「貴様との婚約を破棄する!」「こいつは事件の臭いがするぜ……」~一匹狼の敏腕記者は、婚約破棄騒動の裏に潜む事件を嗅ぎつける
※テンプレ展開からの変化球短編です。楽しんでいただけたら幸いです。
「おい、クラークじゃないか、久しぶりだなぁ」
「これはこれは男爵様、ご無沙汰しております」
シャンデリアに彩られる華やかな舞踏会の片隅で、参加者の中でも家格の低い男爵が砕けた口調で、壁際に佇む男に話しかけた。
クラークと呼ばれた三十過ぎに見える細身の男は、顔立ちこそ整っているものの頬は少しばかりこけ、焦げ茶の髪も手入れがあまりよろしくない。
着ている服もこの場における最低限のランク。着こなしているのがせめてもの幸いだろうか。
「相変わらず、いつの間にかそこにいる奴だなぁ。どうやって潜り込んだんだ?」
「いえね、エスコート相手に困っていた妙齢のご令嬢が知り合いにいらっしゃいましてね?」
「なるほど、会場に入った後の婚活が目当てのお嬢さんと、お前の利害が一致したわけだ」
ということは、そのご令嬢の婚活相手には選ばれない身の上なのだ、このクラークという男は。
苦笑しながら男爵がグラスを差し出せば、クラークはありがたく受け取って。
「涙ぐましいブン屋に、ネタが舞い降りることを願って」
「いやいや、ここはお優しい男爵様のご健勝を祈って」
互いに好き勝手言いながらグラスを合わせれば、流石グラスも一級らしく澄んだ音が微かに響く。
口にすれば、実に上品な味わいで……クラークの舌には合わない。
いや、これが美味い酒だということはわかるのだが。
何しろあちらこちらを駆けずり回る新聞記者だ、お上品な酒になど、とんと縁が無い。
「俺みたいな貧乏人には、もっとパンチの効いた安酒の方がわかりやすくていいですな」
「おいおい、王家が振る舞う最高のワインになんて口を聞くんだ、不敬罪に問われるぞ?」
「そいつは困りますね、訴えられちゃ言い逃れが出来やしない」
真面目くさった口調で男爵が言えば、クラークも澄ました顔で応じ。
すぐに二人揃って破顔し、ぶはっと吹き出してしまう。
「ははっ、本当に相変わらずだな、お前は。よくそれで生き延びてるよ」
「ブン屋なんてのが媚び諂っちゃぁ、飯の種がなくなっちまいますからね。いつもヒヤヒヤしてますが、なんとかかんとか、ですよ」
クラークの軽口に、男爵もくくくと喉の奥で笑う。
彼も色々と思うところはあるのだが、口にはしない。
口にする前に目の前の男が口にし、時に記事にする。だから男爵はこうしてクラークと気安く話しているところもある。
「で、こうして潜り込んできたってことは、何かネタを掴んだのか?」
「いやぁ、掴んだってほどハッキリしたもんじゃないんですがね、ちょいとこう、ブン屋の勘ってもんが働きまして」
などとやり取りをしていると、まるでそれを聞いていたかのように会場がざわついた。
何事かと二人して見れば、会場正面にある大階段からこの国の王太子殿下が下りてくるところだった。
その隣に、見慣れぬ少女を侍らせながら。
「……おい、殿下がエスコートしてるのは、婚約者のエリザベス様じゃないよな?」
「どう見ても違いますな、あの方はあんなピンクの髪じゃなくて波打つような金の髪をしてらっしゃるはずですから」
「これは……お前の勘が大当たりじゃないか?」
男爵がそう口にした次の瞬間、大きな声が響き渡る。
「公爵令嬢エリザベス! 私は貴様との婚約を破棄し、聖女マリアを婚約者とする!
貴様がマリアにしでかした悪事の数々、最早許しがたい!」
突然の宣告に、会場がどよめきで埋め尽くされた。
騒々しい空気を裂くように、王太子がエリザベスを糾弾する声が響く。
声量豊かなよく通る声は、流石王族と言っていいだろう。
そんなところだけ王族らしくてどうする、とクラークなどは思ってしまうが。
対するエリザベスも公爵令嬢らしく、凜とした佇まいで逐一反論し、王太子殿下曰くの断罪を撥ね付けている。
互いに引かない言い合いに、周囲の貴族達はどちらが正しいのか、そしてどちらにつくべきかと判断に困っているようだ。
「ほうほう……こいつは事件の臭いがしやがるぜ……」
ぽつりとクラークが零せば、男爵が怪訝な顔になる。
「臭い? いや、これこそまさに大事件そのものじゃないか!」
国王主催の舞踏会で、王太子が公爵令嬢に婚約破棄を突きつけ断罪する。しかも隣に侍らせた聖女との婚約まで口にして。
これはもう国を揺るがす大スキャンダルと言っても過言では無いのだが。
「ええ、これはこれで大事件なんですがね、どうにもこれはそれだけじゃない。
何か臭ってしかたないんですよ、それこそブン屋の勘ってやつですが」
そう言いながら、クラークはニヤリと唇を歪めた。
結局、その後やってきた国王が割って入り、断罪劇は強制終了。
王太子達関係者は別室へと連れ去られ、残された貴族達は舞踏会を楽しむ空気でもなくなり、ざわついたまま一人、また一人と会場から姿を消した。
中でも、こうしちゃいられんとばかりに慌てて会場を後にした男が数人いたのだが、見覚えのある面々はクラークの同業らしき連中。
翌朝には彼らが徹夜で書き上げ印刷に回したであろう記事が新聞各誌の一面をセンセーショナルに飾った。
面白おかしく尾ひれがつけられたそれらの新聞は飛ぶように売れ、一社を除いて各新聞社は随分と懐があたたまったのだが。
「おいクラーク、ほんとにこれでよかったのか?」
