乙女ゲームの主人公に転生したので、悪役令嬢の父親を攻略しました
乙女ゲームの主人公「リヴ・ローゼス」に転生した私は、悪役令嬢「シルヴィア・マクシミリア」に敗北した。
いや、敗北したと言っても、私は何も被害を受けていない。シルヴィアの言うとおりに、幼馴染であり攻略対象でもある「ショーン・ウェルネス」から少し距離を置いただけだ。
私が転生した乙女ゲームは、無難にストーリーを進めてさえいれば、まず間違いなくショーンを攻略するルートに入る。
ここが乙女ゲームの世界で、そして私が主人公だからか、ショーンと関わる機会がやたらと多かった。
ショーンは好きなキャラだけど、それは恋愛的な意味ではない。家族や友人のような、近しい存在として彼が好きだ。この世界に転生してからも、その気持ちは変わらなかった。
私のタイプは、渋カッコいい年上なのだ。
だから私は、シルヴィアの恋を応援することにした。
シルヴィアは悪役令嬢だ。ルートに入ったキャラに恋をし、主人公と対決するのが、本来の彼女の役割だ。だけど私は、なんだかんだで愛嬌のあるシルヴィアが嫌いではなかった。
ショーンも満更ではないようだし、邪魔をする理由がない。
この世界は、乙女ゲームではない。攻略対象以外とも、恋愛はできる。それならもう少しだけ、運命の出会いを待ちたい。
結論から言えば、その選択は正しかった。そのおかげで私は、運命の人に出会えたのだから。
†
シルヴィアは軽やかな足取りで、父の「エルゼフ・マクシミリア」の部屋に向かう。
エルゼフの婚約者が来ているので、挨拶をしに行くのだ。
その婚約者とは、今日初めて顔を合わせる。だけど、心配はしていない。だって、尊敬する父親であるエルゼフが選んだ女性なのだ。それだけで信用できる。
エルゼフの前の妻── そう、シルヴィアの母は、シルヴィアを産んで間もなく、事故で亡くなった。シルヴィアは母の顔さえも覚えていない。
母が死んで、いくら年月が過ぎようと、エルゼフは再婚しようとしなかった。その事実こそ、エルゼフがまだ母を愛していることを証明している。
それを嬉しく思う反面、エルゼフには新しい妻を迎えてほしい気持ちもあった。
ショーンと婚約を結んだ以上、シルヴィアはウェルネス家に行かなくてはならない。ここに一人取り残された父は、どれだけ寂しい想いをするのだろうか。
だからこそシルヴィアは、この婚約に賛成した。愛する人と共にする生活は、寂しさとは正反対の、幸せなものに違いないから。
エルゼフの部屋の前に着き、ドアをノックする。いよいよ訪れる婚約者との対面の瞬間に、胸が高鳴る。
「お父様。私です、シルヴィアです」
「入りなさい」
「失礼します」
ドアを開けると、ソファーに座るエルゼフが、優しく微笑んでくれた。
「よく来たね、シルヴィア」
そして、エルゼフの隣には、婚約者の女性が座っていて──
「は???」
その瞬間、思考がフリーズした。
だって、いるはずのない人物が、そこにいるのだ。
リヴ・ローゼス。幼馴染という理由だけで、ショーンと気安く接していたお邪魔虫だ。
ショーンとは距離を置くように、リヴに忠告した。そしてリヴは、その忠告に従った。
こうして顔を見るまで、彼女の存在をすっかり忘れていた。名前を聞いたって、思い出せないくらい。いや、あるいは無意識のうちに、思い出さないようにしていたのか。
手足が震える。全身の血の気が引く。実はシルヴィアは、エルゼフの婚約者の名前を事前に聞いていた。その名前が、この女と全く同じような──
「お、おとととと、お父様? 屋敷に不審者が侵入しておりましてよ?」
ふざけた思考を振り払う。だって、そんなことが現実に起きるはずがないのだ。
今すぐ衛兵を呼んで、リヴを屋敷から摘み出さなくては。
「何を言っているんだ、シルヴィア。これからお前のお母さんになる人に、失礼なことを言ってはいけないよ」
「!?!?!?!?」
それはまさに、シルヴィアの脳を破壊し尽くすような言葉であり、シルヴィアの精神を根本からぶち折るような事実であった。
