3 朝空の向こう側
まだ、王都です。
くるりと指を廻して、ジェイドは並んだ鍋に向かって魔法を放った。レードルが鍋の中を掻き雑ぜた。リズムを変えて、五つのレードルが動く。楽し気に薬草が躍り、湯気が舞った。
夜が逃げていく。
「引いてしまったら、負けますわね。勝ち越しも気になります。ああ、あの勝負はどうだったのかしら? 何を言ってるのかしら? 変だわ。画面は良く見えなかった」
深夜を過ぎた研究室に、ジェイドの他に姿はない。ホークハウゼ侯爵家のタウンハウスの東側の一階は、全てがジェイドの魔法研究のために使われていた。
研究室の東と南の壁には窓があり、窓の下は棚になっていた。分厚い本や触れは砕けそうな古い文献の綴が、みっちりと詰め込まれている。北には簡易な浴室に続く扉がある。扉の脇には、天蓋のある小さなベッドが鎮座していた。ベットから見える研究室は、ジェイドのお気に入りの眺めだ。西は一面に薬草と魔法薬の瓶が収まった棚があった。
時々、この頃は毎日、研究室のベットで寝てしまう。研究室で完結できる生活を整えたのは、二年前だった。
「研究室の居心地が、すこぶる快適です」
テーブルの上の熊のぬいぐるみを持ち上げた。熊からの返事はない。
熊の顔を見詰めて、右目を刳り抜いた。真珠を埋め込む。金色に光を帯びた真珠だった。指先から真珠に魔力を込める。魔力を呑んで、真珠は煌めいた。労わる手付きで熊をテーブルに戻して、熊の背を撫でた。
ジェイドは夜会から戻り、今、研究室に籠っていた。
鍋が静まった。
ジェイドは棚に向かって手を差し伸べる。次々に瓶が鍋の前に整列をして、魔法薬が満たされていく。封を施された瓶が、行儀よく棚に収まる。
「思い出したのは、私の名前で、死んだ瞬間って状況でしょうね。私は、ジェイドとしてレスラリー王国に転生したんですね」
日本では聞いた覚えのない国名だから、ここは異世界だ。ジェイドは侯爵令嬢で、高い魔力を持って転生した。
「たくさんのラノベを読破しておいて、良かったわ。状況が掴めますもの。ゲームはほどんどしなかったから分からないけど、読んだ本に、レスラリー王国の話はありませんでした。翠が転生した理由は何かしら」
読了したラノベは、万に近い数だ。
翠だった自分をなぞってみる。国語の非常勤講師として、鷹栖翠は三つの中学校を掛け持ちしていた。
指を折って、ジェイドは年を確かめる。
「四十七歳で、定期テストの採点途中で息絶えた。赤ペンが、解答用紙に染みを作ってましたね」
転生した理由が、思い浮かばない。確かに、四十七歳は早い死だが、自分で選択してきた生き方は充実していた。
「不安定な仕事で、結婚もしませんでした。客観的には、女が一人寂しく死んでいったと見えます。他の人にどう見えても、私は、そう、翠は気にもかけませんでしたわ。毅然としています」
齷齪と足掻いて生きたと、他人に見えるだろう。見っともない。惨めだと陰口も聞こえた。でも、翠は満足して生きていた。自らが勝ち取った生き方だった。悔恨が思い浮かばない。
「転生の理由は分からないわ。だけど、転生した事実には納得が出来ます」
魔法薬が並ぶ棚の横の、鏡を見た。髪を撫でる。
ジェイドの父のトーマス・ホークハウゼ侯爵は、金髪と碧眼の人間で、王立魔法師団に勤めていた。年を経てトーマスは肉付きが良くなり、今では金髪も少し心許なくなった。
母のアデレイドは狐獣人で、黄金色の耳と豊かな尻尾が美したっか。尻尾のふくらみが減ったとアデレイドは嘆きながら、ホークハウゼ領をしっかりと管理していた。
兄のビルヘルムは、ジェイドの五歳年上で、母の気質を受け継いだ狐獣人だ。近衛騎士団の騎士だ。
レスラリー王国は、抜群な身体能力を持つ獣人と、魔力を持つ人間が暮らす国だった。人間と獣人が夫婦となって生まれる子供は、どちらかの能力だけを受け継いだ。
獣人は騎士を目指す者が多く、人間は魔力を活かして生活をしていた。
ジェイドは、テーブルの上に置いたあったビスクドールに話しかけた。
「前から、感じていましたの」
転生したと自覚する前から、ジェイドは変わった侯爵令嬢だった。夜会から去る時に、ビルヘルムが告げた言葉がジェイドの心の奥底に澱んだ。
「確かに、友達はおりません。兄様は沢山の御友人を連れてタウンハウスに帰っておいでです。私は年の近い御令嬢から、何処かに誘われた覚えもありません。御子息との会話は、考えられません」
魔力は豊富で、魔法が得意で、魔道具や魔法薬を次々と造り出すジェイドは、同年代から遠巻きにされた。考え方も話す内容も、互いに理解ができなかった。
寂しくはなかった。ジェイドはひたすらに魔法に魅了されていた。
「今回の夜会で、初めて鏡をしっかりと見たような気がします。無駄になってしまいました」
苦い笑みを零す唇は、アデレイドに似ていた。意志を示す引き締まった顎はトーマスから受継いだ。ビルヘルと同じ目の形はアーモンドだ。