その例外であるクラークが所属する新聞社、彼の上司である政治部の部長は実に渋い顔である。
「ええ、こいつはこれだけで終わる事件じゃないですよ。よくあるスキャンダル記事と同じにしてちゃ勿体ない、きちんと育ててやらないと」
「お前がそう言うなら、そうなのかも知れんな。ま、どの道こっちに舵を切っちまったんだ、うちはこれでいくしかないんだが」
そういう部長の手には『公爵令嬢と聖女、食い違う意見。真実はどちらに』と見出しに書かれた新聞。
クラークが書き上げ、彼が通した記事だった。
他社がエリザベスを悪女に仕立て上げ、王太子と聖女の熱愛を美談として盛り上げている中、落ち着いた論調は庶民受けせず、売れ行きは芳しくない。
だが、元々この記事を派手に売るつもりはなかったのだ、クラークは。
「ま、最悪の場合は俺の首を切ってください。それで収まるかはわかりませんがね」
「馬鹿野郎、そうならないような記事を書きやがれ!」
バン! と机を叩きながら叱咤する部長に、肩を竦めて怯えた振りを見せるクラーク。
言うまでもなく、振りであって本当に怯えているわけがない。
「へいへい、そんじゃま、取材に行ってきますわ~」
ひらり、片手を振って部長に背を向け、クラークは外へと向かったのだった。
それから数日後。
クラークは思わぬ人物と対面することになる。
「いやあ、まさか公爵閣下にお目にかかれるとは。長生きはするもんですなぁ」
「ふ、白々しい。こうなることを見越しての記事なんじゃないかね?」
そう言いながら、公爵はクラークを招き入れた応接室のテーブルに、彼の書いた記事が一面を飾っている新聞を放り出した。
それを見れば、クラークの唇の端が少しばかり上がる。
「とんでもございません、ほんのちょっとばかり、そうなるといいなくらいは思っておりましたが」
「その程度の計算で、こんな売れない記事をわざわざ書くような男にも見えんがね」
そう、ここまではある意味クラークの計算通り。
王太子と元平民である男爵令嬢との熱愛、などという庶民が喜びそうなネタに飛びついた新聞社ばかりの中で、クラークの新聞社だけが一歩引いた記事を書いていた。しかも、クラークの署名入りで。
それは複数の新聞を取って読み比べていると業界では有名な公爵の目に留まらないはずがなく、そこにクラークが名刺を出しながら取材の申し入れをすれば、どうなるか。
子煩悩で知られる公爵が娘であるエリザベス嬢の名誉回復を考えている可能性は高く、そのためにクラークを利用することは十分に考えられた。
結果、今こうしてクラークは公爵と直接会う機会を得ることができたわけである。
「で、だ。あの論調を見るに、君の新聞社はこちらの味方、ではないものの、まだ公正中立な立ち位置を取ろうとしているように見えたのだが、間違いないかね」
「おっしゃる通りです。我々は誰かの味方ではなく、『真実』の味方であるつもりですから」
「ならば、今回ばかりはこちらの味方と思って良さそうだ。今まで色々と耳に痛いことも言われて来たが、ね」
クラークの物言いを咎めるでなく、むしろどこか楽しげな公爵。
これは、どうやら。
そんな己の直感を、クラークは頭から追い出す。
思い込みは禁物、冷静で公正な目を。
脳裏で何度も繰り返しながらも顔には出さず、笑みを作る。
「そうであることを願っていますよ、何せ上から色々言われてますんでね」
「ふむ。逆に聞きたいのだがね、君は何故、王太子殿下と聖女の尻馬に乗らなかったのかね?」
新聞社全体も一枚岩ではない、おまけにどうやら上が指示を出したわけでもないらしい。
色々な意味で危ない橋を渡ろうとしているクラークに、どうやら公爵は興味を引かれたようだ。
公爵の向けてくる目つきの変化に気がつきながらも、クラークは表情を変えない。
「何、簡単なことです。あのお二人が色々と挙げていたいじめとやらが、あまりにチャチ過ぎたんですよ。
こう言っては何ですが、公爵令嬢ともあろうお方が本気になれば、あんなものじゃ済みません。
あれは、本気の貴族を知らない平民か下位貴族、もしくは温室育ちの頭からしか出てこない。
となるとまあ、どこまで本当か怪しいってもんです」
「くはっ、なるほどな、そう来たか!」
少しばかりおどけながらクラークが言えば、公爵は思わず吹き出してしまう。
確かに、公爵家が本気で攻撃しようと思えば、あんなものでは済まない。
むしろ、いじめられたと認識する前に聖女マリアはこの世から退場していたはずだ。
「つまり君は、うちのエリザベスを真の貴族と認めているわけだ」
「伝え聞くお噂通りでしたら。王妃としてふさわしい資質をお持ちの希有な方だと推察はいたします」
その返答に、公爵の片眉が上がる。
クラークを見る視線の圧が強まり、空気が少しばかり重くなったかのような感覚。
「なるほど? つまり推察はするが判断はしない、判断して欲しければ直接会わせろと言いたいのかな?」
背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、クラークは笑みを貼り付ける。
ここで引けば、彼の得たい情報は手に入らない。
どれだけ不躾でも、その結果公爵の不興を買うのだとしても。
彼に、引くという選択肢はなかった。
「話が早くて助かります。まずは当事者の話を聞かないと始まらないと考えておりましてね」
彼自身が怖さを語った貴族の最上位に居る公爵の視線を正面から受け止め、クラークは言い切る。
