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暁のホザンナ  作者: 青柳ジュウゴ
1/68

1 賽は投げられ地に落ちる

連載を開始します。

毎週更新できるよう頑張ります。

 ――轟々と、風が唸る。

 荒れ狂う風が耳を、髪を嬲っていく。

 立ち昇る黒煙。舞上がる砂塵。

 世界に満ちるのは吐き気を覚える程禍々しい力。


「アハハハハ!」


 天を裂くように響く狂ったかのような高笑い。

 永遠の朝焼けのように穏やかな光を放つ空に、漆黒六対の皮翼を広げた女が悠然と浮かぶ。こちらを見下ろす女の濡れたように艷やかな黒髪、血のように深い深紅の瞳。女を中心に蠢いているのは壮絶なまでの圧倒的霊力量だった。目に見えぬ筈のそれが、女を中心に渦となって吹き荒れ大気を震わせている。


「遅かったなぁメタトロン! お前の飼い犬どもは遊びにもならなかったぞ!」

 

 嘲笑うかのように女は笑う、嗤う。

 破壊の限りを尽くされた神殿には折れた剣が墓標のように突き刺さっていた。崩れ落ちた瓦礫の下には折り重なるようにして横たわる天使達の躯。引き裂かれた肉体、周囲を染め上げる夥しい量の赤。血と灰に染まった空間に佇んでいるのはただ一人、この場にはあまりにも不釣り合いな闇色。

 ぎちりと唇を噛みしめる。

 

「貴女が、魔王ルーシェル……」


 その名を、確信と共に呟く。

 地の底の底、天より堕とされた果てない闇の住人。魔界を統べる悪魔どもの王。

 その手には女よりも長大な大鎌が握られていた。吸い込まれそうな程深い漆黒の刀身は血に塗れている。

 

 この穢れなき天界に突如として現れた異端。

 長い黒髪を荒れ狂う風に嬲らせたまま、女悪魔は薄笑いを浮かべている。

 

 異変に気付き駆けつけた時には既に神の栄光と平穏の楽園は蹂躙され、静謐なまどろみは圧倒的な力で蹂躙され尽くした後だった。女から目を離さないままそろりと気配を探る、どうやら他に仲間はいないらしい。


 未だ嘗てこれほどの力を持つ者を自分は見たことがなかった。ただそこにあるだけで空気が一変する相手なぞ。

 

 メタトロンさま、怯えた声で名を呼ぶ配下達を下げ愛剣を召喚する。音もなくするりと手に馴染む柄、月明かりのような輝きを放つ白銀の刀身。ふ、と小さく息を吐き、柄をきつく握りしめる。


「……随分なご挨拶ですが、一体何の御用でしょう」


 切っ先を向け静かに問うと、女の深紅の瞳が興味なさそうに瞬く。先ほどまで酷薄な笑みを浮かべていたというのに、一転氷のように凍てついた眼差し。

 

「天使共の王は随分とつまらんな、もう少し感情的になるかと思ったのだが」


 黒髪を無造作にかき上げながら、寒気さえするような美しい表情をつまらなさそうに歪める。つまらない。くだらない。取るに足らない。さながら玩具を取り上げられた子供のよう。女は息を乱した様子もなく平然とこちらを見下ろしてきている。あまつさえ全くの無傷だ。血の一滴すら浴びていない女の姿が、圧倒的な力の差を物語っている。

 

「生憎、獣と戯れるほど酔狂ではございませんので」

「言ってくれる」

 

 淡々と返すこちらへ、女悪魔は可笑しそうに笑みを浮かた。

 そうして手にした長大な大鎌をばっと前へ突き出し、そのまま優雅な動きで上へと振り上げれば切っ先から無数の刃が放たれる。尋常ではない霊力の乗ったそれは暴れ狂う龍のように再び周囲を穿ち砕いていく。防壁の展開、これ以上の被害を出さない為広範囲に張るものの受ける打撃はあまりに重い。


