43 白堊おとないて - 5 -
よろしくお願いいたします。
歩くこともままならないとはいえ、不本意な状態で天使に抱きかかえられて戻ってきた小屋。そこは当然とはいえ、まるで今にも千切れんばかりの糸のように空気が張りつめていた。
メタトロンがもう大丈夫だからと外から声をかけて小屋の扉を開けた時、扉の前には抜き身の剣を握ったまま息を殺しているアーネストと術式を構築しかけているルアードがいたのだ。
敵対者へと向ける臨戦態勢、憎悪に塗れた眼差し、即座に対応できるようにという構え。僅かに驚いた天使達とは対照的に、オリビアの姿を見てひゅ、と。アーネストの呼気が乱れたのが解った。今にも飛び掛からんばかりの男を押さえたのはルアードである。もう大丈夫だと、何度も繰り返し口にしながら黒光りする刀身を鞘へ戻させ、何とか落ち着かせようとしていた。
「いやー突然のことでびっくりしたのもあるけどねぇ。やって来たのが人にない色彩に加えてべらぼうな美人さんだとね、まあ竜人かと思っちゃうわけでね……」
どうも扉の隙間からこちらの様子を伺っていたらしい、何とか鞘に収まったものの握られたままの震える剣の柄、切先、荒い息を繰り返す彼の肩を強く抱きながら、ルアードがへらりと笑う。気配の察知、竜人じゃないと告げてたのだろう。アーネストがこちらへ斬りかかる事はなかったが、竜人に強い復讐心を持つ彼にはあまりにも刺激が強すぎたのだろう事は明白だった。向けられる焦燥、強い怒り、絶望に染まったその表情が彼の憎しみをこれでもかと突き付けていた。握りしめたまま放されない剣、ぜえぜえと荒い息を繰り返しながら青い顔をしている男に、深い憎悪を垣間見る。
……竜人に村を喰い散らかされた人間が、敵を前にして正気でいられるとは思えない。震える指先、海の底のように青い瞳を恐怖と憎悪に燃え上がらせてこちらを睨みつけてきていた。頭では違うのだと理解していても心は納得しない。許さない、何よりも雄弁に語るのは殺意である。
「ねぇちゃんもごめん」
「いや……」
オリビアは何か言いかけて、結局は口を噤む。
どこか怯えたような、憐れむようなそんな表情を浮かべ、そうと視線を落として。
「……アーネストは休ませてやれ」
「俺は、別に、」
平気だと口にする声は震えていっそ哀れであった。敵である『赤の神』に村を滅ぼされた彼の怨讐は計り知れない。ずっと探していると言っていた、そこに不意に現れたサンダルフォンは強力な術式を展開していたのもあって竜人にしか見えなかったのだろう。突然やっていた異界の者、理解の範疇を超えた存在。魔力と霊力の差など人間には判別できない。強大な霊術を振るったサンダルフォンの、その煌めく銀の髪に竜人を想起するなという方が無理がある。
この世界の人間達には恐怖が深く植え付けられている。人の手によって討ち滅ぼされた種族、御伽噺の中にのみ現存する存在、それでも確かにどこかにいる筈だ、と。リリーや宿にいた他の冒険者達も言っていたように、無ではないらしいが明確に確認できない相手。
「それがいい、お茶持ってってやるから」
少し休もう、な?
