6 獣人まみれで
土俵前にて
砂塵を巻き上げ、『動く階段』をピンクの塊が駆け上がってくる。ボールのように跳び上がり、髪を逆立てる。ピンクのボールが声を張り上げ、ジェイドに突進した。
「馬鹿な話が聞こえた。何をやっているの。ああ、まだ婚約者だったかしら。妾がボリス閣下を連れて来たのよ。妬ましいって顔ね。下がって。もう帰って良いわよ。えっと、ジェイドとか言う名前の、こましゃくれた侯爵令嬢ね」
白い砂を被って、ニーナがジェイドの前に立った。頭の上の羽毛が逆立っている。張り出した胸が、服を突き破りそうだ。
「呼び捨てで名前を呼ぶとは、図々しい。ジェイドお嬢様が名前を許したのは、熊主砦城では二人だけです。メモに書いてあります。大声を出して、すみません。ジェイドお嬢様は、相手にしなくて良いです。下賤な者にはニーナが応じます」
ニーナのメモに記されている内容は、多岐に渡るようだ。ジェイドも初めて知った。
「頼りになるニーナのメモなら、疑いの余地はありません」
舞踏会で、ボリスが共に歩み去った犬獣人だろう。跳びかかる勢いが、治まる様子がない。
アニョーが指を立てた。ジェイドからニーナに指が動く。魔法薬を経て怪我をしたフィンへと辿った指が、フローラに止まった。
「フローラ・バウム子爵令嬢は、控えてください。ボリス閣下を連れて帰って欲しいとは、頼みませんでした。家令として、支持はいつも的確に出します」
アニョーの目が、下から迫る『登る箱』据えられた。ゆっくりと扉が開き、ボリスが下りて、そのまま瞠目した。全身が固まって、毛筋の一本も動かない。
「へえ、そうだったの。急いだから、ホークハウゼ侯爵令嬢とのファーストダンスの時間もなかった。惨めで、可哀想だった。妾は二年前に、ボリス閣下にエスコートだった。夢のような時間だった」
しれっと答えたフローラは、近づいたボリスの手を握った。
瞬いたボリスが、ゆっくりと首を右へ、左へ動かす。状況が分からないとばかりに、頭を掻き毟った。
「ジェイド嬢が何故に、此処にいるんだ?」
ボリスの声に交じる困惑が、非難にも聞こえた。
ニーナの全身が、毛羽立った。カチカチと喉の奥で歯が鳴っていた。
ニーナを制して、一歩を踏み出した。顔を上げる。
「引いちゃダメですわ。私はボリス閣下には呼ばれませんでした。勝手に、奥まで伺いました。怯みません」
「一族の者以外は奥から連れ出せ。人間に居場所はない」
フローラは、犬歯を覗かせ楽しそうに笑った。
「違う、勘違いするな。ウラスラウス辺境伯の一族は、皆が互いにエスコートを求める。慣例だ。二年前の済んだ話だ。俺が望んだわけではない。婚約者だから、奥に居ても良い。ああ、逢えて良かった」
ジェイドの腕をニーナが引っ張った。
「逢いたかったって仰ってますが、信じてはなりません。騙されません。バウム子爵令嬢と身体を寄せた。すみません、見た状況を正直に話しています」
その場にいた使用人も弟子も、ニーナに頷いていた。ボリスを取巻く視線が、眇められていく。
ボリスの目がうろうろと辺り見渡す。やっと気づいたのだろう。フローラの手を振りほどいた。
「ファーストダンスをすっぽかしたとか、ありえねえし。僕の足は直ったし。ボリス閣下には治せねえし。女連れとか、信じられねえし」
足踏みをしていたフィンが、浴衣の裾を翻して走り出した。
アニョーが慇懃な礼をした。主を迎える、家令の姿としては少しだけ勿体ぶって頭を上げながら、低い声を出した。
「情けない。アニョーは、ウルスラウス辺境伯家の御先祖様に、顔向けができません。根性なしで、へたれです」
アニョーの角が、絶妙な角度でボリスの首を狙って、寸でのところで止まった。ボリスの返答次第では、角が首を押さえ込むだろう。少し曲がれば、首を貫く。
「コニアスにも、帰るって伝えたんだ。婚約は発表されている。心配はない」
ボリスが慎重に応じた。
「黙らっしゃい。コニアス国王陛下は関係がありません。怪我人が出ても、ボリス閣下は役に立たない。必要なのはジェイドお嬢様の魔法薬です。持ち帰って下さいとの、伝言でした。バウム子爵令嬢が曲げて伝えたのでしょう。見抜けないボリス閣下に非があります」
「怪我とは伝えたわ」
「怪我と聞いたら、魔法薬だと考えない浅はかなボリス閣下は、こうしてジェイドお嬢様にまた、救われました。年上なのに子供ですか。獣人の男は子供ばかりだ」
背を丸めて、ボリスが頭を下げた。
走り回っていたフィンも、ボリスの隣で頭を下げている。
アニョーが手を挙げる。ぶるっと角をフローラに向けた。
「獣人の男も、働くと示しなさい。急ぐのです。ウラスラウス辺境伯家の家令として命じます。言葉を違えたバウム子爵令嬢には、即刻、引き取ってもらいます。誰にも異を唱えさせません」
二人の男の使用人が、フローラの両脇を掴んだ。羊獣人だ。右側は黒い角で毛が白い。左側は角も毛も茶色だ。二人とも、毛が渦を巻いてみっしりと頭を覆っている。フローラを連行する。悪態を吐くフローラの口を、がっしと掴んだのは茶色の方だ。『登る箱』に消えていく。
犬を追い立てる羊の姿に、ジェイドは呟く。
「バウム子爵令嬢は、牧羊犬にもなれないようね」
フィンが、ボリスとジェイドの間で四股を踏み出した。
「ホークハウゼ侯爵令嬢は相撲に興味があっても、文献で知っただけだし。大丈夫かなあ。僕は心配だし。人間のレディは相撲を見るのを嫌がると思うし。今は浴衣を着てるけど、廻し姿だし。獣人の身体が、ぶつかり合うんだし」
スマホの画面が蘇る。レスラリー王国が中世ヨーロッパに近い文化の様相なら、肌を出す相撲は異質に見えるだろう。人間のレディには、刺激が強いとビルヘルムが声を潜めていた。ウルスラウス領の苛烈な状況は、廻しに浴衣に瓦屋根だ。オリエンタルでジェイドには親しく懐かしい。
「相撲は、神聖なる神事ですわ。力を競い、技を誇る力士が、互いを認め合って成り立ちます。だからこそ廻し姿で立ち向かうって、文献にありました。美しい姿だと思います。でも、見た経験はないのです」
嘘ではない。相撲の生観戦はしていない。巡業にも本場所にも、行っていない。事実を包み込んで伝えた言葉に、ジェイドは笑みを添えた。
「さあ、ジェイドお嬢様の御用件が今の最優先です。ボリス閣下、腹を括って頂きましょう」
アニョーの言葉に、ニーナが激しく頷く。いつの間にか、二人の呼吸が合っている。
背を伸ばして、ジェイドはしっかとボリスを見据えた。
「事情聴取に伺いました。話し合いを要求します」
ボリスの肩が萎んだ。
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