 短く詠唱、魔王の側で幾つかの炸裂弾。が、届かない。分厚い層のような霊力に弾かれるが女の意識が一瞬そちらへとずれる、隙をつくようにして踏み込む。音もなくすべらせる刃、力を乗せて振り抜けば愉快そうな真紅の瞳と視線が絡んだ。しかし刃は厚い層のような霊力に弾かれて届かない、自動抵抗(オートレジスト)、なればと刃にさらなる霊力を上乗せする。風圧。幾重にも重ねられ圧縮されたそれが力任せに女の霊力層を破壊する。ぱりん、と。玻璃の割れるような細やかな音と共に、女の黒髪が一房ばっと宙を舞った。切り落とされたつややかな黒髪、驚いたように見開かれた深紅。

 

 くしゃりと己の一部短くなった黒髪を握りしめた女の赤い唇がにいと歪んだ。

 心底嬉しそうに、恍惚とした表情を浮かべたのだ。

 

「……そうこなくては」


 短く一言。

 呟くと再び手にした大鎌を構えた。

 

「すぐ壊れる玩具に興味はない。天界最高位の天使、天使共の王である熾天使メタトロン……お前なら、私の遊び相手になってくれるだろうッ!?」


 叫び声とともに黒い刀身を下から上へと大きく振り上げる、切っ先からの風圧が幾重にも重なり周囲へと降り注ぐ。輝く銀緑の草原、枯れることのない花々を薙ぎ払い、光り輝く大地を抉るように突き刺さる。弧を描くように無数に宙を駆けるそれらがぶつかり、弾け、あらゆるものを破壊する。舞い上がる砂塵。不明瞭になる視界。 こちらへと向かってくる刃を手にした剣ですべて弾き返し悪魔へと間合いを詰める、わずかに見開かれた血のように深い色をした瞳がきらめいて――振り下ろしたこちらの剣先を、するりとかわした。早い。追駆、追撃、こちらの刃をその大鎌で受け流し、弾き、交わす魔王の表情はどこか楽しんでいるかのようですらあった。

 

 金属同士のぶつかる耳障りな音、霊力で生成される無形の力。

 火花、光、弾けて消える。互いの攻撃が通らない、複雑に絡み合う術式、霊力を織り上げ展開するも届かない。埒が明かない。そう思ったのはほぼ同時だったのだろう、ぎりぎりと切り結んでいた刃を互いに振り払い間合いを取った。逸らされない赤い瞳、嘲笑うかのように。突き出される女の細い両の手、握られたままの大鎌に話しかけるがごとく紡がれる言葉にぞわりと。肌が粟立つような怖気。


《来たれ闇の眷族我が許へ

 愚昧なる口舌の徒よ

 悔恨の念を抱きながら果てるがいい》

 

 歌うように、囁くように。

 女の言葉によって霊力が集う、空気が変わる。詠唱霊術だ、それも、異常な程の破壊力をもった。

 紡がれる音、蠢く霊力、魔王の織り上げる術式は力任せのようでありながら複雑で奇怪な文様を描く。顔色ひとつ変えず彼女の持つ膨大な力を圧縮し、転換し、ただただ、眼前の敵を屠る為の力へと作り変えていく。

 

 常軌を逸脱した熱量を相殺するには相応の力が必要である、口早にこちらも詠唱術を唱える。


《嫣然たる光

 我招くは闇を切り裂く神火

 光焔よ眼前の邪なる輩を掃滅せよ》


 この身に宿る霊力を作り変え組み替え、ただ純粋な武器へと。詠唱は無形である力に名を与え明確なる有形へと作り上げてく過程。工程。吐き出される吐息に力を乗せ、幾重にも重ね絡み合わせ、いまここに邪悪なるものを消滅させるだけの力を。清廉な世界を破壊した悪辣者に厳烈なる裁きを。


《薙ぎ払え!》


 高らかに言い放つ女の声に遅れること僅か。


《彼の者を貫け!》


 自身の詠唱が続く。

 研ぎ澄まされた力、暴力的な霊力で作り上げられた強大な黒い獣が解き放たれる。それを打ち砕くように光が雨のように降り注ぐ。悪魔の術式を抑え込むように出力を上げた自身の霊術、衝突、反発、拮抗。空気が軋むように鳴き、不自然に場が歪む。異変に気付いた時には既に遅く。


 ――光。

 世界が白に飲み込まれる。

 轟音と共に爆風が辺りを薙ぎ払った。

 

