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暁のホザンナ  作者: 青柳ジュウゴ
21/78

21 黒雨

よろしくお願いいたします。

 突然水風船のように弾け飛んだ悪魔は、悲鳴を上げる間もなくただの肉塊となっていた。内部からの力ではない。明らかに握り潰されたかのようにひしゃげたそれは、座り込んだままのルーシェルに血と肉片をまき散らし彼女を深紅に染め上げる。なすすべもなくそれを全身に受ける彼女の輝く深紅の瞳は呆然と大きく見開かれ、血まみれの顔の中で一際異彩を放っていた。


 何が起こったのかは定かではなかった。

 それでも、第三者の手によるものであったのは確かだ。腕を斬り落とし、皮翼を斬り落とし、苦痛と恐怖に支配された女悪魔は既に戦える状態ではなかった。まるで見せしめのようだと思った。圧倒的な力を持った存在が虫を潰すかのような手軽さで消えた命。あのような芸当が可能なのだ、恐らく上級悪魔が噛んでいる。それに、何故ルーシェルを狙うのかと問うた時あの女悪魔は何と言っていた。魔王が一番よく解っていると……?


 あまりにもあっけなく、あまりにも無残に殺された悪魔。僅かの間己の存在を主張するように紅く周囲を染めていたが、それもやがて黒い砂のようにざらりと崩れて消えた。跡形もなく。ルーシェルの全身を濡らした紅も闇色に溶けて消えていった。

 ……あの悪魔には聞きたいことが沢山あったというのに。明らかな口封じだ、肝心な事を口にする前に処理されてしまった。いや、自分がここに来る前にルーシェルには何か告げていたのだろうか。魔界からの使者であったのだろうか。明らかに魔王を殺害しようとしていたので可能性は薄いが、それでもそれがこちらへと向けた演技ではなかったとは言い切れない。


 手にした剣を鞘に納める。

 相変わらず炎は周囲を取り囲んでいて明るかったが、火はこっちで消すから! と言ってくれたルアードのおかげだろう。大分勢いはなくなってきていた。それでもなおも肌を焼くような熱、熱風。悪魔は排除された今、すべきことは火を消すことだろう。


「……私を、殺すか」


 不意に乾いた声が耳に届く。

 ぜえぜえと息も荒く、やはり立ち上がる事もままならぬルーシェルがこちらを睨みつけていた。深紅の瞳が炎に煽られて金色のようにも見える、巨大な大鎌に縋り付いている状態の悪魔達の王は威圧的な態度ではあるが、息すら整わぬそれに覚えるものなど何もなく。

 

 負傷箇所を目視、コートを脱がなかったらしく穴はあるものの傷口は見えなかった。それでも右肩の傷は深いのか真っ赤に染まっている、肉塊と化した悪魔のように消えないという事は彼女の物だろう。それと左脚、こちらは出血量自体は多くないようだが負傷していると見て取れた。目立つ左頬の傷は深いのか顎まで伝った赤が白い頬に映えている。――脳裏で瞬く思惑が、鞘に納めた剣の柄を強く握らせた。新しい長剣、先刻肉を斬った感触は手未だにまざまざと。


 今。自分がこの剣を振り上げれば。

 あの程度の悪魔にここまでの怪我を負う魔王など。


「いいえ、」


 彼女の血のような瞳から目を逸らさず否定。


「それは、今ではないでしょう?」


 自分でも感情のない冷えた声だと思った。

 好機と言えば好機だろう、動けぬ魔王を断罪し、粛正するなど。だが、今ここで刃を振り下ろすのは本意ではない。


「は、」


 こちらの返答にしかし目の前の悪魔は唇を酷く歪めて鼻で笑う。一つも揺らぐ事のない意志の強い瞳は、相変わらずこちらへの憎悪に満ちていた。もはや声も出ないのか、ルーシェルはぎりぎりとその唇を嚙み締めているばかりである。それ程の負傷をしておいて大した態度だ。


