5 年上の男の子
ウラスラウス領にて
飛鷹城の屋根の上から、二日が経った。
ジェイドは跪いて、手を胸の前で組んだ。喜びが心の底から湧き上がる。
「ええっと、目の前に見えるのは、紛れもなく土俵です。魔法薬はあります。さあ、青い薬は、痛む部分にたっぷり振りかけてください。滲みますのよ。赤い薬は飲み薬です。半量を呑んでください。瓶に星が刻んである所までです。甘く仕上げてあります」
興奮を押さえて言い募る。
ジェイドの前で、羊獣人のアニョーが巻いた角を撫でてから、眉間に何層もの皺を刻んだ。
「ボリス閣下より、ジェイドお嬢様が熊主砦城に早く着く。必要な魔法薬もあって、土俵も御存じ。こんなに言葉を交わしたのは初めてでございます。何から驚けば良いのでしょうか?」
アニョ―は熊主砦城の家令だ。角は頭の両脇で巻いていて、白い髪が暖かそうに渦を巻いて頭を覆っていた。
遠巻きにジェイドとニーナを見詰めていた使用人を呼んで、アニョーが差配を始める。
「甘い。でも変な味だあ。不味い」
怪我をしたのは、猪獣人のフィンだ。先が尖った桜の葉のような耳に、突き出た鼻筋が特徴だ。ジェイドよりも二、三歳は年が上だろう。
「フィンは大人でしょう。子供みたいに不満を零すとは、何事ですか。効く薬は、不味いと相場が決まってます。手が掛かるのは、ボリス閣下で十分です」
アニョーの語気が荒い。
ジェイドは深く一礼した。誰もいない土俵をじっくりと見分する。登ってはいけない。礼を失してもいけない。敬意を持って、土俵に対峙した。
「これは、随分と古い土俵ですわね。徳俵が傷んでいます。熊主砦城の奥は、幼い頃から立ち入ってはならぬと、厳しく窘められていました。今日は何度も、何度も正門から訪いました。誰もおりませんでした」
熊主砦城は、急な断崖に位置している。正門に面した本館は三階建てで、巨大な要塞を兼ねていた。奥に進むほど傾斜は鋭さを増した。
口を押えて、感嘆の声を出す。誰にも聞こえないようにした言葉が、ジェイドの口の端から漏れて行く。
「郷愁を覚えます。王都やホークハウゼ領は、四十七歳の情報から言えば、中世ヨーロッパです」
ウルスラウス領はオリエンタルな様相だ。屋根には瓦が乗り、梲を備えた場所もある。日本風と言い切るには、屋根の描く傾斜が反り過ぎている。漆喰の壁もあれば、石垣が詰まれた場所もある。
本館から絶壁を登った場所に、平屋があった。全ての窓と扉が開け放たれた平屋の中に、土俵が見えた。
アニョーが、首を傾げてジェイドを見詰めた。
「魔道具が活躍していますわ。魔石の交換も順調のようです。父様のお仕事を、誇らしく思います」
ジェイドが考えて完成させた魔道具を実際に世に送り出すのは、王立魔法師団に所属するトーマスだった。
「断崖を『登る箱』と、『動く階段』は、歳を取ったアニョ―には欠かせません。アニョーは『動く階段』が好きです。今は青葉の美しい季節でございます」
風魔法で押し上げる『登る箱』は、日本ではエレベーターだ。板を土魔法で運ぶ『動く階段』は、エスカレーターだ。トーマスと話し合い、試行錯誤を重ね風魔法と土魔法を合わせた。十歳のジェイドが作り上げた魔道具は、辺境のウルスラウス領の生活を一変させた。
自覚する以前から、ジェイドは翠の記憶を活用していた。
全方向に頭を下げて独り言ちながら、ジェイドの瞳は土俵に注がれ続けた。
「開発者の皆様、どうかチートを許してください。ああ、なんて使い込まれた徳俵でしょう。歴史を感じますわ」
俵が、ぐるりと丸く土俵を囲む。土俵には、東西南北に徳俵を設置する。徳俵は俵の幅だけ外側にずらしてある。野外で相撲を取っていた時代には、土俵の水はけを良くした工夫らしい。今は、徳俵で勝ちを拾う力士も、足を掬われる力士もいる。
「奥までお出で頂きまして、ありがとうございました。お出迎えもせず、申し訳ございません。ボリス閣下には、アニョーが取り成します。何も口ごたえはさせません」
藁はあるのか、稽古に支障はないかと問質したい。焦らないように、何度も言葉を呑み下して、アニョーの顔を見た。
「言い訳はしませんわ。ボリス閣下が咎めるなら、土俵を隠した意図を問うまでです。ああ、魔法薬が効きましたね。飲み薬の効果が早いわ、ゆっくり動いてね」
挫いた足にあった青痣が消えた。痛みがなくなって、フィンが驚いた顔をしている。
屈伸をした後、フィンは膝を突いて深く頭を下げた。直ぐに小躍りして走り出した。フィンは浴衣を着ていた。
「子供のようですわ」
「フィンの足が動いています。ジェイドお嬢様は大人になられました。ボリス閣下に、大人になる秘策を教えてください」
アニョーが声を潜めた。
「時に、ジェイドお嬢様は相撲を、御存じなのでしょうか?」
大好きだと勢い込む言葉を、押し留める。
トーマスが相撲と発言した時から、言い訳を考えていた。今までレスラリー王国で相撲をジェイドは知らなかった。引き籠りで情報が少ないともいえるが、相撲の話題も聞かなかった。ならば、過去にあったと考えられる。資料や本なら、残っているだろう。
「古い文献で、読みました」
今環の際まで翠は、相撲の応援をしていた。転生した事実は、誰にも告げていない。慎重に言葉を選ぶ。
「朝稽古は終わったようですね。ほら、魔法薬をお渡ししたいと思っていますのよ。お弟子さんは何人でしょうか?」
「ジェイドお嬢様は博識なんです。知らない事象の方が少ないんです。まあ、少しおっとりして、奥手で、初心で、引き籠りです。今はよく喋ってますが、あまり人と関わるのは上手ではないので、熊主砦城の皆様にはご迷惑をおかけしております」
威張ったり、謝ったり、ニーナは忙しい。メモの書付けを済ませて、ニーナは何度も首を前に出して、忙しく魔法薬を並べていた。
アニョーは家令の見本とばかりに背筋を伸ばした。
「弟子は十人です。熊主砦城のウルスラウス辺境騎士団の中で、若い騎士たちが名乗りを上げました。稽古に熱が入っております」
「挫いた足は魔法薬で直ぐに、良くなります」
「出て行け」
ジェイドの声を遮る音が、轟いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
< 参考文献 >
「『大相撲の解剖図巻』~大相撲の魅力と見かたを徹底図解~」 第三十四代木村庄之助・伊藤勝治 監修 株式会社 エクスナレッジ 2022年
「大放談! 大相撲打ちあけ話」北の富士勝昭 嵐山光三郎 著 新講社 2016年
「知れば知るほど、大相撲 大相撲うんちくかるた」 絵・文 ノーン 2021年
「力士の世界」 第三十三木村庄之助 著 文芸春秋 2007年