49 小夜嵐に秋波
よろしくお願いいたします。
ナハシュ・ザハヴを振り回そうとして、ぐらりとかしいだルーシェルの身体をヨシュアは慌てて抱きとめる。具合が悪いようなのに無理に動くからだと呆れたのだが、どうやら本当に目を回したらしかった。きゅう、と言わんばかりにぐったりとした身体、閉じられた瞼。
「ナイスキャッチ!」
ルアードが声を上げながらぱちぱちと手を叩く。
ベンチから転がり落ちかけたルーシェルをぎりぎりの所で受け止めた事に対する賞賛に、思わず苦笑が漏れ出た。触れた彼女の身体は薄い衣服の上からでも解るほど滲む体温は驚くほど熱い。梓が長湯でのぼせたと言っていた、魔王ともあろう者が一体何をしているのやら。
ふうと一つ息を吐いて、改めて抱きかかえ直す。相変わらず小さく細く、軽い身体だと思う。
彼女の手には黒い刀身の長大な大鎌が握られたまま。傍にいたリーネンなどそのオレンジ色の髪を幾本かを宙に散らせていたのだ、こちらもすんでの所で躱したようであるが……流石に危ないなと思い、ルーシェルの細い指から外そうとしたら威嚇するかのように刃が小さく振動する。まるで唸り声だ。
意志を持つと言われているだけの事はある、さながら眠り姫を護る騎士のよう。主人に危害を加えるのであればそのまま斬り捨てると言わんばかりの気配である。実際刃自体が自由に動けるのかは解らなかったが、その気概に素直に感心した。武器とは言え主人を守るように働きかけるのか。
幅広の黒い刀身、鋭い刃の大鎌。
魔王に連なる者にのみ扱えるという意思ある武器。
こそりと、獣のようにこちらに牙を剥く気配を隠そうともしないナハシュ・ザハヴに話しかける。
「……このままではあなたの姫君も傷付けてしまうかもしれません。少しの間だけ、私に触れることを許してはいただけませんか」
お願いします――そう静かに語りかければ、通じたのかどうかは定かではないが。しばしの沈黙の後応えるように一つ、小さく震えてそのまま静かになった。まるで剥き出しの牙を収めたかのようだったが、それでも完全に信用したわけではないと言わんばかりに、こちらの動向を伺うような胡乱な気配が漂ってきて思わず口元が緩んだ。持ち主であるルーシェルにどこか通じるようだ、配下は主人に似るとは言うが、武器もそうなのだろうか。
そろりとルーシェルに握り締められたままのナハシュ・ザハヴを外す、抵抗はなかった。ありがとうございますと小さく告げて、ルーシェルを左腕で抱きかかえ長大な大鎌は右肩に担いだ。一応、彼女に害を成す者認定からは除外されたようである。限定的かもしれないが。
とりあえず横にした方が良いだろうと判断し、顔を上げるのだが。そこにはニコニコ顔の梓とルアード、呆れたようなオリビア、そして頬を真っ赤にしてふくらませるヨナの姿があった。遠巻きにこの里の方々も自分たちを見ている、皆が利用する温泉の直ぐ側なのだここは。騒ぎを起こしてしまった事に対する様々な感情の眼差しが投げかけられる、一体何事だ、里のものとは違う色彩だ、オリビアさまとルアードさまだ、あれが異世界から来たと言う者達か――好奇の眼差し。確かに注目を浴びても仕方がないのだろうが、それにしたってヨナのその感情に思い当たる節がない。
「ヨナ、一体どうしたと、」
「なんでぇ! ヨシュアさまがぁ! 抱っこするんですかあ! ほかのひとでもぉ! いいじゃあないですかあ!」
わあっと、ずっと自分に付き従ってくれていたヨナが耐えられないとばかりに声を荒げる。綺麗な色をした目に宿る強い光、殺せとは口にしないまでも随分と剣呑な輝きに目を丸くする。
「異界の者同士、おあつらえ向きでしょう」
宥めるように口にするのだが、しかしヨナは納得しない。
「だからってぇ! ヨシュアさまが抱っこしなくてもぉ!」
尚も食い下がる。
小さな身体で力一杯不満をぶつけてくるのだが、彼女の言い分にわずかに眉根を寄せてみせた。
「困ってる方を手助けするのは当然のことでしょう?」
あなたも天使なのだから。
溜息混じりに諭すよう告げるも、返ってくるのはまさしく絶叫である。
「悪魔はぁ! その範疇じゃあ! ないんですよぅ!」