声は震えていなかった、表情も動いていないはず。
どこまで虚勢が通じたものか、公爵の表情からは伺えないが。
「……なるほど、君の言うこともわからんではない。私の同席が条件だ、構わんね?」
「もちろんです、閣下。寛大なご判断、誠にありがとうございます」
問いかけではなく確認の声に、被すことのないよう慌てず、迷ったように見えぬよう躊躇わず。
わずかでも、公爵の機嫌を損ねぬように。
絶妙のタイミングで返せば、公爵は圧を緩めることはないものの、鷹揚に頷いて返してきた。
どうやら、気に障ることなく返せたらしい。
「では、少しここで待っていたまえ」
「はい、お言葉に甘えまして」
「ああ、寛いでいたまえ。君、客人に茶を出してやってくれ」
「お心遣い、痛み入ります」
エリザベスを呼びにいくのだろう、席を立った公爵が近くにいたメイドに呼びかけ、指示を出す。
頭を下げるクラークの喉は、実際カラカラだ。
見透かされたようでもあり、しかし茶を出される程度には認めてもらえたようでもあり、どうにも心の置き所が難しい。
ただ、一つだけハッキリしているのは。
「……茶の味がしねぇわ、これ」
小さく小さく、聞こえないようにぼやく。
出来る限り上品に、と取り繕いながら口に含んだ紅茶は、恐らく最高級品のもの。
だというのに、全く味も香りも感じられない程に緊張してしまったということ。
「落ち着け俺、こういう時は深呼吸だ……」
応接室に一人放置されるわけもなく、警備の者らしい男が二人ほどいるが、その彼らに気付かれないようゆっくりと息を深く吸い、それ以上にゆっくりと、音がしないように気をつけながら吐き出す。
雰囲気からして恐らく職務に忠実であろう彼らが、ここでの様子を公爵に報告しないわけがない。
『あいつ実はブルってましたよ』などと報告でもされた日には、今までのやり取りが無駄である。
そんなささやかな意地を張っていると、足音と複数人がやってくる気配。
音がしないようカップをソーサーに置いてクラークが立ち上がれば、程なくして公爵が戻ってきた。
少し後ろについてきている少女が、件のエリザベスなのだろう。
緩やかに波打つ金髪は、王家に連なる高貴な血筋の証。
湖のように深く青い瞳には意志の強さが感じられ、なるほど、あの聖女様とはタイプがまるで違う、と一人勝手に納得してしまう。
一瞬だけエリザベスの顔を捉えたクラークはすぐに頭を下げた。
何しろ彼は平民だ、最高位貴族の令嬢相手に頭を下げずに居れば、首を刎ねられても文句が言えないところ。
もっとも、すぐに公爵から声がかかり、顔を上げることが出来たのだが。
「クラークくん、既に知っているかも知れんが、娘のエリザベスだ」
「公爵家が息女、エリザベスでございます」
平民向けだからだろうか、簡易な挨拶。だがそこに、侮ったような色はない。
直感が少しずつ補強されていくのを感じつつ、クラークは謝意を表すためにもう一度頭を下げて挨拶を返す。
「ご挨拶いただき光栄でございます、公爵令嬢エリザベス様。名乗ることをお許しください、私は新聞記者のクラークと申します」
頭を上げれば、気取った色もこちらに向ける侮蔑の色もない。
名乗りで、クラークが平民だとわかったにも関わらず。
本気で気にしていないのか、気にした様子を見せていないだけなのか。
前者であれば王太子達が声高に訴えたような人物ではなく、後者であれば実に貴族としての振るまいが身についているということになる。
いずれにせよ、平民出身の聖女にチャチないじめを仕掛けるような人間ではない、と考える材料が増えたと言って良いだろう。
公爵に促されソファーに座り直した後、クラークは手帳とペンを構えた。
「それでは公女様、心中穏やかならぬところでしょうに申し訳ありませんが、少々お話を伺えればと」
「はい、わたくしでお話出来ることであれば、なんなりと」
「ありがとうございます、それでは……」
そうしてクラークが質問を始めれば、エリザベスは落ち着いた声で答えていく。
なるほどと聞きながらも、気になるポイントがあれば質問を重ね。
そうやって幾度かやり取りを重ねていた時だった。
「……っ」
急にエリザベスが言葉を詰まらせ、口元を抑えた。
見れば、目尻には光るものがある。
「ど、どうしたんだエリザベス!」
隣に座っていた公爵が慌ててエリザベスの肩に手を添え、彼女の顔を覗き込む。
クラークが不躾な質問をしたわけでもなく、彼女も問題なく答えていたというのに。
しばらくくぐもった声で嗚咽を漏らしていたエリザベスだが、少しだけ落ち着いたのか、顔を俯かせたまま父の問いかけに答える。
「だ、大丈夫です。ただ……嬉しくて……」
「嬉しい……?」
「はい、あの時、わたくしの言葉に耳を貸す人は一人もいませんでした。
いえ、今だって家族や使用人などの身内以外は、誰も……。
けれど、クラークさんはこんなにも誠実に話を聞いてくれて……ただそれだけのことなのに、嬉しくて……」
婚約破棄騒動が起こったあの時、エリザベスは凜とした姿で王太子の難癖に立ち向かっていた。
だが、その場で彼女の味方をした人間は、一人もいなかった。そのことでエリザベスが揺らいだ様子はなかったが……まだ二十にもなっていない少女が孤立無援で衆人環視の中にいたのだ、どれだけ心細かったことか。
「あ~……あの時に関しちゃ、俺も人様のことは言えないんですが……」
「いえ、クラークさんは立場的に、物申すことはできなかったでしょう?