「紹介するよ。彼女が僕の婚約者、リヴ・ローゼスさんだ」
「はじめまして、シルヴィアさん。お会いできるのを、楽しみにしていました」
その言葉に、シルヴィアは身震いした。
はじめましてと言っているが、忘れられているはずがない。あの女は、恨んでさえいるはずなのだ。
「ゆ、夢…… そうです、これは悪い夢ですわ!」
追い払ったお邪魔虫が、母親になって戻ってくる。そうだ、まるで夢のような内容ではないか。
だからシルヴィアは、思いっきり腕をつねった。ベッドの上で目を覚ますために。
「痛っっっっっっったいですわ!!???」
「!?」
あまりの痛さに、思わず飛び上がってしまう。
シルヴィアの突然の凶行に、エルゼフは本気で困惑する。
それとは対照的に、リヴはただ静かに、痛がるシルヴィアを眺める。
「ちょっ、本当にどうしたんだいシルヴィア……?」
「夢じゃ、ないのですね……」
腕に残る痛みが、目の前の光景が夢ではなく、現実であることを突きつける。
リヴが初対面のフリをしているので、エルゼフはまだ何も知らされていないのだろう。
リヴの目的は何なのか、そんなの考えるまでもない。自分への復讐だ。
だとすれば、だとすればだ。この婚約は、認めるわけにはいかない。父との婚約を復讐に利用するなど、決して許してはならない卑劣な行いだ。
「お父様! その女は何か企んでいますわ! 今すぐこの婚約を取り消してくださいまし!」
「いい加減にしないか、シルヴィア!!」
「ぴぃっ!?」
エルゼフは勢いよくソファーから立ち上がり、シルヴィアを叱る。
エルゼフの目には、シルヴィアが初対面のリヴに対し、理不尽な暴言を吐いているようにしか映らなかった。
シルヴィアは小動物のように肩を竦める。
死んだ妻の分まで、我が子を愛したいという理由でエルゼフにちやほやされて育ったシルヴィアは、このとき初めてエルゼフに叱られた。
「なあ、本当にどうしたんだ、シルヴィア? これまで僕たちの婚約を、賛成してくれたじゃないか」
エルゼフは悲しそうに、シルヴィアに問いかけた。
シルヴィアは俯き、両手を固く握る。まるで敗北の悔しさを、必死に耐え忍ぶかのように。
「……み」
シルヴィアが顔を上げると、その両目には涙が浮かんでいた。
「認めませんわ、こんな婚約!!」
「あっ、こら! 待ちなさい!」
シルヴィアは逃げるように、部屋から出てしまった。
エルゼフはシルヴィアを追いかけようとしたが、リヴを部屋に残すわけにもいかない。困ったように髪を掻き、隣に座るリヴに気まずそうな視線を向ける。
「すまない、リヴさん。シルヴィアが失礼なことを言ってしまって……」
「気にしていませんよ、エルゼフさん。自分と同い年の女性が、突然母になるんです。シルヴィアさんに反発されるのも、仕方ありません」
エルゼフはおもむろにソファーに座った。
シルヴィアなら、リヴと会っても変わらずに婚約を受け入れてくれると思っていた。
しかし結果は、この有様である。
それでも、リヴが傷ついたり、シルヴィアを嫌ったりしていないのは幸いだろう。
「……ありがとう。そう言ってくれると、心が軽くなるよ。シルヴィアのことは心配しないでくれ。僕があの子とちゃんと話して、君との婚約を認めてもらうから」
最愛の娘には、いずれする結婚を祝福してほしい。
しかし、シルヴィアのあの様子だと、それも一筋縄ではいかなさそうだ。
そもそもの話、何故シルヴィアはリヴの顔を見た途端、婚約を反対し始めたのか。全くもって見当がつかない。
まずはそこを知らなければいけないのだが、今のシルヴィアを相手に、上手く聞き出せるだろうか。
どうすればいいのか思い悩むエルゼフの手を、リヴはそっと握る。
「……お願いがあります。私から先に、シルヴィアさんと話してもいいですか?」
†
自分の部屋に逃げたシルヴィアは、ドアに鍵をかけ、倒れるようにベッドに横になった。
もう限界だった。困惑も、悔しさも、怒りも、今だけは何もかも忘れ、眠りにつこうとするシルヴィアだが、突如響いたドアのノックがそれを邪魔する。
