34 十四日目の土俵
大相撲の観戦と合わせて、この作品もお読みいただけると嬉しいです。
幕内の力士が、行司に先導されて花道から入場する。名前と出身地と所属部屋呼び上げるベンジャミンの声に合わせて、二字口から土俵に上がっていく。
幕内の土俵入りだ。名前に拍手が寄せられ、出身地に度どよめきが上がる。所属部屋に集まる歓声に力士は力を貰う。
俵の外側に沿って左回りにゆっくりと歩く。力士同士が互いに等間隔を測って、土俵を背にして立つ。観客に顔が良く見えるように視線を落とさない。
殿を務めるボリスが声を掛けた。
「シー」
不敬の行為をしないように、観客を警告する警蹕だ。大切な所作の一つだ。
全員が土俵に上がったら、一斉に土俵中央に向き直る。揃って柏手を打つ。塵手水を簡略化した所作だ。
続いて右手を上げた後、四股踏みの代わりに、両手で化粧廻しの端を持って持ち上げる。最後に両手を高々と挙げる。この動作は武器を持っていないことと、四股が終わったことを意味する。
幕内力士の土俵入りが終わった。横綱の土俵入りまで、僅かな時間がある。呼出が土俵を掃き清めて行く。
化粧廻しを付けたボリスは花道で振り返って、土俵を見遣った。
土俵入りの時に締める化粧廻しは、エプロンの形をしている。一枚の帯で出来ていて、図案が描かれた面を前に垂らす。裾には馬簾と呼ばれる金色や朱色などの房を付ける。図案には規定はない。ボリスの化粧廻しには、辺境の山が描かれていて、辺境騎士団の紋章が入っている。
化粧廻しは、応援する人々から贈られる。辺境部屋の化粧廻しは、全て辺境騎士団から贈呈され、辺境騎士団の紋章が入っている。紋章が所属意識と騎士団の気概を示していると、評判だった。他の部屋で騎士団の紋章を入れた化粧廻しがなかった。
「今日はいない」
ジェイドの姿は見えない。今日は辺境部屋で相撲を観戦すると、見送りの時に小声で教えてくれた。
ボリスの耳元に寄せるジェイドの顔が、少しだけ紅潮していた。
アニョーは物言いたげな顔をジェイドに向け続けて、ボリスを見送った。何も心配はない。
苦り切ったリッチーは何度も階段の上を見て、ジェイドに頭を下げた。全てを任せておける。
朗らかに笑みを浮かべて、ジェイドは何度も重く頷いていた。ジェイドが可愛くて、頼もしいと感じた。熊主砦城は変わりない様子で、慌ただしかった。
不知火大神殿も変わりない。ベンジャミンが眼鏡を拭いて、取り組み前の準備をしていた。
忙しなく動くグレイも、布を手にしている。『鏡カメラ』を丹念に磨き上げていた。取り組み直前まで、二人は懸命に備えている。
ボリスは支度部屋に向かった。横綱の土俵入りに向かうエドワードとすれちがった。
勝ちっぱなしの二人は変わらず、横綱のエドワードと大関ではボリスだ。大関のスコーピオンは昨日横綱に敗れて、二敗となった。
今日はボリスとスコーピオンが当たる。
獅子獣人のスコーピオンは、上半身の重さがある。強く重い押し相撲だ。まともに当たると、廻しを取り難い。
化粧廻しを解いて、ボリスは廻しを締めた。四股を繰り返し、摺り足を重ねると、時間はどんどんと過ぎて行った。
勝って放心した充実を示す力士が、支度部屋に戻って来る。負けて肩を怒らせる力士が、風呂に消えて行った。
動き続ける周囲の中で、ボリスはひたすらに集中を高めて行った。自分の相撲に向き合っていた。
四股の一足ごとに、熊主砦城が後ろに翳んでいく。摺り足の進みで、ジェイドの声が消えていく。ウルスラウス領の全てがボリスの中に昇華した。
「東の花道から全勝の大関、ボリス関が進んできました」
ベンジャミンの声に迎えられる。花道を進んでいく。弾ける歓声が、ボリスを包み込んだ。声は聞こえるが、ボリスの心は惑いなく、土俵だけに専心していた。
「肩が盛り上がって、尻が張っているね。稽古十分の身体だ。今日は、廻しが取れるのかが見どころだ。ほら、小手投げで勝った時も、立ち合いはもろ手で突かれてたけど、堪えたからね。でも、今日は難しいよ。強烈な押し相撲だ」
レギオンの解説に、ボリスの姿が『鏡カメラ』で映し出された。
「西の花道からこちらも大関のスコーピオン関です。押し相撲で此処まで二敗です」
「まだ、二敗にも優勝の可能性はあるの? どうなの?」
ベンジャミンの声に合わせて『鏡カメラ』には文字が映る。
「優勝は、今日を全勝で迎えた力士に限られてきました。スコーピオン関が勝って、エドワード関が結びで負けると、二敗が一人で、一敗が二人の状態で千秋楽となります。スコーピオン関が負けて、結びでエドワード関が勝てば、全勝が二人です。優勝を掛けた直接対決の本割で決まります」
グレイの用意した紙が『鏡カメラ』に映し出される。紙には、丁寧に勝ち負けの場合が纏めてある。ベンジャミンの話に合わせて、グレイの指が動く。
画面を見て、会場の人々が頷く。
「千秋楽の一発で、優勝が決まる。痺れる取り組みだ」
「エドワード関が負けて、ボリス関が勝てば、全勝が一人、一敗が一人。エドワード関が勝って、ボリス関が負けても同じです。今日の結果がどうあっても、優勝はまだ決まりません」
「ややこしいな。千秋楽で、一敗と全勝が当たる。その場合は、優勝決定戦になるな」
「両者が一敗で並びますと、優勝決定戦となります」
「それも面白いが、復活した相撲の初めての不知火大神殿での場所だからな。全勝優勝で飾りたいと思う。雲龍神に捧げたい」
「横綱を務められたレギオン公爵様の願いですね」
ボリスは軽く屈伸して、土俵に上がった。
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