今こうして、正確なところを知ろうと取材なさっている、それだけでわたくしにとっては十分です」
そう言って、エリザベスが笑う。
涙目で健気に微笑む美少女、というのは中々心臓に悪い。
そして、それに絆されそうなことを公爵に気取られるのも心臓に悪いし、社会的にもよろしくない。
クラークに出来ることは、虚勢を張って大人の余裕を見せることだけだ。
「そう言っていただければ、こちらとしてもありがたいことです。
ご安心ください、こうしてお話いただいたことは、決して粗略には扱いませんから」
色々な意味で、新聞記者として誠実に対処せねばなるまい。
自身の矜持にかけて。社会的生命にかけて。
綺麗なだけでは生きていけない木っ端記者は、精一杯誠実な表情を作る。
「では、申し訳ないですが後少しだけ」
「はい、どうぞよろしくお願いいたします」
しっかりと頷いて返され、クラークは小さく頬を掻く。
この信頼を裏切るわけにはいかないな、と心の中で思いながら。
それからいくつかの質問を終えた後、クラークは公爵邸を辞した。
聞けた内容は濃密で、更にはいくつか公爵から便宜も図ってもらえそうだとなり、取材は大成功と言って良いだろう。
「くぁ~……仕事の後には、やっぱこれだよなぁ……」
一仕事終えたクラークは、大通りから少し入ったところにある飲み屋でグラスを傾けていた。
小さめのタンブラーグラスに入っているのは、緑色をした液体。
グラスを口元に近づけるだけでも鼻を刺す刺激的なアルコールの臭いからして、随分と度数が高いもののようだ。
カツン、と大きくはないものの音を立てながらグラスを置けば、カウンターの向こうにいる細身の青年が苦笑を浮かべる。
「やれやれ、今日もお疲れだね? それも、随分神経を使う相手だったみたいだ」
「お察しの通りだよマスター、まあ大した相手だったわ。……あ~……こういう時にはこいつが一番だなぁ」
少しばかり力の抜けた顔で、クラークは片手でグラスを上げながら応じた。
彼が手にするのは、お任せで出されたこの店特製の薬草酒。
マスター特製のそれはストレスに晒された胃と神経に良く効くため、クラークは仕事上がりに必ずと言って良い程この店で一杯引っかけるようにしている。
「ご贔屓いただけて嬉しいやら、君の身体が心配やら」
「売り上げになるからいいじゃないか」
「細く長く落としてもらう方がいいと思ってるものだからさ」
「なるほど、そいつはマスターが長生きなハーフエルフだから?」
「関係ないとは言わないけど、一応お得意様の心配をしてるだけのつもりなんだよね」
グラスを拭いて磨きながら、マスターは穏やかに笑った。
ハーフエルフである彼は薬草の取り扱いに長けているため、様々な薬効のある薬草酒を自分で作っている。
それでいて味も悪くないときて、クラークの様な人間が酒で癒やされるために寄ってくるというわけだ。
「そいつはどーも、おかげさんで何とかやってるよ」
「できれば頼らず健康的に生きて欲しいんだけどねぇ」
「ま、そいつは無理ってもんだ、わかってんだろ?」
そう言いながらクラークがトトンと指でカウンターを軽く叩けば、マスターは小さく溜息を吐く。
そして、折りたたんだ一枚の紙片をそっとクラークに差し出した。
「……なるほど、ねぇ。中々お盛んなことで?」
彼が目にした紙片には、王太子やその側近達、そして聖女マリアの、街中での行状が書いてあった。
貴族向けから庶民向けまで、様々な店で飲めや歌えやの大騒ぎは当たり前。
時には娼館を借り切って籠もっていたこともあったらしい。
いくら彼らがこの国で成人扱いとなる十八歳を越えているとはいえ、少々弾けすぎと言えるだろう。
「まあねぇ。おまけに出禁にしたくても物申せない相手ときて、どこの店も困ってるみたいだ」
「下手に口答えしたら無礼打ち、俺達庶民には訴え出る先もないからなぁ」
「そんな時のためのブン屋じゃないのかい?」
「買いかぶりだ、そこまでご大層なもんじゃねぇよ」
自嘲気味に唇を歪めたクラークは残った酒をくいっと煽り、カツン、と先程よりも少しばかり勢いを付けてカウンターテーブルに打ち付ける。
「ごちそうさん、また来るよ」
そう言うと、パチリと音を立てながら金貨一枚をカウンターに置いた。
場末の酒場なら一晩中飲んでもおつりがくるような金額を置いたのは、情報料込みということなのだろう。
「毎度あり。……気をつけなよ?」
「わかってるさ、何年こんなネタで食ってると思ってんだ?」
少しばかり本気の心配が滲む声に、クラークはヒラリと手を振って返し、店を後にしたのだった。
そして、翌日……ではなく二日後。
『公爵令嬢のある一日。聖女様の証言と食い違いが?』
という見出しがとある新聞の一面を飾った。
言うまでもなく、クラークの新聞社が発行したものである。
婚約破棄の翌日に熱愛報道、翌日にその続報と続けた他の新聞社は、すぐにネタもなくなった。
何しろ、ただ二人の仲睦まじい様子を伝えるしかないのだから。
他社のネタが尽きたタイミングで、聖女側への疑念を唱えるネタが投下。
きちんとした取材による論拠もあって説得力のあるこの記事には、中流以上の人間はもちろん、庶民もある程度の数が食いついた。
おかげでクラークの新聞社が発行する新聞は売れに売れ、在庫の問い合わせが殺到する程。
これには政治部の部長もにっこりである。……表向きは。
「いや~、売れたなぁ、クラーク」
「そうですなぁ、まだネタも残ってるっていうのに」
クラークが記事にしたのは、公爵から許可をもらって閲覧した、王城の入退出記録。
