51 思考と恋慕 - 2 -
よろしくお願いいたします。
膝から下が動かないだけで、脚自体は持ち上げることが出来るらしい。梓はこちらの手を借りずとも転がり落ちた椅子へと一人で器用に座り直していた。そうして酷くばつの悪そうな顔をして、乱れた黒髪を手櫛で直す。いわゆる恋する少女といったところか、趣味が悪いとは思うが人間の小娘が誰に恋い焦がれようが自分にはまるで関係のないことではあった。それが例え口下手で無愛想の大食いな、対人スキルも絶望的な男といった到底趣味が良いとは言えないような相手であったとしても、である。
はあ、と。
こちらが零した吐息に梓はぴくりと肩を震わせる。
「元の世界に帰りたくない理由はそれか」
「違うもん……」
消え入りそうな声。
先程までの勢いはどうしたのか、こちらから視線をそらしてもごもごと何やら口の中で呟いている。
己に恋い焦がれる相手がいるのだから、きっとこちらもそうなのだろうとでも思ったのだろう。自身の感覚でこちらを括らないで欲しい、いい迷惑である。他人の恋愛事情など知ったことではない。そもそも自分と天使の間に交わる情などない、惚れた腫れたなど冗談ではない。
「好きだなって、思ったのはもっとずっと後だもん……本当に、元の世界に未練なんかないんですよぅ……」
ぼそぼそと梓はこちらを見ないまま口にする。
未練などない。
元いた世界になど戻らない。
そう豪語していたが、ここは言葉も文化も違うだろうに。
里の外は魔物だらけで大した力も持たない彼らは外に出ることもままならない。エルフ以外との交流はほぼ不可能だろう。隼人は米が食べたいと言っていたのだし、郷里を懐かしむ事だってあるだろうに。それなのに、帰らないという決断を下した理由は何なのか。好いた相手がいるからが理由ではないという、脆弱な人間にそこまで思わせるだけの何かがここにあるのか。感情に生きる人間どもが恋だ愛だなどを理由にしている方がまだ信憑性があった。
「あのね、私が物心つく前に両親は事故で死んじゃってて、おばあちゃんがしばらくは育ててくれたんだけど。おばあちゃんが亡くなってから、まあ……うん。遺産だ相続だで、色々あって……」
小さかった自分はよくわかってなくて。
お兄ちゃんが全部矢面に立ってくれて。
痛いことも怖いこともたくさんあって。
こちらの言いたいことがなんとなく察せらたのだろう、梓はとつとつと語る。
親戚中をたらい回しにされた後、遠縁の縁者へと引き取られる事となり飛行機に搭乗したはいいが事故に遭遇。気がついた時にはここへとやって来ていたのだと。
神様なんかいない、来てくれるなら天使でも悪魔でも何でも良かった。
以前そう言っていたが、なるほどなと。納得する。
天使なぞは人の素晴らしさを語りがちだが、人ほど欲に弱い生き物はいない。金に目が眩み盗み殺しなどごくごくありふれたものだ。弱者を虐げ溜飲を下げる。悦に入る。人の欲に際限などない。膨れ上がる要求、願望、他者を蹴落としてでも己だけが得を得たい。げに恐ろしきは人の業よ。傲慢、強欲、憤怒に色欲。暴食。怠惰。我々が司る罪過、罪へといざなう欲望や感情は強固で甘美なものだ。
弱者は強者によって虐げられる。
それはどこの世界においても普遍的な不文律。
力による支配は容易く理性を絡め取る、庇護を失った幼い子供がどのような目に遭うかなど。近しい保護者のいない、金を持った子どもがどうなるかなど。火を見るよりも明らかだろう。
「お兄ちゃんがいてくれたから耐えられたのよ」
ぽつんと。
独り言のように、ささやきのように梓は呟いた。
慈しみと申し訳無さと、相反するような感情が混ざりあったような眼差し。
「ずっとずっと、守ってくれているの……」
きゅ、と。膝あたりのスカートを握りしめながら梓は消え入りそうな声で口にする。
兄という言葉に梓と同じ黒髪の青年が脳裏に浮かぶ、同じ世界からやってきたという何処か飄々した梓によく似た男。妹よりかは悪魔であるこちらを警戒しているようで、心配だからといって少女の側にいる事が多い。そもそもの話、足が不自由な妹を一人にはしておけないのだろう。二人で暮らしている小屋でも仲睦まじさは見て取れていた。ルアードやオリビアたちの手助けは当然あったのだろうが、慎ましくも手を取り合い生活している様は微笑ましくも妬ましくあった。穏やかに笑い合う兄と妹。かつての光景と重なって見えたような気がした。在りし日の自分。もう訪れない遠い日々。温かな手、優しい眼差し、名を呼ぶ声。眼裏にまざまざと。