「……まずは、この火を消さなければですね」


 術者が死亡してもなお残る炎は、かなり減ってきているとはいえ自分達のいる周囲はまだ煌々と燃え盛っている。ルーシェルを中心に囲うかのように延焼を続ける炎に向かってゲショームハザク、と。小さく詠唱。己の使える限りの霊力を使い周囲一帯の炎を鎮火する程度の水を呼ぶ。さらさらと天から降り注ぐ雨、地を這う炎を雨水が消火していくさまを見ていたらちっと、小さな舌打ちが聞こえた。余計な事を、とか細いながらも実に忌々しく呟かれる。相変わらず気の強いこと。


 炎は瞬く間に消されていった。

 残ったのは焼け焦げた木々と地面、しゅうしゅうと上がる水蒸気。これなら再燃することはないだろうか、いや、もう少し術を重ねてしばらく水を呼んでおいた方が良いだろうか。


「結構振り出したねぇ!」


 そんな事を考えていたら木陰からルアードが飛び出してきた。炎という光源を失い急激に視界が暗くなった中でちかりと目を差す明かり、手には淡い光を放つカンテラを持っている。


「いやあ、火事になりかねないから助かったよ。ヨシュアさんはルーシェルさん見つかった? 俺らで大体火は消して回ったと思うけど、今アーネストが確認してくれてってなんで二人ともずぶぬれなの!?」


 こちらの姿を見た瞬間、ルアードがぎょっとしたように声を荒げた。

 周囲一帯に雨を降らせたのだから当然自分達の上にも降り注いでいた。雨脚を避けるように頭上にタオルを乗せる彼とは違い、こちらは二人ともされるがままである。冷たい雨は高揚した肌に心地よいとさえ。


「あのね、人間は身体を冷やしたままにしとくと風邪ひくんだよ」


 ほらタオル! ないよりまし!

 語気を荒げながらルアードは新しく鞄からタオルを取り出し手渡してくる。


「人間ではありませんが……」

「霊力だっけ、今人間とほとんど変わんないんでしょ。風邪ひかないと言い切れる?」

「それは……」


 わからない。

 全く平気かもしれないが、確証は持てなかった。

 何せ罹ったことがない。


「本当は木の下にいれば大体の雨はしのげるんだけど、この辺全部焼け落ちちゃってるからさ……」


 こんなので悪いんだけどと言いながら彼はルーシェルにも近づく。触れるもの全て傷付けそうな程気を荒立てている彼女に、けれどルアードは臆することなく。


「ほらルーシェルさんも、ってうわ酷い怪我じゃん! また! またほっぺ! 綺麗なご尊顔に傷が!」

「やかましい」


 この世の終わりのように喚くルアードを一蹴し、ルーシェルはよろよろと立ち上がった。差し出されるタオルを押しのけてフードを目深にかぶる、防水性ではないようだったがタオルよりは断然良さそうだ。

 そうこうしているうちに周囲を確認してきたのだろう、アーネストが小走りに戻ってきた。こちらもしっかりと濡れている、しっとりとした黒髪が肌に張り付いて鬱陶しそうに表情を歪めながら。


「この先に小さな小屋があった、少し休ませてもらおう」


 森の奥を指差した。

 

  ※

 

 降雨範囲の指定が粗雑となったのが仇となったのか近くに雨雲でもあったのか、はたまた己の術式に感化されたのか。術を重ね掛けしなくともぽつぽつと振るばかりの雨粒がだんだんと大きくなり、やがてざあざあと激しく振り出していた。多少は回復したのか、手を貸そうとしたこちらの申し出を手酷く拒否したルーシェルの歩みに合わせてではあったが足早にアーネストが見つけた小屋へと急ぐ。