聖女がいじめられたと訴えたその日、エリザベスがほとんど一日中王宮で王妃教育を受けていたことが読み取れるものだった。
二の矢として、明日には王宮で働く使用人の証言、公爵邸使用人の証言が掲載される手筈も整っている。
ちなみに、マスターが教えてくれたゴシップ系記事は最後の切り札的存在なので簡単には投入しない。
そうやってお膳立てした上で、明後日にはエリザベス本人に取材した内容が載る予定だ。
「……だから、もう無理に取材することはないんだぞ?」
真剣なトーンで言う部長。
しかし、クラークは肩を竦めて苦笑を見せる。
「一方の記事だけを載せるわけにはいかんでしょう。やっと向こうも取材に応じる気になったってんだから」
「しかしだな……」
懸念を滲ませながら、部長は視線を手元に落とす。
そこには、聖女が養子となった男爵家からの、取材に応じる旨の手紙が握られていた。
「ようこそおいでくださいました、クラークさん」
午後から男爵邸に行くと、和やかな笑顔の聖女マリアが出迎えてくれた。
ピンクブロンドの髪を左右のこめかみ辺りで一つずつくくった髪型といい顔立ちといい、何よりその表情といい、十八歳を迎えたにしては何とも幼い。
掛け値無しの美少女ではあるのだが、この顔で娼館を貸し切った遊びまで嗜んでいるというのだから何とも末恐ろしい。
もっとも、そんな考えはおくびにも出さないが。
「いえいえ、こちらこそお時間をいただいてありがとうございます、聖女マリア様」
にこやかな笑顔を見せながら、クラークは警戒を怠らないでいる。
男爵邸に入った時から感じる違和感。向けられる使用人達からの視線。
油断したら明日の太陽が拝めない、そんな予感がひしひしとしている中、それでも表情に出さないでいるのは踏んできた修羅場のおかげか。
「まずはお茶でもどうぞ?」
「ええ、ありがたくいただきます」
勧めに応じてカップを手にし、傾ける。
……飲んでいるような角度に傾け、熱さをものともせずに舌で押しとどめながら。
少しばかりは口に入ったが、余程強力な薬でなければ問題ないはず。
口元から離す瞬間にソーサーを持つ左手とカップを交差させ、紅茶を手品の要領で手首に仕込んだ筒の中に流し込む。
これで、飲んだと思わせるだけの量を減らすことは出来たはず。
そっと音を立てないようにカップをソーサーに置けば、何故か一瞬だけ聖女の表情に苛立ちのようなものが走った。
……言及されないから、手品がばれたわけではないようだが。
「随分とお行儀がいいんですね?」
「いやお恥ずかしい。貴族の方にお話を伺えるとあって、慌ててマナーを仕込んでもらいまして」
クラークが答えれば、聖女の頬がひくりと動いた。
どうやら、自分のマナーがなっていないことにコンプレックスでもあるらしい。
これはこれで、どこかのタイミングで突っ込んでもいいだろうかと計算しながら、クラークは改めて聖女マリアへと向き直る。
「それでは、早速お話を伺えればと思うのですが」
「ええ。……『私の話を聞いてください』」
マリアがそう言った瞬間、彼女の瞳が妖しく光ったような気がした。
「……っぶはぁ!?」」
喉に詰まっていたものを飛ばしたかのように、勢いよくクラークは息を吐き出した。
はぁ、はぁ、と息を切らせること二度ばかり。
慌てて周囲を見回し、天井を見て、それからカウンターの奥にいる青年へと目を向ける。
「……ここ、いつもの店、か?」
「うん、毎度どうも。……やれやれ、ポーションが効いてくれてよかったよ」
「うわ、まじか。……あ~……やってくれたぜ、チクショウ」
マスターの表情をまじまじと見たクラークは、悪態を吐きながらカウンター側のスツールに腰を落とした。
そのまま背後へと身体を傾けそうになり、背もたれがないことを思い出して慌てて身体を戻し、カウンターに突っ伏す。
「何がどーなってんだい、これは」
「それは僕の方が聞きたいくらいなんだけどね? やってきたかと思えば、何やらどうにも頭のおかしいこと言い出すし」
そう言いながらマスターが説明したのは、嘘だと言って欲しいような内容。
どこか覚束ない足取りでやってきたクラークは、おもむろに聖女マリアが如何に素晴らしいかを語り出したのだという。
「だから今夜は『解呪』のマジックポーションを混ぜたのを飲んでもらったんだけど」
「大正解だマスター、おかげで助かった……恩に着るぜ」
いつもの習性が身に染みついていて、結果、ここにやってきた。
おかげで、妖しい魔法を掛けられたのを解除することが出来た、らしい。
もう一度大きく息を吐き出すと、クラークはいつも身に付けている手帳を開いた。
そこに書かれているのは、目を覆いたくなる程に稚拙な問答の内容。
こんなものを記事として上げた日には、政治部記者クラークの信用は地に落ちたことだろう。
「あれか、操り人形にする魔法でも掛けられたのか?」
「多分あれは、『魅了』の効果だねぇ」
「どっちにしても禁忌魔法じゃねぇか……」
当たり前だが、この国において人の精神に影響を与える魔法は禁呪とされている。
それを、よりにもよって教会が認めた聖女が、一介の……自分に都合の良くない記事を書いた記者へとかけてきたというのだから、これを公表するだけでも大騒動になるのは間違いない。
そう、あくまでも大騒動になる、だけだ。
「聖女様の首を取るにはちょいと足りないか」
「物騒なことをこんなとこで言うの、やめてもらっていい?」
このまま書いたところで、証拠も何もないと言われればそれまでのこと。
