206話 熱逃編
ここから逃走編になります。
宵に早い。しかし西の日差しは威勢を奪われつつあり。蒼い暗がりとの境界がせめぎ合う中、訪れる世界を祝福するが如く空を渡る影は、烏か蝙蝠か、或いは翼を持った魔獣だったろうか。
「月の位置が悪いな」
「左様で」
初老の執事が背後で応える。
辺境伯嫡男の命により、見送りは彼一人だった。俺の出立の時を知る者は他に居ない。
シチダンカへの周知も許されなかった。ああ、ガザニアは別だ。俺とマリーの客だ。ワイルドの命に従う義理も無いが、ベリー邸に留まる根拠も失いとっくに姿を消していた。無為徒食って訳にはいかないもんな。
「しかしなぁ……ここに来てまた女の子の格好かよ」
町娘風のスカート姿だった。偽装だ。中身はゴギョウさん達が張り切って準備してくれたコルセットやらガーターやらだ。もうね。ほんとにもうね。
「大変お似合いで御座います」
「駄目だろ似合ってちゃ。俺、男の子。ていうか翁には子供の頃から世話になってたよね?」
「今となっては、あの記憶は幻だったのではないかと」
「こらこら、勝手に耄碌するな。辺境伯家にはお爺ちゃんの力がまだ必要だ。もっとも、俺はここでさよならだけどさ」
「お二人のお子を見れないのは残念でございますな」
細い目をさらに細める老人に、思わず咳き込んじまった。
どっちとに子だ? あ、クランか。
「せめて仕込みだけでも済ませてから行かれては?」
「無茶言うな!!」
あの空気でどう口説けと?
「無茶では御座いませんでしょう。こういう時は得手して男がずるくなるものです。先んじて一歩踏み出す勇気こそ甲斐性で御座いましょう」
「どうせすぐ落ち合うんだ。焦ってもな。がっついてる風じゃん?」
「…………左様で」
「何今の間!? 何聞いてたの!?」
皺深い口元を意味深に歪めてきた。
ベリー辺境伯家の全てを知ると言われた翁だ。一昨日の事、把握されても不思議じゃない。
「あの、できれば俺とクランの事は」
「そこまで下世話がすぎませぬゆえ、ご安心ください。多いに励むと良いでしょう」
うるせーよ。
「では」と老人が右の掌を胸元まで上げる。それに合わせて、正面の門が左右に開いた。
「行ってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくる」
二、三度その場で軽く跳ねる。
月の位置は……そういや下弦は相性が悪いんだったな。
一気に走り出した。
力走は体捌きのバフ効果によるものだ。ストレージと共に使い勝手がいい。
中央都市――アンスリウム。長い滞在になった気がする。そういやシンニョウレンが何か言っていたな。
領袖の器だったか。未だにレベルⅠのままだけど、果たして。
ベリー邸の敷地を出ると、待ってましたとばかりに四人の影が並走する。
路地裏に潜んだ連中か。報告だけはシチダンカから受けていた。それと左右の屋根伝いの影。二人。
早速のお出ましだ。
下も上も、こちらのバフ効果に着いて来た。速度重視のアサシン。おっと風切り音。屋根のやつ、吹き矢か。
疾走を緩めず体を左右に振り寸でで躱す。
均衡を崩した風に見せるのがミソだ。技量の隠伏を警戒させなきゃ――ほら、近接した二人が短剣で斬りかかる。いいコンビネーションだ。走りながらよくやるよ。で、簡単に釣られてくれる。
俺の両手にも短剣があった。
弾く金属を放ち敵に距離を取らせたのは、花柄の装飾で刃先の根本を覆った、誘導式シャマダハルだ。
そうら、行くぜ!!
どこでもジャマダハルⅠ。
飛び出した刃先が、柄の根本にワイヤーを残しつつ姿を消す。
左右の頭上から男女の悲鳴が聞こえた。けけけ、眼下で疾走する標的に斬られたとは思うまい。
「おのれ、怪しげな術を!!」
吐き出す言葉に、呼吸の乱れが無い。コイツらも強化済みか。
亜空間を経由した刃先を手元に戻す寸前、再び斬りかかって来た。二人同時だ。シャマダハルの先端を巻き取り中の俺に、防ぐすべはない。
俺には、な。
「うぎゃっ」と奇妙な叫びが左右で起き時、アサシンに代わり腰の位置で並走する影に挟まれていた。
兄の名をラッセルという。
弟はテキセンシスだ。
イケメン灰色オオカミブラザーズ。
ああ、闇夜の狩で彼らを出し抜くなんてとてもとても。
「馬鹿な!? 上級魔獣だと!?」
「街中で!?」
後続は二人。第一学園でバレてると思ったが、意外と情報が行き渡ってない?
そういう派閥か。
「お前たち。あちらがお相手をご所望だ。遊んでもらえ」
言葉が分かるのか、二頭が同時に小さく吠えた。
めっちゃ尻尾を振って転身する。
……いやノリで吠えたのか?
後続二人をラッセルとテキセンシスに任せ、疾走を続けた。
すぐに悲鳴が背中を追って、街の宵闇に消えた。
「アサシンにしては質が悪い。いちいち叫ぶな」
これがアヤメさんやガザニアなら笑って流す。最悪、洒落で済ますぞあいつら。
ワイルドの追放宣言でベリー辺境伯家の威光を失った。情報の伝播は一瞬だったろう。襲い来る刺客は果たして内務補佐卿配下か外務補佐卿の残党か、或いは副騎士団長補佐のボンボンの手の者か。
内務卿補佐の話だと繊維市場の先行投資で馬鹿を見た貴族が他にも居るな。
どれだけ恨みを買ってるのやら。
彼らは猜忌が身を破滅に導くと学ぶべきだ。
まぁそれ以外にも、俺の壟断を危険視する連中だって居たな。
すぐに黒い質量が追い縋ってきた。舗装路を派手に蹴散らす蹄鉄の響き。力強いそれは、直ぐに二対の人馬となって下弦の月明かりに照らされた。
甲冑で顔も見えない。フル装備か。二機とも獲物は長大な槍だ。
流石に蛇腹剣と踊り子スキルで対応せねばなるま――前方!? 回り込まれている?
真正面に人影だ。
距離100メートル。気配を完全に殺してやがった。背後に気を取られた。
どちらを先に処理しよう?
騎馬二体に足を止める訳にはいかない。とは言え、長槍に背を晒し正面と切り結ぶにはリスクが大きい。
次第に輪郭からくっきりと浮かび上がった。黒い細身のシルエット。
執事のような出立ちで、巨大な鎌を携える姿は死神だ――って鎌!?
「何でぇ出てくんだよぉ!!」
逃走ルートも日取りも秘匿にしていた。お前が顔割れすると開拓団本隊の編成に影響が及ぶんだよ。
ぐぐっと、正面の男が大鎌を振りかぶる。
ああもう!!
一気に黒衣の横を走り抜けた。
「オオカミ共に感謝ですな」
ぽつり漏らすのが聞こえた。
あ、そうか。ラッセル達の動きから察したのか。進む通りが特定できれば進行方向で待ち伏せる事も。
背後で風を斬る音が羽ばたいた。
チラリと見ると二つの兜が舞っていた。やがて、遠く距離を置いた頃、どしゃりと重々しい音が、中央都市の舗装路を打ちつけた。
恭しく礼をする影法師が遠ざかる。
目指すは西口ゲート。このまま行けるか。
だが、
さらに三倍にもなる蹄の響きが迫ってきた。