シルヴィアは視線だけを、ドアの方に向ける。おそらく、来たのはエルゼフだろう。
だとしたら、無下に追い返すわけにはいかない。ベッドから体を起こす。
「シルヴィアさん」
「!」
ドアの外から、名前を呼ばれる。
エルゼフの声ではない。
だが、この声には聞き覚えがある。いや、聞き覚えどころか、鼓膜に焼き付いている。
間違えるはずがない。この声の正体は──
「私です、リヴです。少し話しませんか?」
やはり声の正体は、リヴ・ローゼスだった。
怒りが込み上げる。ふざけるな。話をしに来たのは建前で、本当はこの無様な姿を見て、笑いに来たのだろう。蔑みに来たのだろう。
しかしシルヴィアは、固く口を閉ざした。
怒っても、強がっても、反応を見せた時点で、リヴを喜ばせてしまうかもしれない。
これ以上思い通りになってたまるかという、せめてもの抵抗であった。
「……ドアを開けてくれるまで、待っていますから」
それを最後に、リヴの声は聞こえなくなった。
シルヴィアは再び、ベッドに倒れ込んだ。
もういい、このまま眠ってしまおう。目が覚めた頃には、リヴは部屋の前から立ち去っているはずだ。
枕に顔を埋め、そのまま数時間が過ぎた。
どうにもならないことを、つい延々と考えてしまい、結局眠りにつけなかった。リヴの企みを突き止め、エルゼフに婚約破棄してもらう方法なんて、今考えても答えが出るはずないのに。
ふと、喉の渇きを覚える。
水を飲みに行こうとし、ベッドから立ち上がる。そして、ドアノブに手を伸ばし── 途中で止める。
リヴは、ドアが開くまで待つと言っていた。だとしたら、ドアを開ければすぐそこに、リヴがいるのでは?
しばらくして、それは考え過ぎだと否定する。あれからもう、何時間も経っているのだ。さすがのリヴも諦めて、部屋の前から立ち去っているだろう。
「やっと開けてくれましたね?」
「!?」
ドアを開けた先には、リヴがいた。
すぐにドアを閉めようとしたが、まるで固定されたかのように、ドアが動かない。よくよく見れば、リヴがドアを掴んでいる。
結局力負けしてしまい、リヴが部屋に踏み入るのを許してしまう。
リヴは部屋の前で、ずっと待っていたのだ。ドアが開く、その瞬間を。
「な、何のつもりでして!?」
「だって、こうでもしないと話を聞いてくれないじゃないですか」
「今すぐ部屋から出てくださいまし! これ以上近づいたら、衛兵を呼びますわよ!」
「衛兵に追い出してもらおうとしたって、無駄ですよ。私はエルゼフさんの婚約者なんですから」
その言葉に、シルヴィアは何も言い返せなかった。
いくらシルヴィアの命令といえど、エルゼフの婚約者を手荒に扱える衛兵はいないだろう。
「だから、少し話しましょう。話が終わったらすぐに帰りますし、シルヴィアさんだって、私に聞きたいことがあるでしょう?」
聞きたいことなんて、そんなのあるに決まっている。
言われるままにリヴと会話することへの抵抗感と、リヴの腹の内を探る絶好の機会を天秤にかけ、シルヴィアは口を開いた。
「……お父様と婚約した目的は、私への復讐でして?」
「…………復讐?」
その質問に対して、リヴは可笑そうに噴き出した。
「な、何がおかしいのですか!?」
「す、すみません。あまりにも予想外の質問だったので、つい。普通に嫌われているものとばかり、思っていたので……」
失態を誤魔化すように、リヴは咳払いをする。
「復讐なんて、全然そんな理由じゃないですよ。エルゼフさんと婚約したのは、あの人が誰よりも素敵で、添い遂げたいと思ったからです。シルヴィアさんがそんな勘違いをしたのはやっぱり、ショーンのことが原因ですか?」
シルヴィアは沈黙したが、それは肯定も同然であった。
シルヴィアは無意識のうちに、リヴに対して嫉妬していた。リヴとショーンの関係を聞くと、皆が口を揃えて言うのだ。あんなに仲の良い男女は、他にいないと。
シルヴィアは自分に対して絶対の自信がある。リヴに劣っているものは、何一つありはしない。
