11 神殿にて、行司の情事と呼び出しの事情
雲龍神と不知火大神殿…
忙しなく、土を運ぶ一輪車が行き交う。
「初めて見ました。『土俵築』ですね」
ジェイドの声が弾む。
「土俵を造っているのは、呼出だ。まずは、俵を造る。藁を荒縄で縛って、俵の形にしたら、中に土を入れる。小突き棒でみっちりと土を詰める。六十六個の俵を造るんだ」
リッチーの声が、誇らしげに響いた。
「俵を瓶で叩いて、外側からも形を整えています。丁寧な仕事ですわ。あの俵が、力士の足を支えると思うと、力も入ります」
土の積み上げて、呼出たちが鍬やスコップで土を整えていく。並んだ若い呼出は足で土俵を踏み固める。その後ろでは、木の棒が数本出た樽のような道具を二人で呼吸を合わせて、土の上に落としていた。
「タコは土を突き固める道具だ。あっちに見えるのタタキは、土俵を叩いて固める」
リッチーの指差す先を確かめる。
タタキは棒の先に、腕の長さの角材が付いている。土俵の側面がタタキによって平らに固まっていく。四十人ほどの呼出が、息を合わせ、各々の役目を果たしていく。
「美しいですね」
「ジェイド嬢は土俵を素晴らしいって感じるんだな。なあ、ボリス閣下は切ってしまって、儂の妻になるのはどうだ」
「リッチー親方には奥様がいると、ニーナから聞いております。後妻も妾も、全く考えていません。ボリス閣下については、検討中です。此処は稽古用の土俵ですね」
首も手も大仰に横に振って、リッチーとの間を取った。
「二十日後に迫った本場所に備えて、五つの部屋が集まる。総勢力士は六十名。稽古場所は、熊主砦城と不知火大神殿になる。稽古用の土俵築も多いんだ」
神殿の中を進む。広大な不知火大神殿の敷地の中で、一際大きな建物の中はぽっかりと空間が広がっていた。空間を囲む四方の角に花道が続く。溜席は二列。その後ろに階段状になった升席が八列あった。
「本場所の土俵は、まだ造らない」
日本で見ていた土俵より、少し規模が小さい。ジェイドは小さく苦笑した。翠は日本で国技館に行った経験はなかった。全てが、テレビやスマホで見た情報だけだ。
だから、余計に気が逸る。初めて触れる生の相撲の世界だ。
「ああっ、屋形が美しい。同じです。その、文献にあった絵と、一緒ですわ」
溢れる想いも秘める事実も心の奥に伏せて、ジェイドは微笑んだ。
「土俵の上にある、神明造の屋根のような部分だろう。房は方角も示す。東の青は青龍。南は赤で朱雀。西は白で白虎。北は黒で玄武だ」
日本と同じ考えだと、叫びそうな想いをジェイドは懸命に呑み込んだ。
レスラリー王国は温暖で、季節が穏やかだ。激しい暑さも厳しい冬もない。日本では青龍は春を、朱雀は夏。白虎は秋で玄武は冬だ。屋形の房は、四季をも示す。日本を心の奥底で噛み締める。
「季節を色で考えると、青春とは言いえて妙ですわ。朱夏に白秋と玄冬って懐かしい。国語の授業を思い出す」
翠の思いに引き摺れらながら、ジェイドは神殿を歩いた。
神々しい雲龍神は、峻険なる慈悲を身に纏う。苛烈な咆哮を上げる姿にジェイドは首を垂れた。
「神官の装束は直垂です。何故に、今まで気が付かなかったのでしょうか。神殿には年に何度も拝礼しています。魔道具も魔法薬も奉納しています。神官の皆様が、行司を務めるのですね」
「ジェイド嬢は、時々、理解不能な言葉を使う。文献の読み過ぎだな。人間のレディだからな。相撲を見ていない。儂がしっかり教えて進ぜよう。相撲には行司が必須だ」
リッチーが、楽しそうに腕を振るって歩いて行く。ジェイドの後ろをニーナがメモを片手に、胸を出して歩く。
軍配を腰に手挟む行司が、不知火大神殿には溢れていた。
呼出も行司も装束の形は日本と同じだった。だが、大きく違うのはその模様だ。
行司は誰もがチェック柄。細かいチェックが多い。呼出は花柄だ。こちらは小さな花だ。
「行司は、相撲の取り組みを裁く。軍配を指して、勝負の判定をする」
「神殿の協力が合って、相撲が成り立つのですね」
慌てたように、若い行司が寄って来た。眼鏡をかけている。
「ホークハウゼ侯爵令嬢のジェイド様ですね。今日は拝礼でしょうか。リッチー親方と一緒とは、熊主砦城に滞在とお見受けしました。あの、その、相撲を――」
「相撲を知っています。不知火大神殿で、場所を開催するとリッチー親方から伺いました。楽しみにしています。戦いで相撲が失われなくて、安堵いたしております」
眼鏡を指で押し上げて、行司が土俵を見遣った。