そう言って憎しみに満ち満ちたアーネストをルアードは半ば引きずるようにして奥の部屋へと連れていく。ごりごりと彼の扱う長剣の柄が床の上を擦っていく音が鈍く響いていく。抵抗する気もないのか、自身の状態を把握したのか。アーネストはよろよろとしながらも大人しく部屋を出ていった。
「申し訳ございませんでした。私達のせいで、」
介添のように奥の部屋へと向かう二人の後ろ姿を見ながら、丁寧に謝罪するメタトロンに付き従うのは髪色を変えたサンダルフォンだ。青い目をした天使があまりにも配慮にかけた行動であったと陳謝する。人を護る天使が、意図したわけではないとはいえああも人間の感情を乱したのだ。恐怖、憎悪、厭悪、普段からあまり感情を崩す事のないアーネストだからこそ、余計に事態の悪さを如実に語っていた。
「……世界が変われば常識も変わる。暗黙の了解もあるんだ、配慮を求めたとて、異国の者が完全に対応など出来ないだろう」
オリビアは静かに口にする。
「それでも私はこの里の者を守る義務がある、客人であるあなた方もだ」
意志の強く説く通る声できっぱりと言い切った。
真っすぐにこちらを射る、ぶれぬ眼差し。こちらを睨むほどに強く見据えて天使に近寄る。
「……ルーシェル殿は大丈夫なのか?」
抱きかかえられたままにこちらへ問うてきた。
その声にはこちらへの気遣い以上に、戸惑いが強いように思う。サンダルフォンが全て拭い去ったとはいえ、血濡れのコートは穴だらけだったのだ。顔色が悪いと天使が言っていたのだから、相当具合が悪く見えるのだろう。
「別に、」
「ハヤト、アズサは無事か?」
こちらの返答を待たず奥の壁際にいた隼人にオリビアは問いかける。
「当然だ」
「オリビアさま?」
隼人が扉を軽くノックすれば、奥の部屋に隠れていたらしい梓がひょこりと出てくる。
「ルーシェル殿を休ませて差し上げられないか」
「それはもちろん、えっと、ちょっと待ってください」
お布団整えますからーと部屋へと一旦戻る梓に、よかったにゃあとリーネンがほうと胸をなでおろしていた。天使はと言えば、いつまでそうしているとサンダルフォンに小言を言われながらも相変わらずこちらを抱きかかえたままだった。
それら一連の流れをサンダルフォンは実に嫌そうに見ていた。メタトロンに殺すなと再三言われているからか、こちらに危害を加えようとはしないものの心底不快そうにしている。魔王ともあろうものが情けない、いつまで甘えるつもりだと、こちらにもぶちぶちと続く文句。……迎えが来ればさっさと帰るのかと思っていたのに。想定外の事態が続いている。
「悪魔に何故心を砕く」
「この里の客人だ。口出しは控えていただこう」
ぴしゃりとサンダルフォンのぼやきを跳ね除けると、オリビアは日本から来た少女にすまないなと自分の世話を頼んでいた。こちらの意志などまるで無視である。
そのまま問答無用で少女の部屋まで連れていかれ、ベッドどうぞ! の声と共に柔らかな布団の中へと放り込まれたのである。悪魔と二人きりは不安だという隼人と共に。
「すみませんがルーシェルの事をよろしくお願いします」
そう口にすると、柔らかく、それでもどこか愁いを帯びた表情で微笑んでそのままメタトロンは出ていった。メタトロンの嫁だと豪語する白い小娘は男の側から離れず、同じように髪色を変えた銀の天使も不服そうではあったが付き従っている。
美しく清らかな生き物、善を行う者、楽園の住民。天と地、天使と悪魔、住む世界の違いを明確に隔てられる。ぱたんと閉められる扉。飾られている様々な色の糸を編んで作られたタペストリーが小さく揺れる。さほど広くもない、こじんまりとした室内には自分とリーネン、どういうわけだか隼人とこの部屋の主である梓の四人。なかなかの密度である。
……正直な所、これ以上ないくらいには面倒な事になっているのだから天使が何とかしてくれるなら願ったり叶ったりだった。端的に言うのであればもう好きにしてくれ、である。天界からやって来た嫁だと豪語する小娘、天使を連れて帰る為の使者、自身の負傷、憎悪、エルフ、こちらの世界の人間と竜人。大量に失血しているこちらには捌ききれない事態である。
降ろされたベットの上。ふわふわと柔らかなそこに流石に横になりたくなり、着込んでいたコートを脱ぐことにする。するりと肩から落としたそれは、改めて見てみればこびりついていた血の汚れも貫かれた場所も綺麗になくなっていた。以前ルアードが繕った、よく見ないと分からない程の修繕あとも完全になくなっている。その下の、エルフ達に借りている衣服もほつれた様子もない。