……サンダルフォンと同じような事を言う。
そうは言っても、ひっくり返ったルーシェルの一番近くにいたのは自分だ。リーネンなど体格差を考えれば難しい、他の方の手が間に合ったとは思えない。あの大鎌を手にしたまま後ろに倒れたらどうなるかなど火を見るより明らかだろう。いや――鞘がルーシェルなのだから、少々突き刺さった所で問題なかったのかもしれない。試した事がないので確かな事は解らなかったが、魔王の血筋に反応するのであれば傷など負わせることはなかったのかもしれない。そのまま飲み込まれるよう肌に沈んだだけで済んだかもしれないが、咄嗟に手が伸びたのだから仕方がないとも思う。
「弱き者を救うのが私達の務めでしょう」
ルーシェルは現在ほとんど霊力を使えないでいる。ナハシュ・ザハヴがあるとはいえ、彼女自身は酷く細く小柄で体力もさほどない。霊体を天界に残し、実際よりも遥かに弱い状態のサンダルフォンの攻撃すら防げず、まともに喰らっていたのだ。弱者だと言ってもいいだろう。それに、明確な敵対者であるとはいえ、約束を交わした。共に元の世界へと戻ると。
「魔王があ! 弱き者なわけぇ! ないじゃあないですかあ!」
しかしヨナには伝わらない。
こぶしを握って身体を前のめりにしてこれでもかと言わんばかりに叫ぶ。
確かに魔王と言えば魔界の頂点である、恐ろしい程の霊力を持つ神の御世を脅かす者、人を甘言で誘惑し、我々と対立する罪深き存在。あの凶悪なまでの霊力を持った存在を弱き者としていいのかは確かに少々疑問の残る所ではあるが――そもそも、意識を失った相手に無体を働くわけにはいかないだろう。
「そうかもしれませんが、」
「まあ、確かにヨシュアさんじゃなきゃ駄目な道理はないですよねぇ」
第三者の声にばっとヨナが振り返る、同調したのは梓だ。
ふわふわと空飛ぶ椅子に座ったまま、こちらも湯上がりなのだろう。普段よりも血色の良い頬をしていた。左右色違いの瞳が愉快そうに揺れている。
「異界の者同士なら私でもいいですよねぇ」
「誘導的なんですよお!」
「なんのことかなー」
くすくす笑う梓にまでヨナは声を荒げていた。
誘導、とは。一体どういう事だろう。
しかし天使として護るべき人間にまで噛みつくのはいただけない。
「ヨナ、」
「そもそもぉ! 悪魔は悪魔同士でぇ! なんとかしなさいよぅ!」
しかし尚も止まらないヨナの矛先が、頬すれすれをナハシュが掠めていったことで硬直しているリーネンに向かった。突然の名指しに、はあ!? と幼い使い魔の素っ頓狂な声が上がる。
「おまい、あの状況でにゃーに何とかできるとでも!?」
「開き直るんじゃあ、ないのよう! 大体何で悪魔があ! 天使の手を借りるのよぅ!」
「にゃーには関係ないにゃ!」
「あなたの主人でしょお!?」
子供の喧嘩以外の何物でもない応酬を、見た目からして幼い二人が目の前で繰り広げ始める。
こちらの制止など聞く耳持たず、ヨナは止まらず言い返していた。一体何に対して腹を立てているのだろう。
確かに同族同士であるなら協力し合い助け合うのが筋だとは思うが……体格差もあるのであるし、そもそも助け合いなど悪魔にとっては最も縁遠いものであろう。リーネンのような使い魔や配下が手を回す事はあるが、それは決して『助け合い』ではない。
「しかしまあ、ヨシュアさんよく平気だねぇ。そんな超絶美人さんお姫様抱っこしてさ、俺なら無理だなー」
どうやって二人を止めるべきだろうかと考えあぐねいていたこちらに、すす、と近くまでやって来たのはルアードだった。無理とは? と彼の言葉に首を傾げるのだがしかし、エルフの青年はにっこりとこちらを見上げ尚もこちらに提案を投げかける。
「その大きな鎌、持とうか?」
いくらルーシェルさんが小柄でも、両手のほうが安定するでしょう。
片腕で抱きかかえてはいても、意識を失った者はバランスが取りにくい。その方がいいのは確かではあるが――正直、ナハシュは得体のしれない武器である。あまりこの世界の者に触れさせることは憚れられた。それに、ナハシュは自分の要求を飲んでくれたのだ。こちらの言葉を受け入れてくれた彼――と一応称するが性別があるかは定かではない――の信用を下げるのも得策とは思えない。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
