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9 廻る、摺り足。もう決して止まれない。

ウラスラウス領にいます。

「かんにんな。他意はあらしません。ちょこっと、筋肉を確かめていただけやわ」

 ポーラがジェイドに声を掛けていた。

 朝稽古で、ボリスの身体から湯気が上がる。

「ポーラさんは女将さんですね。おはようございます。朝稽古を、見学させていただきます」

 背筋を伸ばして、ジェイドが美しい礼をした。見た覚えもない礼だ。カーテシーとは違う。腰を曲げ、頭を下げて、手は腹の辺りで前に組んでいる。

「美しい。相応しいな」

 摺り足を止めずに、覚えず見惚れた。前を行く弟子が、小さく頷いてくれた。

 足の裏で、地面を摺るように静かに歩くのが、摺り足だ。重心を腰を落とし、太腿から腰を押し出すように前に進んでいく。上体を安定させたまま移動できる。相撲の基本の動作を身体に滲み込ませる。土俵を一列になって廻る。

 朝稽古は、基本を中心に行っていた。摺り足が終わると、四股を踏む。

 ジェイドは板の間で、アニョーの横に正座した。

「熊主砦部屋の親方は、不在です。先代の辺境伯様が早くお亡くなりになったので、代行をアニョーが勤めています」

 稽古場には、親方と呼ばれる指導者が必要だ。親方は土俵に面した板の間で稽古の差配をする。

 四股を終えて、弟子たちが土俵に上がってぶつかり稽古を始めた。

 アニョーに頷くも、ジェイドの目は土俵に注がれていた。

「ボリス閣下が、かまぼこ力士になってます」

 板壁にくっついている姿を、ジェイドが揶揄った。随分と、こなれた相撲の言葉だ。蒲鉾は、魚のすり身を板に載せて蒸し上げた食べ物だ。海に近い南方ででは食べるらしい。板から剥がしにくいと聞いた。ジェイドの知識は、計り知れない。

 慌てて、ボリスは柱に向かって、てっぽうを繰り出した。

「あんたさんは、婚約者なら悋気はしょうもないわ。ボリス閣下の身体を触られたくらい、かまへんやん。減るもんじゃあないし」

 ポーラが茶を進めながら、ジェイドに笑みを向けた。

「減ります」

 ジェイドの声にぶつかり稽古が、刹那、止まった。

 弟子を促して、土俵に上げる。身体を打つ音が、稽古場を埋めていく。耳だけはジェイドとポーラに向かっている。間に入ったほうが良いだろうか。頼みのアニョ―は、眉間が恐ろしい峡谷になっている。

