29 長い十二日目の宵闇で
王宮も・・・
王都を渡る風に、うっそりと闇が濃くなる。トーマスの潜めた声が、王宮に宵をさらに濃く塗り潰した。
ビスクドールを目の高さに掲げて、言い聞かせた。
「無茶をしてはならない。ちゃんと相談をして――」
足音より早く、声が飛んでくる。
「やややっ、美しい奥方に逃げられて、物騒な娘が帰って来ない。とち狂ってビスクドールと話し始めた。そもそも持ちあるくとは、相当に病んでいる」
ビスクドールの手が口を押えた。
ジェイドが電話を切ったのだろう。動かないビスクドールを濃紺のローブに隠して抱きしめた。
ビスクドールをアイテムボックスに忍ばせたのは、不知火大神殿の天覧相撲からトーマスが帰った後だ。アデレイドからの助言に従った。ジェイドの声がいつでも聞けると思うと、寂しさが紛れた。アデレイドは正しい。
トーマスのアイテムボックスの大きさは平均的で、自分の全身がどうにか入るほどだ。平均と言っても、他人のアイテムボックスの大きさを知るのは、獣人の尻尾に無断で触れるのと同じほど無粋で、破廉恥な行為だ。王立魔法師団の中でも、アイテムボックスの状態は自己申告のみだ。
計り知れない大きさで、時間の経過がないジェイドのアイテムボックスは、かなり珍しく驚異だ。
「今日のトーマスはやたらと慌てて、王宮の礼拝堂から出て行った。何を企んでいるんだ?」
イーサンが割れた顎を突き出す。自信が漲っているが、走ったために息が上がっている。荒い息が、トーマスの前髪を揺らす。
アデレイドは光る頭は気にならないが、顎は見たくないと出会った頃から眉を顰めていた。
頭と顎に視線を飛ばす。確かに、顎はしっかり割れている。頭は闇でも僅かな光を集める。気に病む箇所の異なりが、イーサンとアデレイドの相性を示していると、トーマスはいつも溜飲を下げる。
「王宮では冷静かつ沈着と評判の宰相だったはずだが、如何したんだ。イーサンは息が上がって、水から出た魚だな。鍛えてなさすぎるぞ、腹も出てきた」
頭と腹を撫でたイーサンが前に立ちはだかった。
「話を逸らして無駄だ。誰もが大歓声を上げた結び前の一番、大関同士の取り組みで、一人だけ顔が凍りついていた。ボリス関の小手投げに唸らなかった」
ボリスは街道部屋の大関のルミエルを破って、全勝を守った。
ルミエルのもろ手突きが肩に当たり、ボリスは出足を止められた。胸を出してしまったボリスの体制が崩れたかに見えたが、足を動かし廻しを狙って行った。
「良く堪えた一番だった」
「トーマスは堪忍できてなかった。『鏡カメラ』にこましゃくれた侯爵令嬢が映った時に、トーマスは眉間に皺が寄った。何か見たんだろう?」
不知火大神殿の様子を映す『鏡カメラ』は、相撲観戦の楽しみの一つとなっていた。鮮やかに観客の顔が映り、不知火大神殿への集客を後押ししていた。
トーマスは『鏡カメラ』の中に、確かに信じ難い姿を見た。イーサンに覚られるほどの動揺があったのも事実だ。ジェイドと隣で話していた様子に堪えられずに、電話をするほどトーマスは狼狽した。
「イーサンは、私の一挙手一投足を見ている。私に、気があるんだ。知らなかったよ。思いには答えられなし、礼も伝えない。はっきり言って、迷惑だ」
ビスクドールを抱えて歩き去る。イーサンの足音を後ろで確認しながら、王宮を進んだ。突き放して関わるなと諫めれば、必ずイーサンは食らいつく。
「懐に入れたほうが、動きが分かる。確かに、ジェイドの言分に利がある」
危険回避の察知方法としては、間違っていない。
「一人で呟くな。王立魔法師団の主席魔法師でも、避けられぬ難儀はある。宰相の権限を持ってホークハウゼ侯爵家の困難を取り除くのも、吝かではない」