わずかな逡巡のあと丁重に断った。
「じゃあルーシェルさんは?」
抱っこ代わるよ、と。
続いた言葉に思わず目を見開く。
「無理、なのでは?」
「言葉の綾ってやつさ、どうする?」
差し出された手にしかし、戸惑った。
ナハシュは。危険が及ぶかもしれない。だから自分が持っていたほうがいい。
ルーシェルは小柄とは言え、確かに両腕で抱えていたほうが安定する。しっかりと抱き込んでいるつもりだが、それでも意識がない彼女を取り落としてしまわないとは言い切れない。
ナハシュは渡せない、ならばルーシェルは彼に頼んだ方が良い筈である。ルアードは善人である、自分達のように彼女と敵対しているわけでもなく好意的である。拒む理由などない。ない、のに。
「ですが、」
口から零れ落ちたのはどうしてだろう、拒否とも取れる言葉だった。殆ど無意識の内に発せられた言葉に自身でも驚く。何故、拒否をした。非効率的であるのに何故駄目だと思った。明確な理由などない、それなのに名状しがたい感情が胸の内に湧き上がって言語化を拒んでいた。
ふは、と。
笑い声が響いてそこで初めて自身が視線を足元へと落としていたのだと気付いた。そうと顔を上げる、ぶつかるのはこちらを見ておかしそうに笑っている緑の瞳。
「ごめん、意地悪しちゃったね」
「意地悪……?」
「いえいえこちらの話」
にんまりと笑う。
自身ですら把握しきれない不可解な感情の動きで彼の善意を無下にしてしまったわけなのだが、けれどルアードは大して気にした様子はなく。こちらが抱きかかえたままのルーシェルを覗き込んでくる。嫌がりそうだな、と。ふと思ったが、いつか言われた通り自分がどうこう言える立場ではないと、口を噤む。なんとも表現しづらい居心地の悪さ。
「いやあ、それにしても本当にルーシェルさんは美人さんだねぇ。湯上り美人のしっとりしたお肌、桜色に染まった頬、蠱惑的な唇からこぼれ落ちる悩ましげな熱い吐息、高い体温に石鹸のいい匂い……」
うっとりと口にするルアードにしかしどう答えるのが良いのか解らず、はあ、と。実に気のない返事をしてしまったところ。ごん、と。結構な音が響き渡ると同時にルアードの姿が消えた。オリビアが思いっきり殴りつけたのだ。
「なにすんのさ!」
「気持ち悪いにもほどがあるッ!」
「なにおう!? 美人さんはこの世の至宝でしょうが!」
「形容がいやらしいんだお前は!」
「事実でしょうが!」
美人賛歌だ美人賛歌!
喚くルアードに再びオリビアの拳が炸裂する。
「ヨシュアさんだって美人だって思うでしょう!?」
痛いじゃないか! と涙目のルアードに突然話を振られるも、そもそも嵐のような彼らの会話の内容が良く解っていなかった。ルアードは、のぼせて意識を飛ばしているルーシェルの様子について語っただけのようだったが。オリビアにとってはどうも違うらしい。形容、? 首をひねる。
湯上り美人だと称していた、それは、そうだろうと思う。強ければ強いほど美しさが強調される我々にとって、外見の美醜は霊力量の指標でしかない。彼女は美しい、長い黒髪はつややかで、すらりと伸びた手足は細く長く。目つきはきつく鋭いが、血のように紅い瞳は息を飲むほど強烈な光を宿し見る者を釘付けにする。悪魔の美しい姿は人間を誘惑する為の物だ。
ルアードはきれいなものが好きなのだと言う。
ルーシェルが美しいのは魔王であれば当然なので理解できる。
「……私は、」
抱きかかえたルーシェルはくたりとしている。
よく平気だね――彼女は酷く軽いのだから大して労力を使う事もない。
美しいと言うのも、当然である。魔王なのだから。
肌が熱いのも、どこか苦し気に吐き出される吐息も、上気した頬も石鹸の香りも湯上りなのだから、のぼせたのだから当たり前だと思う。行動の果ての結果でしかない。
