1 ファーストダンスは何方に
春に考えていたものを、つらつらと書きます。
十六歳のジェイド・ホークハウゼは、差し出そうと構えていた手の持って行き所を失い、デビュタントのドレスを握り締めた。白い絹が、指先を受け止める。
足を引くと、目の前に立つ姿がしっかと見えた。
辺境騎士団の正装は濃紺だ。肩が盛り上がって見えた。腹周りが、少し太くなった理由も知りたいと思う。返事にならない言葉が、滑り落ちた。
「首も、太くなりました」
「そうか。首の太さを分かってくれて、いや、違うな。今、首は関わりない。ジェイド嬢は、聞こえたはずだ」
喉に引っ掛かった言葉を、ジェイドは懸命に押し出した。
「ファーストダンスを、ボリス閣下が断りました」
聞き間違ったと思いたかった。言いたい思いの半分も、口からは出て来なかった。秘めた分だけ、耳に聞こえた声が震えた。
目の前にいて手を差し出さないボリス・ウルスラウス辺境伯は、ジェイドより十歳年上の熊獣人で婚約者だ。
王宮での初めての夜会は、ホークハイゼ侯爵令嬢のジェイドにとって気鬱だった。
ボリスからドレスを贈られたから、引き籠っていた邸の研究室を出てきた。取り囲む多くの人の目も声も、ボリスが一緒だから気にならない。絶え間ない挨拶の波も、ボリスが隣にいれば声を出せる。逢えるなら、夜会でも良いと妥協した。
婚約者とのファーストダンスを披露する。並々ならぬ決意で、ジェイドは夜会に挑んだのだ。
ボリスの思いは、ジェイドとは違ったのだろうか。
「間違ってはいない。確か告げた。ジェイド嬢の聞き取った通りに、ダンスは踊らぬ。踊れないのだ」
ボリスの頭の上で、弧を描く丸い耳が見えた。熊獣人の耳はほとんど動かない。いつから髪を伸ばしていたのだろうか。一つに束ねた焦げ茶色の髪が、右肩に垂らしてある。琥珀色の薄い虹彩が、僅かに揺れた。
舞踏会が始まる前のささやかな活気が、ジェイドの周囲から凍り付いていく。
自棄に冷静だ。十六歳とは思えないほど、ジェイドは諦念していた。ジェイドの中で何かが、むくりと動き出した。心の奥底から、誰かの声がした。
『引いちゃあ、ダメ。押せ、足を前に出せ』
聞こえた言葉に合わせて、ジェイドは後退る足を叱咤する。前に出ない足を、何とかその場に踏み留めた。目を見据えた。
「私はファーストダンスを、何方の手を取るのかしら。躍っちゃあダメですよね?」
息を潜めて、ボリスの言葉を待った。
デビュタントは女性が主役だ。社交界に初めて登場する女性を祝う舞踏会が、レスラリー王国では、毎年、青葉の月に王宮で開催される。社交シーズンの始まりを告げる舞踏会だ。宵闇に、デビュタントの白いドレスが舞う。
婚約が成立している場合は、女性が十六歳となったデビュタントで、共にファーストダンスを披露する。婚約を告げる。レスラリー王国での、貴族や王族の習わしだ。
ボリスの目が見開かれた。
「驚きだ。瞳の色も、違って見えた。ちょっと怖ろ――いや、違う。ジェイド嬢が、常より話をしてくれる。だが、留まれない。ウルスラウス領に戻る。時間が、惜しい」
ウルスラウス領と聞いて、心の奥底が蠢いた。無性に気になる。ボリスの言葉がジェイドの中で廻り出した。
ジェイドは、極めて冷静に言葉を押し出した。一歩、前に踏み出す。
「耳が悪いと思い込みたいですわ。ウルスラウス領とは、聞き捨てなりません。時間が惜しい、ですって」
声を出すと同時に、ジェイドの足の下から光が溢れた。眩しくて目を細める。
ボリスは背を向けていた。ジェイドから立ち去る。
背中に光が重なる。形を結び、色を濃くした。鮮明に見えてきた。舞踏会とは違う声が聞こえて、ジェイドを惹きつける。
『引いちゃダメ、引くなあ。足を前に出して。押してけ』
高らかに声が響く。光る画面に向かって、中年の女が拳を突き出していた。
「画面って、そう、テレビよ。あら、違います。小さいからネット中継ですわ。スマホを覗き込んでいるのかしら。あれは、私――」
声に出す言葉は、レスラリー王国では聞いた覚えのない奇妙な単語だ。
しかし、ジェイドには全て意味が分かっていた。一挙に、知識と情報と経験が明確になる。四十七年に渡る年月が、十六歳のジェイドの心の奥底で明確に積み重なった。
『ダメ、ダメ、引くな。押していけ。押せえ――』
握りしめた赤ペンが見えた。大声を出した中年の女の頭が傾いだ。赤ペンが転がり、紙に滲みを付けた。赤ペンに名前のシールが貼ってあった。
「鷹栖翠は、良く知っています」
足が震えた。ジェイドは後退った。光が萎み、スマホも消えた。ボリスの背中が、はっきり見えた。
目の端で、ボリスのフロックコートの裾が翻って、何かを包み込んだ。
ほっそりとした腕が、ボリスの身体に絡んだ。美しい毛並みの尻尾だ。
「丸く円を描いた尻尾は、犬獣人です。ボリス閣下の優先順位ね。はい、分かりました。所詮、私は褒賞の花嫁に過ぎないの。ファーストダンスも断られましたわ。引いてしまいました」