だが、ホークハウゼ家が誰も有していない、黒い髪に黒の瞳を持っていた。レスラリー王国の誰よりも、多くの魔力があった。
ジェイドは持て余すほどの豊富な魔力を使って、新たな魔道具を作るのが得意だった。魔法薬は効き目が優れていた。
ビスクドールの右目を刳り抜く。
「生々しいわ。全ての魔道具が出来るって、知っていました。完成品がわかっていたの。私自身の発明ではないのに、卑怯な開発はチートで、少しだけ気が咎めます」
真珠を詰めて、ビスクドールの右目に魔力を込めた。
八歳で魔法薬の創薬を完成した。まだ隣国と戦いが続いていた。ウルスラウス辺境にも、魔法薬は送られた。
「ハーブの中でも、薄荷や紫蘇は好きでしたから、覚えていたのでしょうね。茗荷も捨てがたい。ヴァーベナも常に使いたいほどに、魅惑の香ですわ」
ビスクドールをテーブルに戻した。熊のぬいぐるみを持ち上げる。
十歳で、魔力がない獣人でも魔道具を使える改良をした。
水の浄化や火の威力を魔法で予め調整し、獣人でも人間でも自在に操れる魔道具を作った。
「動力が魔法になっただけですの。洗濯機も掃除機も、知っていました。仕組みは分からなくても魔力があったら、組み合わせで完成しましたわ。イメージすれば魔力が動き出す。雷の力は偉大です。電化製品は雷の魔法で、何でもできるって思います」
ジェイドには、火、水、土、風、光、雷、氷のスキルがあった。特に、土と風と雷をジェイドは好んで使った。
「雷を使うと、電気の動きを考え易かったわ。翠の記憶が、この髪と瞳に残っているからできたのかしら。でも、顔が美人過ぎますわ。もっとさっぱり平たい、あっさりとした顔でした。これもチートでしょうか?」
翠を自覚してから、自分の顔を美しいと評価するほどにジェイドは客観視していた。状況を冷静に眺めた。
「四十七年の年の功を足したんだから。嫌です。大変ですわ。六十歳を越えてしまいます」
ぶるりと首を振るった。
「怖ろしい。最大値が四十七歳って考えましょう。身体は、無垢で純真な十六歳よ。間違いありません」
掌を合わせて、魔力を込める。扉を開く如く手を動かすと青緑の光を発した。
「アイテムボックスは有難いです。チートに感謝するわ。生き物以外は何でも入るし、時間の経過もありません。そうそう、魔法薬も必要です。貼付薬は、効果がさらにアップしました。新たな飲み薬は、全ての魔法薬の効き目を促進する働きですわ」
棚から二十本ずつ、五種類の魔法薬がアイテムボックスに呑まれた。
熊のぬいぐるみの腕を持ち、ジェイドはぶるんと振るった。勢いを付けてアイテムボックスに放り込んで、掌を握り締めた。
ドドッと扉を叩く音がした。
「やっと来ましたわね。ニーナ。待っていましたわ」
五つのトランクを積み上げたニーナが、研究室に入って来た。
「ドレスを選ぶのに、時間が掛かっちゃいましたあ。リボンも靴も厳選したんですよう。許してください。ジェイドお嬢様、何処までも着いて行きます」
ニーナ・クルックが大きな胸を張った。黄緑の羽毛が、頭の上で揺れる。許しを請うのはニーナの口癖だ。鳩獣人のニーナは、頭を前に振りながら歩く。ジェイド付きのメイドで、掃除や洗濯に調理が得意だ。中でもドレスの染み抜きは、王都のメイド選手権で三連覇している。力加減が、他の追従を許さないらしい。
「日本の公園で見た鳩の仕草に似ていますわ。新たな発見です。荷物もアイテムボックスに入れましょう」
「案じておりました。だって、デビュタントのファーストダンスを断られたんですよ。落ち込んで、泣いて、嘆いて、寝込むと思っていました。すみません。元気過ぎるのはニーナです」
ニーナの動きは、言葉とはかけ離れて躊躇いがない。慣れた様子で、背よりも大きな大きなトランクをニーナが持ち上げる。獣人は人間にはない力がある。
「眠くないのよ。休んではいられませんもの」
「魔法酔い止めのフルフェイスマスクも、ヴァーベナの匂い付きで完備ですよ。お側から離れません。すみませんが、ジェイドお嬢様に付きっきりです。メモ帳も忘れません。もう、ボリス閣下を許したんですか? それとも、嫌いになったんですか?」
ニーナは慌てて口に手を押し当てた。
「すみません。言い過ぎました」
働き者のニーナは体力もあり力も強いが、魔法に酔い易い。ジェイドの研究室ではフルフェイスマスクが欠かせない。メモに書付ける姿も見るが、何を書いているのかはジェイドも知らない。
東雲色が窓を染めた。朝の空を見定める。ニーナの手を握った。
「朝駆けをします。ボリス閣下、御覚悟くださいませ」
「迫力がありますねえ。楽しみです。離れません」
ジェイドは、魔法陣を展開した。煙が立ち込める。ジェイドとニーナの身体が浮かんで消えた。
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