8 武器は持っていません
ボリス・・・がんばれ
「三階の一番大きい客間で、ジェイドお嬢様には休んでいただいています。魔力もそれほど減っていないと仰っていました。寝てはいません。身体は辛くないようです」
アニョーに言い訳する。
「全て、俺が悪い」
「そう思うなら、きっちり御説明なさい」
「フローラは従姉妹だ。ポーラは女将だ。当然に、何も他意はない」
自信を持って顔を上げた。角が、喉を捉えていた。
「下心があったら、磨いた角で串刺しにします。ボリス閣下は脇が甘い。付け入られてます。ポーラの侵入を許したのは、使用人の落ち度です。しかし、顔がだらしなく脂下がってました。情けない」
「鍛えた身体を褒められると嬉しくなってしまった。ジェイド嬢には刺激が強すぎた。ああ、相撲は見せられない」
「人間にも公開するとの王命です。戦いのないレスラリー王国を誇るための神事です。お励み下さい。ジェイドお嬢様にしっかり話してきてください。熊主砦城に引き留めなさい。婚約の維持が掛かっていますよ」
「俺は、軽薄で浅慮で弁えのない男に見えただろうか?」
「やっと客観的に分析ができたようで、安堵しました。更に角を突きささないと理解が及ばないのかと、危ぶんでいました」
「誤解だ。真面目で、朴訥で、ジェイドを大切に思っている」
角が喉を狙った。
「全く持って伝わっていません。態度で示しなさい。ボリス閣下は、如何なさるお心算ですか?」
アニョーの説教は夕方までも続いた。
私室にジェイドの他に通さない。だらけた顔をしない。筋肉を褒められても、喜び過ぎない。他にも多くの約束事を一字一句復唱させられた。
大声で復唱しながら考える。ジェイドの姿を思い浮かべて熟考する。
「婚約はした。結婚も見据えて動く。何か足りないだろうか。俺は、ジェイドが大切で、愛しい。欠けているのは、ジェイドの思いだ。拙い状況だ。捨てられる」
ジェイドの示した喜びが、何処に向かっていたのか気掛かりだ。不安ばかりが募る。
「ウルスラウス領まで、ジェイドお嬢様は来てくださった。ボリス閣下に、僅かでも思いはあるはずです」
十六歳の人間のレディの思いは、何処にあるのか、ボリスには考えもつかない。掻き毟った頭を上げた。
「手落ちがあった。恋だ。婚約や結婚の前に、その、あの、恋をしてもらいたい」
「誰にですか?」
「俺に決まっている。ジェイドが、俺に、恋をしてほしい。無謀だろうか」
「自信があるのですか? 御冗談でしょう。寝惚けた策ですが、悪くはないでしょうな。まあ、長年の思いとは、理解しています。ボリス閣下が戦いを生き抜いたのは、魔法薬のお陰ですからね」
「恋だ。俺はずっと、恋している」
「肝に銘じて『魔法薬に恋している』と誤解を生む発言は、慎んでください」
ボリスは廊下に蹴り出された。
ジェイドの部屋まで三十六歩だった。訪う。
「ジェイド嬢、扉を開けてもいいだろうか。話を聞いて欲しい。部屋には入らない」
僅かに開けられた隙間から、ニーナが覗いた。
ニーナの遥か後方の窓の側に、ジェイドが座っていた。顔が青い。指の先で抓んだブラックパールが輝いた。
「涙から生まれたパールは、強い魔法を秘めていますの。ブラックパールは初めてです。大人が似合う真珠でしょうか。飾りになります。『動く階段』に始めて乗りました」
顔は逆光で見えない。怒っているのか。悲しんでいるのか。読み切れないが、ジェイドが、すっかり大人になってしまったと分かった。
「ウルスラウス領で『動く階段』は役に立っている。『登る箱』も優れている。辺境の地の生活を、豊かにしてくれた。本当に感謝している」
ジェイドの顔が綻んだ。朝露に濡れたミモザの花のように、首を小さく傾げた。
「父様の仕事です。初めは私が考えましたが、父様と一緒に工夫を重ねました」