 何が起こったのか、解らなかった。ただ、自分を呼ぶ臣下達の声だけが耳を掠め――何かに引きずり込まれる感覚。そのまま、意識は闇の中へと呑み込まれていった。


   ※


 ざわざわと、木々の擦れる音にのったりと意識が浮上する。動かした指先には湿った土の感触。意図して吸い込んだ空気は、噎せ返るような濃密な植物の匂いと息が詰まるような水分を多分に含んでいた。


 強烈な光に焼かれた瞼をゆっくりと持ち上げる、どうやらうつ伏せになって地に倒れていたらしい。警戒しながらそろりと周囲に視線をやるが、そこには陽の光もまばらな鬱蒼とした森が広がっているだけだった。……少し、肌寒い。

 

 ゆっくりと体を起こし、警戒しながら立ち上がる。するりと流れ落ちた己の長い金の髪が僅かな光を受けて鈍く光っていた。握っていた筈の剣は取り落としたのか辺りに見当たらない。空を見上げてみるが、背の高い木々に覆われはっきりとは見えなかった。傍らには朽ちた木の洞。聞き慣れない鳥の鳴き声、見慣れない植物群。薄暗い森の中には生物の息づかいはあるものの、空気はどこか不穏な気配が漂っている。

 

 見知らぬ空間、馴染まぬ空気、薄暗い森もそこに住まう動植物もおそらく自分の知るものではない。

 己の手を確認してみる、痛みはこれと言ってなく問題なく動くものの狭窄するかのように閉じた感覚があった。まるで肌の上に分厚い膜が貼ったような奇妙な感覚。試しに一つ、明かり用の光球を作ろうとして、何故だか上手く術が発動しない。まるで流れる水が行き場をなくして留まるかのよう、背にあるはずの翼も顕現できなくなっていた。


「貴様……何をした……ッ!」


 鋭い女の声にぴくりと肩が震える。

 声の方へと振り返るとそこには果たして悪魔の姿。見る限り外傷はないが、よろよろと立ち上がりながらもこちらを睨みつけてきているのだ。向けられるのは露骨な敵愾心、周囲の状況を探るように警戒しながらも不快感をあらわにしている。先程までいた天界とは明らかに違うこの世界、向けられる自分への憎悪。今にも飛び掛らんとするばかりの、隠そうともしない明確な殺意がまざまざと。


 ……やはり、感覚がおかしい。

 我々と対為す存在である悪魔、小者であればまだしもあれほど強大な力を持つ魔王の気配まで察知出来ないのは異常だった。一体何が起こっているのだろう。


「貴女こそ、心当たりがあるのでは?」

「そんなもの知るか……ッ」


 試しに問うてみるも、返ってきたのは碌な返答ではなかった。

 吐き捨てるかのように言い放った魔王は、じりじりとこちらから距離を取ろうと後退る。本当にわからないのか、白を切っているのかの判別はつかない。

 おそらく彼女も身体の違和感に気が付いているのだろう、こちらから視線を逸らさないまま気配を探っているようだった。あの黒い刀身の大鎌がない、どこか焦りの色を滲ませ乱れた声色。


「ここがどこだろうが関係ない、貴様は、貴様だけは、」


 ぎゅうと細い身体を抱きしめ、魔王ルーシェルはこちらを睨みつける。ぎりぎりと爪をその細腕に食い込ませ、こちらから目を逸らさない。まるで手負いの獣のようだ。向けられる厭悪、怨嗟。嫌忌、憤然。積怨。一体どれ程の。


 感情のまま振る舞う悪魔を静かに見据える。艷やかな黒髪、血のように赤い瞳。

 目も眩むような美しさは力あるものの象徴だった。


 突如として各階層の門を突き破って天界に侵入し、数多の同胞を斬り殺し、暴虐の限りを尽くした悪魔。生半可な実力者では到底実現不可能な殺戮を繰り広げたのは、実に小柄な娘であった。透き通る白い肌、儚いまでに細い体躯に似つかわしくない程強烈な光を放つ赤い瞳がこちらを射る。おおよそ怨憎と呼ばれるであろうもの全てを綯い交ぜにしたかのような強く強いその眼差し、動揺も衝動も抑えることすら出来ないその幼稚さ。