「助かったあ……」


 ドアノブを回したルアードが、扉に鍵がかかっていなかったことに安堵の声を漏らす。

 さほど離れてはいなかったが、小屋に到着したころには四人とも全身ずぶ濡れとなっていた。ぐっしょりと濡れた衣服のまま室内に入ると真っ暗な空間が広がっていて、ルアードの手にしたカンテラがほんのりと中を照らしていた。然程強くない光源で周囲を確認、小屋は一部屋しかない小さなものだったが隅の方に簡易的なキッチンと暖炉、テーブルの上にランプが置いてあった。どうも魔物討伐などで使われることがあるらしく、何やら書き込まれている周囲の地図が壁に貼られている。手入れが行き届いているとは言えなかったがさほど汚れてもいない。避難小屋でもあるのだろう、小屋を中心に簡易的な結界が張られており雨風がしのげるしっかりとした造りをしている。


「今日はここで雨宿りだね、とりあえずまずは湯を沸かそう」


 小屋の脇に積まれていた薪を少しいただいて、ルアードは暖炉に手早く火を熾していた。雨で少し濡れた薪などそうそう火はつかないだろうに、赤い魔石で作られたという着火剤を放り込むと瞬く間に炎が現れる。霊術やルアードが使う魔法とはまた違った原理なのだろう。ぼうと室内を照らす明かり、ぱちぱちと爆ぜる小さな灯。ざあざあと周囲を打ち付ける雨音に切り取られてまるで別世界のような。


 ――いや、事実ここは異世界なのだが。


 濡れて重くなった髪を軽く絞りながらそんな事を考える。

 この空間なら剣帯を外しても大丈夫だろう、部屋の隅の方に自身の荷物を固めて置くと、そろ、と小屋の外に出てみる。軒下から地面を打ち付ける水を眺める、天から降り注ぐそれは恵みではあるが体温を急速に奪うものだった。ぐっしょりと濡れた雨よけに使っていたタオルを絞る、ぼたぼたと落ちる水分。多少は吸水力を取り戻したそれで髪や顔を拭いてみるがあまり意味はなさそうだった。


 ふる、と。肩を震わせる。結界はあくまでも『魔』避けでしかなく夜風は冷たい。濡れて張り付いた衣服が酷く冷たいと感じた。大人しく暖炉の火にあたっていた方がよさそうだ。

 再び室内へと戻る、暖炉に火が灯ったことによって空気が少しずつ乾いてきていた。じっとりと濡れた木のむっとした匂いが薄れつつある。冷えた空気が温まって、ほんのりと温かくなる。


「みて、毛布も人数分あったよ」


 ごそごそと室内を物色していたルアードがどこからかオレンジ色した大きな布を両手で抱えてきた。ふわふわした柔らかなものではなかったが体を温めるには十分だろう。


 くしゃん、と。


 暖炉の傍にいたアーネストが一つくしゃみをした。いくら暖炉の火に当たっていたとしても濡れた衣服は体温を奪う。人の子の身体は脆い。我々は多少頑健にできているのでさほど気にすることはないが、それこそルアードの言う通りこのままでは風邪を引きかねない。


「ルーシェルさんごめんよう、ちょっと俺達濡れた服乾かしたいから脱ぐね? セクハラじゃないからね?」


 言いながらルアードはアーネストの上半身から衣服を無理矢理剥ぎ取っていた。全身にあるという深い傷跡を出すことを嫌がってかえらくアーネストは抵抗していたが、風邪引くでしょ! とルアードは気にも止めない。


「……好きにしたらいい」


 二人のやり取り見ながら、気だるげにルーシェルは呟く。入室と同時に部屋の隅へと移動した彼女は膝を抱えうずくまったまま、動きもしない。


「ほら、上だけなんだから気にすることないでしょ!」

「ほんと……ほんとおまえさあ……」


 諦めたのか、文句を言いつつもアーネストはされるがままだ。ぽいぽいと手際良く脱いだ衣服を床の上に投げる、がっしりと鍛えられた肌の上には思っていた以上に酷い傷跡が走っていた。竜人に襲われたという人間、ちらとこちらを見た青い瞳が、なんとも言えず気まずそうにしながらもそもそとルアードが持ってきた毛布を羽織る。

 