「トーマス殿と一緒に仕事をするのは、羨ましい」
親と共に過ごした時間は、短かった。一緒に話をする機会も僅かだった、戦いが続き、熊主砦城は慌ただしかった。
「話をしたい。ジェイド嬢が知りたいなら、相撲を語り合おう。婚約者同士だから、知り合って、分かり合って。それから、今からでも間に合う。俺は、恋をしたいと思っている」
自分の言葉に、息を詰まらせた。恋と告げた思いを、何度も反芻する。顔に熱が溜まった。
「御無礼します。残念ながら、今までのボリス閣下の所業を鑑みますと、恋が始まる要素は皆無です。嫌われて婚約を解消か、または、破棄する情報が満載です。謝りません。事実です」
ニーナに返す言葉がない。
「怖ろしいほど前向きで、楽天的で、内省が足りないって分かっている。でも、俺たちはこれからだろう?」
「恋が始まるかしら?」
非難の目を向けるニーナを制して、扉を大きく開いた。
「好きになってもらえるよう、努力する。恋が始まるように、励む。熊主砦城を案内する。ウルスラウスの食事は美味しい。王都とは随分と違うんだ。米を焚いた御飯が主食だ」
「ええっ、米があるんですか。なら、味噌や醤油も使うんでしょうか」
ジェイドの顔に驚きが広がった。
関心を捉えられた。ウルスラウス領の良さを伝える。レスラリー王国の中でも、独自の文化が根付いている地域だ。米を食べ、発酵食品の味噌や醤油もある。酢や塩を使った調理方法も発展している。
「美味い味噌汁に、醤油の焼きおにぎりもある。食事を一緒にして、ドレスも贈る。宝石は何が好きだろうか? 欲しい物は、何でも用意する。何をしたら、喜んでくれるだろうか?」
「戦いが終わって、やっと相撲ができるのでしょう」
「辺境は戦場だったからな。ジェイド嬢の魔法薬が、俺を支えてくれた」
戦いは長くて、凄まじく、悲惨な日々だった。熊主砦城は最前線で、隣国を押し退けた。親族の大怪我を治し、友の命を救ったのがジェイドの魔法薬だった。
「やっぱり話し合いが足りないな。ジェイド嬢と分かり合うために、もっと喜んでもらいたい。俺ができることなら、なんでもする」
「ボリス閣下は、相撲の稽古をしてください」
真っ直ぐに向いたジェイドが、揺るぎない声で答えた。
真摯な声に顔を上げた。ジェイドの相撲への興味は、実直で、真剣だ。
ボリスは廊下で蹲踞した。
「ニーナ、そんな変な者を見るような顔をしないでね。この足の形は蹲踞です」
「意味が分かりません。すみません、正直過ぎました」
不機嫌を隠さなくなったニーナは、常に口を尖らせている。
「相手や土俵を敬う気持ちを形で示しています。御覧なさい。背筋は直立に伸ばしたまま、腰は深く下ろす。両膝を開いて、爪先立ちになるのよ。私はできません」
声のままに腰を下ろしたニーナが、前につんのめった。
「難しいですね」
塵手水の説明をボリスは続けた。
「両掌を揉みてしながら柏手を打つ。それから掌を上に向けて、両腕を左右に大きく広げて、肩の高さで掌を下に向けて返す」
「相撲を野外で取った際に、水の代わりに草で手を清めたのが由来です。武器を持っていないと示す意味も持っています」
補足が完璧だ。ジェイドは余程、文献を読み込んだのだろう。
ブラックパールが生まれるほど、心を乱したのなら、ボリスに思いは寄せていてくれるはずだ。怒りでも悲しみでも受け止めたい。ジェイドが抓んだブラックパールが、今なら美しいと思えた。
「魔法薬を有難う。相撲の朝稽古を、明日は見て欲しい」
頷いたジェイドを閉じ込めるように、ニーナが慌てて扉を閉めた。
お読みいただき、有難うございます。
体調不良のため、一週間、投稿をお休みします。8月16日(火)より再開します。よろしくお願いします。