16 最後の晩餐
熊主砦城に戻って来ました。
遅くなった。ジェイドは着替えもそこそこに、熊主砦城の晩餐室の前に立った。
王都から戻って以来、不知火大神殿に過ごす時間が多かった。
「嫌なんですか。すみません。正直な発言をしています。焦れたボリス閣下が、ジェイドお嬢様を待っていますよ。毎日、到着する各相撲部屋の皆様を魔力で引っ張っていますから、辺境部屋は寂しい様子です。消沈して、拗ねて、見ていられませんよ」
「少し、緊張をしていますわ」
ボリスの唇が触れた額を撫でた。王都に行く前にボリスと話して以来、挨拶を交わすぐらいの交流だった。
「顔が赤い。目が潤んでいる。唇が少し開いて危険です。照れていらっしゃるのですね。あからさまで艶めかしい描写ですが、メモには書いておきます」
扉が開いた。アニョーが変わらないお辞儀で、ジェイドを迎えた。
着物を着たボリスが手を差し出した。
エスコートを受け、着席する。
「明日から本場所が始まります。土俵祭にも行けませんでした。思いの外、『鏡カメラ』の設置に手間取ってしまいました。でも、ボリス閣下と晩餐を御一緒にできて、嬉しいです。着物の姿も、素敵ですわ」
本館でも、浴衣や着物の姿が多くなった。辺境部屋の流儀のようだ。
ボリスは果汁を呑んでいた。本場所前の一週間から全ての酒を断って、ゲン担ぎをしていると、アニョーが小声で教えてくれた。
テーブルに並ぶのは、ジェイドにとっては初めての料理だ。そして、心の奥底で翠が拍手喝采している懐かしい品の数々だ。
「牛肉を醬油ベースの割下で煮込んだのは、すき焼きだ。春菊も美味いが、シイタケが欠かせない」
「私はしらたきを外せませんわ。文献で読んでいました」
翠の好物を伝えてしまった。
「アニョーと同じとは、驚くほど渋い好みだ。まあ、美味い霜降りの牛肉があるからこそ、この味だな。ホークハウゼ領の畜産は優秀だ。ジェイドは箸も巧みに使う」
豚カツは断った。ボリスの前には、大根と豚バラの煮物やキノコのお浸しが見えた。湯がいた山菜を味噌と酢で和えたぬたは、ジェイドの箸が進む。味噌汁は具沢山の豚汁だ。牛蒡の旨味が、口の中に広がった。
翠に馴染んた味が、疲れたジェイドにも滲みる。
ザラメを鍋で熱して、アニョーがすき焼きを調理する。ザラメを纏った牛肉に割下を加えた。
「ビルヘルムが大量の牛と豚の肉を持って来た。魔法陣の設置も、難儀しただろう」
すき焼きの匂いを堪能していると、ボリスと目が合った。
「不知火大神殿に、魔石で描いた強力な魔法陣を備えました。王立魔法師団にも転移魔法ができる魔法師はいます。でも、人数が少ないのです」
「ジェイドが各部屋を転移させたんだろう。誰か気になる力士はいたか? ジェイドへの感謝は、耳が痛くなるほど聞かされた」
ボリスの声が拗ねて聞こえた。
総勢五十名の力士が揃った。
横綱が一人、大関はボリスを含めて四人いた。関脇と小結はそれぞれ二人ずつだ。前頭は筆頭から二十一枚目までの四十一人が名を連ねた。全員が幕内力人で、関取の位置付けだ。
「横綱とは御挨拶をしました。転移で引き寄せるのは、魔力をそんなに使いません。場所中は毎日、熊主砦城から不知火大神殿に転移が可能ですわ」
辺境部屋は熊主砦城に留まり、ジェイドの魔法陣で不知火大神殿に向かう。馬車で二時間の距離を、一瞬で飛んでいく。
「ニーナ特製の魔法酔い止めのフルフェイスマスクは、ヴァーベナの匂い付きで完備です。準備はアニョーが承っております」
アニョーの箸は止まらず、すき焼きを仕上げる。
「もっと早く、二週間前には全ての部屋が揃って欲しい。改善点としてリッチー親方から、申し出てもらう。ジェイドと話すのは、楽しい」
「はい」
返事に、ボリスが瞬いた。頬を僅かに上気させて、ジェイドを見詰める。
「このまま好感度をもっと上げて、ジェイドとの仲を深める。絶賛、画策中だ」
率直な物言いで、返事をジェイドは喉に詰まらせた。
「駆け引きもなく、愚直な発言で引かないのは、ジェイドお嬢様ぐらいです。ボリス閣下は深く、謝意を示すべきです」
ジェイドの皿にしらたきを追加して、アニョーが慇懃に給仕をした。
アニョーの言葉を鼻息で荒く散らして、ボリスは箸で豚カツを頬張った。
「豚カツに、ポテトサラダとキャベツの千切りは必須だ。俺にジェイドが必須なのと同じだ。豚カツはソースでもポン酢でも美味い」
誰が豚カツなのか? ポテトの命名を喜ぶべきか? キャベツと呼ばれて応じるのか? ジェイドは逡巡した。
困惑するジェイドを置いてボリスが続ける。
「ジェイドは、宝石もドレスも欲しがらない。花やお菓子は、熊主砦城には溢れている。俺が稽古をするのを喜ぶとは分かった。恋に必要な物は、他に何があるだろうか?」
