50 思考と恋慕
よろしくお願いいたします。
天使が資料室とやらに籠るようになってから、そろそろ三日が経とうとしていた。
開館と同時に出かけ、夕刻の閉館まで過ごしたあと現在滞在している里長の屋敷の一室であるここへと戻ってくる。そうして書きつけたメモを見返しては何やら新たにノートへと書きなぐっていた。ルアードから借りたと言う魔法書も日々増えていく。
白い小娘も当然のような顔をして男と同行していた。この世界の魔法や法則などの解説要因としてルアードやオリビアも時間を見つけては訪れているらしい、そうしてこの部屋に帰ってくればひたすら何やら考察している。小娘は飽き飽きした表情をしつつも男の側から離れようとはしない、よくもまあ付き合うものだ。
ルーシェルは窓際に座り込んでぼんやりと外を見る。
広い屋敷の二階に位置したここからは里の様子がよく見えた。空の高い所に太陽がある、降り注ぐ陽光に照らされた木々の緑は濃く、緩やかな風に乗って擦れる葉音が耳に届く。
日中だからだろう、屋敷の外は賑やかだった。多少の違いはあれども皆同じような金の髪と緑の瞳を持ったエルフ達は、それぞれが思い思いに過ごしている。人間達のような活気に溢れた街とは言い難いが穏やかな里だと思う。
室内は先日借りた部屋と同様、淡い色彩に包まれている。多くの植物が壁を伝い封魔の術がかけられている。やはり大きめに作られた窓は明かり取りなのだろう、開け放たれて柔らかな風と植物の香りがふうわりと入り込む。大部屋だからかベッドは設置されておらず完全な雑魚寝部屋。かろうじてローテーブルがいくつか置いてあるばかりで、それも天使が持ち込んだ魔法書などで埋め尽くされている。
最初、流石に男女一緒ではよろしくないだろうと言うことでもっと狭い二部屋に分けられたのだが――白い小娘がそれでも天使から離れたくないとごねにごねた結果、この広い一室に皆で過ごす事となったのだった。こちらも何が嬉しくて天使と同じ部屋で過ごさなければならないのだと抗議したのだが、ヨシュアさんとヨナちゃんの二人きりはマズイでしょ、と。ルアードが真剣に告げて来て押し切られた形となったのだった。正直な所知ったこっちゃないのだが、いやだよウチで間違いとかあったら、と鬼気迫る表情で懇願され応じるしかなかったのである。
すき! と周囲の目など憚らず全力でまとわりつく小娘と、それをまるで気にせず親が子に接するような男との間に所謂『間違い』が起こるとも思えない。杞憂にも程があると一笑に付したが、ルアードの心情は解らないでもないものではあった。
そもそも何がマズイのかよく解っていないらしい天使は、皆さんとご一緒ならにぎやかですねと相変わらずボケた事を言っていたのだ。小娘はそうですねぇ! と勢いよく手のひら返しをしたあと力いっぱい舌打ちをしていたが。小娘の方はどうやらある程度の知識はあるらしい、やはりこの天使どもの王は特別おかしいようだ。いや、あれか? 知識としてはあるのかもしれないが興味がないのか。それはそれで男と称していいのか。……小娘があの馬鹿と二人きりで何をしようとしていたかなどこちらにはまるで関係がないのだが、結果として室内に男女混合で寝泊まりするという事態になったのだからいい迷惑である。
熾天使メタトロン、天界最高位の天使。
戦天使と自負するだけの能力を持つ女顔の優男。誰にでも分け隔てなく慈悲で接し、下心すら感じられない全く性の匂いのしない男。天使は性的な接触を基本的に行わないのだから、という、そういったバイアスがかかっている可能性は否定できなかったがそれにしても、である。
天使は基本的に性的な接触はしない。基本的に、と注釈がつくのは遥か昔、天使と人間の娘の間に生まれた子らがいるからだ。ネフィリムと呼ばれる天使と人の間の子は地上で破壊の限りを尽くし、神の怒りによって滅ぼされたという。だからまあ、そういう事が出来ないわけではないのだろうとは思う。白い小娘が天使に向ける感情が慈愛なのか性愛なのかはこちらが知る由もない。勝手にやっていろと思う。ただただ不快を覚えるだけであの二人が乳繰り合おうがこちらには何ら関係のない事である。
ふん、と。
ルーシェルは鼻白む。
くだらない、まるで関係がない。そう、こちらには全く関係のない事象である。ただただ、天使同士のやりとりを目の前で繰り広げられて腹が立つだけだ。いらいらする、小娘の蔑んだ眼差しも、何故か勝ち誇ったような眼差しも非常にこちらの神経を逆撫でていく。銀色の天使は天界に帰らせたようだったが、それもまたやって来るとも言っていた。明確な殺意を向けられることは慣れているがあれはあれで大分面倒くさい。どうであれ強い感情を向けられるのはいい気のするものではない。