ルーシェルの額に先ほどしそびれた力をそうと使う。ほんのりと光る指先から力が流れ、うーん、と唸るばかりの彼女の表情がわずかではあるが緩んだような気がする。それでも彼女は目を覚まさない。閉じられたまま瞼を縁取る長い睫毛がふるりと震えているが、開かれる気配はなかった。
眠っているルーシェルはどこか儚げで、感情を剥き出しにする赤い瞳が見えないのは、何だか酷くつまらなく思えた。
「静かなルーシェルは、らしくなくてあまり好きではありませんね」
独り言のように小さく呟く。
鮮血の悪魔。煌めく緋色の瞳。こちらへと向けてくる感情はどれも包み隠さず直球でいっそ心地よいものですらあった。静かなで清浄な天界に身を置く我らとは種を違えるもの。汚濁に満ちた、そう、汚らわしき者。血と腐臭に塗れた悪辣者。破壊の為の破壊。殺戮の為の殺戮。あれだけ天界で暴れた悪魔が大人しいなど、どうにも調子が狂う。ああ、だから。得心する。だから彼女に対して、妙に胸の内が騒めくのだろう。圧倒的な力で他を蹂躙する悪魔がこのように無防備でいるから、当惑しているのだ。
「そっかそっか」
殴られた頭を押さえながらも、ルアードは良かったねぇとふわりと優しい笑みをこちらへと向けてきた。何が良いのかさっぱりだったが、彼の事だから多分きっと、悪いことではないのだと思う。
ルーシェルは目覚めない。
視界の先では、リーネンとヨナがいまだ言い合いを続けていた。
※
いい加減収拾がつかなくなり、騒音であるとオリビアに窘められたあと温泉側の軽食屋の奥の部屋へと押し込まれた。店主のご厚意で布団を一つ貸していただき、うんうん唸るルーシェルを寝かせてもらっている。流石に彼女を抱え、ナハシュ・ザハヴを抱え、里長の屋敷へと戻るのは憚られたのだ。里の中央にある館まではそこそこ距離があったし、隼人達の待つ小屋では部屋数が足りない。のぼせただけであるならそのうち目を覚ますだろう。
食事をしてくるからしばらく休んでおいてよと、ルアードにも促され、現在へと至る。
ぱら、と。
資料室でメモ書きしたノートを捲りながら、ヨシュアは一つ息を吐く。
簡易的な仕切りで隔てられただけの室内はこぢんまりとした造りになっている。店員達の一時的な休息場だろうか、柔らかな絨毯の上にはローテーブルが一つ置かれていた。その上には小さな水差しとグラスが一つずつ。
通りに面した店先からは賑やかなエルフ達の声が聞こえて来る。部屋の入口とは反対の窓の側へと腰を下ろしていた。資料室から書物は持ち出せなかった為、ルアードから子供向けの魔法入門の本もいくつかを借りている。文字は大分簡素に書かれている為、初心者には読みやすい。
すっかり日が落ちた宵の口、明かりを落とした室内は薄暗い。未だ目を覚まさないルーシェルに明るくては寝づらいだろうと思いカーテンを半分だけ開け、煌々と闇夜に輝く月明りで文字を追う。ルアードから子供向けの初級魔法書も借りていた、ペンをノートに滑らせながら読み進める。
月明りは昨夜と変わらず明るく地を照らしていた。ほんの少しだけ窓も開けている、隙間から入り込む夜風がひんやりとして心地よい。
室内には布団の上に横たわるルーシェル、その傍らにリーネン。意識のない主人の傍にちょこんと座り、やはりぱたぱたとタオルで扇いでいる。不安そうにこちらをちらちらと見るものの、黙ったまま。
ナハシュ・ザハヴを主人の側にそうと置いてある。意志ある大鎌はあれから何も発さないが、それで良いのだと思う。天敵である自分にその身を任せてくれたことに対する感謝と、多くの同胞が屠られたのであろうその刀身に覚える複雑さはある。これがただの武器であるのなら扱う者の責任だろうが、意志があると言うのは、……一体何を思うのか。聞いてみたいような気もする。
何やらひどく興奮していたヨナは疲れたのか、自分の膝を枕にすやすやと眠っていた。静かな室内、彼女たちの息遣いばかりが響いている。外からの喧騒はどこか遠い所からのもののようだ。
この世界の言葉。文字。目でなぞる。
魔法の体系は似ているようでありながらやはり違う。
ルアードは以前、魔力は血に宿るのではないかと言っていた。生まれながらに大小はあるものの存在する不可視の力。
「……〝指先に意識を集中し、ゆっくりと身体の中を巡るものを手の平に集める〟……」