傷口は塞がれたものの内部の損傷までは補えていないらしい、庭や衣類は直したくせにそこだけきっちり除外してる当たり器用な事をする。悪魔なぞと直球の殺意を向けるだけの事はある、面倒くさい事をしてまで拒否するあたり徹底していると感心すらした。いや、それが普通なのだろうが――異常者と共に行動していたせいか、通常の反応が何だか新鮮に映るのは良くない。
溜め息一つついて、ぼふ、と。布団に沈んだ。程よく反発する布地は柔らかい。
「綺麗な色ですねぇ」
梓がコートをこちらから受け取るとハンガーに引っかけていた。ちらりと見やる、吊るされる青みがかった灰色のコートは、お節介な天使が自分の為にと用意したものだ。こんなもの、と最初受け取った時には思ったものだがなかなかどうして、手放せなくなりつつあった。落ち着いた色合いの陽光を遮る厚手の布地、柔らかな手触り。袖口と裾にあしらわれた白い刺繍は細かく繊細で、上等なものなのだろうと思う。
……陽の光に当てられるこちらに対し、困っているのだからとごく当たり前のように渡してきたコート。こちらの体調を気にして、負傷を気遣い、思い込みからの決めつけをしていたと謝罪を受けた。悪魔に対して何故天使がこんなことをするのかと問うても、男は不思議そうにするばかりだった。事実と違う事は容認できない――サンダルフォンにも言い放った言葉。あの時は正気を疑ったのだが、今ならなんとなく解る。あの男は、私を。天使だ悪魔だそんなもの抜きにして理解しようとしたのだな。
「ちょっと狭いけど、ゆっくり休んでくださいね」
形容し難い感情が満ちる中、柔らかな布団を丁寧にこちらに掛けながらにこにこと少女は笑う。空飛ぶ椅子に座ったまま実に器用な事だ、見ている限り日常生活に不便はなさそうだった。ついてきたリーネンが小さな体を使って梓を手伝う方が幾分か大変そうに見える。
梓の部屋は随分と可愛らしいものだった。
明るい室内には薄いピンク色のカーテンがかけられており、天井から吊るされたランプも花びらのような形をしていた。手作りだろうか、いろんな動物のぬいぐるみが並べられ、可愛らしい家具が置かれている。
しゃっとカーテンを閉めて暗くなる室内、それでも鮮やかな陽の光が布越しに柔く存在を主張する。完全な遮光ではないらしいがほんのりとした闇色は嫌いではなかった。纏わりつくような粘度の高い魔界の闇は、そのまま飲み込まれてしまいそうだった。
清潔なシーツ、柔らかな布。遮断されても煌々と存在を主張する光。
暖かな室内、いい匂いがする。ふわりとそよぐ風は肌の上を撫でるかのよう。
己の生まれ育った世界とはあまりにも違い過ぎる。地の底、光届かぬ牢獄。腐敗と死臭、力こそ全て。暴虐、梟悪、陋劣で嗜虐的。血で血を洗う抗争。法も秩序もない。ただただ力こそが全て。裏切り騙し合いなど日常茶飯事。他者を気遣う事など――ましてや理解など。きゅ、と。明るい色の掛け布団を握りこむ。
「……お前らは私が怖くはないのか」
重い身体を泥のように沈めながら、疑問を投げかける。
異世界から来た兄と妹。
この世界から戻る気はないと言い切った二人。
動かぬ脚、視力を無くしたと言う白濁した目、聴力をなくした耳。
頭のおかしい木偶の坊な天使ならばともかく、何の力も持たない人間が我ら悪魔に親切を働く理由がわからない。
「はい?」
「私は悪魔だぞ」
なおも続ければ、肩で切りそろえられた黒髪の少女がきょとりとこちらを射る。
悪魔とは人間に対して悪を働く者。
厄災を振り撒き、誘惑し、破滅に導く神の敵対者。
拒絶こそあれ、親切にされる謂れはない筈である。
「そうですねぇ、悪魔ってこんなにきれいな方なんだなあとは思ったかな?」
のほほんと返ってくる言葉はしかし会話になってない。
「悪魔を知っているのだろう?」
この世界の人間ならともかく、同じ世界からやってきたのだ。日本という国、東洋の人間でも自分達の事を知っていたのだ。善を行う天使とは違い、我々は悪を象徴する存在である。
だというのに、しかし娘はうーんと何やら考え込んだように首をひねる。
「怖いものはたくさん見てきたもの。天使でも悪魔でも、来てくれるなら何でも良かったんですよ」
そうして、娘はまるで歌うかのように。小鳥のさえずりのように微笑んだまま口にする。
怖いものたくさん。
梓の言葉に視界の先の隼人もふいと視線を床の上に落とす。
「……神様なんかいない、だっていっぱい祈ったもん」
なおも穏やかな表情で続ける。
屈託のない笑顔。美しく透き通った心からの、晴れ渡る空のように満面の笑み。祈ったもの。でも何も変わらなかったもの。祈りは無力だと。
「だからね、ここはいい所なのよ。自給自足は大変だけどお腹いっぱい食べられるし、夜も寒くないし、殴る人もいないもの」
隼人は黙っている。
これ、ヨシュアさんの前じゃ言えないなぁ、言いながら少女はふわふわと浮いている。そうして壁に並べられていたぬいぐるみを一つ二つと手に取り抱きかかえ。