「神殿には、行司と呼出がおります。審判部や場所の運営は、王宮の魔法師団と三公爵家が担います。おお、タコが何度も土を固める。じっと見ると、僅かに振り下ろす位置が違う。満遍なく土を押す。タコ! 押せ! 勢いが段々と増していく。呼出の腕から汗が飛んだ! グレイ呼出が踏ん張っている。耐えられるか?」
眼鏡の奥から、土俵の様子を食い入るように見ている。
「まあ、では父様も兄様も相撲に携わっているのですね。何も教えてくれませんでした。私は研究室に引き籠っていましたから、話す時間もなかったのです」
ビルヘルムとトーマスが、言い淀んだ姿を思い出した。
「ビルヘルムは前頭筆頭だ。トーマスは、財務や興行の運営を一手に引き受けている。ボリスとジェイドの婚約は、相撲の発展に関わっていると思ったが、違うのか?」
「戦功の褒賞だと聞き及んでいます」
「確かにウルスラウス辺境は、戦地だった。此処で本場所を開催する意義は深い。喋っているのは、行司のベンジャミンだ。若くて、その、行司の役割よりも、子細に語るのを得意としているんだ。眼鏡が必要だから、土俵は務められねえ。放って置け。ずっと喋り倒す。煩いが、見たものを正しく伝える言葉を持っている」
ベンジャミンの声は活舌も良く、聞き易い。
「呼出の右腕が震えている。タタキを持ち上げることが叶わない。左腕が諦めた。膝から崩れ落ちる。両脇を抱えられて、土俵から下りた!グレイが花道を下がっていく」
グレイと呼ばれた呼出は、力なくベンジャミンの横に蹲った。
「グレイは魔力は多いが、体力が滅法ない。身体も機敏に動かねえ。呼出は力も敏捷さも必要だ。控え座布団を運んで、取り組みに寄っちゃあ、水桶が引っ繰り返らねえように除ける。グレイにはできる仕事がないんだ」
リッチーの言葉に、ベンジャミンはグレイの背を撫でた。
行司と呼出は人間だけだった。神官になるには、僅かでも魔力が必要だ。
「人間と獣人が共に、土俵を造っていくんですね。騎士団と神殿にも役割があります。魔法師団は運営をしています。それで、王宮の役目は何でしょうか?」
「ほお、人間の女、レディがおる。神殿は誰にでも開かれて、相撲は伝えられた。苦しゅうない。側に寄るを許す。王宮は、相撲を国の神事と位置づけた」
紋付き袴の狼獣人が、升席から起き上がった。尖った白銀の右耳に鉤型の傷が見える。引き籠っていたジェイドでも名を知っている、狼獣人だった。
「三公爵のお一人のレギオン公爵様でいらっしゃいますね。御前を御無礼致しました。ホークハウゼ侯爵の娘の、ジェイドでございます」
レギオン公爵は、三公爵の筆頭でコニアス国王の大叔父に当たる。内政に通じている、王国の重鎮だったはずだ。
「ホークハウゼ侯爵の娘なら引き籠って、魔道具を造っておると噂が喧しかった。話もできるようだな。ボリスと婚約したと発表だけあって、デビュタントで姿がなかった。人間のレディで、相撲に興味がある。何処まで、何を知っておるのか? 告げよ」
腰が引けたリッチーは、少しずつ後退っていた。
「リッチー親方が土俵を割った。続いて、レギオン公爵様はジェイド様に相撲の極意を迫っている。ジェイド様は何を知っているのか? 互いに見合って、間合いが詰まる。時間です」
ベンジャミンの張りのある声が朗々と響く。落ち着いた中に、聞いていて高揚する声音だった。
グレイが鏡を出した。
「グレイが出したのは、ジェイド様が作った魔道具『記憶の鏡』だ! 睨み合った二人を捉えて、姿を写す。見ごたえのある姿が、鏡に残った。残った、残った」
レギオンが顎をしゃくった。
「魔道具を造ったのか?」
グレイの目と指は、機敏の反応していた。
「二年前です。懐かしい魔道具です。私は、相撲を見たいと思っています。それだけです。技の凄さも、足腰の強さも、腕の動きも、見ただけでは分かりません。資料から学びました」
嘘は伝えてない。事実は隠した。日本で見てきた相撲を資料と伝えるのは、ぎりぎり、許容範囲だろう。
「良く知っておる。大したものだ。もっと教えてくなる。余の話を、聞く気はあるようだな。面白い娘だ。ボリスの稽古は足りているのか? 婚約の発表も形だけは整っておったぞ。リッチーは黙っておれ」
「デビュタントの時期が、悪かったと思います。稽古の時間を削いでしまいました。レギオン公爵様から相撲のお話をもっと伺いたいです。元横綱だったんですね」
レギオンが口の端を歪めて、笑った。
「ジェイド様が、レギオン公爵様を寄り切った」
ベンジャミンの声の前で、グレイが魔道具
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