魔法書に書かれている文字を口にする。
改めて言葉にするとなんだか不思議だった。以前は当たり前のように使われていた霊力、魂が持つ力。生を受けてすぐ扱い方は習ったと思うのだが、遠い記憶の底に沈んでよく思い出せないでいた。
「……〝魔力には相性がある。自分だけの相棒を見つけ出す事が最初にすべき事〟……」
魔力が血に宿るのなら、一族ごとに近しい系統が当てはまるのかもしれない。ルアードは宝石、オリビアは植物。触媒を通して術を発動させるのだと言う、色々と実践して精査していくのだろう。魔法書には実例もいくつか載っていた。水、炎。植物、鉱石。剣などの刃物、珍しいものには歌声、とあった。一定の旋律、音階に自身の魔力を乗せて発動させるのだと言う。
かろん、と己の腕に嵌めたままの腕輪が鳴る。細かな装飾が施された大振りな銀色のそれは、一般的に増幅装置と呼ばれるものだ。魔石を制御する為の物。魔力ではないからだろうか、自分達はこれに霊力を回すことで何とか霊術が扱えるようになったのだが――原理としては、多分エルフ達の触媒と同じなのだろう。力を帯びた身体と術の発動の間にどうも何かをひとつ噛ませる必要があるらしい。……エルフ達よりも遥かに高い魔力を持つと言う竜人も、だろうか。彼らが扱う高い魔力に耐えうる触媒があれば、自分達も霊力がある程度は使えるようになるのだろうか。
「……随分と勤勉だな」
不意に上がった声にぴくりと肩が跳ねた。
声の方へ眼をやると、横たわったままのルーシェルがこちらを見ていた。まだ頬は赤いが随分とよくなったらしい、月明りを受けて輝く深紅の瞳がけだるげにこちらを見ていた。
「気が付きましたか」
「……ここは、」
のそりと身体を起こしながら問う。
彼女の長い黒髪がばさりと落ちて、布団の上で散らばる。光沢のある硬質なそれは絡まる事もなくさらさらと広がっていた。まるで水の上を流れる墨のよう。
それでも汗ばんでいたからか、幾筋かは頬に張り付いているのをうっとおしそうに払っている。
「温泉そばの軽食屋です。お部屋を一つ貸していただきました」
手にしていた書籍を一度床の上に置き、眠るヨナを膝からそろりと降ろし。ゆっくりと立ち上がるとあからさまにルーシェルは身構えた。傍らに置いておいたナハシュに延ばされる腕、ぎゅうと握る細い指。リーネンをさっと庇うように後ろにやったかと思うとこちらへとその黒い刀身を突き出す。距離を取るかのように。それ以上寄ってくれるなとでも言わんばかりに。まるでこの世界にやって来たばかりの時のような態度に思わず吐息が漏れた。
「何をそんなに警戒しているのです」
「うるさい……ッ」
先程まで閉じられていた赤い瞳が見開かれ、ぎりぎりとこちらを睨みつけてくる。警戒しながらも周囲を探っているのが解った。梓やオリビアの姿を探しているのだろう。
「……他の奴らは」
「お食事に行かれていますよ。……お水をどうぞ」
そう言ってローテーブルの上に置かれた水をコップに注ぎ差し出した。ルーシェルが目覚めたら飲ませてあげてと梓に言われていたものだ。長湯は体内の水分を失わせるものだから、と。
「気分はどうですか?」
「貴様には、関係ないだろう……」
返って来る返事は相変わらずすげない。
それでも、胡乱な眼差しではあったがコップを受け取って中身をゆっくりと飲み込む。は、と。コップの淵から離れ濡れた唇は酷く紅く艶めかしく――ああそうだ、きっとこれが蠱惑的と言うものなのだろう。
「ルーシェルさま、もう大丈夫にゃ?」
「……問題ない」
ほんの少しだけばつが悪そうに眉根を寄せて、ナハシュを片手にしたままリーネンの頭を撫でていた。そのまま黙り込む。何故だろう、彼女はこちらを見ようともしない。声をかけようにも何といえばわからない、何とも言えず居心地の悪い沈黙が横たわる。
「ヨシュアさーん、ごはん持ってきたよー」
隔てられた壁からひょこりとルアードが顔を出してくるまで、室内はしんと静まりかえっていたのだった。
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