 それを見たルアードはひどく満足そうにして、んじゃ俺も、と。ばさりとシャツを脱ぎ捨てていた。色白の、筋肉質ではないが引き締まった体を前に自分も脱ぐべきだろうと手甲を外した。ぐっしょりと濡れた衣服は重く、熱を奪うばかりだ。張り付くそれに多少苦戦しつつも素肌をさらせば、まだ温まりきっていない冷えた空気が身を僅かにすくませた。ふと視線。


「仕切りがないってのが一番困るね……」


 顔を上げるとこちらをじっと見るルアードのそれとかち合った。互いに上半身を晒しているのだけれども、なんとなく居心地の悪さを感じて自分も毛布を肩にかける。多少のごわつきはあるとはいえ、それでも乾いた布の感触は冷えた肌にはありがたい。


「ヨシュアさんもやっぱり筋肉すごいんだねぇ、着痩せっての? しっかり腹筋割れてるし」


 まじまじと見つめられ慌てて毛布で前を閉じる。


「すみません、人前で肌をさらす事などなくて……あまり見られると、あの、困ります」


 天界では皆長く白い衣服を身に纏っていた。柔らかな布でゆるく首まで覆い、裾は引きずるように長く。身体の線がわからないように作られたそれは袖も長く、ゆるやかなドレープの多いものだった。装飾は個々人で変えていたが、それでも華美な装飾はどちらかと言えば悪とされた。悪魔とは対象的である。


「それこそセクハラだろ……」


 アーネストがぼそりと口にして、じっとこちらを見つめるばかりのルアードを叩いていた。


「いや、ごめんね、なんだか凄くいけないもの見ている気がして」

「襲うなよ」

「するわけ無いでしょうが!」


 突然上がる大声に驚いた。


「あのね! 国宝級のものを見てね! 自分のものにしたいとか思わないの! 美しいものは愛でるものなの! 大切にしてお世話するのがいいの! 慈しむの! あと単純に筋力で負けます! わかったか!」

「いやひとつもわからん……」


 相変わらず会話の内容はよく解らないものの賑やかな彼らのやり取りを見ながら、そういえばとふと思い立つ。部屋の隅に置いた己の荷物の中を確認し、天界で着ていた真白い衣服を取り出した。それは、宿の女将さんが丁寧に洗ってくださったものだった。きちんと畳まれたまま、よかった、濡れていない。


「ルーシェル、こちらの服が無事です。貴女も着替えた方が、」


 嫌かもしれませんがと。言いかけて口を噤む。視線の先、部屋の隅。光の届かぬ闇の濃い場所。そこでルーシェルは膝を抱えるようにして座り込んでいる。冷えただろうに、コートも脱がず膝を抱えて小刻みに震えてさえいた。ぎゅうと右肩のあたりを押さえている、出血の多かった場所。


「ルーシェル、傷口が痛むのですか?」

「……うるさい」


 覇気がない。

 寒いのだろうか、体を縮こませ顔を両膝の中に埋めている。


「身体を温めたほうが、」


 そう口にしながらそろりと近づいて、はっとした。濡れたコートの下、彼女の周囲にある床の上を黒く染める水たまりの色が明らかに違う。まさかと思い指先で触れてみると水の中には赤黒いものが混じっていて、どくりと。心臓が跳ねた。出血している。雨の中無理に動いたからだろうか、傷口が開いたのかもしれない。薄暗い室内だったから気付くのが遅れた。だが、それなら何故。


「何故傷口を塞がないのです」


 得意不得意はあるとはいえ、回復霊術は誰しもが使えるものだ。完治は無理にしろ今の霊力であれば初級程度なら問題なく使えるはずである、肉を塞ぐことは難しくとも傷口を閉じるくらいなら可能だろうに。何故それをしない。


「…………………ない、」

「え」

「だから、…………使えない…………」


 こちらを見もせずに、くぐもった声が返ってきた。

 使えない、何を。

 一瞬理解を拒んだ脳が正しく情報を理解したと同時にがっと。ルーシェルの右手首を掴んでいた。ようやくこちらを見た赤い瞳とぶつかる、動揺、困惑、苦痛と少しばかりの苛立ちがない混ぜになって不可解な色を湛えたそれ。