――兄さま。
胸中で小さく呟く。
過去を思い出すだけで未だ胸を刺す棘のようだった。ぎゅうと己の胸元を握りしめる、痛む胸の内、兄から向けられた感情は嘘ではなかったと信じたい。いや、例え嘘だったとしても構わない。単なる気まぐれでも、果てしない生の中のほんの暇潰しでも助け出してくれたのは事実だ。最早確かめるすべなどないに等しい、自分はただ、ただお傍に置いておいてくれたらなんでもよかったのに。
叶うことのない願望。
割れた皿が元には戻らないように、過ぎ去った過去は過去のまま。
「……隼人は、お前に優しいんだな」
「うん、凄く。こっちが困っちゃうくらい」
零れ落ちたこちらの呟きに、にこっと。恥じらいと慈しみとに溢れ柔らかくほどけるように梓は笑った。晴れやかな笑み、仄暗さのない真っ直ぐな感情。脆弱な人間、力は容易く精神を歪ませるというのにすらりと伸びゆく植物のような真っ直ぐさ。
まだ幼ささえ残る目の前の娘はきっと、その身に余るような扱いを受けてきたのだろうに酷く美しく笑うのだった。恨み言のない眼差し、心からの、晴れ渡る空のように満面の笑み。
「だからね、元の世界に戻っても居場所なんかないし、だったらここでお兄ちゃんと二人で生きていけばいいかなって。ここには殴るような人はいないし、お布団もご飯もあるもの。あの頃よりずっとずっと、ここでの生活は幸せなのよ」
取り繕ったような物言いではなく、心からそう思っているのだろう。穏やかに梓は微笑んでいる。本当に帰りたくないのだ、戻ったところで良い事など何もない。誰も助けてくれなかった場所よりこの世界の方がずっといい。小柄な少女はそう全身で語っていた。――元の世界に戻りたいというのは、元々いた場所の方がずっと居心地が良かった場合に限られるだろう。この娘は左目の視力を失い、両足が動かなくなったとしてもこちらの世界の方が良いと判断した。失ったものよりも得たものの方に利があったのだろう。
……天使もだろうか。隼人に帰りたいのかと問われ即答しなかった男。あえてこちらが問うた時にも、やはり口籠った男。取り繕うことも出来ただろうにそれをしなかった、いや、出来なかったのか? 清廉で美しく整った天界の住人が? 何もかも恵まれ、多くの配下に帰還を望まれているというのに。銀や白の天使の迎えに躊躇する理由とは一体何なのだろう。
ふと、こちらを見上げてくる視線に気づいた。物言いたげな眼差しに、何とも言えない居心地の悪さを覚える。この流れだ、次に投げてくる言葉など考えるまでもない。
「ね、ルーシェルさんは兄弟っている?」
そらきた。これみよがしに額に手をやり深く長く息をつくのだが、わくわくとした少女の眼差しは変わりもしない。こちらを悪魔であると認識しておいて尚こちらを恐れない娘は、躊躇いなくこちらへと問いを投げかけてくるのである。
「聞いてどうする」
「お兄さんいるのかなあって」
「………………何故そう思う」
「えっとねぇ、私がお兄ちゃんの話ししてる時ちょっと様子がおかしかったから?」
にこにことなんでもないように告げられて言葉に詰まる。
意外と聡い。というか、そこまであからさまな態度を取っていたのだろうか。違うと即座に反応出来なかったのが悪かった、ぐ、と返答に詰まったこちらに梓は己の言葉が間違いでないと確信したらしい。にまあ、と何が嬉しいのか更に追撃してくる。
「やっぱり! ね、ね、ルーシェルさんと似てる?」
「どうだって、」
「よくないです、気になるじゃないですかあ」
梓はどういうわけだが食い下がる。何が楽しいのかはわからないが、どうやら格好の餌を与えてしまったらしい。ねえねえとまるで旧知のような馴れ馴れしさでこちらに問い続けてきて、顔をしかめるのだがそれすら知りませんと言わんばかりに止めやしない。
……梓には天使とはまた違った鬱陶しさがあった。しかし天使ほど無神経でもない。どこか道理をわきまえているような、強引な言動だと言うのに何故か不快だと思わせるようなものはない。無邪気さだろうか、全く悪意はないようだがしかし妙にこちらの痛いところをついてくる。
「お前、仕事は」
「もう終わりましたもーん、そうやって話を逸らそうとしたってダメですからね」
逃げ場はないらしい。
はあ、と。溜息。
適当にはぐらかす事は可能だろうが、この話題を諦めさせるのは難しそうだ。恐ろしく労力がかかりそうな気さえする、何がそんなに気になるのか、こちらとしては理解が出来ないのだが梓はこちらの返答を待っている。兄と似ているかどうか、だって?