しかし、リヴにあって、シルヴィアにないものがある。
それは、幼馴染という関係性だ。こればかりは、いくらシルヴィアでも手に入らない。
焦りと対抗心、そして羨望から、リヴもショーンを慕っているという思い込みが生まれた。
だからこそ、リヴがエルゼフと婚約したのは、ショーンとの仲を引き裂いた自分に復讐するためという結論に行き着いたのだ。
「私はシルヴィアさんのこと、少しも恨んでいませんよ。確かに、私はショーンと仲が良いですけど、恋愛感情はありません。私のタイプは、エルゼフさんみたいなダンディーな大人ですから」
「最後の情報は要りませんわ……!」
リヴは頬を赤く染めながら言う。とてもではないが、演技とは思えなかった。
シルヴィアは気が抜けたように、大きく息を吐く。リヴが嘘をついているようには見えない。本当に、エルゼフが好きで好きで堪らないのだろう。
それはそれで複雑な心境だが、それでもシルヴィアは、安心してしまった。
「とりあえず! とりあえずですが、あなたがお父様を本気で愛しているのは、伝わりましたわ」
「わかってくれて何よりです。それじゃあ……」
喜びの表情から一転、リヴは表情を引き締めた。
「私とエルゼフさんの婚約を、認めてくれませんか?」
「!」
「正直な話、別にシルヴィアさんの同意がなくても、私たちはいつでも結婚できます。ですが、エルゼフさんが幸せな気持ちで結婚するには、シルヴィアさんの祝福が絶対に必要なんです。お願いです、どうか私とエルゼフさんの婚約を認めてください」
リヴが頭を下げる。
そのとき、婚約を認めないと言ったときの、エルゼフの悲しげな表情が脳裏をよぎった。
「……私だって、娘としてお父様の幸せを願っていますわ」
シルヴィアは我儘な性格だ。いざとなれば、他人に迷惑をかけることを厭わない。
だけど、エルゼフだけは。たった一人の家族だけは、自分の我儘で困らせたくない。
婚約を認めなかったのは、リヴが復讐のために、エルゼフに取り入ったと思ったからだ。
それが誤解だと知った今、婚約を認めないことは、我儘ではないと言えるのだろうか。
「もう一度聞きます。私への復讐ではなく、お父様を慕っているから、婚約なさったのですよね?」
「はい」
その真っ直ぐな瞳を見て、シルヴィアは覚悟を決めた。
「リヴさん」
床に膝を着き、頭を下げる。
目の前には床しか見えないが、リヴの驚いた様子が、ひしひしと伝わってくる。
自分でも、らしくないどころか、あり得ないことをしている自覚はある。
「あなたに無礼を働いてしまったこと、心の底から謝罪いたします。どうかお父様を、よろしくお願いします」
これはケジメだ。
リヴは気にしていないようだが、今日のこと、そして過去のことを精算しなければ、彼らがいずれする結婚を心の底から祝福できなくなる。
父親の幸せな結婚のために、自分の祝福が必要であるのなら、逃げるわけにはいかない。
シルヴィアが頭を下げる姿を見て、リヴは優しく微笑んだ。
「その謝罪を受け取ります。エルゼフさんのことは、私に任せてください」
その言葉を聞き、シルヴィアはすぐに立ち上がる。
謝罪の気持ちは本物だが、それはそれ、これはこれ。人前で頭を下げる姿を晒すのは、これが最初で最後だ。
その切り替えの速さに、リヴは苦笑いを浮かべる。
「あなたとの婚約を認めたことは、私が直接お父様に伝えますわ」
「ええ、よろしくお願いします」
エルゼフは今頃、どうすればシルヴィアが婚約を認めてくれるものかと、頭を悩ませているだろう。
今すぐにでもこのことを伝えて、安心させなくては。
「あっ、そうだ」
リヴの顔には、面白いイタズラを思いついた子どものような、とてもイイ笑みが浮かんでいた。
「折角ですし、今からでも私をママと呼んでくれても──」
「もう帰ってくださいましッ!」
そう呼ぶことは一生ない。絶対に、絶対にだ。
†
シルヴィアが婚約を認めてからというもの、エルゼフとリヴは、シルヴィアの前でも遠慮せずイチャイチャするようになった。
