27 十二日目は混乱
心の奥底が叫びます
フローラが走り出した。ジェイドには気付かない様子で、何かを見定めて前を追っていた。
犬獣人の脚力に、人間のジェイドは追いつかない。
「ニーナがあのピンクの塊を引き留めます。足で負けても、鳩獣人の目は、果てしなく遠くまで見えます。すみませんが、ジェイドお嬢様を置いてきます」
ニーナは不知火大神殿の敷地を、縦横無尽に走り出した。
櫓太鼓を廻り込んで、フローラが消えた。
敷地の中には、多くの屋台が出ていた。食べ物や飲み物が売っている。
「熊主砦城のコック長の力作の和菓子もあります。檸檬色は美しい干琥珀は、甘くて歯を立てるとほろっと砕けます。彼方は枝豆の使ったずんだ餡の餅が、艶やかです」
香ばしい味噌が焼ける匂いが、ジェイドの鼻を刺激した。
「焼きおにぎりでしょうか。甘い味噌が焦げています。あら、干物も焼いていますし、豚汁もあります。食事の種類が増えましたわ。此方には王都のプティングも見えます」
フロランタンを頬張る兎獣人の若者の手には、今日の取り組み表が握られていた。色鮮やかなマカロンを見定める人間の女の子は、意を決した目で財布を取り出した。新たな社交場が、不知火大神殿にできていた。
売店の売り子は、不知火大神殿の付属の孤児院や養老院に入っている獣人と人間に限られていた。
「多くの屋台を、野放しで出店をさせない。イーサン宰相と父様の采配ですわ。不敬罪になってしまいます。全ては、コニアス国王陛下の御心でした」
売り上げの十分の一を上納させて、『鏡カメラ』での相撲の観戦は無料となっている。『鏡カメラ』の観戦料が高いので、妥当な金額だろう。レスラリー王国全ての不知火神殿で各支部で、同じように屋台が出ている。
不知火大神殿には、会場に入れない観客向けに『鏡カメラ』を設置した相撲観戦の会場があった。最初は、三つの『鏡カメラ』の観戦会場を設置したが、今や会場は十に増えている。屋台も当初の三倍になった。
ピンクの塊が立ち尽くしていた。何かを凝視している。顔の先には、フィン達に何度も質問を繰り返した狐獣人の少年が見えた。手を引いていた妹らしい女の子はいない。少年が、屋台の中に消えた。
「ウルスラウス領の多くの物品が、売れていますわ。あの少年は、相撲観戦に来た訳ではないようね? 四人は家族だと思っていました。ああっ、のんびりと見てしまいました。ドレスが重いです」
ピンクの塊に、横から突進するニーナが飛び出して、刹那、二人は見合った。
走力に優るフローラがドレスを翻して、ニーナを引き離していく。
引きずるような二人連れの姿が、屋台の前に見えた。屋台に似合わない行司の装束と呼出の装束だ。駆け寄る。
「ベンジャミン。私が分かるかしら? 眼鏡を奪われたんでしょう。グレイはもう、倒れそうですわ。何も見えないのかしら?」
顔を寄せたベンジャミンの目に、ジェイドの黒髪が映り込んだ。。
「柴犬の毛並みの犬獣人の女に『鏡カメラ』を壊すと、脅迫されました。ジェイドお嬢様は、解説が拙くて『鏡カメラ』の操作が下手で悩んで引き籠った。責任を取れと言われて、言葉もありませんでした。怯んだすきに、眼鏡を奪われました」
ベンジャミンが蹲る。
引き籠りの余波が大きくて、ジェイドは言葉を失った。
「無念なり」
グレイの声を初めて聴いた。
「グレイは力がなくて、犬獣人を押さえられなかった。眼鏡がない私を、此処まで連れて来てくれました」
声を搾るグレイと、目を擦るベンジャミンが何度も頭を下げる。詫びる声が止まない。
ジェイドは慌てて口を開いた。