むしろ王太子がバックにいる相手だ、こちらが断頭台に送られかねない。
「くっそ、厄介なことになりやがって。こちとらペンより重いもんなんざ持ったこともねぇんだぞ」
「おや、それは意外。女を抱いたことはあると思ってたんだけど」
「何言ってんだ、ベッドの中の女なんて天使の羽より軽いだろ?」
「……そんな台詞は、一夜を過ごした相手に言ってやりなよ……」
呆れたように言いながら、マスターはグラスを手に取り磨き出す。
どうやらいつもの調子が戻って来たようだと、内心でほっとしながら。
「で、これからどうするのさ?」
「俺一人でどうにかなるもんでもないわなぁ。丁度動きたくて大義名分が欲しくてしかたないお方もいらっしゃることだし」
「おや、長いものに巻かれに行くのかい?」
「いんや、こっちが巻き込みにいくのさ」
ニヤリと唇を歪ませたクラークは、勢いよくスツールから立ち上がる。
「あ、金貨十枚ね」
「高いなおい!?」
容赦のない請求に、思わずツッコミを入れる。
だが、考えて見れば禁忌魔法を解呪出来るようなポーションを使ってもらったのだ、月給の半分近いのも相応の値段、むしろ安いくらいかも知れない。
だがそれはそれとして、現実は非情である。
「……すまねぇ、ツケでいいか?」
「仕方ないね、事が事だし。月末までによろしく」
「悪いな、月末までには必ず。……生きてたらな」
そう言い放ち、クラークは店を後にした。
「……死ぬんじゃないよ」
背中に、マスターのそんな呟きを受けながら。
そして翌日。
王宮や公爵家の使用人達が証言した内容が王都を騒がせている頃。
「よく知らせてくれたな、クラークくん」
「いえいえ、こちらとしては情けない限りなんですが」
「とんでもない、むしろよくぞご無事でした……」
クラークが公爵の元を訪ねて事の次第を話せば、公爵も同席したエリザベスも口を揃えてクラークを労う。
もちろん公爵としても寝耳に水だが、同時に彼としては愛娘の仇を追い詰める思ってもいない材料が手に入った好機とも言える。
「しかし……諸々の手筈を整えるのには一日、できれば二日は欲しいな……」
「そのくらいなら、こちらの方で稼ぎましょう。明日の記事は仕込んでありますし、後は俺が懲りずに嗅ぎ回っていれば、もう一日くらいこっちに目を引きつけることも出来るでしょう」
「何をおっしゃっているのですか!?」
何でも無いことのようにクラークが言えば、エリザベスが悲鳴のような声を上げた。
いや、彼女にとってはまさに悲鳴だっただろう。クラークは、自分が囮になると言っているのだから。
だが、当の本人は涼しい顔だ。
「いやね、こう見えても色々と危ない橋を渡って今日まで何とか生き延びてきてんです、一日くらいしぶとく逃げ回るくらい大したこっちゃないんですよ」
「そんな、危ない橋って、わかってらっしゃるのですよね!?」
相手は聖女、そしてその後ろにいる王太子。
そんな二人とその取り巻き達を失脚させるようなネタを嗅ぎ回っているのだ、命に危険があるのは想像するに難くない。
だというのに、目の前にいる男は、それも、騎士などに比べればずっと細い痩せぎすの男は、不敵に笑っている。
「困ったことにね、往々にして危ない橋の向こうに欲しいものってなぁあるもんなんですよ」
「どうして……そこまでして、命を賭けてでも欲しいものなんですか!? あなたにとって、『真実』とは!」
「ええ、どうしても。申し訳ありませんが、こればっかりは譲れないんです。
騎士や貴族の方が、名誉や誇りに命を賭けてもおかしいとは思わないでしょう?
俺にとっちゃ、『真実』がそれなんですよ」
今にも泣き出しそうなエリザベスを真っ正面から見据えて、クラークは頷く。
「そしてあのお二人は、よりにもよって『真実の愛』だとか言いやがった。自分達の不貞を棚に上げ、無実の公女様に冤罪を着せてまで。
冗談じゃない、『真実』って言葉はそんな軽いもんじゃない。
俺はね、ずっとムカついてんですよ、あのお二人に。自分達の感情に任せた不貞の関係を、『真実の愛』だとか言って取り繕おうっていう根性が気に入らない」
初めて見せる、クラークの怒り。
それは、彼の誇りとも言える『真実』を汚された怒りで。
チクリ、エリザベスの胸が痛む。
そして。
「後、まあ。てめぇの誇りを守りながら、いわれのない罪に問われるお姫様を救えるってんだ、乗らなきゃ男じゃないってもんです」
不意にそんなことを言われ、別の意味で胸が痛い。
どくんどくんと心臓が聞いたことのない音を立て、弾けてしまいそうな程に血が巡る。
この人は今、何を言った? どういうつもりで?
混乱するエリザベスの思考を断ち切るかのように、『コホン』と公爵が咳払いを一つ。
「君の覚悟はわかった。ならば私も、公爵家の誇りに賭けて君の覚悟を無駄にしないと誓おう」
「そいつは何とも心強い。お願いしますよ、公爵閣下」
公爵が右手を差し出せば、クラークもしっかりと握り返す。
二人の男が手を結んだその光景を、エリザベスは熱く潤んだ目で見ていた。
そして翌日。
差し替えられることもなく、予定通りにエリザベスを取材した記事が一面を飾って。
「これはどういうことなの!?」
と聖女マリアが金切り声を上げている頃。
クラークは、王太子達や聖女が連れ立って遊び歩いていた後を追跡するように取材して回っていた。
最初は、貴族向けのお綺麗な界隈。
それが終われば、気取らずそれなりの味を楽しめる中流階級の店。
そして今、刺激が欲しくなったらしいアホボンどもが足を踏み入れていた裏通り。
