28 十二日目の勝負
ジェイドったら…
ジェイドが突き上げた拳の側で、ニーナが土の上に二本の線を描いた。
転げるように駆け寄ったグレイが、線から大股で三歩下がった所で円の線を引いていく。力を振り絞っているのだろう、汗が額にびっしりと浮かんでいた。
「嫌いな相撲で、勝って見せるわ」
フローラが、何度も後ろに足を蹴り上げる。走り出す直前の姿だ。
ジェイドは靴を脱いで、円の外に立った。翠に唆されたが、引くわけにはいかない。相撲を実際にとるのは、翠もジェイドも初めてだ。
「眼鏡がなくとも、行司を務めます。審判長と実況を、ニーナちゃんにお願いしましょう。グレイは解説です」
仕切り線に立ったグレイは白無地の白扇を手に、朗々と声を張った。
「西、犬獣人で眼鏡を盗み『鏡カメラ』を壊すと脅迫した相撲嫌いのフローラ子爵令嬢、フローラ子爵令嬢。東、『鏡カメラ』を造って相撲を愛するウルスラウス辺境伯の婚約者ジェイドお嬢様。ジェイドお嬢様」
グレイの呼び上げが詳細で、伸びやかな声だった。十二日目は偶数日だと意識して、西方からの呼び上げなのだろう。名前を二声したのは、三役以上の取り組みと位置付けてくれたようだ。
「扇の役目をベンジャミンから聞きました。唾で土俵を穢さない。力士に息をかけない。呼出の細やかな心遣いの表れだそうです」
ニーナの実況が始まった。
懐から小さな塩かごが二つ出てきた。
「準備万端の呼び出しのグレイですが、さすがに力水の用意はありません。水桶と柄杓は懐には入りません。なんと、水筒が出てきました」
ニーナの声に合わせて、先にフローラが力水を受けた。眼鏡をグレイに預けている。
蹲踞をして、仕切りを一度した。そのまま仕切り線の前でジェイドはフローラに向き合った。
「時間です。見合って、手を突いて」
「仕切り線から離れて手を下ろしたのは、ジェイドお嬢様。おっとりとした風情が、仕切り線との位置関係にも出ています。腰が低めです」
「長年の引き籠りなり」
グレイの応じる声は端的で、少し抉る。
「引き籠っていましたので、体力もありません。腰は上がらないでしょう。今日は、初めて袖を通した華やかな臙脂色のドレスです。いつ見ても美しい姿です」
「鮮やかなり」
「フローラ・バウム子爵令嬢は、仕切り線のぎりぎりに手を突いて、歯を剥きだしています。常に吠えている、犬獣人の性格が見えます。常にピンクを着ていますが、派手で目が痛いほどの激しいピンク。高い腰で、剥きだした歯茎と同じ色です」
「賑やかなり」
実況と記録を兼ねるようにニーナの声が飛び、右手のペンは休まず動いている。
「ハッキョイ。まてまて、もう一度」
ジェイドは気が急いて、つっかけてしまった。
「ベンジャミンから待ったがかかり、仕切り直しです。両者ともに、初めての取り組みですから、呼吸を合わせるのが難しいでしょう」
「睨み合っているなり」
「ハッキョイ。残った、残った」
頭を下げてぶちかましていったジェイドの前に、フローラがいなかった。
「いきなりフローラ子爵令嬢が右に変化した。ジェイドお嬢様の突進を躱した」
「突き押し相撲なり」
「踏ん張ったジェイドお嬢様が、フローラ子爵令嬢に向き合って、さらに頭を下げて向かった」
犬獣人は身体も人間より大きい。人間の体格は、手足の長さも身体の厚みも、獣人には及ばない。相撲を取るのに無理がある。
突き出した手を簡単に胸で呼び込まれ、ジェイドの腰にフローラの手が掛かった。
「廻しはないが、フローラ子爵令嬢ががっしりと腰を掴んだ。身体が密着して、フローラ子爵令嬢の膝が曲がった」
フローラの左足の膝に、外掛けで足を絡めた。左手も同時に伸ばす。体格に差がある時に有効だと聞いた技を、心の奥底で翠が覚えていた。小柄な力士が躍動する技だ。レスラリー王国では、まだ見ていない。
「ジェイドお嬢様の左手が、フローラ子爵令嬢の右足を掬った。右足は外掛けをしていて、頭でも胸を押している。三か所を同時に攻めている! 押せるのか? 大木に張り付く蝉の姿。手も足も頭もフル回転!」
「ベンジャミンも動くなり」
「低音で響く声で、グレイの声は色を振り撒き危険だ。やはり『鏡カメラ』の前で黙っていて欲しい。土俵の上で、これほど機敏なベンジャミンも初めて見た。眼鏡がなくとも、近くの力士は避けられるようだが、こちらも危険だ」
「残った。残った。ハッキョイ!」
フローラの身体から力が抜けた。ジェイドを抱えるように後ろに仰け反った。浮き上がったジェイドのは抱き締められた。
勢いをつけたジェイドは身体が止まらない。
獣人のみっしりとした肉を通して、衝撃が全身に響いた。痛くはない。捕まれて、苦しい。
「三所攻めなり」
軍配が東に上がった。懸賞の眼鏡が、グレイからベンジャミンに渡される。
蹲踞をして手刀を切り、懸賞を受け取った。
「軍配に向かって、左、右、真ん中と手刀を切ります。グレイの解説によりますと五穀豊穣の神への感謝を示しています。メモをしますので、すみません。しばらく黙ります」
長い息を吐いたニーナの調子も、実況を終えて普段の様子になっていた。
土俵に見立てた円の外に出て、ベンジャミンに眼鏡を返す。
疑問が泡のように浮かんできた。
ベンジャミンの眼鏡を奪ったフローラと、何故、不知火大神殿のすぐ前で会ったのだろうか?
立ち止まったフローラは、何を見ていたのだろうか?
嫌いだと嘯きながら、フローラは相撲の技を知っていたのだろうか?
何故、ジェイドを抱きしめて衝撃を和らげたのだろうか?
ジェイドに勝たせた理由は、何だろうか?
一つひとつは小さなささくれ程度の疑惑だが、ジェイドの心の底に深く落ちて行った。ささくれを、翠が愛おしそうに受け止めた。
フローラは何かに焦って、困って、居場所を亡くしている。
トーマスが王宮に入ったように、人知れず怪しい動きを近くで監視する。
近衛騎士団を選び、やがて力士になったビルヘルムのように、必然的に側にいる。
優しく甘やかして、徹底して引き脆る居場所を造ったアデレイドの手腕を真似る。
揺るぎないホークハウゼ侯爵家のやり方だ。
ジェイドはフローラの前に立った。危うきは、身近で守る。
「熊主砦城に部屋の用意をしますわ。相撲を観戦してから、一緒に帰りましょう」
ニーナのペンが折れた。
お読みいただきまして、ありがとうございます。二日間、投稿をお休みします。すみません。体調を整えて、9月7日の投稿を目指します。ああ、編集前は日付を間違えてしました。疲れています。
どうか、また読みに来てください。よろしくお願いいたします。