ボリスは、可憐な花を朝稽古の後に部屋に運んだ。ジェイドが部屋に居な時が多かったが、小さく美味しい菓子が部屋に届いた。
「和菓子が美味しかったですわ。小豆のあんこもは絶品の艶でした。恋をするには、お互いをまず良く知るところからと、ニーナのメモに書いてあったようです」
深く頷くボリスの肩越しで、アニョーがニーナを労っていった。
「有益なメモだ。メイドとしても優秀で、働き者だ。洗濯技術が飛躍的に改善したと、ポーラ女将が喜んでいた」
「お待ちください。『あれまあ、無理しんといてな』とか『ちょこっとあかんねん』とか、煙に巻いて居なくなるのがポーラ女将の常套手段です。すみません。告口ではなく、メモの読み上げです」
他愛ない遣り取りが続く。共に過ごす心地良い時間を過ごす。食べ物を美味しいと笑い合う視線が絡む。全て、ボリスと一緒に紡いでいる。恋が生まれそうだとジェイドは頬を押さえた。
王宮から戻って、ボリスの眇めた目が甘い。見詰められると切ない。
「忘れていた恋かしら」
「聞き逃しません。思い出したなら、恋の経験があるようです。すみません。十年の間、休まず続けている『ジェイドお嬢様観察メモ』にも記入なしです。落ちがあったとは、無念です」
ニーナの言葉を目で伏せて、心の奥底に問い掛ける。四十歳を随分と過ぎた緑の心を内包していても、恋をする柔軟さと機微が残存していると信じたい。
すき焼きのしらたきを味わう。
「時々、不可解な気持ちになるよ。十六歳のジェイドが、俺より人生を長く歩み、経験が深くて、何物にも動じない。そう、おばちゃんのようで――」
「レディです」
ボリスの言葉に慌てて被せた口で、ちゅるんとしらたきを呑み込んだ。
「確かに年頃だ。優勝を狙う。その、優勝したら、婚約を前に進めたい」
「え?」
晩餐室にアニョーの声が一番大きく響いた。
「押し過ぎです。強引で今の会話で結婚への階段を上る要素が、何処にあったのでしょうか。ボリス閣下の臍の中ですか。見せなさい。家令として確認いたします」
「すみません。佳境に差し掛かり、メモが追いつきません。ゆっくりお願いします。どの方向に進めるのですか? 継続とか、破棄とか、考えられます」
重々しくボリスが応じる。
「結婚して欲しい」
「嬉しくありません」
恋が吹き飛んだ。箸を置いて背筋を伸ばした。真っ直ぐにボリスに向き合い、指で、てしてしとテーブルを叩いた。
「何かを成し遂げたら、御褒美のように結婚を決まるのは望みません。だって、ずっと結婚できない可能性もあるのですよ?」
「ジェイドお嬢様ったら、手厳しい。優勝不可能って言ってます。陳謝します。ああ、実現して欲しいのは何でしょうか? メモに日時も含めて書いておきます」
優勝の褒美が結婚とは、子供の駄賃の発想との相違点が見当たらない。
心の奥底で、翠が腕を振り回している。
テストで満点を取った翠が、欲しかった本を好きなだけ買った経験が甦った。だが、結婚は違う。欲しい褒美として、行きつく先ではないはずだ。一方的に与えられたくない。
「前にも言いましたが、相撲とプライベートは違います」
厳然とした事実を伝える。
「相撲を頑張る気持ちは、ジェイドとの生活からも生まれるぞ。恰好良い所を見て欲しいとか。他にも、フィンだって相撲で番付を上げると、家族が喜ぶって励んている」
ボリスの話も十分に分かる。
「論点が違います。誰でも、プライベートと仕事は互いに支え合い、良くも悪くも影響します。結婚が懸かっていなくても、優勝を狙うのは大関の責務です。優勝したから結婚では、相撲も私も侮られてています。優勝によって与えられる結婚ではなくて、二人で進んだ先の結婚を望んでいます」
ボリスが哄笑した。
「なあ、ジェイド。もっと感じるままに行動してみようよ。俺にとってかけがえのない二人の時間を過ごしている。相撲で優勝して、そのまま結婚へって雰囲気にもなるだろう」
今日のボリスは執拗だ。ジェイドを逃さないように言葉を重ねている。流されそうになる。心の奥底の翠に応じた。
「引きません。熊主砦城の時間は大切で、失いたくありません。だからこそ、頭を使って論理的に運びましょう。優勝を逃しても、稽古で重ねた努力は残ります。結果が全ての相撲の世界で、努力の過程を共に認めあうのが、恋人で家族だと考えますわ」
「なら、ジェイドは俺の恋人だ」
応じる言葉が出て来なかった。ボリスの巧みな誘導で、追い詰められた。
アニョーがジェイドの前に皿を置いた。
「締めの雑炊です。今宵の決まり手はボリス閣下が得意の寄り切りでした」
溶き卵が、すき焼きの煮汁を吸って甘い色をしていた。
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