それに比例して、シルヴィアのメンタルは削られた。自分と同い年の女性とイチャイチャする父の姿を見ると、見てるこっちが気恥ずかしくなり、悶えてしまう。
そんな日々にもようやく慣れてきた頃、突然エルゼフから呼び出された。
「え……!? ショーンさんを呼んで、食事をするのですか!?」
「ああ、そうだよ。リヴさんとショーン君は、ゆくゆくは義母と義息子の関係になるんだ。いつかは挨拶しないと、だろう?」
「それは、そうですが……」
ショーンとリヴを会わせるのが、少し不安だった。何を言い出すのか、何をするのか予測できないから。
だが、エルゼフは何も間違ったことを言っていない。反論の余地もなく、シルヴィアは提案を受け入れるしかなかった。
そしてついに、食事の日が来た。
テーブルには、豪華な料理が何品も並んでいる。
シルヴィアの隣の席にはショーンが座り、シルヴィアの向かいの席にはエルゼフが、エルゼフの隣の席にはリヴが座る。
「お久しぶりです、義母様!」
「久しぶりね、我が義息子」
開口一番にこれである。
ショーンは明るい性格であり、それは間違いなく長所なのだが、ノリが軽すぎるときもある。
しかしリヴは、そのノリに完璧に合わせている。
あんなに仲の良い男女は他にいないと噂されるのは、伊達ではない。
「義父様も、お久しぶりです!」
「今日も元気そうで安心したよ、ショーン君。積もる話もあるし、何より、僕たちはこれから家族になるんだ。今日は無礼講で、楽しもうじゃないか」
「はい!」
乾杯を合図に、四人は食事を始める。
「いやー、驚きましたよ! 久しぶりにリヴに会ったら、まさか義母様になっているなんて!」
「私だって、ショーンが義息子になるとは思わなかったわ」
「二人が幼馴染だと聞いたときは、本当に驚いたよ。世間って狭いんだな」
会話がどんどん盛り上がる。
しかし、シルヴィアはイマイチ会話の中に入れなかった。
目の前の光景が、未だに夢のように現実感がないのだ。
「どうした? 元気がないじゃないか、シルヴィア。お腹でも痛いのか?」
ショーンは心配そうな表情で、シルヴィアに話しかける。
「え? いえ、そんなことは……」
「シルヴィアさんは、私たち幼馴染の仲を引き裂いたことを気に病んでいるんですよ……」
「!!??」
リヴはハンカチを片手に、わざとらしく泣き真似をする。
エルゼフとショーンは、ただの冗談と捉えて笑っているが、シルヴィアが幼馴染の仲を引き裂こうとしたのは、紛れもない真実である。
それを知るのは、この世界でシルヴィアとリヴだけである。だからこそ、シルヴィアだけが盛大に動揺してしまった。
(こ、この女郎…… この状況を楽しんでやがりますわ!!)
リヴは泣き真似をしながらも、しっかりとシルヴィアに視線を向けている。シルヴィアの反応を見て楽しんでいるのは、明白だった。
「そうなんです。俺たちは小さい頃、将来を誓い合った仲(嘘)だったのに……!」
そして当然のように、ショーンはその悪ふざけに乗っかる。元気がないことを心配して話しかけてくれたショーンは、どこに行ってしまったのだろうか。
そんなやり取りを楽しそうに見るエルゼフは、突然神妙な顔を浮かべた。
「今日日、幼馴染はヒロインレースで勝てないからな」
「エルゼフさん、それ以上はいけない」
何がおかしいのか、三人は声を上げて笑った。
おかしい。明らかにテンションが高過ぎる。
テーブルの上には、いつのまにか何本ものワインボトルが置かれていた。エルゼフ秘蔵の高級ワインで、度数もかなり高いはずである。
しかも、空になった本数からして、三人とも結構なペースで飲み進めている。
愕然とするシルヴィアを置いて、三人の話題は次に移っていた。
「俺、シルヴィアに告白されたとき、すごく嬉しかったんですよね! こんなに美人な女性が俺を慕ってくれたんですから、内心、喜びで飛び跳ねてましたよ!」
「そうだろう、そうだろう! ショーン君、君ぃ、前世でどんな徳を積んだのかね?」
「勇者になって世界を救ったと思われます!」