「ですが、今ここで争うわけにはいかないでしょう」

 

 つとめて静かに口にする。

 ここが一体どういった場なのか定かではないのに、明らかな身体異常を感じているのに争うなどと。互いに不利なのは解るだろう、と暗にほのめかした言葉だったのだが。


「天使となぞ馴れ合う気など毛頭ない……!」


 噛みつかんばかりの怒声、悪魔は剥き出しの敵意を緩めもしない。けれどどこか焦燥感に溢れた声でもあった。向けられる視線の色はきつくも不可解に乱れている。一体何を焦っている。急がねばならないという苛立ちを全面に押し出している、のは。何かが来るのか。やはりこの状況をもたらしたのは魔王なのか。目的がわからない。

 

《……開け冥府の門

 我が命により……》

 

 鋭い眼光でこちらを睨みつけたまま女は詠唱を始める。

 肌の上を覆う分厚い膜を力任せにこじ開けるかのような乱暴な構築式だ。崩壊しかねない、制御しきれず反動が来る可能性だってあるのに。何を考えている、何をしようとしている。問うた所で、まともな答えが返ってくるとも思えない。こちらも構える、ともかく悪魔を制圧しなくてはと、応じるように術式を展開しようとして。


「……ッ、」


 ぞる、と。

 突然細長いものが地中から飛びかかってきた。とっさに地面を蹴り上げて交わす、身体は重く飛ぶことは叶わない。目をやった先、そこには蔓のような、触手のような歪な形をした何かが蠢いていた。低級魔族のようにも見えるが、何かが違う。植物の根とも違う。意思があるのかどうかすらわからないそれが、こちらへとその細い手を伸ばしてきているのだ。


「次から次へと⋯⋯ッ」


 同じく蔓を避けた悪魔が忌々しく叫ぶ、唐突な襲撃に織り上げつつあった荒い術式はあっけなく霧散していた。苛立ちを隠しもしないまま、悪魔は激しい舌打と共に右手を突き出す。

 

「邪魔を、するな!」


 叫ぶ。吹き上がるような力の渦、無詠唱の霊術。紡がれた無形の言葉は有形の力となって、術者の任意の場所で命令通りに発動する、筈だったのに。


「なんで、……」

 

 呆然とした声と共に、悪魔が目を見開く。

 術は発動しない。何の変化ももたらさない。霊力は魂に宿る、悪魔には今尚凄まじく強大な力が確かに存在しているというのに、何かに阻まれているかのように流れない。まるで無理矢理押し込められているかのよう。その間も蠢く触手、こちらを捉えようとしてか幾度も伸ばされる細く長いもの。


 正体不明のそれから伸ばされる触手を避ける。

 

 酷く重い身体、武器もないのであれば使えるものは霊術しか無い。悪魔が何らかの理由で出来ないのであればこちらが動くしかない。指先をすべらせて術式を展開、加減をしつつ力を紡ごうとした瞬間、ばきん、と。酷く硬い音が響くのを聞いた。その瞬間、なにかに強固に縛られる感覚。しゅう、と紡ごうとしていた力が掻き消えた。思わず胸を押さえる、そこに確かにあるのに出口をなくして堰き止められている。

 

 ずず、ずず、と。重苦しい音を立てて何かが現れる。

 

 森の奥から現れたのは己の三倍はあろうかという「何か」だった。

 山のような巨躯に巨大な一つ目、胴体と思しき所からずるずるとした触手が幾本も伸びている。動物とも植物とも言えない気味の悪い姿をしているそれに口はない、という事は根が変性したものなのか。


「く、」


 悪魔の舌打ち。ぎゅる、音を立てて向かってくる触手を双方かわす。避けることはさほど難しくないけれど、対処できるだけの力が使えない。武器もなく反撃の手段がない。際限なく向けられる蔓、眼の前には明らかにこちらを獲物として認識してる何か。こちらを捕らえて一体どうするつもりなのか――あまり、愉快なことにはなりそうにない。

 

 どうするべきだろうか。

 見知らぬ場所、力の使えぬ状態でどうすればいい。


「……ッ!」


 考えている間にも悪魔が体勢を崩す、どうやら右足首を触手に捕らえられたようだった。ぐん、とそのままなす術なく空へと引き上げられる。宙吊りとなった悪魔と目が合った、身動きの取れないその身体へと更に蔓が巻き付いていく。やはり触手の目的は捕食なのだろうか、ぎりぎりと締め上げられる悪魔のその表情は苦痛に歪んでいる。