「……似ているかはわからないが。私と同じ黒髪と赤い目をしていた」
さっさと会話を終わらせるべく端的に述べる。
「やっぱりきれいな人?」
「綺麗で強い方だ」
そこは疑うようなことではないので素直に答える。強く美しい兄、自慢の兄。思い出される記憶は甘やかな分酷く苦く苦しい。
「じゃあルーシェルさんの事心配してるね、きっと」
そうだと信じて疑わない娘の言葉に、じくりと一際強く胸が痛んだ。
言動は自身の経験則が物を言う。
兄弟に何かあれば心配するだろうというのは、そういった経験があるからだ。隼人も梓も互いに何かあれば心を乱すのだろう。心配して、何かできることはないかと藻掻くのだろう。人の考える事。虐待サバイバー、相互扶助。く、と。苦々しい笑みが唇を歪めた。
「……それはないだろうな」
「そうなの? どうして?」
「お前達とは違うからだ」
小さく口にしてふいと視線をそらす。窓の外から見える光景は相変わらず穏やかで、煌々と陽の光が地を照らしている。地の底の果ての果て、闇色の世界。弱肉強食の世界で差し出された唯一の希望。
助け合いなどと言ったものではなかった。
救い出してくださった方、与えられるばかりで何も返す事ができていない。己の犯した罪を鑑みれば兄が自分を突き放すなど当然のことだろう。心配など。
世界のすべてだった。誰よりも大切だった。
けれどもう、あのひとは。
「……お前はどうしてそうまで私に構う」
同じ世界から来たとは言え種が違う存在である。悪魔など人間を害する存在だというのに、何故ここまでこの娘はこちらと関わろうとするのだろう。あの宿屋の娘はまだわかる、この世界の住人なのだから悪魔と言う存在を知らない。それに、リリーはなんというか、竜人に対してあれこれ考察できる相手が欲しかったようであった。己の欲に忠実であるのだからまだ理解の範疇だった、しかし梓は違う。いや、何か思惑があるのか。
警戒するこちらに対し、しかし目の前の少女はきょとん、と。その色違いの目を瞬かせたかと思うと。
「えっとですねぇ、お友達になりたいなって!」
満面の笑みでこちらの想定外の言葉をぶちかました。
「友達」
「ここには良くしてくださる方はいっぱいいるんだけど、いわゆるお友達っていないんですよねぇ」
いやほら、複雑な家庭環境だったもので。
にこにこと柔和な笑みを浮かべながら、突っ込みづらい事を茶化した物言いで告げる。
「私のような悪魔でもか」
「異世界にいて種族の違いだなんて誤差みたいなものじゃない?」
「誤差ってなんだ誤差って」
「住んでた場所が違っただけじゃないですか」
別に特別なことでもなんでもないとでも言わんばかりに、ぷん、と。どこか不満そうに梓は言い切った。世界を違え種族を違え、共通項など性別くらいしかないというのに。人間、悪魔、霊力、常識、思考、まるでちがうというのに言うに事欠いて住んでいた場所が違っていただけと表現するか。そこらの人間より苦労を重ねてきただろうに、なんとも豪胆な娘だ。思わず吹き出していた。
「っく、……そうか」
違いなんてないじゃないかと言い切る、大した力も持たない脆弱な人間のくせにおもしろい。自分は天にあっては天に、地にあっては地に恐れられていたというのに。私に敵意を向けない珍しいイキモノである。天使が悪魔から守護する人間にまさか友達になって欲しいと言い募られる日が来るとは思わなかった。
「いいだろう」
了承すれば、梓は嬉しそうに顔をほころばせた。全身で嬉しいとこちらへと伝えてくる、己の感情に素直な人間である。素直で、人懐こいと見せておいて何処か一線、踏み越えてはいけない距離を保っている。弁えているのだろう、それが馴れ馴れしさや不快感を覚えない理由なのかとも思う。
……守るべき人間が悪魔と仲良くしているさまというのは、一体天使にはどう映るのだろう。