 やめろとばかりに抵抗するが大して力も入っていない、ただでさえきつい目元を歪めて唇を噛み締めている。放さぬよう細い手首を掴む手に力がこもる、彼女の細い骨がぎしりと鳴るが構ってはいられなかった。痛みにわずかに眉を寄せる彼女の腕を無理矢理上に上げると、ぐぅと喉の奥から噛み殺したような苦痛の声が漏れ出た。暴れる彼女からコートを強引に剥ぎ取ると、果たしてそこには真新しい血を流し続ける右肩があった。コートのおかげか雨にはほとんど濡れていないようだったが、右肩から下は真っ赤に染まっている。傷口が塞がったような形跡はない、つまりはずっと、血を流し続けてきたのだ。ここに来るまで。ずっと。


「貴女その怪我ずっと黙って……」


 すう、と。頭の奥が酷く冷えた気がした。

 いかな悪魔であろうと首が飛べば死ぬし、出血多量でも死ぬ。現在の我々は霊力は変わらずにいるが使用量に制限がある。負傷は致し方ない、だが傷口を放置すればどうなるかなど解りきった事だろうに。それなのに黙っていて――ざわりと。胸の奥が急激に熱を発する。


「ば、やめろ……ッ」


 傷口に手をかざすと跳ねるようにルーシェルは暴れるが、力の入らぬ腕では形だけの抵抗にしかならない。自身が現在扱える霊力では完治させる事は出来なさそうだが、出血を止める事くらいなら可能だろう。嫌がる魔王を押さえて指先に意識を集中、回復霊術を展開。じわじわと皮膚が再生していくのを確認していたら無理矢理に腕を振り解かれた。力任せのそれに、びっと。彼女の爪が自分の手の甲を引っ掻いて。


「勝手なことを……ッ、」


 遅れてやってくるじわりと感じる痛み。けれどそんなもの構っていられなかった。わなわなと唇を戦慄かせて、普段は桜色のその頬を蒼白にして怒りをあらわにする魔王の、その気丈さに、しかし覚えるのは言いようのない不快感だった。


「勝手なこと?」


 繰り返した言葉に、ルーシェルは押し黙る。

 酷く顔色が悪いのにこちらを睨みつける目だけがぎらぎらと輝いているが、彼女に覚えるのは明らかな苛立ちだった。右肩に穴を開けたまま放置して、治療も回復も自身では出来ないのに黙っていて、死ぬかもしれない量の血を流し続けて、こんな、こんな酷い顔色をしていて。勝手ですって?


「死にかけておいて、随分な物言いですね」


 勝手なこと? どの口が言う。ざわりと肌が熱を帯びる、腹の奥底が煮えたぎるように熱い。


「我々は人ではありません、多少の怪我でしたら問題ないでしょう。ですが、それが『多少の怪我』で済むとでも?」


 自分ではない他者による負傷。

 誰の目にも明らかな深い傷、出血。

 いくら人間よりも頑健であろうとも大半の血液を失えばただでは済まない。死ぬ事だってあるのだ、莫大な霊力を持つ魔王であっても死は等しくあまねくものに訪れる。遅かれ早かれ、いつかは死ぬ。……彼女の、その命を摘み取るのは自分であるべきだ。名も知らぬ低級悪魔などではない。

 

 痛みと怒りとでぎりぎりとこちらを睨みつける魔王の瞳が強くきつく光を宿す、それを酷く凪いだ気持ちでこちらも見つめ返していた。

 

 美しい悪魔。同胞の敵。

 天敵である自分に治して欲しいとは口が裂けても言えなかったのだろう。憎い天使に借りなど作りたくない、孤高の魔王が他者に頭を下げるなど、そんなところだろうか。くだらない、くだらない、そんなことで勝手に死ぬだなんて。