「もう、お調子者なんだから」
エルゼフは、グラスに入ったワインを飲み干した。
「僕も、人との出会いに恵まれたよ」
その言葉からは、失って戻らない何かを思い返すような寂しさと、不変の愛情が感じられた。
「あの人── ああ、僕の前の妻なんだけどね。彼女はシルヴィアを産んですぐ、事故で亡くなってしまったんだ。辛くて、悲しくて、今でも胸が張り裂けそうになる」
エルゼフはそう語った後に、リヴに視線を向けた。
「そんな僕の前に、リヴさんが現れたんだ。出会いは全くの偶然だった。ショーン君に会いに行こうとして、道に迷ったら、偶然通りかかったリヴさんが案内をしてくれたんだ。それからすぐ、彼女とは仲良くなったよ」
エルゼフとリヴを引き合わせたのは、他でもないシルヴィアである。シルヴィアがいなければ、二人が出会うことはなかっただろう。
「婚約を申し込んだのは、リヴさんからだった。本当は僕、断ろうと思っていたんだよ。そうすることが、たった一つの、あの人にできる誠実なことだと信じていたから。だけど、リヴさんが言ってくれたんだ。あの人を愛している僕も含めて、僕を好きになったんだって。墓参りも、毎年一緒に行こうって言ってくれた。あの人の話をすると、いつまでも死んだ人間を引きずるなって、よく言われるんだ。言った方に、悪気がないのはわかっているんだけどね。それがどうしても嫌だった。だから、嬉しかったんだ。僕の中にある、あの人への愛を認めてくれて」
跡取りを作るのは、貴族の責務の一つだ。
母が死んでから、エルゼフが周囲の人間に何度も再婚を勧められているのを、シルヴィアは見た。
「……決して、忘れていたわけじゃないんだけどね。そのとき、あの人の最後の言葉を思い出したんだ。幸せに生きてほしい。私のことなら、一生忘れないでいてくれたら、それで十分だって」
エルゼフの口からそこまで聞いたのは、シルヴィアでも初めてのことだった。
酒が入っているのもそうだが、それ以上に、シルヴィアに向かって言い聞かせているようでもあった。
「だから僕は、人との出会いに恵まれたんだ。一生で2回も、素敵な女性に出会えたから」
全てを語り終えたエルゼフの表情は、とても晴れやかだった。
「ゔお゛お゛お゛お゛ぉぉぉぉん!!!」
「……」
ショーンは号泣し、シルヴィアは少しだけ、リヴに対する認識を良い方に改めた。
エルゼフが死んだ妻に深い愛情を持ち続けることを、黙認するのではなく、全面的に受け入れてくれたのは、他ならぬリヴの広い度量のおかげなのだから。
エルゼフの話を静かに聞いていたリヴは、甘えるようにエルゼフの肩に体を預けた。
「私も…… 私だって、人の出会いに恵まれました。あなたと出会えたことは何よりもの幸運です、エルゼフさん」
「リヴさん……」
「あの、ちょっと。私の前でイチャつくのは、本当にやめてくださいまし」
†
今日、国内で最大規模と評されるオルソ教会には、大勢の人間が集まっていた。オルソ教会にはいくつもの長椅子が用意されているが、どれも空きがないほどである。
普段から大勢の信者がオルソ教会に訪れるので、それ自体は何も珍しくはない。
しかし、今日ここにいる人間のほとんどが、マクシミリア家かローゼス家に連なっているのだ。珍しいを通り越して、初めてのことである。
最前列の席には、シルヴィアとショーンが座っている。
シルヴィアは何度も座る体勢を変えており、明らかに落ち着かない様子である。
ショーンは、そんなシルヴィアを宥めるように、彼女の手を握った。
「ほら、シルヴィア。君が緊張してどうするんだ? ちゃんと笑顔で見届けないと」
「緊張はしていませんわ……」
祭壇の前には神父がおり、さらにその前には、漆黒のタキシードを着たエルゼフと、純白のウェディングドレスを着たリヴが、互いに腕を組んで並び立っている。
そう、オルソ教会では今、エルゼフとリヴの結婚式が行われているのだ。
この結婚式に招待されたから、マクシミリア家とローゼス家の人間が、一斉にオルソ教会に集まったのだ。
