39 真っ向勝負
本場所中は、力士の怪我が気になります。無事に、千秋楽を迎えて欲しいです。
「妻子持ちって知らせて、最後には別れる心算やったんやろうか? えげつないな。嘘の妻子を見せて、追わせて縋らせる。どんだけ虚仮にされているのか。フローラも考え直しい。酷い男やで」
ソファーの背にフローラを庇ったポーラは、アンソニーを見据えたままだ。
アンソニーはフローラに優しかったのだろう。耽溺してフローラの信頼を得てから、妻子を見せて地獄に落とした。傷心して熊主砦城に引き籠ったところを、助け出す。疲れ果てたフローラは依存したはずだ。見たいものだけをフローラは信じただろう。今も、アンソニーに向ける目には、熟んだ熱がある。
フローラが食い縛った口に、犬歯が見えた。
「私室に女を引き込むより、ずっとましだわ。ボリス関は、千秋楽で浮かれているのよ。あんな嫌な熊獣人は捨てなさい。ジェイドお嬢様に相応しくなし、騙されている」
「婚約者がジェイドお嬢様だって、熊主砦城では皆が認めてはる。結婚はまだってことや。フローラには見えないやろな」
横にいるフローラを覗き込んだ。
「騙されているのでしょうか?」
勢い込んだフローラが、ジェイドの手を握った。
「そうよ、ジェイドお嬢様は騙されないで。私たちと一緒に魔道具を売って、辺境を越えましょう。ああ、お願いだから『動く階段』をアンソニーに見せて欲しいの。きっと高く売るわ。だって、アンソニーは儲かっている商人なのよ」
魔道具の所有が、ジェイドだと思っているようだ。ジェイドの魔道具のほとんどは、王立魔法師団に権利がある。儲かっている商人が知らないはずがない。アンソニーの浅慮が透ける。重ねた嘘が剥がれ出す。
だが、魔道具を手に入れて金を得ることだけが、アンソニーの目的とは思えない。妻子の存在を偽るのは、最後にはフローラを捨てるためだろう。フローラは熊主砦城に乗り込むための駒に過ぎない。使い捨てで代わりの利く駒だ。
「何故、儲かっている商人が、辺境を越えるのでしょうか? 何処に行くのかしら?」
「頭を使え。魔道具しか作れない侯爵令嬢は、世間知らずの引き籠りって評判通りだ。フローラが教えてやれよ」
アンソニーは言質を取られない話し方が巧みだ。
「レスラリー王国だと、ジェイドお嬢様の魔道具は売り難い。ほら、前に欲しければボリス関を奪えって言ってたでしょう。婚約者なのにあんまり好きじゃない証拠だって、アンソニーが教えてくれたの。ボリス関の婚約者でいるのは、ジェイドお嬢様のためにならないって、妾も同じ考えよ」
フローラに話をさせて、アンソニーは満足気に頷く。自分の支配下にいるフローラの存在が愉快だと、笑っている。
「騙されていますわ」
案じる光を目に宿して、ポーラはソファーに浅く座り直した。
「ほんまやな。ジェイドお嬢様もおきばりやした。ぶれてなくて、嬉しいわ」
「ポーラ女将も嬉しいって喜ぶなら、ボリス関は心配ないわ」
ポーラの懸念も、ジェイドの危惧も全てを読み違えたフローラが悦になっている。
「アンソニーには伝手があるの。辺境なら、直ぐにレスラリー王国を出られる。ねえ、女を私室に入れる婚約者なんて捨てて、一緒に行こうよ。妾もジェイドお嬢様を支えるわ」
ボリスへ暴言にソファーを掴む手が強くなる。だが、まだフローラの雄弁を続けさせる必要がある。
「辺境部屋に行けば、誰でも『動く階段』を使えます。わざわざ、私が今持っている『動く階段』を見る必要はありません」
小首を傾げたフローラが、同意を求めてジェイドに言い募る。
「アンソニーが辺境部屋に行こうとすると、『動く階段』が止まるのよ。変でしょう? だから、王都の近衛部屋に行くの」
「近寄れないんだ。だから、辺境部屋への見学はお断りだ」
怒りで声が喉に詰まる。『動く階段』を止めるほど、アンソニーには邪な思いがある。
ジェイドの忿怒を感じたポーラが、話を引き取った。
「しょうもないなあ。フローラはしけた狐獣人に騙されたんやろ? リッチー親方が案じる訳や」
「父様の話は、聞きたくない。相撲の話も話さないで」
アンソニーが猫なで声で、フローラに手を伸ばす。
「相撲しかできない父親だったんだろう? 寂しかったフローラには俺しかいないんだ。フローラのために俺は、熊主砦城に忍び込んだんだ。騎士団がいる危険な場所だって、俺はフローラのために命を張った」
熱に浮かされた足取りで、フローラがアンソニーの手を取った。
相手のためを思うと嘯く自己満足ほど、質の悪い物はない。良い行いをしている思い込みが、周囲を巻き込む。相手を振り回す。善意の仮面を被って、思い通りに相手をコントロールしたい欲が、透けて見える。
「忍び込んだって所業で、悪やと知れてるわ」
アンソニーをポーラが睨みつけた。
「リッチー親方は懸命に相撲へ、取り組んだはずです。相撲が中心になる生活だってあります」
ジェイドはアンソニーにだけ話しかけた。欲の向かう先を、確認したい。
「考えてみろよ。相撲中心だなんて、馬鹿々々しい。妻子よりも相撲を取ったんだろう? 俺ならそんなことはしない」
妻子の存在さえ偽るアンソニーの目は、執拗な熱を含んでジェイドに絡んだ。じっとりと優しい目で、ジェイドに呼び掛ける。
「寂しいんだろう? だから相撲に縋っている。可哀想なジェイドお嬢様。フローラも寂しがっていた。相撲はお遊びだ」
「遊びではありません。真剣な鍛錬で、真摯な神事で、真っ向勝負です」
間髪を入れずに、ジェイドは言い放った。
寂しさを埋めるものが相撲ではない。可哀想だと憐れまれて、相撲に縋りついた訳ではない。ジェイドは相撲が好きだ。
そもそも相撲は簡単に取り組めて、誰でも出来る容易なものではない。選ばれた力士達が奉納するのが、相撲だ。侮辱は許さない。
ポーラが音高く手を叩く。拍手をしてジェイドに同意を示す。
「あんなのは勝負じゃねえ。もっと激しい実際の勝負があった。戦いが、ウルスラウス領にはあったんだ。耳を揃えて聞きやがれ。熊主砦城には、戦いが必要なんだ。殺し合いが此処にはあったんだよ。俺は、戦いを呼ぶ」
ポーラの手が止まった。
アンソニーの顔を、フローラが初めて気付いたように見詰めた。
「考えるな、醜い雌犬」
フローラの頬を張り飛ばした。壁際まで、フローラの身体が吹っ飛ぶ。
「俺が側にいるんだ。黙って俺のためだけに動け。俺だけだろう、無様で惨めな雌犬を可愛がるのは。誰も小汚いお前には、我慢できねえんだよ」
口から血を流して、フローラが床に蹲った。
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