「何故、私が我慢をするのでしょうか?」

 ゆっくりと息を吸い、ジェイドがポーラを見据えた。

「ボリス閣下の私室に赴くのは、女将とて許されません。我慢するのは、ポーラさんです。他意を思わせる行動したのもポーラさんです」

 ジェイドの黒髪が朝日を撥ね返して美しい。

「えげつないわ。ややこしいおますな。女の悋気は醜いやんか」

「私は場を弁えて、礼を持って対応しております。女将と認めております故、稽古場で話をしているだけです。本館でなら、全てを許しません。私は醜いのです」

 アニョーの顎が下がった。

 震えている。アニョーの姿がぶるぶると動いた。いや、震えているのはボリスの身体だ。

 哄笑が鳴り響いた。ポーラがジェイドの両手を取った。

「あかんわ。侯爵令嬢だからっていけずしたけど、好みやし」

「メモが忙しい。侯爵令嬢は侮辱する対象にはならないはずです。ウルスラウス領は常識が異なっているようです。すみません。自重はしません」

 ニーナは立ったまま、忙しくペンを動かしていた。

「何より、ボリス閣下のデレッとした顔が不愉快でした」

「あんたさん、好きやわ」

 ポーラの舌なめずりが見えた。

 稽古で十分に温まった身体が、冷えて行く気がした。堪え切らず、一人で土俵の外を摺り足で廻り出した。

 朝稽古を終えて、弟子が引き上げる。この後は朝食だ。ボリスはジェイドの側に寄った。

「楽しんでくれただろうか」

「気に入りませんわ」

「そうです。艶めかしい白熊獣人を摘まみださない。此処は悪の巣窟です。すみません。言い過ぎなのは、全てボリス閣下の所為だと言い切ります」

 ニーナを諫めて、てしてしと、ジェイドの白い指が床を叩いた。

「親方が不在の状況を、ボリス閣下は如何に考えていますか?」

 顔を上げて、ジェイドを見た。

 逸早く正気を取り戻したアニョーが、ボリスの脇を突く。

「気に入らないのは、ポーラの存在ではない。ボリス閣下でもなく、相撲でもなく、親方の不在でしょうか?」

「当然です。アニョーが、稽古場にいるから本館は疎かになっているのでしょう。ポーラ女将の侵入を許すほどに、機能してません。片手間に相撲を考えているのですか?」

「ポーラ女将って好い呼び名や。ほっこりするわ。ほな、メモに書いておきよし」

 ニーナと深く頷き合っている。何だろう。疎外感がある。気を引き上げて、ジェイドに問い掛けた。

「ジェイド嬢とて、聞き捨てならない。相撲は片手間で出来る筈がないだろう。今、相撲は騎士団の業務ともなっている」

 ジェイドの瞳が翡翠の輝きを持った。腹の底から、震えが駆け上る。ジェイドの瞳から逃れられない。振り絞った気迫が、ガリガリッと削がれる。

「稽古を見る親方が不在で、充実した土俵を営めるとは思えません」

「出来得ることは、全て行っている」

 言葉が擦り切れた。ジェイドから目が離せない。

「足りません。怪我の元です。神事を貶めています。独り善がりな稽古をして、神に奉納する相撲はできません。親方がいなくて、どうやって稽古をつけるのですか?」

 正論だ。反駁も浮かばない。

「ほんまに良い婚約者やん。しょうもないボリス閣下を、しばいたって。腰が引けて、親方候補を呼べへん」

 ポーラの口を塞ぎたい。睨みつけると、楽し気にポーラの口が歪んだ。

「候補は、何方(どなた)ですか?」

「リッチー・バウム子爵です」

 答えるアニョーが怨めしい。

 もごりと、言い訳を告げた。

「フローラの父親で、その、俺との結婚を暗躍するんだ」

「ボリス閣下とリッチー様の結婚ですね。分かっています。冗談です。」

 ニーナのペンが激しく動く。

「ジェイド嬢は、面白くないだろう。婚約者を差し置いて、周りがとやかく煩い。親方がいなくても、弟子は俺が育てる、問題ない」

「一緒に仕事をする人が、共に相撲を考える人が、欲しいと、思っているのでしょう?」

「何を言っている。弱音は吐かん」

 ジェイドが小さく笑った。

「昨日、父様の話をしたら羨ましいと零していましたわ。親方が必要だと分かっているはずです。頼むのです。頭なら何度でも下げて、招集してください。土下座で済むなら、易い話です」

「フローラの存在は気にならないと言うのか」

「親方の不在と、婚約は別の話です。仕事とプライベート、本館と土俵、私とボリス閣下ほど違います」

 頷いていた首が止まった。最後の例えは、意味が複雑だ。

「教えて欲しい。ジェイド嬢と俺は、何が違うのだ?」

 瞠った目が一挙に窄まった。

「私は惑いません」

「俺だって、迷っていない」

 ふんっとニーナが鼻息を荒く出した。

 ポーラとアニョーは頻りに首を振るった。

「全ては、ボリス閣下の行動と、心掛けです。婚約は解消も破棄も、もちろん継続も選択ができます。それを踏まえて猶、親方を遠ざけたいのなら、ボリス閣下は結婚にも値しません」

「直ぐに、騎士団の詰め所に向かう」

「リッチー様は騎士団の元副団長です。今は、毎日、することもなく騎士団の詰め所で管を撒いていまして、本館業務が滞っています」

「おきばりやす」

 アニョーとポーラが手を振った。

「早く行ってくださいませ」

 ジェイドの手が、てしてしと床を叩いた。


投稿出来ました。

お読みいただきまして、有難うございました。

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