結婚式は順調に進み、既に終盤に差し掛かっている。残すイベントは、あと僅かだ。
「……綺麗、ですわ」
「ああ、そうだな」
ステンドグラスから差し込む光に照らされる二人の後ろ姿を見て、シルヴィアは思わずそんな言葉を漏らした。
この場にいる誰もが、同じ感想を抱いているだろう。
「汝、この女性をいかなる時も愛し合い、敬い、なぐさめ、助けることを、神の前で誓いますか?」
「はい、誓います」
エルゼフは力強く返事をする。この誓いを、生涯守り通すことを決意して。
「汝、この男性をいかなる時も愛し合い、敬い、なぐさめ、助けることを、神の前で誓いますか?」
「はい、誓います」
リヴは朗らかに返事をする。この誓いから、新しい人生が始まることに胸を弾ませて。
二人の返事を聞いた神父は、小さく頷き、聖書を閉じた。
「それでは、誓いのキスを」
来た。ついに来てしまった。
終盤にして、目玉のイベント。誓いのキス。
これこそが、シルヴィアが落ち着かない理由である。
因縁のある女が、目の前で父親とキスをするのだ。平然としていられる方が、逆にどうかしている。
それでも、目を閉じたり、視線を逸らすわけにはいかない。奇行に走ったと誤解され、この幸せな空間に水を差すわけにはいかないからだ。
二人は組んでいた腕を解き、互いに向かい合う。
エルゼフは、リヴの顔を覆っていたベールを上げ、両手で優しく肩を掴む。
二人の唇が段々と近づき、そしてついに、重なり合う。
瞬間、オルソ教会は万雷の拍手に包まれる。
ショーンは感動で涙ぐみながら拍手をするが、シルヴィアは無の表情のまま、微動だにしない。
「ミ゜ー」
「ああ……! 俺も言葉にならないほど、感動しているぜ……!」
言葉にならない感情を味わっているのは、正解である。
誓いのキスが終わり、全員が外に移動する。
これから始まるのは、ブーケトスだ。
ブーケを持つリヴの前に、大勢の女性が集まる。異様な緊張感が漂っているが、それは、ブーケトスでブーケを手にした女性は、次に結婚できるというジンクスがあるせいだ。それぞれの思惑はあれど、ブーケを本気で狙っているのは共通していた。
シルヴィアは、人だかりから少し離れた場所に立つ。
ブーケトスに参戦するような気力は残っていない。そもそも、シルヴィアはそんなジンクスなんて信じていないし、結婚の予定は確定しているのだ。
ブーケトスよりも今は、この結婚式がやっと終わる喜びに浸っていたい。
「投げますよー!」
掛け声と共に、リヴがブーケを放り投げる。
それはただの偶然か、それとも運命の悪戯か。
突風が吹き、ブーケの軌道が大きく変わった。
「えっ?」
ブーケは吸い込まれるように、シルヴィアの腕の中に落ちた。
ブーケを狙っていた女性陣からは悲鳴が上がり、それ以外からは歓声が上がる。
次に結婚式を挙げる可能性が高いのは、間違いなくシルヴィアだ。ブーケトスのジンクスを信じるのであれば、順当な結果だと言える。
しかし、突風がブーケを運んでくれる可能性は、奇跡としか言いようがない。
見事にブーケを勝ち取ったシルヴィアだが、その胸中に驚きはあれど、喜びはなかった。むしろ、予想外の注目を浴びて、若干の居た堪れなさを感じるくらいだ。
ブーケを投げた張本人であるリヴは、シルヴィアに向かって嬉しそうに手を振った。
「おめでとうございます、シルヴィアさん! 今度は私たちが、結婚式を見守りますからね!」
その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアは固まった。
そう、これで終わりではないのだ。
シルヴィアの結婚式には、リヴが母親として出席する。最前列にリヴが座る状況で、ショーンに誓いのキスをしなければならない状況が待っている。
リヴだけを結婚式に招待しないのは、ショーンとエルゼフが絶対に許さないだろう。
シルヴィアは、可愛そうなほど濁った目で天を仰いだ。
「勘弁してくださいまし……」
その呟きは、誰にも聞かれることなく、青い空の中に溶けて消えた。