「二人が『鏡カメラ』を支えていることは、私が一番よく知っています。引き籠ったのは事実ですが、理由は個人的で家族に関わる内容です。伝えられませんが、相撲は直接的には関わっていません」
二人を立ち上がらせる。
「眼鏡を持ったフローラさんを追って、此処まで私も来ました。眼鏡は壊れていません。彼方に、ニーナは走っていきました。追いましょう」
不知火大神殿の外れまで来た。峻険な山肌を背に、古びた建物と深い森がある。屋根が半分崩れ落ちた建物に入り込む前に、ニーナがフローをの肩を掴んでいた。異質なほどに鮮やかなピンクが、ジェイドを迎えた。
「ずっと引き籠っていれば、目障りじゃないのよ。引き籠っても、皆が心配してジェイドお嬢様のちやほやする。さぞ、気持ちが良いでしょうね。幼い子供だわ」
反論が浮かばない。
「引き籠ったのは事実です。沢山の迷惑もかけました。責任は私だけにあります」
話しながら、ジェイドはゆっくり近づいた。心の奥底の翠が柔らかく口角を上げていた。中学校の非常勤講師で培った、危機対応の翠の顔だ。怒れる生徒には、ゆっくりと間を詰める。決して急がない。決して見捨てない。今は側にいると伝え続ける。憤怒の原因が、見えているものとは限らない。
「ボリス関も、ボリス閣下も、妾から全部を奪ったのよ。ジェイドお嬢様ってやっぱり悪い女ね。憎らしい」
フローラがジェイドに眼鏡を突き出した。戦利品を突き出す甘さに、フローラの弱さが見えた。話を続ける。笑顔を絶やさず顔に装備する。
「フローラさんはお可愛いらしい。以前も伝えましたが、悪いのはバウム子爵家の女の趣味です。眼鏡と相撲と私と、どれが一番嫌いなのでしょうか?」
「馬鹿にしているわ。妾は可愛くない。相撲、相撲ってうんざりなのよ」
掛かった。フローラが嚙みついたのは、相撲だ。
「相撲が嫌い。父様は邸にいない。騎士団も熊主砦城も、相撲の話で溢れている。優しかったボリス閣下もいなくなった。妾は居場所がなくなった。児童養護施設だって、相撲の話をするから――」
「児童養護施設にフローラさんは関わっているのかしら?」
唇を噛み締めて、フローラが眼鏡を突き出した。
「返して欲しかったら、奪いなさいよ。ジェイドお嬢様から教わったわ。欲しいなら奪えって。偉そうに、気に入らない。勝負しなさい」
眼鏡のないベンジャミンが、這って進み出た。
「不知火大神殿は賭け事も、争い事も、商いも、禁じられています。全ては相撲のみに許可されています」
相撲は取れないと、ジェイドの身体が竦み上がった。
ベンジャミンが、懐から軍配を出した。
「神官の私とグレイが立ち会います。いざ、正々堂々と勝負を!」
ベンジャミンの声に心の奥底が沸騰した。熱く滾る思いがジェイドを突き動かす。止まらない。止まられない。
「正々の旗を邀うること無く、堂々の陣を撃つこと勿し」
心の奥底で拳を握った翠が、ジェイドの口を使っていた。抑えきれない翠の思いに揺さぶられて、ジェイドの口が暴走していく。
「大好き孫子が出てきたら、黙っていられないです。軍爭は戦いの極意を解いています。よく整備した正々の旗を掲げた相手には、戦いを仕掛けることはない。堂々と充実した陣立てには攻撃は仕掛けない」
口を開けたフローラが、ジェイドを訝しんでいる。
翠の思考だけが、口から飛び出す。押さえきれずに、ジェイドは翠の思いを吐き続ける。
「解釈は難しいですが、戦いとは互いに万全を期する必要があるという意味を此処では使いましょう。勝負は、私が受けました」
口角に泡を飛ばして、ジェイドは両手を突き上げた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
<参考文献>
『孫子』 金子治 訳注 岩波文庫