梓に興味を覚えたのは確かだが、天使に対する嫌がらせのような思いもまたあった。立場場良しとしないだろう事は想像に難くない。流石に顔をしかめるだろうか、反対するであろうか。苦言を口にするだろういけ好かない男をやり込めるのはなんだか楽しい遊びのような気がした。別に、本気で友達とやらになる気などないのだから。
「だが私も友人などいなかったのだから、何をするものなのかわからないぞ」
「友達といったら色々あると思うんですけど、女の子同士ならやっぱり恋バナじゃないかな! ほら今男の人いないし!」
「圧が凄い」
こちらの思惑など知りもしない娘は無邪気にはしゃぐ。天真爛漫という言葉がこれ程似合う娘もいないのではないだろうか。
くるくるとよく変わる表情、屈託のない笑顔。私を恐れない娘。悪魔であると知った上で交流を持とうとする奇特な人間。多くの大人に虐げられ傷付いた魂は危うい美しさを持っている、その仄暗さが確かに好みでもあった。わざと明るく振る舞うことで、つつけば傾きそうな弱さを内包した魂を隠しているようにも見える。
恋バナ、ねぇ。
遊びなのだから付き合ってやるのも悪くはない、どうせする事もないのだ。
「あの目つきの悪い男に惚れた話か?」
「あ、意地悪な言い方するのね」
「恋バナとやらがしたいんだろう、それに……多少の意趣返しは許されるだろう?」
他人の色恋沙汰など全く持って興味の欠片もないが、散々好き勝手な事を言ってくれていたのだから反撃されることも覚えた方がいい。そうあえて言ってやれば梓はむすりと口をへの字に曲げる。気恥ずかしさで居た堪れなくなっている少女を見ているのはなんだか愉快だった。
「あの男のどこがいいんだか」
「あ、そういうこと言う? 言っちゃうんだ?」
心底理解できず呆れ混じりに口にすると、きらりと。梓の色違いの瞳が輝いたような気がした。
「なに、」
「聞くからにはルーシェルさんも教えてくれるのね!」
「何をだ……」
「ヨシュアさんとのこと!」
朗らかに宣言され、またか、と。深く深くため息を付く。
やたらめったらあの男のことを言われるが、敵対しているだけで何の繋がりもない男のことを引き合いに出されてもだからどうしたとしか言いようがなかった。天界最高位の天使、永遠に殺し合うだけの相手。恋だの何だのと言う前にそもそもが交わらない相手である。元の世界に戻る為協力をとあの男が言い出しただけで、それ以上でもそれ以下でもないというのに。この世界の住人共は名瀬港も我々の関係を問うのか。
関係も何も。
いくら問われたとて返せる言葉など一つしかなかった。
「あいつとは何もないと何度言ったらわかるんだ貴様らは……」
呆れ果ててそう口にするのだが、梓はどういうわけだかしらないが不服そうな表情をしている。想定していたものとは違う返答だからだろう、なんだ、あの男が好きだとでも言えば満足なのか。到底受け入れられない言動である。
「それって天使と悪魔だから?」
含みのある表情である。
まるでそうじゃなければ悪い気はしないのではないかとでも言いたげである。
「そもそもあんなお節介天使だろうがなかろうがこちらから願い下げだ。この世界に来たのだって不可抗力でしかないというのにあの男が再戦するだとか元の世界に戻る為に共に行動しようと言い出したんだ、拒否しようが抵抗しようが全く意に返さず好き勝手にするばかりの脳筋阿呆木偶の坊のどこがいいというんだ、いい迷惑なんだこっちは!」
「すっごい早口!」
一息に思い切り罵ってやったつもりなのだが、梓はけらけらと声を上げて笑い出した。
「あのねあのね、森の中にいた私達を助けてくれたのはルアードさん、お世話してくれたのがオリビアさま。アーネストさんは出会った頃は何考えてるのかよくわかんなくってね! 最初は無表情で無口で怖かったの!」
了承していないのに梓は勝手に語り始める。
他人の馴れ初めなんぞ興味の欠片もないというのに、聞いて! とばかりに距離を詰めてくる。楽しくって仕方がないと全身全霊で伝えてくる。