天使。清らかな存在。善を行うもの。悪魔と対立するもの。神の伝令。不本意な事この上ないが、共に行動するようになって感覚がおかしくなっていると自覚せざるを得ない。天使とは問答無用でこちらに斬りかかってくる存在だ。悪を許さず、こちらの存在を厭悪し殲滅こそが最良と信じて疑わない。白と銀の天使がこちらに向けてくる感情及び殺意そのものが正常であり当然のものである。こちらとしても羽虫のように煩い神の犬どもになど覚える感傷も何もない、殺し殺され、血で血を洗う闘諍が永久に続くのみ。どちらかが死に絶えるまで終わらないのだ。光と闇。聖と邪。相容れぬ。
協力を、とこの世界に来たばかりの頃に言い出したあいつはやはり何度考えても最初から頭がおかしい。不承不承ながらも承諾したものの、あの時男の提案を徹底的に拒否し、反抗し、ナハシュが扱えずともルアード達の刃物を奪って攻撃に出ていたらどうするつもりだったのだろうか。ちらと思う。まあ、あの男は顔色一つ変えず反撃してきたのだろうなとは予想がつくが……見た目が穏やかなだけの脳筋天使。今となってはその方が手っ取り早かったのだろうとも思う。ぐだぐだと行動を共にするのではなかった。殺すか殺されるか、別行動をしてさえいれば現在の状況に陥ってはいなかった。断言できる。勝手に周囲からは到底受け入れられぬ間柄にされてしまう事もなければ、必要以上の接触もなかったのだ……
異世界への転移という異常な事態でもなければ、こうして共にある事などあり得なかった。殺すか殺されるか二つに一つしかない。天使に触れられて腹を立てる事こそあれ、感情を乱すなど。だからあれは、普段とは違う天使に意外性を覚えただけなのだ。奴の偽善に触れて、過去の事を思い出してしまったのが敗因だとも思う。だからこの話はここで終わりであるし、それ以上の意味など何もないのだ。
そう、間が開けば何のことはない。
激しく跳ねまわった己の拍動だって、あれは長湯をしたからだ。外部刺激による錯覚でしかない。現に腹は立つものの、別に、あの夜のように感情がかき乱される事はなくなっていた。男はいつも通り。何も変わらない。
「あ、またルーシェルさん引きこもってる~」
名を呼ばれぴくりと肩を震わせる。
扉が開くと同時に投げ込まれた柔らかな少女の声に、しかし振り返るのも癪で無視を決め込む。
何か持ってきたのか、よいしょ、と掛け声と共に何やら降ろされる音が小さく響いた。
「お天気がいいのでシーツもよく乾きましたよ、きっと今日はいい匂いのお布団で寝れますねぇ」
この世界に順応している娘の、弾むような笑い声が背後から聞こえる。それと同時にぱたぱたと薄手の布が翻る音、洗濯だなんだと朝布団から引き剥がされたものを取り込んできたのだろう。相変わらず詳細不明な座椅子に座ったまま、実に器用に日常生活を送っているらしい。
「ルーシェルさんはどの香りが好きですか? 甘いのはあまりって言ってたので今日はヘクシィの香油を借りてきたんですよ、これスッキリとした香りでよく眠れるんですよねぇ」
こちらが振り返りもしないというのに梓はよく喋る。
取り込んだシーツでも畳んでいるのか、さらさらとした衣擦れの音が聞こえてくる。
「また夜に焚きますねー」
気を悪くしたでもなく梓は独り言のように口にする。柔らかな声はふわふわと耳の上を流れていくかのようだった。自分たち同じ世界から来たという少女、恐れなど何も無いと言わんばかりに落ち着いていて精神の危うさがない。安定した感情。酷くこの世界に順応している少女が口にした夜という単語に、明かりの落とされたこの室内を照らす小さな朱色の光がふと思い出された。
水を張った小さな容器に香油を垂らし、ロウソクで水を暖めることで室内に香りを満たす行為は森と共に生きるエルフ達が好むものだという。梓も特別な時に火を焚くのだと言って、わざわざ彼女の部屋からオイルバーナーと呼ばれる一式をここへと持ち込んできていた。にこにこしながらおすすめだというユトと言う花の香油を使ったのが初日、少し、甘ったるすぎるなと言えばじゃあ今度はクスザミにしましょう! と次の日にはシトラス系だというものを持ってきたのだ。
「……寝るだけなのにそこまでする必要はあるのか」
「だって、悪夢は見たくないじゃないですか」