「勝手に死ぬだなんて、許さない」


 思いは口から零れ落ちる。

 わずかに見開かれる彼女の赤い瞳、貴女の矜持など知った事ではないとはっきりと告げる。魔王ルーシェル、同胞の敵。永遠に交わることの無い怨敵。汲んでやる必要など。


「貴女を殺すのは私です」


 他の何者にも許さない。


「魔界の事情など知った事ではありません」


 明らかに狙われていた事も、襲撃を指示を出した主とやらも、その理由を知っているというルーシェルの事も、自分には何も関係がない。あくまでも自分と彼女との問題だ、横槍など許せるはずもない。

 

 ルーシェルは黙ってこちらを見ている。呆けたように。

 

 再び彼女の腕を取る、今度は意図して柔らかく。抵抗がないのをいい事にもう一度右肩へ回復霊術をかける。痛みも酷いようなので痛覚鈍麻の術を重ねると、ふ、と強張っていた身体が緩む。は、と色をなくした唇から吐息が漏れ出る。白く細い手首には自分の指の痕だろう、赤い痕が残っていた。己の執着を突き付けられてなお頭は冷えない。

 

 肩の傷が塞がったのを確認し、左腿の怪我にも手をかざす。

 

 ふわりと柔らかな光が鋭利な刃物に削られた肉をゆっくりと癒していった。ルーシェルは何も言わない、抵抗するのをやめたらしくされるがままになっている。あれほど自分を嫌っている彼女が大人しいのは珍しい、それほどに痛むのか。

 

 最後に左頬。雨に濡れたからか顎まで伝っていた血は流れていたが、それでも未だにじわじわと血が滲んでいる。向かい合って頬に手をかざす、もっと強力な回復霊術が使えるならこんなに近づく必要もないのだが仕方がない。ルーシェルは黙ったまま、けだるげに座ったまま。目を床に落としてじっとしている。


「お前の手は暖かいな……」


 ぽつんと。掠れた声で独り言のように。

 転がり落ちた彼女の声にぴくりと指先が跳ねた。

 そうしてルーシェルはゆっくりと前のめりに傾いだかと思うと、そのままずるりとこちらへと倒れ込んできた。力の抜けた身体を慌てて支える、恐ろしく冷えた細い身体。


「だ、大丈夫?」


 こちらのやり取りを見ていたルアードが心配そうに声をかけてくる。


「失血のせいでしょう、気を失ったようです」


 青白い頬、鮮やかな唇も今は色を無くし呼吸も浅く速い。

 冷えた肌がまるで人形のような印象を与える。


「顔が真っ青だ」

「傷口は塞いだのでひとまずは大丈夫でしょう」


 こちらの胸に頭を預けるようにしている彼女を抱え直しながらもう一度傷口を見やる。衣類は血には濡れているが新たな出血はないようだった。苦しくないように横抱きに抱いて立ち上がると、彼女のあまりの軽さに驚いた。起こさぬようにゆっくりと暖炉の傍まで移動する、温かな場所に腰降ろし、ルーシェルを膝の上に座らせて抱きかかえたまま毛布を掛けた。大量出血は酷く寒く感じる。呼吸も拍動も酷く小さい、伏せられた瞼を彩る長い睫毛がふるりと震える。


「このまま私が抱えています」

「え、でも」

「死なれては困りますので」


 またこのままどこかへと行かれても困る。

 笑みのまま、それでもきっぱりと告げるとこちらを覗き込んできていたルアードはそっか、と。それ以上は追及しないでいてくれた。じゃあ俺らは適当に休んでるからと、濡れた衣服を天井に張ったロープに掛ける彼らへ礼を言って腕の中にすっぽりと納まる彼女に目を落とす。改めて驚くほど小柄な体躯だ、こんな小さな体で無茶な事をする。雨で張り付いた黒髪をゆっくりと払ってやる、暖炉の柔らかな明かりに照らされて人形のようだった肌にほんの少しだけ色が戻る。生きている。

 

 彼女の僅かな息遣いとざあざあと屋根を打ち付ける雨音ばかりが耳に届く夜だった。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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