 名を、呼ぼうとして口を噤む。


 悪魔の名を口にしてどうするというのか。天使である自分が悪魔に対し手を貸す必要など無い、理由も手段もない。彼女も解っているのだろう、こちらに助けを求めるわけでもなく――当然だ、自分だってそうする。


 では、自分一人で逃げるのか。


 ルーシェルを捕らえた触手はそちらに注意を向けていて、こちらへ伸ばされる事はなくなっていた。逃げる事は可能だろうが、ではその後どうする。もし魔王が生き延びた場合、他を害さないという保証などどこにもなかった。ではこのまま見殺しにするのか。数多の同胞を殺したこの悪魔を、わけも分からず、己の手ではないもので死に至らしめる、?


 瞬間。何かが鋭く飛んでくるのを肌で感じとった。風を切る音、とっさに身を翻すと小さな力の塊は寸分違わず己を追う魔物の瞳孔に突き刺さる。


「矢、……ッ!?」


 視認と同時に魔物は一際激しく暴れたかと思うと、悪魔を捕らえたまま蔓を大きく振り上げた。放り出される女悪魔は空高く飛ぶ、翼のない、力の使えない状態ではまともに受け身も取れまい――


 こんな、呆気なく終わるものなのか。


 殺戮の限りを尽くした魔王が、こんな簡単に死ぬのか。声も上げずにこちらを睨みつけてくる悪魔、己の最適解を弾き出せぬままでいると矢が飛んできた方向から黒い影が躍り出た。そうして煌めく銀光。それが、刃の翻る軌跡だと理解した時には赤が視界に舞っていた。早い。


 そうして重力に身を任せるままであった悪魔を抱きとめる黒い影、ぼとぼとと血の雨が魔物の肉片と共にふわりと舞い降りる。


「…………、」


 あらわれたのは、聞き慣れぬ言語で何かを呟く大剣を構えた一人の青年だった。


  ※


 鬱蒼と茂る森の中、魔族のようなものに襲われていたところを一人の青年に助けられた。


「あ、あの、助けて頂いてありがとうございます」

「……、、、?」


 礼を言うが、やはり聞いた事のない言語で返された。

 長い黒髪の、青い目をした青年だ。頬に深い傷跡がある。体の動きを制限しない程度の防具をつけた人間、だと思う。旅人だろうか。魔物を切り刻んだのは彼なのだろう、彼の背丈程もあろうかという大剣がどす黒い血に汚れている。


 ぶん、と大きく振り下ろしてそれを飛ばすと、青年は抱きかかえた魔王をゆっくりと下ろしてやっていた。

 ぜぇぜぇと肩で息をする彼女の足首は赤く腫れ上がっており、立てないのか力なく座り込んだ。魔王、あからさまな怪我、しかし彼女との距離の取り方を測りかねる。


「…………、、、、」


 また聞き取れない言語を口にした青年は眉を顰めてこちらを見る。魔王に駆け寄る事もしない自分を不審に思ったのだろう。通常であれば介抱すべきなのだろうが、自分と彼女との関係性がそれを躊躇わさせた。悪魔。滅するべき我らと対峙するもの。護るべき人間を惑わせるもの。


