36 来客大歓迎
ウルスラウス領は盛り上がっていた。不知火大神殿には、連日、相撲観戦に獣人も人間も、男も女も、老いも若きも、集っていた。
熊主砦城は、ボリスが千秋楽を迎えるまで全勝で勝ち進んでいたため、興奮した熱気があった。
「熱気も冷めますわね。アニョーの角が、今日は萎んでいるようです。三階から、フローラさんも出て来ませんね」
一際冷え込んだ一角が、熊主砦城にあった。今のレスラリー王国で、唯一うら寂しく、空気が淀んでいた。近寄る者全てが、臭気を放った途端に凍り付くほどの寄り付き難い場所に、ジェイドは立っていた。
ジェイドの横にはアニョーが控えた。
後ろには、辺境騎士団の団員が等間隔で並んでいる。鎧の重装備で、厳めしい。いつもとは異なる昼前だった。
千秋楽は、常より早くボリス達の出発を後押しした。研ぎ澄まされたボリスの顔が、魔法陣の光に消えて行った。
「来客があります。賑やかで心弾み忙しい千秋楽に、本当に迷惑です。引き籠った客のフローラと何方が気懸りか、判断がつきません」
沈み切ったアニョーの声に、客と聞いて、ジェイドの心の奥底で翠が拳を振り上げた。主不在の熊主砦城で、ジェイドは留守を守っている。
「アニョー、聞きなさい。『客、水を絶ちて来たらば、これを水の内に迎うること勿く、半ば済らしめて、これを撃つは利なり』と兵法にあります。川の中で戦うのは、こちらにも不利になります。引き込んで、敵を撃つのです。川を渡った敵は、それだけで疲労しています。ああ、今回は客でしたわ」
「ジェイドお嬢様は、古い文献に詳しいのですね。敵を、ああ、客を熊主砦城に引き込んでいるのですね」
後ろに立ち並ぶ騎士団から声が上がる。
「敵の撃ち方にまで詳しい侯爵令嬢だった。ちょっと怖ろしい。どうしよう、辺境騎士団は生温いとか思われてるかな?」
最前列に立った屈強な騎士が、唇を尖らせた。
額を押さえて、感じ入る騎士も見える。
「かなりの強者と見た。相応しき戦術である」
「来るのは客だろう? 敵とは、聞いていない。帰りたいよ」
「辺境騎士団を召し出したんだ。敵襲も考慮すべきって状況なら、千秋楽も忙しい。早く片付けようぜ」
騎士たちから賛同の声が上がった。
ジェイドが伝えたのは、レスラリー王国には伝わっていない古の孫子の兵法だ。黙って、首肯した。
騎士団がざわめき、伸びきれないほど背筋を正して居並んだ。
「何を言ってるのか、意味不明な呟きもします。すみません。正直に言い募り過ぎました。メモに書き切れません。もう一度、繰り返してください」
ニーナの耳元で話していると、魔法陣が光った。
「前触れの通りに、時間ぴったりです。さあ、客が来ますよ」
「ジェイドお嬢様に来た先触れも、異様でした。クマのぬいぐるみが喋って、驚きました。電話と名前のある魔道具でした」
「電話は妙な魔道具ですが、慣れました。すみません。メモによりますと、トーマス様から毎日電話があります。暇なのでしょうか?」
光が珍しい竜の形に結んでいく。
「父様から聞いていた通りの光です。王立魔法師団の転移魔道具は、強い力ですわ」
ジェイドが引き寄せることなく、魔法陣の中に男の姿が浮かび上がった。大きな箱を抱えていた。
「イーサン宰相様、熊主砦城にお出で頂きまして、家令のアニョーは心から歓迎いたします」
イーサンが激しく手や足を触っている。
確かめた場所を指で指し示し、ジェイドは笑顔を張り付けた。
「身体も全て揃っています。怪我もありません。何か御不審な点が、ございましたでしょうか?」
「魔法陣での移動だって初めてなんだ。優勝カップの転移魔法補助が、正常に機能するか、本当に肝を冷やした」
笑みを深める。
「父様の魔法は、優秀です。信じていなかったのですね」
「王立魔法師団に何か不備を感じているのでしょうか? 宰相様の発言です。明確に厳然と書き残しておきます」
ニーナは胸を突き出して、メモを取り続ける。
メモを覗き込むと絵が描かれていた。桃の形だろうか? 数字の3を横に描いたのか? Wだろうか? 珍しさに、ニーナに首を傾げて見せた。
ニーナが手を止めて、二本の指で自分の顎を撫でた。今日もニーナは優秀だ。
「目が離せない形で、心が浮き立つます。すみません。造形に心が躍っています」
ニーナが頬を染めていた。
「心は計り知れませんね。ニーナの趣味に異議は申し立てません。好みを尊重します」
真っ赤になった顔を押さえて、ニーナの手が止まった。
「異議も不審もない。ごちゃごたと御託を並べて、こましゃくれた侯爵令嬢だ。黙ってついて来い。早く、視察を始める。まずは、辺境部屋へ案内せよ。騎士団は抜かりなく不審者を探せ。レスラリー王国の宰相を狙う奴が、潜んでいるかもしれない」
視察に熊主砦城は入っていない。
辺境騎士団の先導で、イーサンが進んでいく。ジェイドを手招く。
「魔道具の確認が急務だ。『登る箱』は何処だ? 早く『動く階段』を見せろ。辺境は風が強いな」
「父様から、鄭重に御案内をしなさいと言い付かっております。熊主砦城は来客を歓迎しますわ」
トーマスは、辺境に設置した魔道具を必ずイーサンに確かめさせるようにと厳命があった。騎士団の配置も、トーマスからの指示だった。
「ビスクドールを、後生大事に抱き締めていた。トーマスも憐れな様子だ」
顎を突き出すイーサンが騎士団を従えて進んでいく。
アニョーが玄関ホールで振り返った。
「ドアが開きました。やはりこの音は、三階です」
騎士団の甲冑が擦れ合う。
イーサンは声高に指示を飛ばす。
熊主砦城の玄関ホールの諠譟は止まない。
音を聞き分けたアニョーに、称賛を向けた。獣人の中でも優れた聴覚のようだ。
「アニョーは順風耳ですね。異国の守護神の名前です。赤い顔で、頭に二本の角があります。全身が赤い場合もありますわ」
「初めて聞きます。歩きながら書き留めます。ジェイドお嬢様の知識は、幅広くて、説教臭くて、おばあちゃんの知恵袋のようです。ああ、すみません。褒めています。私には聞こえませんでした」
四十数年の経験が、言葉を古臭くしている。ジェイドの口から言い訳が零れた。
「古い、古い文献にありました。遠くまで見える目を持つ千里眼と一緒にいるんです。順風耳は耳敏くて、変化を逃しませんわ。さあ、熊主砦城は来客大歓迎です」
アニョーが頭を抱えて、ジェイドの後について来た。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
ちょっと相撲から離れた話が続きます。