7 涙は、飾りになるのよ
ウルスラウス領は賑やかです。
居心地が悪い。自分の居城とは思えない遣る瀬なさに苛まれて、ボリスは本館三階の私室で身を捩った。私室の応接室のソファーが、硬くなったのだろうか。声が出ない。身の置き所がない。
朝稽古をする時間は逃し、昼食にするには早過ぎる。何とも間の抜けた時間に、ジェイドと向け合っていた。
「落ち着きなさいませ。ボリス閣下は往生際が悪い。ジェイドお嬢様に謝り、詫び、感謝し、助言を賜りなさい」
アニョーが、何度も角を擦っている。細かい塵が飛ぶ。角を鑢で研いでいるようだ。貫かれたらきっと痛い。掠っただけでも流血する鋭さで、角が不気味な光を放った。
「何から話せば良い。ああ、すまない。悪かった」
「言葉が足りません。胸に手を当てて考えれば、分かるはずです」
叱咤を含んだアニョーの励ましに、前に座ったジェイドに手を伸ばす。
「違う。自分の胸です。血迷ったのですか」
横に立ったアニョーと、ジェイドの後ろに控えたニーナから、息を揃えた鉄拳が降り注いだ。腕を廻して、全ての突きを躱す。
ニーナは腕の立つメイドらしい。要注意だと、心に刻み込んだ。
「ボリス閣下は、何か、お困りなのでしょうか?」
何事もなかった風情で、ジェイドが首を傾げた。
「土俵も御存じで、相撲の文献にも精通していると伺いました。徳俵の不備を真っ先に御指摘いただきました。ボリス閣下からお伝えすべき話が、あるはずでございます」
アニョーの促しに、ジェイドを見た。黒髪は下ろし、頬が上気して微かに染まっている。黒い瞳に過る色を探した。翡翠の色がない。穏やかで、澄んだ黒が見える。
「見詰めていても、何もわかりません。婚約者ですが、会話をしてきませんでした。私は引き籠っていましたから、お互いに知り合う必要があります」
ジェイドの声で、やっと言葉が見つかった。
「相撲を復活させるんだ。王命だ」
ジェイドの顔に、明らかな歓喜が過った。楽しそうに微笑んでいる。
何が嬉しいのだろうか。相撲は見た経験はないと、教えてくれた。文献からの知識で、相撲を好きなのだろうか。聞いてみたい。
首を振って思い直す。相撲を好む人間のレディは、いないはずだ。相撲は、獣人の間で伝わったのだ。慎重に考える。
言葉を反芻して、固まった。息を何度も呑み込んで、口を開けた。
「王命って。ジェイドは、コニアス国王陛下を、もしや――。言わないでくれ。コニアスのあの野郎、許せねえ」
聞きたくない。ジェイドの喜びの意味を、受け止めきれない。頭を抱えた。ジェイドに逃げられないように、策を講じて婚約したのはボリスだ。褒賞に願った婚約者だ。ジェイドはコニアスに思いを寄せてるのだろうか。婚約も相撲も、王命だから、喜んで受け入れたのだろうか。
乱れた足音が廊下に響いた。両開きの扉が押し開かれた。
「ボリス閣下は隠れてはるの。探したわ」
「ポーラは、何をしに来たんだ?」
「白熊獣人さん?」
確かめる声音のジェイドに、頷く。ポーラは、艶の毛並みが美しい白熊獣人だ。
ポーラの両手がするりとボリスの肩を撫でた。
「良い仕上がりで、おきばりやしたなあ」
うっとりとしたポーラの声に褒められて、頷く。誇るように、胸を張った。
「肉が付いただろう。締まった筋肉になっ――。痛い。角が掠ったあ」
髪を掠めて、角がソファーの背に刺さった。伸ばした髪が、根元からばさっと切れた。
「相撲がなかったら、顔を指しているところです。控えなさい、ポーラは動くな。誰も通してはならない、と厳命したはずです」