「……っは、」


 整わぬ息のまま項垂れていた女悪魔が顔を上げた。吐き出されたのは吐息か嘲笑か。ぎらついた眼差しがこちらを射る。


「どうした、……隷属しか知らぬ神の犬め。私の首はここだぞ」


 表情を醜く歪めて魔王は笑った。

 ぶつかる深紅の瞳は血のように赤い。


「――余程、生き急いでいるようですね」


 解りやすい挑発である。

 受けて立つ事は容易いがしかし、これ程近くに人間と思しき生物がいる以上無暗に動くのはあまり良い判断とは言えないだろう。何より今は状況把握を優先した方がいい。


「貴女、彼の言葉が解りますか?」

「それが何だと、」

「私は彼の使う言語を知りません。人間界のあらゆる言葉でも、天界のものでもない」


 そう告げれば彼女も思う所があったのだろう、突き刺さるような殺意は変わらずも僅かではあるが思い返しているようだった。


「…………魔界の古狸達のものとも違うな」


 ややあって彼女は小さく口にする、苦虫を噛み潰したかのようなその表情はある程度状況を理解したようであった。察しが良くて助かる。


 知らぬ魔族、知らぬ言葉、霊力の使えない世界。それは、ひとつの可能性を示していた。


 面倒な事だと言わんばかりに魔王は表情を歪めた。助けてくれた青年も困惑したようにこちらを見ている。ヒト、である事は間違いないと思う。彼からは何ら力を感じない。己が守護してきた人間と変わらぬように見える。


 斬り刻まれ地を濡らすばかりであった異形はやがて溶けるように姿を消し、代わりにいくつかの宝石のようなものが地に転がった。手のひらほどの大きさの、緑の石。黒髪の青年はこちらに訝しげな視線を向けつつもそれを拾い上げると一抱えほどある袋へと回収していっていた。


 背後から第三者の声がする、目をやると金色の髪をした青年が小走りでこちらへ向かってきていた。きらめく緑の瞳、手には弓を持っている。剣を手にした青年と同じような格好をしている、先程の矢は彼が放ったのだろうか。


 黒髪の青年の連れなのだろう、駆け寄った金髪の彼はこちらを見て何やら話している。だがやはり彼らの言葉はまるでわからない。彼らもこちらの言葉がわからないのか、どう対処すべきなのか困っているようだった。

 まず、敵意がないというのを示す必要がありそうだ。


「…………! 、、!」


 彼らの前で膝を折って両手を握り合わせると、弓を持つ青年が驚いたような声を上げた。しかし何故か、悪魔であるルーシェルも当時に愕然とした声を上げる。


「貴様正気か!? 何故そんな事をする!」

「まず相手を安堵させるべきでしょう?」

「だからと言って!」


 足を痛めて一人では動けない魔王が何やら喚いているが、何に対して憤慨しているのか理解はできなかった。何故も何も武器はない、霊力も使えない、こちらは相手を害するだけの手段はないとはいえ向こうからすればそんな事は解らぬだろう。なればこそ身をもって示すべきだ。


 神に懇願するように彼らを見上げる。害意はないのだと言外に伝わるよう柔らかく微笑むと、はっとしたように金髪の青年が何やら鞄を漁りこちらに何やら押し付けてきた。


「イヤリング……?」


 小さな雫型の、美しい深紅のそれは金色の金具がついておりとても華奢な作りをしていた。急にどうしたのだろうと不思議に思うが、これを渡してきた青年が付けろと大仰な手振りで伝えてくる。

 何でしょう、親愛の証でしょうか。解ってくれたのなら良かったとその小さなアクセサリーを両耳につけてみる。とたん、何か力が発動するのがわかった。小さく空気を震わせるかのような何か。


「えっと、俺の言葉、わかりますか……?」


 恐る恐る金髪の青年がこちらに向かって語りかけてきた。先程とは打って変わって理解出来る言葉である。


「わかります、……」


 驚いて青年を見つめる。

 先程のは翻訳か通訳の効力があるものだったのか。

 魔王にも目配せをする、効力の範囲がどれ程なのかはわからなかったが彼女も青年の言葉が理解出来るようだった。わずかだが眼を見開いて自分と彼とを見比べている。


「よかった美しいお嬢さん、どうしたんですかこんな所で」


 青年が立ち上がるように手を差し出してきてくれたのでありがたくその手を掴む。弓を引くからだろう、皮で作られた手袋の感触になんだか妙に安堵してしまった。理解の範疇から外れた世界で出会う確かな実体は、思っていたよりずっと不安であったらしい。


「ありがとうございます、あの、私はお嬢さんではありませんが、」

「…………随分背が高いんですね美しいお嬢さん」


 立ち上がると青年を見下ろす形になってしまっていた。

 僅かに目を見開いてまじまじと見つめられている、握られた手は離されない。

 魔王の吹き出す声が聞こえた。


「あの?」

「おいルアード」


 黒髪の青年がやめろと言わんばかりに肩を引くが、しかしルアードと呼ばれた金髪の青年はやはり微動だにしない。ぎゅうと手を握ってこちらをじっと見つめている。居心地の悪さを覚えるがしかし恩人でもある彼を無下に扱うのは躊躇われた。とりあえず微笑んでみる。どうしてだろう、言葉は通じるようになったというに青年の考えがまるで分らない。