穏やかに眠れたら怖い夢は見ないじゃないですかと。少女はなんでもないかのように笑う。お気に入りだというぬいぐるみもいくつか持ってきていて、ローテーブルの上にちょこんと座らせていた。
――そう、どういうわけだか隼人と梓もここに泊まっているのである。合宿のようで楽しそう! と梓がはしゃいだ結果なのだが、妹が行くならと隼人も参加表明となった辺りから何やら風向きが変わり、合宿いいねぇとルアードとアーネストも同じ部屋に寝泊まりすることとなったのだ。アーネストはほとんど無理やり状態ではあったが。とんだ大所帯である。
元々屋敷は外部からの襲撃に備えた造りになっているらしく、有事の際に避難場所として開放する前提で建てられているとオリビアが言っていた。だから里の中央に位置し、空き部屋が多いのだと。
当然ルアードの部屋も、アーネストや隼人達が幼少時過ごしたと言う部屋もあるらしい。現在は独立という形で兄妹は里の外れに居を構え、屋敷からは出ているようだったがアーネストは変わらずここに部屋が残されたままだと言う。あまり帰って来ることはないらしいが。
……諸々決まった時の、白い小娘の引きつった顔は見ものではあった。なんでこうなるの、という声ならぬ声が聞こえた気がした。黙殺されていたが。
「ね、ルーシェルさん。お散歩行きましょ?」
「嫌だ」
少女の提案を即座に拒否すると、背後からむくれたような気配がした。
「もう、そう言ってずっと閉じこもってばかりじゃないですか。不健康ですよ」
「健康的な悪魔などいてたまるか」
「あ、そっか、元気な悪魔は怖くないかも……」
何を納得したのか両手のひらを合わせ、初めて気づいたとばかりに声を弾ませた。
「我々のいる魔界はそもそも陽の光も差し込まぬ地の底だ。陰鬱で、暴悪かつ梟悪な者共が跋扈する魑魅魍魎の地。傲慢なる神によって投げ捨てられた者の掃き溜め。血と肉と腐臭漂う我が故郷に健康的なものがいるとでも思うか」
「ちょっと想像できないかも……じゃなくて! もう!」
お散歩に行く話をしてるんです!
煙に巻こうとした事に気づいたらしい。何やらみーみーと実に可愛らしく他愛なく文句を言っている少女に、ふう、と。これみよがしにため息を付くことで黙らせる。
散歩などと。日も高く登り、煌々と地を照らす日中に何が嬉しくて悪魔が出歩かなければならないというのだか。畏怖しろとは思わないが、人間を悪の道に引きずり込むのが悪魔だというのにどうしてこうもこの娘はこちらに構うのだろう。人に似た人ならざるもの。世話になったがだからといって馴れ合うつもりは毛頭なかった。
……流石に多少は慣れてきたのか、陽光にそこまでの過剰反応は出なくなってきている。とはいえ、それでも明るい場所は苦手なままだった。肌を焼く熱量は酷く苦痛で、コートを羽織っていた方が辛くはない。温泉も悪くはなかったが、あの騒ぎのあとでは行きづらく屋敷内の風呂を借りている。食事が必要ないのだから出歩く必要もない。わざわざ外に出るだけの理由がない。
天使を待っているつもりもないが、だからといって何をしたらいいのかもわからなかった。里を抜け出そうと画策したこともあったが直ぐにバレてしまった。屋敷の中はオリビアの術式の領域内だ、入退館はどうも把握されているらしい。
結果として、日がな一日ぼんやりと外を眺めている。幸い魔界と違い時間の経過とともに移り変わる景色は物珍しくもあり、生活をしているエルフ達の様子は生きている者たちの動きで飽きはしなかった。手持ち無沙汰であるのは確かであるが、時の流れに身を任せたままただそこに存在しているだけというのは別段苦でもない。人よりも遥かに長い生である。ぼんやりとしたまま数年経過していることなどざらである。
そもそもの話、オリビアが適当なことを言ってくれたおかげでこちらは注目の的だ。天使はまるで気にした様子もなく外を出歩いている、白い小娘を連れているのをどう思われているのか知らないが碌でもないことは確かだろう。それはもう間違いなく。
どう見ても自分もリーネンも里では異端の姿だ。
天使の金の髪はともかく、空色の瞳はやはりここでは目立つ。白髪の小娘を連れているのだから尚の事。わけの分からぬ理由を無理矢理つけて見世物のように扱われるのはごめんである。
「……悪魔ってやっぱり明るいの苦手?」
こちらの沈黙をどう受け取ったのか知らないが、おずおずと梓は問うてくる。いい加減しつこい。
持ってきたシーツは片付け終わったのか、ちょこん、とこちらのそばに座り込む。否が応にも視界に入ったのはふわふわとした同じ世界からやってきた娘、左右色違いの瞳。見えていると言っていた瞳は黒々として不安げにこちらを見上げてきていた。