廊下で、使用人が土下座をしていた。
ボリスの肩を叩いたポーラが、気怠い笑みを見せた。
「あらぁ、お客さんが来てる。おいでやす。けったいやなあ。人間のレディは相撲に関わらへんし、難儀や。ボリス閣下も、本場所前の大事な時期に、余所見をしたらあかんわ」
ジェイドを見た。黒い瞳が膨らんでいた。涙が見えた。ボリスは泣く理由が分からない。
「筋肉を褒められれば、嬉しいだろう? 違うのか?」
「このように気軽に、訪いもせず、親し気に、レディが私室に入ってくるのは、熊主砦城では、普通なのでしょうか?」
アニョーを見ると、激しく頭を振っていた。
「非常識外で、想定外で、言語道断です」
ニーナの叫び声がした。
「ジェイドお嬢様、ああ、泣かないでください。もう帰りましょう。ボリス閣下は、ジェイドお嬢様を蔑ろにしています。思いを込めても、尽くしても、届かないのです。すみません。我慢ができません」
「ジェイドは関りがある。大事な婚約者だ」
ポーラの口が声にならない叫びを上げて、大きく開いた。
身体に張り付いていたポーラを、ボリスは廊下に投げ出した。使用人が、ポーラを引き摺って行く。
「大切に思っている。婚約者のジェイド嬢が来てくれて、嬉しかった。ファーストダンスも、これから踊ろう。一緒に舞踏会に行こう」
「ホークハウゼ家を、侮っているのですよ。もう、ウルスラウス領にはいられません」
ジェイドが真っ直ぐに背を伸ばしたまま、表情をなくしていた。
「此処にいたいのです。ニーナ、心配してくれてありがとう。ウラスラウス領に来たいと思いました。相撲を知りたいのです。でも、ボリス閣下の側には、レディが多過ぎます」
ジェイドの声は、厳かだった。瞳が盛り上がる。黒い瞳に、翡翠の色が見えた。
ぞわりと、頭頂に寒気がした。瞬く間に全身が冷気に覆われ、ボリスの毛が逆立った。
「なりません。泣かないでください。魔力が枯渇してしまいます。ボリス閣下が感情を乱したんだ。言い過ぎを詫びません。特別な魔力が、凝縮してしまいます」
身体が震えた。ボリスを取巻く空気が凍えて行く。凍てついた風が吹き、窓を激しく揺らした。鏡に霜が降りた。
「ビルヘルムから話には聞いていた。ジェイド嬢の感情が振り切れた時に、涙に魔力が凝縮する。泣くな」
ジェイドに手を伸ばそうとしても、寒風が阻む。かじかんだ指が、動かない。
「ジェイドお嬢様の涙は、パールになるんです。幼い頃には、毎日のように泣いて、ほんのり薄紅色や黄金色のパールを零したんです。ああ、見た覚えのない涙の色です」
慄くほど美しい形を持って、涙が固まる。ジェイドの瞳から、雫が生まれた。
応接室の全てが息を潜めた。
ジェイドの涙が煌めく。雫が渦を巻いて、固まっていく。ボリスの毛を逆立てた烈風が、涙に凝縮した。
静寂を、ジェイドの呟きが破った。
「黒い」
「ブラックパールって初めてです。ジェイドお嬢様は悲しんで、お怒りって分かります。こんな男は捨てれば良いのに。すみません。本心です」
呟いたニーナが、非難の目をボリスに突き刺した。
アニョーの角が、ソファーを何度も切り刻んだ。
「大きいパールです。ジェイド嬢の怒りが凝縮しました。恐れる前に反省しろ。懺悔し、自戒が必要だ。ウルスラウス辺境伯なら、気概を見せろ。家令の厳命だ」
厳かな黒が、ジェイドの掌に収まった。
足早に動いたニーナが、ジェイドを抱えて退出した。
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