「……理由になってないが」
「うーん、だってルーシェルさんは綺麗で、私やお兄ちゃんをいじめてないでしょう?」
「そんな理由か? 今、私が、お前達に危害を加えるかもしれないのに?」
「するの?」
「保証はないと言ってるんだ」
「そっかあ」
わかったのかわかってないのか、娘は抱きかかえたぬいぐるみを横になっているこちらの頭のまわりに並べだした。色とりどり、大小様々なふわふわのそれ。
「……さっきからなにをしている」
「さみしくないように?」
「なんだそれは……」
呆れ果てて息を吐くのだが、梓はえへへぇと笑うばかりで手を止めない。ひとつ、ふたつ、並べられるぬいぐるみはみんな優しい顔をしていた。みっつ、よっつ、手触りの良いもの。全てを受け入れるかのように馴染んで反発しない。
にこにことご機嫌で沢山のぬいぐるみを並べ出した梓の、その白い指先は酷く荒れていた。それでも柔らかな手つきが、踊るような動きが。周囲をまるで守るかのように置かれていく、優しさの象徴のようなぬいぐるみが。不思議と安堵を齎すのだった。体温で温もりを増した布団のせいかもしれない。ふ、と強張ったままだった身体が緩くほどけていく。
「助けて欲しかっただけなのにね」
ぽつん、と梓は小さくこぼした。
助けて欲しかった。
ただただ、穏やかに暮らしたかった。
言外に含まれた言葉。兄と妹に何があったのかは知らないが、悲痛な叫びにも聞こえた。それは。自分にも痛いほど分かるものだった。声すら飲み込む漆黒の闇の中、悪夢から覚めるのをひたすら願っていた。終わりのない夢。汚濁と腐臭にまみれた地の底から光り輝く空を切望していた。この身が焼かれると解っていても手を伸ばさずにはいられなかった。
恐らくこの娘は自分の事など恐れてはいないのだろう。
神などいない、そう言わせるだけの地獄を見たのだろうか。それに比べたら危害を加えていないこちらなどこわくもなんともない、そう言いたいのかもしれない。そんなもの。保障など何もないのに。
人間は純粋だ、信じて、裏切られて、傷付いた心は酷く美しい。脆い身体、容易く瓦解する精神。砕け散った破片の煌めき、か細く上がる硝子の割れるような音は澄んだ音色を立てる。明日など来ない、未来など望まない。何一つ変わらない今日という日が果てしなく続いていく、切望は終焉。助けて欲しかった、そうだ、もう全部終わりにしたい。何もかも投げ出して、無に帰る事ばかりを願っている。
「…………そうだな、」
とろ、と意識が解けていく。
暖かく柔らかく、優しい匂いがする室内。ほのかに甘いそれは、遥か昔の母の記憶と重なった。遠く掠れたそれは、確かに胸の内にあって言い知れぬ安堵を刻んでいたのだった。
あの天使は。
勝手に死ぬなど許さないと言った。
自分の手で殺すのだからと。
サンダルフォンに殺すなと言った。
約束があるのだからと。
望みを叶えてくれる者はすぐ傍にいる。暖かな場所、気遣われてむず痒く、それでも、泣きたくなるほど優しい空の色をした瞳が酷く胸を刺すのだ。許されざる罪。断罪。明るい世界が何よりも似合うあの男は、きっと有無を言わせぬまま私を消してくれるのだろう。焦がれ続けた光に焼かれて果てるのは、そう悪い最期ではない。
「リーネン、」
小さく使い魔の名を呼んで、傍に寄るように手招きする。
不安そうに揺れる金色の瞳がこちらを覗き込む。そのやわらかな耳を、髪を。緩く撫でてやる。細められる目元に満足して指先でふわりとその頬に触れてみる。幼児特有の柔らかな肌はふに、と僅かに指先を押し返す。
「る、るーしぇるさま?」
「……お前はそこに居ろ」
さむいんだ。
小さな呟きは床の上に落ちて弾けて消える。
こちらの言葉に眉を落としたリーネンが、ぽふんと乾いた音を立てて猫の姿になりそろりと寝台に上がってくる。そのままこちらを温めるかのようにすり寄ってきた。ふわふわとした毛並み、暖かい。柔らかい。ああそうだ、私は寒いのだ。肌を刺すほどの寒気。凍える胸の内、吐き気を催す程の。
酷く心細く感じるのは、血が足りないからだ。弱気になるのは己を構成するものが流れ出ていったからだ。滴り落ちた命。不可逆。戻らない。なにもかも。だからだと先日と同じような言い訳を用意して、そろりと瞼を閉じる。
とろりとろりと融け落ちていく意識の中、柔らかな金色の髪が脳裏をかすめていった。天に住まう楽園の住人、甘く香るような優しい声。暖かくて。地の底の穢れなど何一つ知らぬ清廉で美しい天使。望まれたなら応えるまでと言うのなら――それが、慈悲だと言うのなら。
あの男は、私の望みを叶えてくれるだろうか。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




