19 五日目のその前に
辺境部屋の所属力士は十人です
五十人の力士で勤める本場所は、午後に場所入りが決まっている。
辺境部屋は毎日、ジェイドの魔法陣で移動する。午前中は、常と変わらず辺境部屋で稽古をする。
初日から、危なげなくボリスは相手を退けた。
「辺境部屋は、負け続けた力士はいない。今日も押していくぞ」
朝稽古を終えた。本場所が始まってから、食事は常に辺境部屋の皆で食べた。目の前で自分より考えに沈み、落ち込んで、悩んでいる力士がいる。一方で勝ちに自信を深め、喜びをかみしめて、次に挑む力士も存在する。
共に過ごす時間で、ボリスはやっと平静を保てると感じていた。
番付も年も下のフィン達に、声を掛けるもの忘れる時もある。相撲だけに向き合う時間の尊さと、厳しさが身に迫った。
「本場所中だから禁じ手の確認を、食べながらするぞ。神事たるもの、危険行為は絶対にダメだ。禁じ手には何があるか、知ってるか?」
リッチー親方が周りを見渡した。
手が上がった。前頭二十一枚目のアレックスだ。リッチーが目で促す。
「握り拳で殴る、だと思いました。あれ、間違っているでしょうか?」
立ち上がった勢いまでは気が張っていたが、注目された途端にアレックスの声が、小さく消えた。ぐずりとアレックスはしゃがみ込んだ。
「殴り合いじゃあ、相撲にならねえし。最初に手を挙げるってのが、アレックスの意気込みだし。先を越されて、僕はまだまだ先手を打てないし」
フィンが調子良く、言葉を引き取った。気働きができるフィンは、辺境部屋の雰囲気と常に明るくしてくれる。
「アレックスに負けらんねえ。両手で喉を掴むってもの反則だ。片手で掴む『のど輪』とは違うぜ」
自分の首に手を当てて応じたルイは、前頭十九枚目だ。辺境伯部屋では下から二番目の番付となる。
「番付の下で争うのは止めたまえ。もっと上を見るが良い。前頭六枚目のリカルドが身体で覚えたのは、前立褌を掴んだり、横から指を入れて引っ張たりする反則である。するっと廻しが外れる。普通は廻しが外れたら、外れた力士が負けとなるが、これは違う。よっぽど狙わないと、前立褌には手が掛からない。まさに急所と談ずる」
重々しく言い切ったリカルドは、眉を顰めた。
思い出したくないとばかりに力が籠ったリカルドの眉根を見て、リッチーが苦く口を開いた。
「急所は避ける。儂も忘れたい出来事があった。リカルドは立派だ。相撲を続けている。他にも目や鳩尾など急所を突くのは、反則だ。身体に直接的な危害を与えるのは、相撲ではない」
話しながらリッチーの言葉が強くなっていった。
廻しは、胴の周りを締めている前の部分を前褌、後ろの結び目を後褌と呼ぶ。身体の背の部分で股を隠すのがが立褌で、前の部分が前立褌だ。前袋とも言う。袋状になっている前立褌はやや緩み易い。まさに急所を守っている部分だ。だからこそ、前立褌に触れるのを憚る。
褌から離れたるために、ボリスは頭を撫でた。
「両耳を同時に両掌で張る。耳がおかしくなる。獣人の耳は繊細だ。頭部についていたり、顔も横に耳がある獣人もいる。立ち合いで張るなら、片手のみだ」
ラシードとクロードが手を握り合った。
「まだまだ、反則はあるじゃんね。指を折り返すも反則技ずら」
前頭十四枚目のクロードと七枚目のラシードは、双子の犬獣人だ。互いの力加減を十二分に把握している。
続いて立ち上がった三人は、番付が続いている。ジークが十六枚目で、十七枚目のキキリンと十八枚目がボアだ。三人共に初日を落として、昨日の四日目で星を五分に戻した。
「胸や腹を蹴る」
キキリンの腹の前で、ボアの足が寸止めされた。
「僭越ながらジークが解説します。身体を開いて、相手の足の内側から外に蹴るのが『蹴手操り』だ。その後で肩などを叩いたり、手で前褌を手繰る。前に倒して、勝つ! 苦しゅうないって感じです」
ジークの声に合わせて、キキリンがボアの身体を蹴手操りで倒した。ジークはレギオンを目指して、ゆくゆくは解説をしたいと話を弾ませていた。
「レギオン公爵様が目標なら、まずは横綱になってくれよ。最後は、頭髪を掴むだな。指が頭に絡むからな。判断も難しい」
「横綱のエドワード関は、髪が長くて引っ掛かり易いし。相撲が取りにくいし」
呟いたフィンは、今日が横綱戦だ。
フィンが足を撫でていた。場所の前に挫いた部分だ。ジェイドの魔法薬で痛みも引いて、完治している。悪化の心配もない。
だが、怪我をした事実は残り続ける。怪我に怯え、竦む身体を前に出す恐怖に打ち勝たねばならない。本場所中の稽古は、ただ追い込む必要はない。動きを確かめ、心と身体の不具合を確かめる。
「基本に立ち返って、基礎に忠実になる。横綱戦だっていつもと同じ土俵だ」
「お客さんがいるって、すごい嬉しいし。楽しいくって身が引き締まるっていうか、気持ちが舞い上がるし」
分かるようで、微妙に的外れな返事がフィンから聞こえた。
「歓声も拍手が小さいと、技が中途半端だったと分かる。考えてみたまえ、素っ気なく勝負が決まった時の侘しさ。居た堪れぬ。相手の取り口に、苦言と呈したくとも口を噤まねばならぬ」
リカルドの眉根には、まだ皺が寄っていた。
「相手に相撲を取らせないくらい、強くなるしかない」
ボリスはリカルドに顔を寄せて、続けた。
「立ち合いの変化で、どべって土俵に落ちたら、変化を予想できなかった落ち度がある。変化に対応すると立ち合いに迷いも生じる」
双子が揃って顔を見合わせる。リカードとラシードの顔を向き合わせ、動きをシンクロさせる。
フィンが頷いた。
「変化に対応できる足腰があれば、勝てるし。相撲は秒で決まるし。特に立ち合いは早いし」
相撲は短い時間で勝負を決する。数秒の取り組みもある。数分と掛かる場合は、多くない。
「ですから『鏡カメラ』で勝負を見返すと、納得します。ジェイドお嬢様ってすごいですよね。優秀な魔道具を作る。可愛いくて、侯爵令嬢で、相撲が好き。フィン関、口を押さえないでください。何か、間違っているでしょか?」
「もう、黙れ。聞いていられねえし。怖くて、ボリス関の顔が見られねえし」
フィンがアレックスを押さえ込む。
ジークが満面の笑みでボリスの前に出た。
「各部屋に、もの凄い人気です。ジェイドお嬢様は綺麗で、にこやかに話してくれます。レギオン公爵様もお気に入りだって可愛がっていますよ」
「婚約者が褒められるのは、嬉しいものだな」
ボリスは歯を喰いしばって、朝食を終えた。
この作品に気付いていただき、感謝します。嬉しいです。お読みいただきまして、ありがとうございます。