イーサンは自らの力をトーマスに差し出すのを、躊躇わないようだ。物惜しみなく、喜んでトーマスの手足となるらしい。
使い倒そう。
耐えきれない風情で、肩を落とした。ゆっくりと止まって、窓辺に進む。トーマスは口を重く動かした。
「ジェイドの側に、犬獣人の娘がいた。デビュタントに現れて、ボリス閣下と消えた犬獣人だ。ビルヘルムによると、リッチー親方の娘のフローラ嬢だ。アデレイドの手紙では、ボリス閣下との婚約を画策しているようなんだ」
「奥方からは、手紙が来るんだな。注意しろ。本場所中は、ボリス関って呼び名になるんだぞ」
アデレイドの話題が出ると、イーサンは話の本筋を見失う。誘導が煩わしい。
「婚約の行方が、気懸りだ。フローラは柴犬に似た犬獣人で、ジェイドと年が変わらない様子だ」
「待て待て。ウルスラウス領の辺境で、柴犬の犬獣人。その話なら、四年前も話に聞いた」
イーサンは異様に記憶力が良い。宰相になった力の源とも言える。一度伝えておけば、必要な時に必要なだけ情報を出してくる。
力なく首を振るトーマスの前に、イーサンが逃さないとばかりに廻り込んだ。
「思い出せ。トーマスが『動く階段』と『登る箱』を繽強に設置した時だ。忘れたのか? しつこく話を聞きたがった犬獣人の娘がいたはずだ」
覚えている。だから、ジェイドの横で微笑む姿に怖気が走った。
フローラは『動く階段』を褒めちぎった。目を輝かせて『動く階段』に乗って喜んだ。王都にいるジェイドを辺境の地で思い出すほど、フローラは無邪気に見えた。
「主任魔法師が、よもや失敗しないと判断する。まさか誰が作ったのか自慢したわけではないよな?」
俯いた。イーサンの舌打ちが聞こえた。
「ボリス関が本場所で忙しいから、今は、ジェイドに近づいてるようだ。それに、熊主砦城の三階に入ったと聞いた」
「何度も手紙のやり取りをしていて、妬ましい」
電話の存在を伝えられない。ぼかした表現を、イーサンは都合よく解釈してくれた。
「熊主砦城に入るのを、誰が許したんだ? 本場所中だぞ。ボリス関は考えが及ばない。まさか、ジェイドが連れ込んだんだな。三階は、家族のプライベート空間だ。確かめる必要がある」
ジェイドは、フローラの狙いを探るために引き込んだ。
「流石に我が娘と称賛したいが、危険が多い」
「もっと、危機感を持て」
イーサンが焦れている。
「千秋楽には、コニアス国王がまた、不知火大神殿に行かれるのだろうか?
一緒に行って、確かめたい。その、同行を願い出ようと思う」
首を振るったイーサンの頭から、光が乱反射した。
「優勝カップだけを転送する予定だった。度重なる転移は王立魔法師団の負担にもなっている。一番の苦労を知っているのは、トーマスだぞ」
「王立魔法師団の全員が、力を尽くしている。それに、興行の収益も多く上がってきている。正直に告げれば、大儲けだ。会計処理に追われている」
にやけた顔で、イーサンが手を打った。
「転移する先を熊主砦城にすれば、ジェイド嬢の様子も、フローラ嬢の動向も計れる。不知火大神殿までは、馬車で二時間だ。トーマスが無理をするな」
風の向きが変わった。常より大きな風が、存在を撒き散らして近寄って来る。
コニアスが風を孕んでいた。
「宰相一人で十分だ。要処である熊主砦城を視察せよ」
頭を下げたトーマスの前で止まることなく、コニアスは去る。
イーサンがコニアスを追う。
「王宮は、何処にでも目も耳もある」
コニアスとトーマスは、互いに眇めた目を僅かに交わした。
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