「はあ、」
「自分に出来ることで喜んでくれるの嬉しくない?」
さも当然のように言えられるがわかる筈もない。そんなものなのかと思っただけに過ぎなかった。
事故でこの世界にやってきて適度に適応していると言うだけでも見上げた精神だと思うのだが、ここで恋だの何だの、余力がないと出来ないであろうことまで楽しんでいるらしい少女にはいっそ感服すらした。並大抵の人間の精神ではない、やはりまともな環境に身をおいていないと色々とブッ飛んだ思考回路になるらしい。
そ、と。己の額に手をやる。
言いようのない頭痛が我が身を苛み始めている。
「強いな……」
「伊達に地獄は見てないんだな~!」
嫌味のつもりの言葉も、けらけらとなんのてらいもなく笑いながらこの返しが出来る十六才などいてたまるものか。
※
目ぼしい資料にあらかた目を通し終わり、一区切りにしようかとヨシュアは借りている屋敷へと戻ってきていた。時刻は昼をいくらか過ぎた頃、連日閉館時間まで資料室にいたのだから今日はいつもよりずっと早い。
「いやー、ヨシュアさん凄いねぇ……そこそこの量があったのに全部読んじゃったの?」
自分が資料室に籠もっている間のほとんどを付き合ってくれていたルアードが感嘆の声を上げる。
寝泊まりしている部屋は屋敷の二階である、オリビアに戻ってきた報告をした後とんとんと木製の階段を登る。
「全部ではないですよ、関連書籍まで網羅は出来なかったですし。ルアードさんとオリビアさんが解説してくださったので理解も早くて助かりました。本当にありがとうございます」
「いやいや、こちらとしても優秀な生徒さんで先生うれしい」
少し疲れたような表情の彼は、ぐーっと腕を伸ばして大きく伸びをする。
こちらは新しい発見があったりあれこれと紐解いていく過程は実に興味深く面白く、のめり込むように本を読み込んでいたのだ。彼自身も改めて復習するからとは言っていたものの、資料室に籠もりっきりというのは彼に負担を強いただろう。
「何か、お礼をしたいのですが」
「いいよぉ、気持ちだけもらっとくね」
世話焼きの彼はやはり何もいらないのだと笑う。
「ですが、」
「俺も新たな発見あったしね、やっぱ第三者からの見解って大事だねぇ」
ほら、術の構築式! 声を弾ませながらルアードは魔法書を精査した結果について語る。こちらの魔法と自分たちの世界で使われていた霊力との違いは明確にあったが、扱い方に関して言えばそこまで極端に差があるものではなかった。その身に宿す不可視の力、媒介となるものを通して発現する魔法。
自分達の使う霊術も十分応用は可能そうではあった。あとは霊力に耐えられるだけの増幅装置、魔具さえあれば良いのだが……
「ん、あれ、」
ルアードの声に顔を上げると、黒髪の青年が部屋へと続く扉の前で立ち尽くしていた。ほんの少しだけ空いた扉、入室しようとしていたようだがどういうわけだか中へと入ろうとしていない。
「どうし、」
「……………………ッ!」
また妙なことしてるなあと笑っていたルアードの口をアーネストが慌てて抑える。力任せに思い切り口を塞がれたルアードが目を白黒とさせているが、アーネストは無言のままぶんぶんと首をふる。普段からあまり表情を変えることのない彼のあまりの取り乱しように、どうしたのかと思ったら視線を扉の向こうへと向けた。自分たちが現在寝泊まりしている部屋。確か、ルーシェルが残っていた筈である。
「……、」
扉の隙間から漏れ出る声。
梓とルーシェルの声だとわかった。風に乗ってふわりと聞こえてくるそれは微かなものだったが、それでも注意して耳をそばだてれば十分内容まではわかるそれ。
「……どこがいいのかさっぱりなんだが」
「えーかっこいいのに可愛いとこじゃないですか、私がタルト作ったらすっごく嬉しそうに食べてくれるんですよぅ」
「あの無表情が?」
「見慣れるとわかりやすいですよ~」
