者。別れは唐突に訪れる、昨日共に笑いあった者が明日を迎える事が出来なかった。永遠などない。命には限りがある、当然の摂理だが感情はだからといって無くす事など出来ないのだった。
「何か、悪かったな」
「え、」
「いや……あんたも、苦しい事があるのに。八つ当たりして悪かった」
「そんなことは、」
「俺は、あんたみたいに余裕がないから、自分のことばかりだ」
ぐいと目元を拭いながら、ぼそぼそとした物言いで。悪かったと彼は謝罪の言葉を口にする。
乱暴に拭われた目元は少し赤くなっていた。青い海の底のような瞳がうるんでいて、縁取る睫毛に僅かな水滴がついている。
「泣いていたのですか?」
驚いたように目を見開くと、アーネストは途端に苦虫をこれでもかと言わんばかりに噛み潰したかのように顔をしかめた。確かにずっと黙っていたけれど、泣いていたとは気付かなかった。
「……忘れろ」
「甘えることは悪いことじゃありませんよ」
「う、う、うるさいな……!」
わかりやすく動揺している。
少し調子が戻って来ただろうか、苦しみが消えることはない。悲しみも捨てることは出来ない。それでもいつかは癒える筈だ。祈りのように願っているから。
「あの馬鹿には言うなよ」
「ふふ、それでは私とアーネストさんだけの秘密ですね」
しぃ、と口元に人差し指を当て微笑んだ。
アーネストはそれを呆けたように見ていたが、やがて、うぁ、と。小さくうめき声のような声を上げた。……そんな表情をされるような事を言った覚えはなかったのだが。
「お前本当に、」
「はい?」
「なんでもない、いいから寄るな、わかりたくもない感覚が来る」
「どういう意味でしょう……?」
問うてもそれ以上アーネストは答えてはくれなかった。
長い事座り込んでいた場所から軽く反動をつけて立ち上がる。ふわりと舞う黒髪が流れていくさまを見上げていた。軽やかな身のこなし、周囲はすっかり日が落ちていた。今はまだ日没の朱色が残っているがまもなく闇が辺りを飲み込むだろう。
「おーい、いつまでやってんだ!」
そろそろ戻らなければと思えば、ちょうど遠くからルアードの声が聞こえた。
なかなか戻ってこないこちらに業を煮やし、探しに来たらしい。ちっと舌打ちが聞こえる、面倒くさいやつが来たと悪態をついているがその表情はさほど嫌がっているようにも見えない。ルアードは自分はアーネストの保護者だと言っていたが、自分には違うように見えた。信頼と安心。心配させたくないというもあるのだろうが、多分弱みを見せたくないのだろうと思う。心配した後からかうだろうルアードは想像に固くない、あれは一体何なのだろう。照れ隠しなのだろうか。
なんだか微笑ましくて、ふ、と。笑うとげんなりしたようにアーネストが釘を刺す。
「……黙ってろよ」
「二人だけの秘密ですものね」
「お前な」
決まりの悪げな声と表情に耐えきれず笑ってしまった。
「えーなになに、どうしたの」
ほんのりと明るい光を片手にやってきたルアードに、なんでもないと告げて自分も立ち上がった。
「ほら、アズサが待ってるぞ」
「………………、」
にやにやと笑いながら口にするルアードを、アーネストは心底嫌そうに顔をしかめていた。肩を組もうとのしかかるエルフの青年の腕を押しのけながら、それでも居た堪れなさそうに。頬が赤く見えるのは夕日のせいだけではないだろう。
少しずつ、彼の中で折り合いをつけて答えを出せばいいと思う。
幸せになって欲しい。誰も彼も。
眼の前でじゃれるようにしながら進む彼らの後ろ姿を見ながら、そう強く願った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