「いくら何でも、俺一人にこれは力入れすぎじゃないかねぇ?」
クラークの目の前には、屈強な男共が五人ばかり道を塞いでいた。
連中の目には明確に攻撃的な意志が浮かんでおり、その視線はクラーク一人に集中している。
後ろを振り返っても、もちろん他に誰もいない。
「……やっぱり、人違いってことはない、よなぁ?」
「ああ。こそこそ嗅ぎ回っているネズミを始末しろとの仰せだ」
「仰せ、ねぇ。こんなドブネズミ一匹に一体どこのどなたが?」
「お前が知る必要はないし、意味もない。どうせすぐあの世だ」
問いかけに、リーダーらしき男がそう返した瞬間。
クラークは身を翻して逃げ出した。
「逃がすな、追え!」
指示が飛べば、すぐに男達が追いすがる。
でかいガタイの連中だが、どうやら荒事には慣れているらしく足が速い。
足で情報を集めるのが仕事なクラークだが、持久力はともかく瞬発力ではどうにも劣る。
地の利を活かそうにも、連中もどうやら地元民。
何とか器用に逃げ回るも、ついに袋小路へと追い詰められた。
「ネズミらしくいい逃げっぷりだったが、どうやらここまでのようだなぁ」
「はっ、知らねぇのか、追い詰められたネズミは、怖ぇんだぜ?」
などと強がって見せるも、息は上がり足は疲れ切って震えている。
一対一ならまだしも、この人数相手にどうにかなるとも思えない。
クラーク一人ならば。
「『パラライズ』」
不意に穏やかな声が響いたと思えば、男達は急に身体の自由を失い、倒れ臥した。
「んなっ、こっ、何っ、がっ!?」
身体が痺れていながらも、リーダーの男は何とか言葉を発する。
手下連中はそれすら出来ず昏倒しているのだから、それに比べれば大したものではある。
「ご覧の通り、ちょっとした魔法さ。聖女様のそれに比べれば随分と貧相だろうけどね」
そう言いながら姿を現したのは、マスター。
この裏路地は、丁度クラーク行きつけの裏手だったのだ。
もちろん偶然ではなく、狙ってここに逃げ込んできたのだが。
「ふ~……助かったぜ、マスター。流石に俺一人じゃどうにもこうにも……」
「そう、それはよかった。じゃあ、助っ人料は金貨十枚ね」
「勘弁してくれよ……くっそ、預金崩さねぇと」
ぼやきながらも、クラークは唇の端に笑みを乗せた。
その後二人して男達を縛り上げ、公爵に連絡。
公爵の息が掛かった衛兵達が連行し、尋問を担当した。
そして。
「王家の抗議? 知るか、俺が責任を取る、刷れ、刷っちまえ!」
と、部長が啖呵を切って印刷された、その尋問内容とクラークの取材を踏まえた記事が王都中にばら撒かれた新聞の一面を飾り。
『聖女がその力を悪用!? 本紙記者を襲った悪夢と、その顛末』という見出しに庶民は群がり、購入していった。
王家が情報の伝播を抑えようとするも時既に遅く、むしろ抑え付けてしまえば記事の信憑性を増してしまう情勢となって、王家は情報の統制を断念。
更に、その世論とクラークが集めた情報を元に公爵は王太子と聖女の暴挙を訴追、反論材料をことごとく喪失した王家は全面的に公爵の言い分を受け入れ、王太子の廃嫡と蟄居、聖女を躾と環境の厳しい辺境の修道院へ追放することを決定した。
「何故だ、何故王太子である私がこんな扱いを!」
「おかしいわ、私は聖女なの、ヒロインなのよ!? どうして私が断罪されないといけないの!?」
そんな悲鳴を上げながら、それぞれに運ばれていったらしい。
彼らは知らなかったが、聖女が王太子にここまで近づけたのは、その養父である男爵を手先として使っていたとある侯爵の企みによるものであり、それも後に公爵とクラークによって暴かれた。
その陰謀の中に組み込まれていた側近達も無罪放免とはいかず、全員が廃嫡の後平民落ちとなり、その後、消息不明となった。
一通りの処断が終わってから王家がエリザベスに再び別の王子との縁談を打診するも、公爵はこれを固辞。
公爵家を取り込むどころか見捨てられた王家は、今やかなり危うい状況だという。
「ま、俺にとっちゃどうでもいいことなんですがね。きちんと知られるべき『真実』が明らかになったんで」
などと、今回の事件における最大の功労者は嘯いていた。
事件に関係するあれやこれやがようやっと落ち着き、改めて礼がしたいと公爵に招待されたのが数日前。
予定を付けて訪れたクラークを待っていたのは、下にも置かない歓迎ぶりだった。
彼好みの蒸留酒、その中でも特級品が用意され、食事はそれに合うパンチの効いたものばかり。
意外なことに、公爵もそういった酒と食事を楽しんでいる様子。
「私も若い頃は、下町でちょくちょく遊んだものだよ」
「なるほど、それなら今度飲みに行きますか、良い店があるんです」
と社交辞令を交わし。
「クラークくん、本当にありがとう。君のおかげで、エリザベスの名誉は守られた。一人の親として、こんなに嬉しいことはない」
と本気の言葉で言われ。
クラークは、酔いを覚まそうとベランダに出て、夜風に当たりながらしみじみと達成感を味わっていた。
「……クラークさん?」
そこに、たおやかな声がかかる。
振り返れば、身体のラインが出るようにぴったりとフィットしたパープルホワイトのドレスに身を包んだエリザベスが居た。
シンプルだからこそ彼女自身の美しさが強調され、さらに剥き出しの肩や大きく開かれた胸元が少女から大人へと変わりつつある女性の色香を醸しだしている。
まずい。
と、クラークは頭を一つ振り、思考を支配しそうになっていた酔いを振り払う。
「これはこれはエリザベス様、このようなところにどういったご用で?