ボリスを追いかけられなかった。
風がジェイドの肩を抱く。馴染んだ匂いの先に、狐獣人の耳が見えた。
「さあ、可愛い妹のジェイド。御手をどうぞ。馬車までエスコートをする。心配しなくて大丈夫だぜ。国王陛下が、二人の婚約は直々に告げる。拠所なき事態で、二人は退出だ」
コニアス国王陛下から王命が下ったようだ。手の込んだ話になっている。
「まあ。ビルヘルム兄様は近衛騎士団の正装が、怖ろしい程お似合いですわ。腕が太くなりましたね。随分と筋肉が硬いです」
有無を言わせぬビルヘルムの動きに、ジェイドの足が速くなる。追いかけるように進む先で、ビルヘルムの肩が揺れる。
「筋肉が漲っているだろう。稽古の賜物だな。ジェイドも眩いドレスだ」
シンプルなAラインのドレスは、スカートのドレープが描く襞が緩やかに裾まで続く。左の肩から、腰に掛けてミモザの刺繍があり、花は極小のダイヤモンドで象っていた。リボンもレースもない、甘さを控えたドレスは、ジェイドの黒髪と黒い瞳にに映えて、似合っていた。ボリスから贈られたドレスだった。
ボリスの姿が、舞踏会ですれ違うだけの他人よりも遠く見える。
「騎士団は訓練ですよね」
稽古とは違う。
答えないビルヘルムの尻尾が、楽し気に風を孕んで膨らんでいた。
「ファーストダンスは本当に、取り返しがつかないほどに残念ですわ。私は引いてしまったし。止むを得ません。ボリス閣下にも、御事情があるのでしょう?」
「随分と達観しているな。落ち込むと思って、心配していたんぜ。ボリス閣下を殴ってやろうと思ってた」
案じるビルヘルムの思いが嬉しい。腕から伝わる温もりが優しい。
「返り討ちに合いますわよ」
ボリスとビルヘルムは、騎士としての力量に明らかな差がある。ビルヘルムから聞いた話だった。
ビルヘルムが顔を覗き込んだ。
「泣いていないよな。ジェイドが泣くと、シャレにならねえ。辺りは嵐で、涙も凍る」
「一挙に、歳を重ねた気分です。ビルヘルム兄様と違って、心が広くなりました。大人ですから、ファーストダンスより重要かつ、可及的速やかに対応すべき事態が起こったと推察します」
「事態は深刻だがなあ。大人のジェイドが心配でもある。ジェイドは、邸の研究室以外でもよく喋るようになった。仰天するほど大人だ。事情はある。人間のレディには、少し、刺激が強いんだ。特にウルスラウス領は苛烈な状況で、おっと、話し過ぎた」
含みのある言い方だ。言葉から懸け離れたビルヘルムの柔らかな笑みが、状況の複雑さを示している。問い掛けることを許さない笑みだ。
「今は、引くしかありません。しかしボリス閣下の御事情を、一方的に、理由も知らされず押し付けられるのは、理不尽です。私は、ボリス閣下が好きなのかしら?」
外から吹き込む若葉の風が、ジェイドのドレスを宥めるように裾を揺らした。大広間は、何処まで歩いても人が絶え間なく湧いてくる。一人では、抜け出せなかっただろう。
ビルヘルムが腕を引いた。
「違うのかよ。だって、ウルスラウス領に送る魔法薬は率先して作る。魔道具だって寝ずに工夫を考える。好きな人のために、努力しているんだろう。待てよ。違うなら一考に値する。ジェイドの気持ちが最優先だ。別の選択肢だってあるぜ」
ビルヘルムの言葉に頷く。選択肢は、ジェイドが握っている。しかし、ジェイドは混乱していた。甦った鷹栖翠の記憶に引き摺られた。
「心残りがあります」
「もう決断するのか? 早まるなよ。まあ、兄としては可愛い妹の選択を尊重する」
ビルヘルムが勘違いしているのは承知している。正しても詮無い。分かり難い状況だ。
転生した事実が、ジェイドの中で燻る。気になるのはウルスラウス領だ。あの言葉で、翠の記憶が甦ったのだろう。何かが引っかかっている。はっきりと見えなかったものが、スマホの画面の中にあった。心が惹かれた。
「熟考が必要です。それに情報も足りません。王都にいるより、今はウルスラウス領に、行きます。直接、御事情を伺ってきます」
「ボリス閣下を問い詰めるのかよ? でも、正しく辺境って場所だぞ。険しい斜面は多いし、冬は寒くて長い。人間の女の子には、住み難い」
「魔道具があります。兄様は過保護です。ウルスラウス領での近衛騎士団の演習も楽しかったって、仰っていましたわ」
「あれは、合同稽古だったからな。出稽古だ。なあ、ジェイド。同年代の令嬢から誘いがなくても、友達がいなくても、一人ぼっちでも、王都にだって居場所はある。ウルスラウス領に、まだ行くなよ」
励まそうとするビルヘルムが語る事実が、絶妙な加減でジェイドを貶めていた。
「無闇には、怒りをぶつけません。でも、引きませんわ。選択肢は有効に使います」
「やっぱり、怒ってるじゃん」
夜会に犇めく白いドレスの波のを避け、ジェイドは王宮を立ち去った。
お読みいただき、有難うございました。