「随分とがっしりとした手をしていらっしゃる……」

「あの、ですから私はお嬢さんなどではなく、」

「女性にしては随分とお声も、」

「ですから」

「あれ?」

「私は男です」


 伝えた瞬間。

 ばちんと握られていた手を乱暴に払いのけられた。それはもうびっくりするくらい乱暴に。


「男に! 施してやるものなんて! ねぇんだよ!」

「ルアード!」


 訳が分からなくて呆けていると何やら吼えられた。

 態度が急変した青年を黒髪の青年が張り倒すがしかしルアード青年は嘘だ! 騙された! と何やら叫んでいる。


「す、すみません……? 騙すつもりなんて、」

「、ッいやでもやっぱ美人!」


 弁明するのもおかしいとは思いつつも困ったように告げると、彼は絶叫して頭を抱えて座り込んでしまった。

 黒髪の青年がそれを汚いものでも見るかのような凍える眼差しで見下ろしている。面倒くさそうに口を思いきり歪めて、やはり埋めておくべきだろうかと何やらぶつぶつ口にしている。


 この二人は相棒ではないのか。

 というか私は一体何を言われたのか。


 どうするべきなのか皆目わからず、おろおろとしていると不意に笑い声が響いた。魔王が大笑いしているのである。それはもう、遠慮会釈などないくらいに思いきり。


「こいつは愉快だ、貴様、本当に女のような顔をしているからなぁ」

「……魔王様のお気に召したようで光栄ですよ」

「だがしかし、騙されたとは、……っくく、」


 何が面白いのかくっくと笑い続けている。

 きつくこちらを睨めつけるばかりであった目元が緩んでいて、どこか安堵が滲んでいるようにも見えた。突然放り出された見知らぬ場所で、状況を飲み込めないまま異形のモノに襲われたのだ。特に彼女は負傷もしている、恐れも、あったのかもしれない。悪逆非道な悪魔どもの王だというのに恐れなど。随分と人間臭い感情を持っているものだ。


 はあ、と。己の唇から零れ落ちたのは一体いかなる心情だろうか。


 なんだか肩の力が抜けてしまった。あまりにも非日常の出来事である。殺し殺されの関係ではあるがここまで嘲笑されるとなんだか馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。気を緩めるつもりはないが、一時休戦というのもありなのかもしれない。ここは天界でも魔界でもないのだ、下手に刃を交えて他の生物を傷つける事は避けたい。


「そちらの美しいお嬢さんはお嬢さん……?」

「貴様は貴様で無礼にも程があるぞ」


 項垂れていたルアード青年が顔を上げて魔王を見上げる。

 つややかな長い黒髪の魔王は非常に女性らしい体躯である、確かに失礼ではあるが青年はいやだってさっき思いっきり騙されたしもしかしたらね、と何やら疑心暗鬼になっている。何やら悪い事をした……のだろうか……


「とりあえずその足も治療したいし、お話、いいかな……」


 ルアード青年の提案は是非とも受けたいものであったが、如何せん落ち込みが凄すぎて反応に困る。


「どうせすぐ立ち直る、放っとけ」


 言い放った黒髪の青年は特に気にした様子もなく、荷物袋らしきものから何やら小さな小瓶を出していた。

 透明な水のようなものが入ったそれを周囲に円を描くように撒く。半径二メートル程度であろうか、そうして円の中に入るよう促しながら、


「魔除けの結界だ。水が完全に乾くまでの間は問題ない」


 短く告げる。

 そうしてルアード青年を円の中へと蹴りこんでいた。されるがままである、という事はこのようなやりとりは左程珍しい事ではないのかもしれなかった。見る限り二人旅のようだが、普段からこれが当たり前なのだろうか。そんな事を考えていたらさっさと中へ入れと面倒くさそうに言われ、大人しく指示に従うことにする。

 

 ……もしかしたら、この世界ではこれが通常なのかもしれない。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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