夜風は冷えます、あまり当たらない方がいいですよ」
と当たり障りのないことを言いながら、遠回しに室内へ戻るよう誘導するのだが……エリザベスは動かない。
じっと、何かを訴えるようにクラークを見つめている。
その視線が真っ直ぐすぎて、ふいっとクラークは目を逸らした。
「クラークさん、この度は本当にありがとうございます。
おかげで、わたくしは無事婚約を解消し、名誉も守ることが出来ました。これは、全てクラークさんのおかげです」
「今更そんな改まらんでください、俺がしたことなんて大したこっちゃないですよ」
実際、今回の騒動において大きな力を発揮したのは、公爵家の力だった。
結果としては、そうではあった。
「そんなことはございません! クラークさんが声を上げてくれたから、公爵家としても切り込む突破口が見えました。
あなたがいなければ、私は、私は……今こうしていることが出来たかどうかすら……」
取り調べが進むにつれ、王太子達がエリザベスとの婚約破棄後に彼女を国外追放、その道中で消すことも考えていたことが発覚。
あまりの残酷さに、王太子の処刑すら持ち上がった程だ。
結果として、表立っての処刑はなくなったが……遠からず、蟄居した彼が病死することにはなるだろう。
聖女も、果たしていつまで修道院でお勤めが出来ることか。
それらは全て彼らの行いが招いたことだ、エリザベスにどうも出来ないし、するつもりもない。
ただ、クラークがいなければ立場が逆転していたことは、間違いなく。
「わたくしは、どうやってあなたに恩返しをすればいいのか……」
「なぁに、公爵閣下からは十分に色々と融通をしていただいてますし、何より王家相手に明かすべき『真実』を貫き通せたんだ、俺にとっちゃこれ以上のことはありません」
ヘラリと笑うクラークに、エリザベスの胸はもやもやとしてしまう。
そういうことでは、ない。
いや、平民である彼からすれば、こういった答えになるのは当然のこと。
ならば。
「クラークさん」
「はい? っと、うぉ!?」
いつもシニカルで余裕のあったクラークが、本気で驚いた声を上げた。
いきなり、その胸目がけてエリザベスが飛び込んできたのだ、それも無理からぬこと。
思わぬ事態に年甲斐も無く動揺するクラークを、エリザベスが潤んだ瞳で見上げる。
「……わたくしは、この騒動で傷物となりました。それでも政略の相手として望まれることはあるでしょうが、まともな縁談など望むべくも……いいえ、違います。
そんなことはどうでもいいのです、わたくしは、わたくしは……」
思いの丈を口にしようと、唇を震わせるエリザベス。
その唇を、クラークはそっと人差し指で塞いだ。
「だめですよ、エリザベス様。あなたと俺は違う世界の住人。今回たまたま交わっただけで、明日にはまたお互い居るべき場所に戻るんです。
一時の感情に惑わされちゃいけません」
そう言いながら、クラークはエリザベスの肩に手を添え、そっと彼女の身体を離した。
……その手がわずかに震えていたのは、気のせいだろうか。
確かめようにも、その手はすぐに離れてしまって、僅かなぬくもりが残るばかり。
「ごきげんよう、公女様。どうかあなたのこれからに、多くの幸いがありますことを」
そういって頭を下げた彼の仕草は、妙に板に付いていた。
それはつまり、彼が今まで、どれだけ別れを経験してきたかということでもあって。
その別れの一つに、エリザベスが入れられたということでもあった。
こうして、一つの事件は、最後にほろ苦さを残して終わった。
はずだった。
「今日から政治部に配属となりました、リズと申します。よろしくお願いいたします!」
ぽかんと口を開けて呆気に取られているクラークの目の前で、一人の少女……いや、大人の階段を上り始めている女性がにこやかな笑顔で挨拶をしている。
緩やかに波打つ金髪は肩の辺りで切り揃えられ、いかにも職業婦人といった活発な印象を与える。
着ているのも、活動的なパンツスーツ。最近働く女性の間で動きやすいと評判になっている格好だ。
だから、女性がしていてもおかしくない。
おかしくはない、のだが。
「な、なんであなたがここに!? ちょっ、部長、どういうことですか!?」
彼女の正体を知るクラークにとっては大事件だった。
言うまでもなく、目の前でリズと名乗る彼女は公爵令嬢エリザベスその人。
その彼女が、貴族女性の嗜みとして伸ばしていた髪を切り、職業婦人の格好をして新聞社の編集部に居る。
一体何事か、彼女を知るクラークだからこそ、混乱してしまうのも仕方が無い。
あるいは、どういうことか理解してしまったからこそ、かも知れないが。
「いやぁ、聞いての通りだよ? 何しろ入社試験の小論文、過去に例を見ないほど優秀なものでねぇ」
どこか狸を思わせる愛嬌のある顔で部長が笑う。
何しろ王妃教育で政治経済に関するあれこれを叩き込まれ、政治の現場も見てきた彼女だ、それはもう生々しくも現実を踏まえた小論文だって書けることだろう。
おまけに公爵家とのパイプもあり、政治関係の取材に大きな力を発揮するとなれば、政治部として喉から手が出るほどの人材に違いない。
「いやしかし、ほら、彼女の身分とか!」
「あ、わたくし、お父様がお持ちだった爵位の一つを受け継いで女男爵となりましたので、市井で働くのも問題はございません」
「なんですと!?」
「おまけに、今回のあれこれの慰謝料代わりとして陛下から、きちんと調べた上での記事であれば、どんな内容でも書いて構わないとのお許しをいただきまして」
「はぁ!?」
「いやぁ、そんな希有な人材、取らないわけにはいかないだろう?」
うんうんと楽しげに部長が頷いているが、果たしてどこまで彼はわかっているのだろう。
……いや、エリザベスのことだ、部長やその上まで色々と根回ししているに違いない。
そして、論理的にエリザベスがこの新聞社に就職することを拒否することなど出来ないし、そもそもクラークにそんな権限はない。
つまり、彼女がこの部署に配属されることを、クラークは受け入れるしかない。
「ということでクラーク、知り合いなんだし、彼女はお前に付けるから色々教えてやってくれ」
「はぁ!?」
本日二度目の、悲鳴のような声。
間違いない、この部長、完全にエリザベスに丸め込まれている、とクラークは確信した。
ということは、会社内に逃げ場はない。
「それではよろしくお願いいたします、クラーク先輩」
当然、首謀者であるエリザベスはそのことを知っていたらしく、満面の笑みで挨拶をしてきた。
何故彼女がここまでしてきたのか、わかっているけれど、クラークは受け入れきれない。
「い、いや、俺なんかよりももっと良い先輩が」
「わたくしは、クラーク先輩のお仕事に感化されてこちらに就職させていただいたのです。クラーク先輩のお仕事を、一番に学びたいのです」
まっすぐに言われて、ぐらりと心が揺らぐ。
それを、エリザベスは好機とみたらしい。
「……ちなみに、男爵ですと平民の方とも問題なく結婚出来るって、ご存じでした?」
顔を寄せて、囁くように。
そして、もちろんクラークは知っていた。
だから。
「しゅっ、取材に行ってきます!」
そう叫んで、彼は逃げ出した。
「あ、先輩、待ってください!」
その後を、元令嬢とは思えぬ程の速さでエリザベスが追いかけていく。
「こりゃまた、随分賑やかなことになりそうだなぁ。ま、うちにとっちゃ良いことずくめだろうが」
二人のドタバタを、部長は楽しげに見送った。
その後、この新聞社は特に豊富な知識に裏付けされた政治関連における鋭い記事で有名になる。
そして、その記事には多くの場合、リズ&クラークという署名がなされていたのだとか。
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