薄闇が広がるばかりの世界に住む悪魔にとっての光。陽光。
太陽は信仰の対象だ。物理的な陽光は我々闇に住まうものの肉を焼き、信仰心が魂を砕く。
「……闇に住まう者には、強すぎる光は毒でしかない」
「だからヨシュアさんにコート買ってもらったの?」
こてん、と小首を傾げる娘にぎょっとした。
一体何がだからに繋がるというのか、慌てて否定する。
「あの馬鹿が勝手に買ってきたんだ、私が頼んだわけじゃない。というかなんで知って、」
「でも使うのね」
「……何が言いたい」
どうせルアードあたりが言ったのだろう、余計なことを、と歯噛みするこちらにしかし梓は気にした様子もなく。そばで丸くなって寝ている猫姿のリーネンの背中を柔らかく撫でながらニコニコと続ける。
「ううん、嫌いな人から貰ったものって使いたくないんじゃないかなって思っただけ」
「背に腹は変えられないだけだ!」
思わず声を荒げる、致し方がなかった。それは嘘じゃない。
まだこの世界に来たばかりの頃、本当に陽光がきつくて正直なところ助かったのを覚えている。ひらひらした天使のストールを使う気にはなれなかった、借り受けるくらいならと。旅を続けるにしろ続けないにしろ日中出歩くなら必要だった。
部屋の隅にかけられた青みがかった暗い灰色のコート。裾に白い糸で刺繍の施された厚手のそれは、陽の光を遮るのに適していた。一枚あるだけで大分違う、扱える霊力は微々たるもので大した防壁にもならない現在確かにありがたいものだった。
あの男にとって悪魔にこれを渡すことに意味などない、他意などない。困っていたから。ただそれだけ。だからあの男はこちらにわざわざ寄越したのだ。共に元の世界に戻る為にと言って、旅を続けるのだからと。それも適当に選んだのではない、色を選んだと言っていなかったか。天使が。悪魔に。
「自分の為に何かしてもらうって嬉しいじゃないです?」
にこにこ、にこにこ。
梓は何が嬉しいのか微笑んだまま、天使と同じように人好きのする穏やかな表情だ。そのくせこちらに先を促すような態度。嬉しいでしょう――温泉での言い回しと同じ、こちらからクソ天使に対する好意的な感想を引き出そうとする物言いだと思った。
はあ、と癖になっている溜息が零れ落ちた。
ルアードが碌でもない説明をしたのだろうことは確かだが、どうしてこうもこいつらは色事に結びつけるのだろう。この世界の住人ならいまいちピンとこないのはまだわかるが、我々の事を知っている筈の梓まで何を期待してるのか。天使と悪魔。交わらない者。殺し合う者。瞬きのような僅かなこの時に行動をともにするだけの間柄でしかない、今更あの男の人となりを知ったところでそれは何も変わらない。
「お前達はどうしてそう、そういう事にしたがるんだ……」
唸るように低く。
ルアードがあれこれ言い出したのはいつだっただろう。
祝言がどうだとはまだ虚言の域を出ていなかった、そこから――ああいや、特定したところで意味がない。兄の面影を見たのも気の所為だ、未だ振り切ることの出来ない自身のすがる幻影。美しい天使、穢れなき天使。他意など欠片もない、ただただ、あの男は善を働いているだけで他者に対する感情に疎い木偶の坊。
「だって、好きだなって思ったらもうダメじゃない? 異世界だからとか、種族が違うからとか、そんな事で諦められるなら苦しくもないでしょう?」
聞き流していた梓の言葉に、おや、と思った。
ほんのりと頬を染めて、はにかんだように微笑んでいるのだ。
異世界。引っかかる言葉。
「……随分と実感がこもっているな」
「え、」
少女はぱちくりと目を瞬かせた次の瞬間。
ぼん、といった音が聞こえるかのような勢いで耳まで真っ赤に染め上げ違うの! と。実に大仰な身振りでこちらから距離を取ろうとしてバランスを崩したのだろう。空飛ぶ椅子からごろんと転がり落ちた。可愛らしい顔立ちの大きな瞳をこれでもかと見開いて、仰向けにひっくり返っているのも構わず両手で頬を押さえ。
「ち、違うもん、強いのかっこいいなとか、傷跡痛そうだなとか、いっぱい食べるの可愛いなとか思ってないもん」
「全部言ってるな……」
呆れたように溜息混じりにこぼす、つまりは全部自己紹介だったわけだ。
思い浮かぶのは長い黒髪の、青い瞳をした傷だらけの男。
確かに腕は立つ方だが無愛想で言葉数の少ない男。
思わず眉を寄せた。
「……趣味悪くないか?」
「そんな事ないもん!」
ここまでお読みいただきありがとうございました。