思わずアーネストを見やる。
聞こえてきた会話内容からして、この顔を真っ赤にしている黒髪の青年のことについてだとわかった。どのような経緯があったのかはわからないが、ルーシェルと梓が会話をしている。いや、話をするのは別にそんなに不思議なことではないが、その話し声が聞こえてきているのだ。単に褒めているだけではない声が。
彼女らの話題に上がっているらしいアーネストは顔を赤くしてルアードの口を塞いだまま、おやまあと目元だけで器用に表現したルアード、そして己の三人で思わず目配せをする。盗み聞きをするつもりはないものの、薄く開いた扉から漏れ出る声に皆が口を噤んだ。
「あんまり帰ってきてくれないのが淋しいんですけど、でも里に戻ってきたら必ず会いに来てくれるから嬉しいんですよね。腕によりをかけちゃう」
「飯が目当てなだけでは?」
「それでもいいんです~」
わかるのは漏れ出てくる声だけで、一体どのような表情をしてるのかまでは見えないので解らない。それでも、聞こえてくる声色だけでも梓がはにかんでいるだろうことはわかった。
「餌付けと変わらんだろ……」
「んもう、またそういう事言うールーシェルさんこそヨシュアさん自身についてはどう思ってるんですか。天使とか悪魔とか置いといて」
不意に自分の名が挙げられてびくりと体が硬直した。
「クソお節介な脳筋木偶の坊」
「それただの悪口だねぇ」
吐き捨てるようなルーシェルの声に思わず苦笑した。
随分とはっきりと言い切ってくれるものである、天使を毛嫌いする彼女らしい。別に好かれているとも思っていないのだから彼女の言葉も妥当なものではあった、今更どうということもない。相変わらず口が悪いなと思っただけにすぎない。
じ、とルアードの緑の瞳がこちらを見る。
何か言いたげではあったが、アーネストに口を塞がれたままなので言葉が紡がれるようなことはなかった。にこりと笑みで応える、その時だった。
「……まあ、あれの側は、息がしやすいかもな」
ほつりと。
囁きのような、酷く決まりの悪そうな声が耳に届いた。普段とは違う静かな声、に。一瞬何を彼女が口にしたのか理解できなかった。
――息がしやすい、とは。一体どういった意味だろう。わからない、けれど。少なくとも、悪感情ではないのではないかのような気がした。
「ヨシュアさまーあ! お水をいただいてきましたあ!」
ぱたぱたとヨナが戻ってきたはっと我に返る。
おつかれでしょうから! と言ってずっと自分に付き従っていてくれたヨナが、休憩用にと言ってメイド達のところへ行っていたのが帰ってきたのだ。小さなその手には大きめのお盆、水指とコップ。それと少しばかりの菓子の乗った籠を両手に抱えている。
彼女にとってはつまらないだろう資料の読み込みに付き合ってくれた小さな少女が、きょとりと。その大きな瞳を見開いて不思議そうにこちらを見上げてくる。澄んだ緑がかった青い瞳は穏やかで、あの強烈な赤い瞳と同じものであろうにまるで違って見えた。
「……どうかあ、されたんですかあ?」
問われても答えられない。
自分は今、一体どんな表情をしているのだろう。
「おい、稽古に付き合え……ッ」
「え、」
ぐいと腕を引っ張られた。
耳まで顔を赤くしたアーネストが、耐えられるかと言わんばかりに掴んだこちらの腕をそのままに外へと向かい始めたのだ。引きずられるようにして、けれど抵抗するだけの理由もなく。剣、剣はどこだと熱に浮かされたうわ言のように口にするアーネストの声がどこか遠くで聞こえる。ごん、と。足元がふらついて壁に頭を打ち付けてさえいる、わかりやすい動揺に、しかし自分も人のことが言えない。
泡立つかのように肌が熱い、ような気がする。
どこに行くんですかあというヨナの声だけが響いていた。どこに行くかなど、わかるはずもなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




