10 北翼へ、ジェイド、旅立つ
熊主砦城は広い
ゆっくりと『動く階段』を堪能して、ジェイドは本館に向かった。
「今は、本館は危険かもしれません。特に北翼は近づかないでください。もう、ジェイドお嬢様に泣いて欲しくないです。嫌です。すみません。稽古場でも食事はできるって、言ってました。お腹がすきましたね」
「朝食のおにぎりが美味しかったから、今はお腹が一杯です。ニーナは使用人の食堂に行きなさい。メモを頑張ったご褒美です。私は、部屋に戻ります」
「食べすぎでしょうか。でも、しっかり食べて来ます」
一階でニーナと別れた。使用人の使う場所は、全て地下に纏まっていた。
本館は、南翼と北翼に大きく分かれる。南翼は、一階に外交むけの応接間や食事のホールがある。二階には客間。三階は全てがプライベートな空間だ。ボリスの私室と小さな食堂にサロン。ジェイドが与えられた部屋があった。
南翼と北翼は、一階のホールだけが繋がっている。
北翼の一階にはボリスの執務室ある。騎士団の外交の窓口だ。二階と三階は騎士団員の居住区だ。
階段を上がる。
「待って、止まれ。問質したい儀がある。ほれ、階段を上がっている女。止まれ」
「リッチー叔父上。留まってくれ。ジェイド嬢は、そのまま階段を上げって逃げろ。話がややこしくなってしまう。フローラにポーラと、誤解されるのは懲り懲りだ」
犬獣人だ。フローラによく似た白と茶色の混ざった毛並みで、柴犬に似ている。
「逃げませんわ」
踊り場で相手を待った。
「婚約は解消にしろ。親方に着任なら、娘のフローラを娶ってもらおう。まあ、婚約はそのままで、愛妾だって良い」
眩暈がする。父親が娘を愛妾に勧める。ジェイドの理解を越えている。異世界と日本での記憶がハウリングを起こす。
そもそも、十六歳のジェイドが婚約しているのも信じ難い。恋が壊す要素が、また一つ生まれた。
「日本にいた翠なら高校生で、婚約も結婚も考えていません」
翠の記憶に思考が引き摺られる。結婚が必須とも思えない。だが、レスラリー王国の基準を、何とか頭に廻らせた。心の奥底で喚く翠の声を、懸命に宥めた。
「リッチー・バウム子爵様は、王命の意味を分かっていますね。親方になる意味も、把握しています。無理を押し通すなら、その程度の御覚悟なのでしょうか?」
「何だと。黙れ、こましゃくれた侯爵令嬢め。覚悟ならある。コニアス国王陛下に直訴してやる。止めるな」
リッチーが足を踏み出した。
「止めません。覚悟の方向性が、全くもって間違っています。相撲を舐めてますね」
相撲への思いがない。親方になる器なのかと、じっくりと見た。
伸びやかな手足。あんこう型の身体。古い騎士団の制服を羽織った姿は、どっしりとした重い腰を思わせた。リッチーが顎を引いた。下から何度も手を伸ばして、絶え間なく攻撃する。突き押しだ。
垂涎の身体だった。
「ポーラ女将の所業を、非難できません。バウム子爵様、いいえ、リッチー親方は、突き押し型の相撲でしょうか?」
ボリスが呆けた顔で瞬いた。
「ああ、確かに、突きが得意だ。なんだ分かるのか?」
「腰の座りと、上背が、申し上げにくいのですが、やや、足りませんわ。それなら押していくのだと、考えました。あんこう型ですね。言葉だけ聞いた時は、小豆のあんこだと、思っていましたの」
何度も慌てたようにリッチーが頷いた。
「曽祖父は小結までなった。儂の時には戦いで、相撲がなかった。小豆のあんことは違うぞ。魚の鮟鱇に似ている体形だ」
ジェイドはリッチーに向き合った。
「三役経験者の血筋ですね。頼もしい限りです」
「俺は大関だ」
ボリスの肩が丸い。
「横綱を目指す地位ですね。ボリス閣下は励み下さい」
首まで垂れた。頭の上で、丸い耳を覆う毛から、艶が失せた。
呵々と笑って、リッチーがジェイドに手を出した。
「ジェイド嬢は、相撲の真髄を心得ているな。良き理解者だ。何も知らないこましゃくれた侯爵令嬢が、無茶をしてるって思い込んでた。まあ。婚約の話は棚上げだな」
どこまでも、こましゃくれたの形容がつくらしい。フローラもジェイドに同じ形容をした。バウム子爵家では、通常の表現なのだろう。
リッチーの手を取る。
「婚約は、そっと棚に上げて、忘れましょう。相撲の話を教えてください。稽古について、リッチー親方のお話を聞かせてください」
「忘れるなよ。婚約は有効だ。ジェイド嬢には俺がいるんだぞ」
ボリスが頭を抱えている。
恋に繋がるには、もう少し時間も思いも足りない。形だけが整って、お互いに中身が伴わない。
しかしボリスにとって親方は、可及的速やかに対応が必須の案件だ。充実した土俵を見たいジェイドにとっても、譲れない。
「任せろ。ボリス閣下は朝食だろう。食べて来い。弟子は親方の支持を優先させろよ。ジェイドお嬢様、さあ、行きましょう」
「親方一人を説得できず、相撲に懸ける覚悟がなさすぎます。婚約と親方不在は別次元の話です。ボリス閣下は肝に銘じてください。婚約と結婚も違います。心得てください」
「捨てないでくれ」
「残りの時間の確認が必要です。それに稽古の状況の確認も致しましょう。リッチー親方から見て、仕上がりは如何ですか。それに、行司の皆様にもお会いしたいです」「行司も呼出も神殿にいるぞ。人間が勤めるんだ」
何度も頷いてリッチーが笑った。
「神殿にも直ぐに伺いたいです」
「任せろ。ウラスラウス領の相撲部屋は、『辺境部屋』って名乗っている。騎士団の名前を貰っているんだ。レスラリー王国には五つの部屋がある」
ボリスが顔を上げた。呆けた顔で、ジェイドに縋った。
「婚約の話か。神殿って、結婚式か。ジェイドの思うがままに任せる」
「相撲の話です」
「待ってくれ」
「本場所まであと三週間だ。待てない」
北翼に、リッチーのエスコートで進んだ。
お読みいただきまして、有難うございました。